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短編・中編や他の人物を中心にした物語

その鼠は龍と語らう6

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(な、なんでだ!?隊長殿とはすれ違ってねぇぞ!)

 考えてみればおかしな話だが、出発してからこの方、馮則ふうそくは李観と出会っていなかった。

 往復する速さを競うのだから、並走していない限りどこかですれ違わなければならないはずだ。

 しかしすでに終着点の訓練場が近いにも関わらず、李観はこちらに背を向けている。明らかにおかしい。

 ただ実際のところ、これはカラクリさえ知っていれば当たり前の話だった。

(あの馬鹿な鼠男、実は森を真っ直ぐに突っ切る道があるとも知らずに、長い迂回路を進んでいるのだろうな)

 李観は馬上ほくそ笑みながら駆けていた。

 そういう間道がこの森の中には存在するのだ。入口こそほとんど獣道のようだが、しばらく進むと馬が駆けられる程度には森が伐り開かれている。

 軍事施設の隣接地ということで用意されている道であり、連絡や脱出路として想定されているものだから軍事機密に該当する。入隊間もない馮則が知っていなくて当然の情報だ。

(迂回路を使うと倍近く走らないといけないからな。いくらあの駄馬が化け物でも負けるわけがない)

 李観はそう決めつけてかかっていた。

(さて、鼠男に何と言って説教してやろうか……ただ速く走れるだけで任務をこなせると思うな、馬の差など情報一つで簡単にひっくり返るのだぞ……というのはどうかな?)

 試しに脳内であの貧相な顔を怒鳴りつけてみて、李観は満足した。

 話の筋も通っているし、他の部下たちの溜飲を下げることにも繋がるだろう。

(完璧だ。私は隊長として、完璧だ)

 そう自画自賛した直後、背後から迫ってくる馬蹄の音に気がついた。

 振り向くと、化け物じみた巨体と雄々しい筋肉の隆起が目に映る。ついでに、その上にちょこんと乗っかる鼠の姿も。

「なっ!?」

 李観はいったん顔を正面に戻し、幻でも振り払うかのように頭を振った。

 そして恐る恐る、もう一度振り返る。

「……なっ!?なっ!?なっ!?」

 背後の現実が信じられないあまり、三度も繰り返してしまった。

 しかし、あれは間違いない。白龍と馮則だ。

(嘘だ!こんな短時間で迂回路を往復できるわけがない!)

 そう思いつつも、愛馬の腹を蹴って速度を上げた。さらには普段あまり使わない鞭まで打った。

 李観の愛馬は良馬だ。ズルをして短い距離しか走っていないから、体力も残っている。

 その力を総動員して全力疾走した。

 訓練場はもう近くだし、先ほど振り返って見たあの距離なら追いつかれないはず。

 そんな李観の祈るような目算は、急速に大きくなる馬蹄の響きによって踏み砕かれた。

 白龍の疾駆は悠々と李観の全力疾走に追いつき、そして追い越した。

 その背の上で、馮則が気の毒そうな目を上官に向けている。

(全裸で訓練場百周か……普段ふんぞり返ってる分、しんどいだろうなぁ)

 口にせずとも、表情からそんな気分が伝わってきた。馮則にはこうなっているカラクリは分からないものの、勝ち負けはそれとは関係ない。

 憐憫の視線を受けた李観は激昂し、さらに強く鞭を打って愛馬を叱咤した。

 しかし白龍の速度にはまるで敵わない。抜き返すどころかどんどん離され、結局は白龍の立派な尻を遠く眺めながら訓練場に駆け込むことになった。

「…………」

 二人を迎えた兵たちの沈黙に、李観は首筋まで真っ赤にした。

 誰も声をかけられないからその赤みはさらに増していき、しまいにはどす黒くなった。

 馮則はその姿に同情し、頑張って口を開くことにした。

「あー……その……その馬は体調が悪いみたいですし、勝負は無しってことで……」

 本当は健康そのものに見えたのだが、気を遣ってそういうことにしようとしたのだ。下手に恨みを買ってさらに扱いが悪くなるのも避けたい。

 しかし、その気遣いが李観の自尊心をいっそう傷つけた。

 心の器が小さい人間は、そこから様々なものがあふれるのを防ぐために怒らねばならない。自然とそういう反応が生じた。

「ふ、ふざけるな!この大馬鹿者!」

 激しい怒声に、臆病な馮則は首をすくめる。

「ヒッ……」

 分かりやすい弱者の反応だ。

 これに勢いづいた李観は、思いつくままを口に出して叫んだ。

「馮則!貴様!どうせ何か汚い手でも使ったのだろう!この詐欺師め!」

「……え?いや、俺と白龍はちゃんと森向こうの社まで行って……」

「嘘をつくな!」

「う、嘘じゃありません。護符もここに」

 そう言って懐をまさぐる馮則を無視し、李観はさらに言い募る。

「たまたますでに持っていたものだろうが!」

「違います!それは社の爺さんに聞いてもらえれば……」

「貴様!買収までしたのか!」

 馮則は呆れ果てて言葉も出なかった。

 たまたま護符を持っていて社まで行っていないなら、管理人の老爺を買収できるはずもない。勝負の条件は今日聞かされたのだ。

 しかしそんなことにも気付けないほど怒り狂った李観はさらにまくし立てる。

「そもそもこんな短時間であの迂回路を往復できる馬なんぞおらんわ!」

 それを言ったら李観自身がすでに往復していることもおかしくなる。

 そう思った馮則は控えめに、本当に小さな声で己の推察を述べた。

「ってことは、やっぱり別の道があったってことですか?森を突っ切る道とか……」

「黙れ黙れ黙れ!」

 この上さらにその話をしてしまうと、ズルをした上に負けてしまったことになる。それに予定していた説教は勝っていなければ筋が通らないのだ。

 だから李観は大声を出して相手を黙らせるという、駄々っ子のような手法を取った。

「お前はもう口を開くな!」

「でも……」

「次に何か喋ったら懲罰だ!訓練場百周を二百周にするからな!」

「ええ!?俺と白龍は負けてな……」

 反射的にそう言ってから、馮則は慌てて口を押さえた。

 しかしその動作は李観を喜ばせるだけだった。唇がニヤリと意地悪く歪む。

「喋ったな。二百周だ」

 馮則は目だけで何とか抗議しようとしたが、李観はまるで意に介した様子がない。

「貴様が汚い手段で勝とうとしていたのは明白なのだから、貴様の負けに決まっているだろうが。さあ、さっさと脱げ」

 上官の命令ではあるが、さすがにはいそうですかと聞く気にはならない。

 馮則は不満を顔いっぱいに表現して見せながら、じりじりと後退りした。

 そして周囲の隊員たちはというと、半分はその様子を面白そうに眺めていた。積極的に馮則をいじめていた兵たちで、単純に全裸の二百周を見ものだと思っているのだろう。

 ただし四分の一の隊員は我関せずという顔をしており、さらに残りの四分の一は呆れたような目を隊長へと向けている。

 全員が全員、理を解しないというわけではないのだ。

 とはいえ、ここで何か口を挟もうものなら矛先が自分に向いてこないとも限らない。誰もが口を閉ざしていた。

「おい、誰かこの卑怯者をひん剥いてやれ」

 李観に言われて、面白がっていた隊員の一人が馮則を後ろから羽交い締めにした。

 さらにそこへ数人集まり、乱暴に帯を解いて服を剥ぎ取っていく。

 馮則は抵抗したが、相手は一対一でも絶対に勝てない兵たちだ。手をわずらわせたと思わせるほどのこともできず、下帯まで取られた。

「隊長ー、草鞋はどうしますー?」

 半笑いの隊員に対し、李観も半笑いで答える。

「全裸と言うからには草鞋も……と言いたいところだが、それだけは許してやろう。足の皮が全部剥けかねん」

「さすが隊長、お優しい」

 そんなことを言い合って馬鹿笑いする李観たちの所へ、一人の兵が駆けてきた。

 李観の隊員ではない兵だ。その表情と急ぎ足から、何かしら急な用事であることが察せられた。

「李観殿、招集が掛かったのでお知らせに上がりました。緊急の軍議……」

 その兵はチラリと馮則に目をやって言葉を止めた。

 が、関わり合いにならない方がいいと思ったらしい。すぐに目をそらして伝令を再開した。

「……緊急の軍議が開かれます。孫権様含め、高官の方々ほぼ全員が出席されますのでお早めにお越しください」

 兵はそれだけ言うと、クルリと背を向けて駆け出した。他の将の所にも伝令で回るのだろう。

 馮則の方には、やはり顔を向けてくれなかった。

「……仕方ないな」

 李観は興ざめだという風に肩をすくめて見せた。

 それから馮則を囲んでいる兵たちに向かって指示を出す。

「私は行くが、責任をもって走らせておけよ」

 ぞんざいな言い方で命令を残し、愛馬を促して去っていった。

「……さて、それじゃあ百周走ってもらおうか」

 ニヤニヤ顔の先輩兵がそう言って、馮則の背をドンと押した。

 馮則は一瞬だけ逃げようとする素振りを見せたが、その尻を槍の石突で小突かれてよろめいた。

 兵たちの間で弾けるような笑い声が上がる。

(……無理だ、逃げられない……走るしかない……)

 抵抗してもアザが増える以上の成果は上がらないだろう。

 馮則は仕方なく訓練場を走り始めた。

 案の定、その後ろ姿にまた笑い声が上がった。

 馮則は初め、全裸であることの恥ずかしさに顔を赤くしていた。鼠のような小男なのでいじめられることはこれまでもあったが、ここまでの辱めを受けたことはない。

 しかしそんな恥ずかしさを感じていたのは、せいぜい五十周を走るまでのことだった。前回走らされた時に吐いた周数だ。

 そこからは恥ずかしいとかではなく、ただ純粋にしんどかった。馮則の体力的には五十周ですでに限界にきている。

 それがその四倍走れと言われているのだから、冗談にもならなかった。

「おら、さっさと走れ!あと百五十周だぞ!」

 兵たちの一人が笑いながら後ろから蹴飛ばしてきた。

 前のめりに転倒した馮則は地面で全身の肌を擦り、あちこちから血が滲んだ。

「見ろよ!股ぐらまで擦り切れてるぜ!」

 馮則の股間を指しながら嘲笑する者がいたと思ったら、

「え?どこだ?鼠のイチモツなんて小さ過ぎて目に入らねぇよ」

と言って笑いを誘う者もいる。

 馮則は己を蔑む声の中、唇を噛みしめて再び走り出した。

 そして限界を超えに超え、百周を走り切った時には、すでにその速度は歩くのと何の変わりもないほどになっていた。

 ただし完全に歩く姿勢になるとどやしつけられるので、肘を曲げてかろうじて振っている。

 そしてこの段になって、ようやく馮則をいじめていた兵たちが飽きてきた。

「おいコラ、もう夕方なのにまだ半分じゃねぇか」

 つまらなさそうに投げられた小石が馮則のこめかみに当たり、小さくよろけさせた。

 とはいえすでに走っているのかよろけているのか分からない状態なので、小石の影響がどこまであったかは不明ではある。

「なぁ、もうこいつ放っぽらかして帰っていいかな?」

 小石を投げた兵が同僚に尋ねた。

「そうしたいところだが……隊長から責任持って走らせておけって言われたからなぁ」

「いや、でも百周でこれなんだから二百周はどっちにしろ無理だろ。もう倒れそうだぜ?……あ、倒れた」

 話しているそばから本当に限界が来たらしく、馮則はバタリと倒れて動かなくなった。

 ゼェゼェという苦しそうな呼吸音だけが聞こえてくる。

 どうしたものかと腕を組んだ兵たちの顔からは、すでに楽しさではなく面倒臭さが滲んでいる。

「やっぱりもう、放っぽらかして帰るか」

「そうだな。でもちゃんと李観隊長に言い訳できるようにしとこうぜ」

「言い訳?そりゃその方がいいけど、どうするんだよ?」

「何発か殴っても動けないほど走らせました、って言えば納得してもらえるだろ」

「ああ、なるほどな」

 納得してうなずき、それからもう何度目か分からない意地の悪い笑みを浮かべた。

「んじゃ、それらしいアザを残しとかないといけないな」

「ああ、そうだな」

 二人は軽く腕を回しながら倒れた馮則のところへ歩み寄ってくる。

 馮則はそれを地べたから見上げながら、この上痛みつけられたりしたら本当に死ぬのではないかと思った。

 しかし何の抵抗もできない。たとえ万全の健康状態であっても勝てる見込みがないのに、今はもう一歩も歩けないほど疲労しているのだ。

「いつも通り、顔は避けてやるよ」

 まるでそれが慈悲であるかのように言い渡し、一人が拳を振り上げる。

 馮則は力なく目を閉じた。

 が、その拳が落とされる前に、訓練場の一隅で馬の大きないななき声が上がった。

 それからすぐに、迫力のある馬蹄の音が迫ってくる。

「な、なんだ?……うわぁ!」

「うぉお!」

 白龍が突っ込んできて、二人の兵はあわや轢かれるところだった。馮則以外、安全に厩舎へ連れて行ける者がいないので訓練場内に放置されていたのだ。

 その突進は間一髪よけられたが、当たれば二人の死因は轢死ということになっていただろう。

 いったんそこを駆け抜けた白龍だったが、すぐに戻って来て兵たちの前で足を止めた。そして威嚇するように前足を掻いて見せる。

「こ、この駄馬……ぶっ殺してやろうか!」

 馬を御すべき騎兵としての矜持か、一人はそんな怒鳴り声を上げた。しかしその腰は完全に引けており、白龍の巨体に怯えているのは明らかだった。

 実際のところ、白龍が本気で戦ったら武器を持った兵でも一人や二人ではまず勝てないだろう。

 そしてもう一人はこの同僚よりも賢かったらしく、それをきちんと理解していた。

 ただしそれを口にするのは情けないので、必死に頭を捻って上手い理由を思いついた。

「……おい、やめろ!こいつは孫権様の馬だぞ!下手に傷つけたら俺らの首が飛ぶ!」

 言われた同僚も本当は戦いたくなかったので、その理屈に飛びついた。

「そ、そうだな。確かにその通りだ。勘弁してやるしかないか……」

 二人はそんなことを話しながらじりじりと後ずさりし、十分な距離を取ってから駆け足で白龍の前から逃げて行った。

 かなり離れてからこれ見よがしに悪態をつく声が聞こえてきたが、すでにこちらに背を向けている。もはや馮則たちに何かする気はないのだろう。

 馮則はそんな二人の背中をぼんやり眺めてから、不思議そうに目を瞬かせて白龍を見た。

「もしかして……助けてくれたのか?」

 今あったことを考えるとそうとしか思えないが、これまで白龍が馮則を気遣ってくれたことなど一度として無かった。

 乗せてはくれるが、懐いている様子など皆無だったのだ。

 それを思うと、なんだか可笑しくなってきた。

「ハハハ……何だよ、どうしたんだよ、明日は槍でも降ってくるんじゃねぇか?」

 力なく笑う馮則に、白龍の顔がゆっくり近づいてきた。

 そして二の腕を噛み、ぐいと持ち上げようとする。立てと言っているようだ。

 馮則は足腰に上手く力が入らなかったが、あまり強く噛まれてはたまらない。膝をプルプルさせながら頑張って立ち上がった。

「何だ?……もしかして、乗れって言ってんのか?」

 馮則がそう問うと、返事をするようにブルルンと鳴き声が返ってきた。

 すでに立っているだけで限界な馮則だったが、不思議と白龍に乗ることを考えると力が湧いてくる。

(やっぱ俺は、白龍に乗るのが好きなんだな)

 鼠が龍に憧れるようなものなのかな、などと思いながら、己の鈍くなった手足に四苦八苦しながら何とか騎乗した。

 白龍は軽く首を回して背中の馮則を確認すると、訓練場に響き渡るようないななき声を上げた。

 雄々しい声だった。

「うぉっ」

 白龍が駆け出し、後ろに倒れかけた馮則は慌てて手綱を握りこんだ。

 どこへ行くのかと思っていると、白龍は訓練場を回り始めた。

 一周、二周、三周と回り、四周目で馮則はようやく白龍に尋ねた。

「もしかして、俺の代わりに走ってくれてんのか?」

 代わりというか、背に乗っているとはいえ一緒に走っているので助けてくれているのだろう。そうとしか思えない。

 白龍は何の指示も出されていないにも関わらず、ひたすら訓練場を走って回った。

 その何周目だろうか、馮則は自分でも知らぬ間に、声も上げずに泣いていた。

 じわりじわりと涙があふれてきては頬を伝う。汗をかいて水分を失っていなければ、きっと涙で白龍の美しいたてがみも見えなくなっていたことだろう。

(俺は、どうして泣いてんのかな?)

 白龍が初めて優しさを見せてくれた嬉しさからだろうか。それとも己のような矮小な存在が、白龍のような偉大な存在に繋がりを持てている嬉しさからだろうか。

(両方だろうな……でも、それだけじゃない)

 馮則は己の心の中にある苦さに気がついた。

 白龍は本当に凄い馬だ。名は体を表すというが、本当に龍のような価値のある馬だと胸を張って言える。

 しかしその龍が為したことといえば、自分のような鼠一匹を助けてくれた程度のことなのだ。

 馮則にはそれが歯痒くてならない。龍であれば、もっと大きなものを扶けられるはずなのに。

「すまねぇな……お前はそんな馬じゃねぇんだ……もし趙雲さんにもらわれていれば、今頃もっとでかいことを……」

 趙雲の名を聞いたからか、白龍が興奮して高くいなないた。それから目に見えて速度を増す。

 その爽快な加速感に、馮則は泣きながら笑い声を上げた。

 他の騎馬隊の隊員たちはそれを横目に見ながら、三々五々帰って行った。

 もう日は暮れかかっており、訓練終了の時間になっている。それに白龍と一緒の馮則を攻撃できる者もいないから、一人と一頭は放置されることになった。

 そして月と星だけが光源になり、白龍がようやく足を止めた頃になって李観は帰ってきた。

「馮則」

「ヒッ」

 下馬して服を探しているところで声を掛けられた馮則は、小さな悲鳴を上げて身を固くした。

 自分の足で走ったのは命じられた半分の百周であり、そのことが誰かから伝わっていればさらに罰せられるかもしれない。

 そう思って怯えていたのだが、意外にも李観は笑顔で労いの声をかけてきた。

「ご苦労だったな。もういいぞ」

 もういいぞ、と言ったのは馮則がまだ裸だったからだろう。罰則を受け続けていると思ったようだ。

(さすがにこの時間まで裸でいたんだから、十分だと思ってくれたのかな?)

 馮則はそう考えたが、それにしては李観の表情が上機嫌過ぎるように見えた。出て行った時とは別人のようで、月明かりですら笑ってできた目尻のシワが見える。

「馮則、戦だぞ。近い内に戦がある」

 李観のその言葉で、馮則はようやく上官が上機嫌である理由が理解できたと思った。

 馮則のような臆病者には分からないが、騎馬隊の隊長をやっているような武人にとって戦は喜びなのだろう。

 とはいえ、今の環境なら馮則にとっても悪いことではない。

 馮則たちは孫権のことを守る直属の騎馬隊だから、実は比較的安全だと聞いている。それに、同僚たちもさすがに出征中まで自分を痛めつけることはないだろう。

 だから馮則は内心で安堵の息を吐いていた。

「そうですか……孫権様をしっかり守らねぇと、ですね」

 それを聞いた李観はさらに笑みを深め、可笑しくて仕方ないというようにけたたましく哄笑した。

「アハハハハハ!」

 その様子が気味悪くて、馮則は思わず半歩後ずさった。

 そんな怯える鼠男へ、李観は愉快げに告げる。

「お前は孫権様を守る仕事はしない。最前線へ行くのだ」

「さ、最前線!?」

 馮則は声を裏返らせて聞き返した。

 空耳であって欲しいと願いながらも、はっきりと聞き取れてしまった。

「最前線って……でもこの隊は、孫権様の御身を守ることが仕事で……も、もしかして配置替えですか?」

「そうではない。私が孫権様に直接お願い申し上げたのだ。白龍には実戦経験がないから戦場で予期せぬ行動を取ってしまうかもしれない、だから一度最前線を経験させて慣れさせるべきだと」

「…………」

 馮則は反論の言葉を紡げず、ただ沈黙した。

 李観の言うことは筋が通っている。

 ただそれを言上した本当の動機は言えば、馮則と白龍への憎しみだとしか思えない。

「次の戦は激しくなるから覚悟しておけ。何と言っても、孫家悲願の仇討ちだからな」

 それを聞いただけで、馮則には戦の敵が分かった。

 江夏郡の太守、黄祖だ。

 孫権の父である孫堅は黄祖との戦で命を落としているし、馮則は黄祖の領地からやって来たのだからその辺りの事情はよく熟知していた。

 それに馮則の江夏郡在住中、孫権自らが軍を率いて黄祖を攻めて来たこともあった。

 その時は黄祖をあと一歩のところまで追い詰めたのだが、孫権の領内で異民族の反乱が起きて兵を引かざるを得なくなっている。

「仇討ちになる我が軍は当然必死だが、黄祖も必死なはずだ。敗れれば己の生が終わることを知っている。助命を聞き入れてもらえるはずがないことは分かり切っているからな」

 李観はその客観的な推察を述べた後、主観丸出しのニヤけ顔になった。

「必死な軍と必死な軍がぶつかる最前線だ。最高に盛り上がるぞぉ?」

 妙に語尾の上がった気色の悪い言い方に、馮則の全身に鳥肌が立った。

 ただし、当然起こるべき怒りの感情はさして湧いてこない。それよりももっと重要な思考が脳内を占拠していたからだ。

(どうやって逃げよう……)

 馮則はこの日から戦の当日まで、ずっとそのことばかりを考え続けて過ごした。
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