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短編・中編や他の人物を中心にした物語

その鼠は龍と語らう3

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「……は?俺を?手土産?……っていうか……孫権様?」

 そういえばさっきも手土産とか何とか言っていたな、と思いながら馮則ふうそくは聞き返した。

「そうだ。孫権様への手土産だ」

 甘寧かんねいは事もなげにうなずく。

 馮則はわけが分からなくて、首をかきながら再度確認した。

「はぁ……その……孫権っていうと、あの小覇王孫策の跡を継いで暴れ回ってる、弟の孫権のことですか?」

 この時代に生きている人間にとって、孫権というとその人物以外にはいない。それくらいの大群雄なのだ。

 この頃の後漢王朝はすでに力を失って久しく、割拠していた群雄たちも争いの末、すでにかなり絞られている。

 中央で覇を競っているのは曹操、劉表、そして孫権の三勢力くらいなもので、他はいずれも国の端だから生き残っているに過ぎない。

 中でも曹操の台頭が目覚ましいものの、孫権とて今最も天下に近い男の一人と言っても過言ではないだろう。

「ぁ痛っ!」

 呆気にとられる馮則の頭を、甘寧の拳がいきなり殴りつけた。

「馬鹿野郎!孫権様は俺の主君になる予定のお方だぞ!呼び捨てになんぞしたらぶん殴るからな!」

 もう殴られているのだが、という言葉はなんとか飲み込み、馮則は急いで頭を下げた。

「す、すんません!孫権……様は、ずっとこの辺りを狙ってるお方なもんで……」

 この辺りとは、今馮則が住んでいる江夏郡のことだ。

 ここは劉表配下の黄祖が支配する地域であり、対孫権戦の最前線に当たる。

 それは単に地理的にそうだというだけでなく、黄祖は孫権の親の仇に当たるのだ。孫権の父である江東の虎、孫堅は黄祖との戦の最中に命を落としている。

「黄祖様を討つことは、孫家の悲願だって聞いてますし」

「黄祖の方には様なんて付けるんじゃねぇよ」

 と言って、甘寧はまた馮則の頭をポカリと殴りつけた。

 甘寧は自分を重用しなかった黄祖、そして劉表に含みがあるから、それが態度に出たようだ。

 八つ当たりのように殴られた馮則はたまったものではないが、気弱な鼠男は文句も言えない。

「す、すんません」

 とりあえず謝った。

「しかし、孫権様への手土産となると……ははぁ……旦那はそんな大物に自分を売り込めるくらいの器量人ってことですか……なるほどなるほど……」

 馮則がしきりに感心してみせたのは別にお世辞というわけではなく、白龍にあれほど乗れる人間が滅多にいないからだ。

 結局は乗りこなせこそしなかったが、常人ならそもそも乗るところまで漕ぎ着けないか、無理をして大怪我してしまうのが関の山なのだ。

 実際に怪我した挙げ句、逆恨みして白龍に斬り掛かった馬鹿もいた。

 その時に白龍をかばったことでできた傷痕が、馮則の左頬にまだ残っている。何針も縫った傷だ。

(まぁそこまでしても、白龍のやつはさして懐いてくれなかったけど)

 あの時のことを思い返すと、白龍にとっての自分が本当によく分かる。流血してまで守ってくれた飼い主に対し、感謝するどころか気遣う素振りすら見せなかった。

 本当にそこらの鼠くらいにしか思ってないのだろうとよく実感できたものだ。

 そんな関係だから、馮則もあっさりと白龍を手放す話をした。

「それでしたら、白龍のお代は十分いただけるんでしょうね。ならうちのおやっさんは売ると思いますよ」

 おやっさん、というのは馮則の働いている牧場の主だ。

 がめつい男だから、十分な銭さえ積めば白龍とて手放すだろう。まぁいくらがめつかったところで、目の前の怖い甘寧相手にふっかけるとは思えないが。

「そうか、なら手荒なことはしなくて済みそうだな」

(やっぱ手荒く済まそうとしてたのか……この鈴ヤクザめ!)

 甘寧の顔を睨む勇気のない馮則は、腰に下げた鈴を睨みながら心中で罵った。

 そしてこの時に、馮則の中での甘寧の呼称が決定した。

「そんで旦那、どうして俺も手土産に入れられてるんです?」

 馮則にとって、ここが話の核心だ。

 甘寧が孫権に仕えようとしていることはいい。手土産に白龍というのも構わない。これほど見栄えのする手土産はそうそうないだろう。

 しかしなぜ甘寧は、馮則も一緒に手土産にするなどとのたまったのか。

「なんでって、そりゃお前以外に白龍に乗れる人間がいないからだろうが」

 甘寧は当たり前の顔をして答えた。

 そもそもどんな立派な馬でも、誰一人として乗れる人間がいないのであれば手土産にはなり得ないだろう。それは間違いない。

「いや、でも俺はここの調教師で……」

「任せとけって!お前を引き抜く分の迷惑料もちゃんと上乗せしてやるからよ!」

 甘寧は豪快に笑いながらバンバンと馮則の背を叩いた。

(それならおやっさんは文句言わねぇな)

 がめつい雇い主の顔を思い浮かべて納得しかけたが、真に納得できるわけがない。

「いや、でも、いきなりそんなこと言われても……」

「なんだ、何か困ることでもあんのかよ?家族とか、恋人とかか?」

 問われて馮則ははたと気付いた。別に困ることはない気がする。

 家族はいない独り身だし、兄弟が多いから将来的な親の世話も心配いらない。

 そして真に残念なことに、恋人もいない。なんなら特別仲が良いと言えるような友人もいない。

(なんだ、困ることはないのか)

 などと思いかけてから、慌てて首を横に振った。

 このまま鈴ヤクザの都合で人生を左右されるのはいかがなものか。

 人から鼠だ鼠だとからかわれるのは一向に構わないが、鼠を扱う感覚で人生を左右されるのはさすがに嫌だ。

「い、いやいやいやいや!困る困らないって話じゃなくて、いきなりそんなこと決められても……」

「ああん?不満だってのか?」

 甘寧に眉を寄せながら睨みつけられ、馮則の肩と心は急速に縮こまってしまった。

 やはり、この手の人間は苦手だ。

 ただそれでも必死に頭を回転させて、何とか反論を試みた。

「あー……えっと……そ、そういえば!他にも白龍に乗れた人はいたんですよ!俺以外で!だから孫権様の軍隊中を探せば、一人くらいはいるんじゃないかと思います!」

「何?……適当な嘘を言ってんじゃねぇだろうな?」

「め、滅相もない!」

 ジロリとした目で顔を覗き込まれ、馮則は両手をぶんぶんと横に振った。

「本当です!牧場の他の人間に聞いてもらってもいいです!例の旅の人相見がいきなり『そうだ!』っつって、街で出会った別の旅人を連れて来たんです!」

 これは今はっきり言った通り、正真正銘本当の話だ。

 あの人相見はじっと白龍の瞳を見つめてから、思いついたように飛び出して行ったのだ。

「別の旅人って、その人相見の連れじゃなくてか」

「街でたまたま会った人だと言ってましたね。人相見もその男も、ちょっとした仕事で邾県しゅけんを通りかかったらしくて」

「ってことは何か?その人相見は馬と人をひと目見ただけで相性が分かるってことか?」

 甘寧は胡散臭そうな視線を馮則を向けたが、自分のやったことではないのでそんな目で見られても困る。

 それに実際、そばにいた馮則にはそうとしか思えなかった。

「旦那の疑う気持ちも分かりますけど、そういうことになるんでしょうね。マジでびっくりするくらいの相性でしたし。人間と見りゃ見下すような態度しか取らないこの白龍が、その人を前にしたら尻尾を高く上げて、鼻を擦り寄せてハムハム甘噛みしやがるんですよ」

 いずれも馬が甘える時によくやる仕草だ。思い出すと、つい嫉妬しそうになってしまう。

 調教師としていくら手を尽くしても振り向いてすらくれない白龍が、出会っただけの初対面の人間に首ったけだったのだ。

「それに、騎乗してからの態度も全然違いました。俺の時はただ乗せてるだけって感じなのに、その人が乗ると喜んで指示に従うのはもちろん、進んで乗り手の意図をくみ取ろうとしてたんです。この白龍がですよ!」

 つい声も大きくなってしまう。それくらい、馮則は白龍の扱いには難儀しているのだ。

「そいつの騎乗術はどうたったんだ?」

 その男に興味が湧いたのか、甘寧が重ねて尋ねてきた。

 馮則はその時の光景を脳裏に浮かべ、急に神妙な顔つきになった。うーんと低く唸りながら腕を組む。

「どうもこうも、俺はあれ以上の騎乗術を見たことがありませんや。まさに人馬一体ってやつで」

 馮則は馬の調教師をやっている男だが、戦乱のせいで軍馬の需要は多く、経験も十二分に積んでいる。

 その目で見て、そこまで言わせるだけの動きをしていた。

「お前みたいな本職がそう言うんなら相当なもんなんだろうが……それなら相性って言うよりも、単純に馬の扱いがすげぇ上手いやつだったってだけなんじゃねぇか?」

 暗に人相見の能力を疑った甘寧だったが、馮則はそうは思わなかった。

「いえ、白龍が媚びだしたのはその人をひと目見てすぐでしたし、扱いが上手いって言うよりも本当に二つで一つの生き物みたいで……」

 話しながら、馮則は少し違うなと思った。

 あの時の一人と一頭の間には、ようやく春を迎えられた草花のような歓びがあふれていた。

「……っていうか、初めて完全な一つの生き物になれた、みたいな雰囲気でしたね」

 その表現には、甘寧も納得できるところがあった。

「ああ……なんとなくそういうのは分かるな。誰だって、心の何処かに欠けてる所があるもんだ。それを埋めてくれる、言ってみりゃ自分の片割れみたいなもんだったんだろうよ」

 意外にも繊細な物言いをする鈴ヤクザに馮則は驚いたが、下手な反応をするとまた殴られるかもしれない。神妙な顔つきのままうなずいておいた。

「『自分と白龍が一緒なら、昼に千里、夜に五百里を踏破できる』なんてことまで言ってましたよ。真面目そうで固そうで、あんまり冗談を言うような人には見えなかったんですけど、よほど興奮したんでしょうね」

 この時代の一里はおおよそ四百数十メートルだから、千里というと四百キロを超えることになる。

 現代の車で走るのもしんどい距離だ。

「だが、それならどうしてその旅人は白龍を手に入れなかったんだ?舞い上がるほど欲しかったんだろう?」

「そりゃ旦那、簡単な話で。それほど懐のあったかい御仁じゃなかったんですよ」

 そもそも馬とは安いものではなく、現代で言えば新車並みの買い物になる。それがさらに白龍ほどの馬となると、高級外車を買うようなものなのだ。

 だから先ほど馮則は甘寧の銭を気にしていたわけだし、おいそれとは買えない人間の方が普通だろう。

「ふーん……すげぇ騎乗術だって言うから名のある武将だったりすんじゃねぇかと思ったんだが、そうじゃねぇんだな」

「別に名前を聞くような人じゃありませんでしたね。趙雲ちょううんっていう、生真面目そうな色男だったんですけど」

「趙雲!?」

 甘寧の叫びの直後、白龍がブルルンといなないてこちらに駆けてきた。

 そしてその勢いのまま甘寧を頭で突いてくる。

「うぉっ!?おい、何だよ!」

「そうだった!すんません、旦那!」

 馮則は謝りながら白龍の手綱を取り、どうどうとなだめた。

「こいつ、趙雲さんが好き過ぎて、名前を聞くだけで興奮しちまうんです。しかも趙雲さんの所へ連れてけって言ってるみたいで、しつこく小突いてくるし……」

 趙雲の名を二度出したせいか、今度は馮則に頭突きを食らわしてきた。

 白龍も傷つけるつもりでやっているわけではないが、その巨体でぶつかられると下手すれば吹き飛ぶ。

「やめろって!そんなことされても俺は趙雲さんの居場所を知らないんだよ!」

「いや、多分だが樊城はんじょうにいるぞ」

「えっ?」

 馮則は驚いて聞き返した。

「樊城?っていうか旦那、趙雲さんとはお知り合いなんで?」

 もしそうなら広大なこの国も意外と狭いものだと思ったが、甘寧はそれを否定した。

「いや、別に知り合いってわけじゃねぇよ。ただ劉備の配下にそういう名前の馬鹿強ぇ騎兵がいるって話を聞いてるだけだ」

 もう一人出てきた劉備というその名には馮則も聞き覚えがあった。

「劉備ってぇと、劉表様が曹操への備えにしてるあの武将ですかい?」

 この時期の劉備は劉表によってそういう使い方をされている。

 数年前までは当時の最大勢力だった大群雄、袁紹と共に戦っていた劉備だったが、その袁紹が曹操に敗れて以来、劉表の下に身を寄せているのだ。

 劉表は受け入れた劉備を対曹操戦の最前線の地に配置し、劉備もそこでいくらかの勝ちを収めて貢献してきた。

 そして馮則の聞いた風の噂でも、今の劉備は少し場所を移して樊城を拠点にしているという話だったと思う。

「でも劉備の配下っていえば、関羽と張飛くらいしか名前を聞きませんね」

「趙雲は劉備を守る親衛隊を率いているらしいからな。将軍とかってわけでもないし、知名度はそんなもんだろう」

 ちなみに関羽、張飛は過去にそれぞれ偏将軍、中郎将に任命されているから、言ってみれば格が違う。

 趙雲の名が知られていないのも当然だった。

「ただ、相当に使うやつだってことは聞いてる」

 甘寧は曲がりなりにも劉表軍の一角を担っていた男だ。戦では危険な殿しんがりをあえて務め、そこで敵将を射抜いたこともある。

 だから劉表軍のそういう話は嫌でも耳に入ってくるのだった。

「しかし……そうか……趙雲か……」

 趙雲という名に思うところがあったのか、甘寧の視線が宙をさまよった。

 それを好機と見た馮則は、こっそりと半歩後ろに下がった。

「とまぁそういうことなので、自分みたいな鼠男を連れて行かなくても……」

 要は馮則にとって大切なのはそこなのだ。

 趙雲と白龍との間に結ばれた絆には色々と感じ入るものがあったが、買われてゆく白龍について行くかどうかとはまるで関係ない。

 それはそれ、これはこれだ。

 しかし離れようとする馮則の肩がガシッと掴まれた。

「まぁ待てや」

 何気なく見える甘寧の手に、まるで万力のような力が込められていた。あからさまな脅しだ。

「結局のところ、お前と趙雲以外に白龍が乗せてくれたやつは今までいなかったわけだな?」

「そ、それはそうですけど……」

「ならお前は連れて行く。いくら孫権軍が大きいからって、乗れる人間が絶対にいるとは限らねぇからな」

 例えそれがその通りだったとして、一つ忘れていることはないだろうか。

「あの……その話って……俺に拒否権は……」

「あぁん?」

 と、悪鬼のような顔で凄まれる。

 鼠のような馮則は、己の鼠のような肝の小ささを呪うしかなかった。
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