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短編・中編や他の人物を中心にした物語
医聖 張仲景16
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「……で、結局は雪梅さんのことを妾にしたのか」
許靖は今しがた聞いた話をまとめてから、焼いた鶏の肉にかぶりついた。
皮がパリッと小気味よい音を立てて割れ、口の中に甘い油が広がる。美味い鶏だ。
以前この店に来た時には大物を無理して食べてしまったが、今日は程よい量を注文している。食を楽しむなら食べる量も誤ってはいけない。
「妾っていうか、そのうち正式に結婚するつもりだけどね。とりあえず、当面はそう」
張機は答えてから、こちらも絶妙に焼けた鶏にかぶりつく。
二度の大食いで苦しい思いをしてもまたこの店に来たのは、やはり鶏が美味いからだ。
「うちの父にも伝えたんだ。『今は政界の事情で明かせないけど、さる高貴な血筋に仕える家の娘と暮らしてる。状況が整ったら正式な妻にするつもりだ』って。そしたらようやく結婚しろ攻撃が止んだよ」
「それは良かったな」
許靖は張機がそれを面倒くさがっていたことを知っている。
だから一緒に喜んでやったつもりなのだが、張機にはその反応が意外だった。
「許靖は反対するかと思ってたけど」
「雪梅さんとのことを?なんでだ?」
「いや、よく考えて接しろって言ってたじゃないか。あれは警戒しろってことだろ?」
許靖は確かにそう言っていた。だから張機としては少し打ち明けづらく、今日までだいぶ日が空いてしまった。
実際、仮に許靖が張機の立場だったら絶対に手を出さなかっただろう。
(だが張機の瞳の奥の「天地」では、男が高い棚の宝石を眺めることがずっと少なくなっている)
許靖はしばらく前からそのことに気づいており、悪くない変化だと思っていた。
だからあえて否定的なことは言わず、それとなく注意だけすることにした。
「もちろん今後も警戒は必要だろうよ。だが雪梅さんの言う通り、劉表様との繋がりがあることは自衛手段にもなりうるからな。要はそれに引きずられて不要な争いに巻き込まれないようにしろという話だ」
「あ、それ雪梅さんも言ってたな」
「なに?雪梅さん自身が?」
許靖は思わず箸を止めて顔を上げた。
雪梅は立場上、張機を危険に晒しても劉表の利になる行動を取るべき女のはずだ。しかし張機の安全を優先するということか。
「そうなんだ。雪梅さんには劉表様の役に立とうって気持ちはあるんだけど、それは人生をかけるような強さじゃないみたいで。むしろ僕の妾になった以上、僕の身を守ることが自分の生活を守ることにも繋がるから優先順位は上だって言ってた」
それが本音だとしたら、張機にとって理想的な妻になりうる。
「まぁもちろん、僕みたいなのでもそれが完全な本音だと思わないくらいの警戒心はあるよ」
(そういうふうに注意できているなら過度な心配は要らないか)
許靖は同期のためにそう考え、無言でうなずいた。それからまた鶏にかぶりつく。
二人ともある程度腹が落ち着くまでそうしてから、許靖の方が尋ねた。
「どうだ?大切な人と送る生活は?」
若い男女のことだ。もう少し下世話な問われ方をすれば、張機は恥ずかしがっただろう。
しかし許靖は大切な人と言った。妾でも、愛人でも、恋人でもなく、大切な人と言った。
だから張機は素直な気持ちで答えた。
「幸せだよ。こうなる前も結構長く同居してたわけだけど、前よりなんていうか……家に帰るとより落ち着く気がする」
「ああ、それは家族になったということじゃないかな」
「家族?」
張機はその単語を繰り返し、それから少し考えて納得した。
確かに雪梅とは家族になれた気がする。
妾として抱くようになったからではない。自分は彼女を受け入れたのだという自覚があるからだ。
(家族……もし玉梅と結婚してたら、全く別物の家族になってたのかな?)
未だに初恋を忘れられない張機はそれを自問し、想像し、頭の中で肯定と否定の両方を返した。
玉梅と雪梅は違う。名前とそばかすは似ているが、それだけだ。何より自分は雪梅に恋をしていない。
それは雪梅もそうなはずで、彼女の人生と自分の人生とがたまたま重なり上手く嵌っただけだ。
だから雪梅と家族になることと、玉梅と家族になることとが同じであるはずがない。
(でも……家族と一緒に幸せになるっていう点では、あんまり変わらないのかも知れないな)
その一点においては必ずしも別物とは言えない気がした。目的地は同じに思えるのだ。
もちろんその行程において、具体的な道のりはまるで異なるだろう。見える景色も違うはずだ。
ただ、必ずしも恋した相手との道のりが良いものではないのだろうということは分かる。むしろだからこそ、辛い歩みもあるはずだ。
(その点、雪梅さんは家事ができて気が利いて、僕を支えてくれようとするのがよく伝わってくる。僕は良い家族を持てたんだろうな)
張機にそう思われている雪梅の方もそれは同じで、張機は優しくてあれこれ手伝ってくれる。それに稼ぎも悪くなく、万が一の場合にも手に職があって安心だ。
こういう間柄であれば、恋愛感情とは関係なく道のりは平坦なはずだ。
むしろ恋愛を経た関係でない分、相手に求め過ぎることがなく、相手を気遣う余裕がある。
「家族って幸せなものなんだな……いや、幸せになるためのものって感じかな?」
ふっと漏れたような感想に、許靖は軟骨をかじりながら大きくうなずいた。
「そうだな。ただ一点付け加えるとしたら、『一緒に』幸せになるためのものってことかな」
言ってから、我ながら青臭いことを言ったと恥ずかしくなった。
しかし張機は張機であまりに素直な反応を返してくれたから、少し救われた気分になる。
「ああ、そうか。すごく大切なことを聞いたな。帰ったら雪梅さんにもそう話そう」
(……本当に初心なやつだな)
許靖は面白いほどの素直さに口の端を上げつつ、こういう男を捕まえた雪梅の幸運を思った。
許靖は今しがた聞いた話をまとめてから、焼いた鶏の肉にかぶりついた。
皮がパリッと小気味よい音を立てて割れ、口の中に甘い油が広がる。美味い鶏だ。
以前この店に来た時には大物を無理して食べてしまったが、今日は程よい量を注文している。食を楽しむなら食べる量も誤ってはいけない。
「妾っていうか、そのうち正式に結婚するつもりだけどね。とりあえず、当面はそう」
張機は答えてから、こちらも絶妙に焼けた鶏にかぶりつく。
二度の大食いで苦しい思いをしてもまたこの店に来たのは、やはり鶏が美味いからだ。
「うちの父にも伝えたんだ。『今は政界の事情で明かせないけど、さる高貴な血筋に仕える家の娘と暮らしてる。状況が整ったら正式な妻にするつもりだ』って。そしたらようやく結婚しろ攻撃が止んだよ」
「それは良かったな」
許靖は張機がそれを面倒くさがっていたことを知っている。
だから一緒に喜んでやったつもりなのだが、張機にはその反応が意外だった。
「許靖は反対するかと思ってたけど」
「雪梅さんとのことを?なんでだ?」
「いや、よく考えて接しろって言ってたじゃないか。あれは警戒しろってことだろ?」
許靖は確かにそう言っていた。だから張機としては少し打ち明けづらく、今日までだいぶ日が空いてしまった。
実際、仮に許靖が張機の立場だったら絶対に手を出さなかっただろう。
(だが張機の瞳の奥の「天地」では、男が高い棚の宝石を眺めることがずっと少なくなっている)
許靖はしばらく前からそのことに気づいており、悪くない変化だと思っていた。
だからあえて否定的なことは言わず、それとなく注意だけすることにした。
「もちろん今後も警戒は必要だろうよ。だが雪梅さんの言う通り、劉表様との繋がりがあることは自衛手段にもなりうるからな。要はそれに引きずられて不要な争いに巻き込まれないようにしろという話だ」
「あ、それ雪梅さんも言ってたな」
「なに?雪梅さん自身が?」
許靖は思わず箸を止めて顔を上げた。
雪梅は立場上、張機を危険に晒しても劉表の利になる行動を取るべき女のはずだ。しかし張機の安全を優先するということか。
「そうなんだ。雪梅さんには劉表様の役に立とうって気持ちはあるんだけど、それは人生をかけるような強さじゃないみたいで。むしろ僕の妾になった以上、僕の身を守ることが自分の生活を守ることにも繋がるから優先順位は上だって言ってた」
それが本音だとしたら、張機にとって理想的な妻になりうる。
「まぁもちろん、僕みたいなのでもそれが完全な本音だと思わないくらいの警戒心はあるよ」
(そういうふうに注意できているなら過度な心配は要らないか)
許靖は同期のためにそう考え、無言でうなずいた。それからまた鶏にかぶりつく。
二人ともある程度腹が落ち着くまでそうしてから、許靖の方が尋ねた。
「どうだ?大切な人と送る生活は?」
若い男女のことだ。もう少し下世話な問われ方をすれば、張機は恥ずかしがっただろう。
しかし許靖は大切な人と言った。妾でも、愛人でも、恋人でもなく、大切な人と言った。
だから張機は素直な気持ちで答えた。
「幸せだよ。こうなる前も結構長く同居してたわけだけど、前よりなんていうか……家に帰るとより落ち着く気がする」
「ああ、それは家族になったということじゃないかな」
「家族?」
張機はその単語を繰り返し、それから少し考えて納得した。
確かに雪梅とは家族になれた気がする。
妾として抱くようになったからではない。自分は彼女を受け入れたのだという自覚があるからだ。
(家族……もし玉梅と結婚してたら、全く別物の家族になってたのかな?)
未だに初恋を忘れられない張機はそれを自問し、想像し、頭の中で肯定と否定の両方を返した。
玉梅と雪梅は違う。名前とそばかすは似ているが、それだけだ。何より自分は雪梅に恋をしていない。
それは雪梅もそうなはずで、彼女の人生と自分の人生とがたまたま重なり上手く嵌っただけだ。
だから雪梅と家族になることと、玉梅と家族になることとが同じであるはずがない。
(でも……家族と一緒に幸せになるっていう点では、あんまり変わらないのかも知れないな)
その一点においては必ずしも別物とは言えない気がした。目的地は同じに思えるのだ。
もちろんその行程において、具体的な道のりはまるで異なるだろう。見える景色も違うはずだ。
ただ、必ずしも恋した相手との道のりが良いものではないのだろうということは分かる。むしろだからこそ、辛い歩みもあるはずだ。
(その点、雪梅さんは家事ができて気が利いて、僕を支えてくれようとするのがよく伝わってくる。僕は良い家族を持てたんだろうな)
張機にそう思われている雪梅の方もそれは同じで、張機は優しくてあれこれ手伝ってくれる。それに稼ぎも悪くなく、万が一の場合にも手に職があって安心だ。
こういう間柄であれば、恋愛感情とは関係なく道のりは平坦なはずだ。
むしろ恋愛を経た関係でない分、相手に求め過ぎることがなく、相手を気遣う余裕がある。
「家族って幸せなものなんだな……いや、幸せになるためのものって感じかな?」
ふっと漏れたような感想に、許靖は軟骨をかじりながら大きくうなずいた。
「そうだな。ただ一点付け加えるとしたら、『一緒に』幸せになるためのものってことかな」
言ってから、我ながら青臭いことを言ったと恥ずかしくなった。
しかし張機は張機であまりに素直な反応を返してくれたから、少し救われた気分になる。
「ああ、そうか。すごく大切なことを聞いたな。帰ったら雪梅さんにもそう話そう」
(……本当に初心なやつだな)
許靖は面白いほどの素直さに口の端を上げつつ、こういう男を捕まえた雪梅の幸運を思った。
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