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短編・中編や他の人物を中心にした物語

医聖 張仲景5

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「ちょっ……ちょっと待てよ!本当に行くのか!?」

 張機チョウキ張羨チョウセンの服を掴もうとして、その手を空振らせた。

 辺りは夕闇に包まれかけている。物の輪郭はぼんやりとしたものになっており、それも空振りの原因かもしれない。

 しかし武術の稽古をしていても張機の拳が張羨に触れることはほとんどない。

 やはりただかわされただけだったのだろう。

「行くさ!あの于双ウソウって祈祷師のあらを見つけなきゃ、玉梅が死んじまうだろうが!」

 張羨は明るくなってきた月の方へ荒々しく足を踏み出した。そちらに于双の屋敷があるのだ。

 二人が張伯祖と話をしてから七日が経っているが、玉梅の病状は改善していない。

 高熱が続き、昨日など下血したという話だった。これは腸チフスが重くなっている場合に起こる症状だ。

 周囲にはそこまでいかずに治っている例が多かったから、二人はなおのこと心配になった。

 それで焦った張羨はなんとかして張伯祖の治療を再開させようと思い、于双という祈祷師をおとしめようと考えたのだった。

 ただ、張機はそこまで思い切れない。祈祷師に疑問は感じていても、自分の師がそれを信じているのだ。

「でも于双様の祈祷で良くなった人もいるわけだし、むしろ止めて良くない方向になったら……」

 自然科学というものが曖昧な認識しか持たれていない時代であれば、こう考える人間が多いのも当たり前だ。

 特にこういうカルトは周囲が馬鹿にするよりも遥かに人を納得させるための理論を用意している。

 そして頭のいい人間ほど一度納得してしまうと、それを盲信してしまうものだ。

 しかし張羨という冴えた少年は目に見えず、しかもやけに都合の良いものを信じるような感性を持ち合わせていない。

「俺は伯先生と同じで、祈祷師なんてものを信じられない。それにもし何も見つからなかったら止められないんだから、調べるだけ調べてもいいだろ」

「だからって、屋敷に忍び込むなんて……」

 張羨がやろうとしていることは、そういう危険なことだった。

 さすがに張機は二の足を踏んでいるのだが、張羨はそのことにカッとした。

 胸ぐらを掴み上げ、額をぶつけて凄んでみせた。

「俺は少しでも玉梅が生きられるように動こうとしているだけだ!それともお前は玉梅が死んでもいいって言うのかよ!?許婚のお前が!」

 張機はその怒声の中にいつもとは違う何かを見たような気がしたのだが、それよりもこう言われては自分だけ待っているわけにはいかない。

 玉梅は張機の一番大切な人だ。将来の夫として守らなくてはならない。

「……分かった。僕も行く」

「よし、そうじゃなきゃ任せられないからな」

 張羨は張機を離し、小走りに于双の屋敷へと駆け出した。

 張機もその横に並び、これからの確認をする。

「それで、于双様は本当に今夜何か悪いことをしようとしてるんだな?そもそもそれが起きなかったらどうしようもないんだぞ?」

 張機は張羨からあらかじめそういう話を聞いていた。

 張羨もはなから適当に突っ込もうとしたわけではなく、今夜が怪しいと思ったから動いているのだ。

「ああ、いつも于双の奴にくっついてるおっさんたちが街でそんな話をしてたんだ。今夜何かのあるのは間違いないし、話の感じだと良くないことだ」

 張羨はたまたまそういう場面に出くわした。

 お使いを頼まれて商店街を歩いていたら、于双の側近二人を見つけたのだ。

『まったく……あの御方のわがままには困ったもんだ』

『まぁそう言うな。そういう普通でない方だから、あんな仕事が出来るんだよ』

『でもあれじゃ、いくら信徒から銭を集めたってすぐ消えちまう』

 そこで一人がもう一人の口を押さえ、周りを見回した。

 近くにいたのは少し離れたところの子供、張羨だけで、それも明後日の方向を向いている。

 実はしっかりと聞き耳を立てていたのだが、そうとは思わない二人は安心したようだった。少し声を落としてまた話を始めた。

『おい、気をつけろ』

『……いや、俺はちゃんと周りを見て話してたんだよ』

『本当か?……まぁいい。とにかく、例の宴だけは絶対に失敗するなよ。社交的な意味もあるんだからな』

『ああ、分かってる。洛陽から明後日に着くから、三日後の夜だな。準備の時間は十分あるし、大丈夫だろ』

『それだけじゃなく、事が漏れないように気をつけろって話だよ。あんなのがバレたら評判ガタ落ちだからな』

 そんな話をしていた。

 ちなみにこのことはすでに蔡幹サイカンに話しているのだが、嘘だと思われて相手にされなかった。

 ここのところ張羨があまりにしつこく于双の治療をやめるよう言っていたため、その延長で信じてもらえなかったのだ。

 だから信頼できる張機だけを誘って于双の屋敷に潜入しようとしている。

「つまりだ、今日の夜なんらかのヤバい宴があって、しかもそれが知られればあいつの評判が落ちるってわけだ」

「まぁ、その会話だとそういうことになるな」

 治療の効果については置いておいて、この点に関しては張機は完全に信じている。

 物心つく前からの友なのだから、それくらいの信頼はある。

「問題は屋敷にこっそり入れるかどうかだけど……」

「ある程度準備はしてるが、基本出たとこ勝負だ」

 この辺り、やはりまだ十二の少年たちがやることではあるから仕方ない。

 二人は大人から見ればひどく危うげな希望的観測のもと、于双の屋敷へとたどり着いた。

 広大な敷地の中、贅を凝らした建物がいくつも並んでいる。

 于双の教えを信仰する信徒たちが集会を開けるよう、大人数を収容可能な集会所も建てられているという話だった。

 于双がここ荊州南陽郡けいしゅうなんようぐんに来てからまだ一年と経っていないが、多くの地元民から信頼を得ているのはこの屋敷も一因だ。

 これだけの財を持てる宗教組織ということは、それなりのご利益もあるのだろうと感じられたのだった。

「さて……塀が無駄に長いから、どっかから忍び込めそうだが……」

 張羨はかついできた袋から鉤の付いた縄を取り出した。

 本当に戦で使われる鉤爪で、城壁を越える時に引っ掛けてよじ登るための道具だ。

 なぜこんなものを少年が持っているかというと、蔡幹は兵法も教えているからだ。私塾の倉庫からくすねてきた。

 袋には他に短刀なども入っている。万が一の護身用だ。

「こいつさえあればあれくらいの高さの塀なら越えられるが……歩哨がいるな」

 数人が槍を持ち、屋敷の周りを歩き回っている。二人は低木の茂みに隠れ、遠目にそれを確認した。

 侵入する側として歩哨は厄介ではあったが、張羨はこのことで今夜何かがあるのだということを確信した。

 銭持ちの広壮な屋敷とはいえ、普段からそこまで警備はしていないだろう。

「当たり臭いな。よし、火ぃ点けるぞ」

 とは言ったが、屋敷に放火するわけではない。

 張羨は今度は薪と油、そして火種を入れた竹筒を取り出した。

 茂みの中に薪を置き、油をかけ、火を点ける。

 それから二人は急いでその場を離れ、別の茂みの中へと滑り込んだ。

 しばらくすると薪がしっかりと燃え始め、茂みがぼんやりと明るくなった。

 周囲はすでにうす暗いので、歩哨たちはそれにすぐ気がついた。

「なんだ?……おい、何か燃えてるぞ!」

 その声に仲間たちが集まってくる。

 しかし火は別に火事になるようなものではなく、そこに火が点いていても大した害はない。

「なんなんだ?なんでこんなところに焚き火が?」

「よく分からんが、消しておくか」

 などと話している間に、張羨と張機は塀を越えていた。

 二人とも兵法の授業の一環として、こんな訓練もしている。だから歩哨の気さえ逸らせれば、鉤縄で塀を越えること自体は大した作業でもない。

 器用な張羨はほとんど音もなく、不器用な張機は小枝を踏み折りながら敷地内へと降り立った。

 それから急いで建物の物陰に隠れる。

 二人が背中をピタリとつけた壁は集会所の裏側の壁だった。

「大きな宴会があるならここだと思うんだが……」

 張羨はごくごく小さな声でそうつぶやいた。一応それを狙って越える塀の位置を選んだのだ。

 張機の方もかすれるほど小さな声で答えた。

「そうだね。とりあえず、あの窓の下に行ってみようか」

 張機が指さした先の窓は閉じられていたものの、隙間から明るい光が漏れている。

 今いる暗がりより見つかりやすそうではあったが、中の様子が分からないことには話にならない。

 張羨は小さくうなずき、滑るように移動した。

 窓の下まで来ると、中の音もはっきりと聞こえてくる。

 明るい笑い声が多く、自分たちの予想が当たったと確信した。

(間違いなく宴会をやってる)

 二人は同じことを思いながら目を合わせ、それからまず張羨が立ち上がった。

 窓の隙間に目を当て、中を覗いた。

 張機はそれを見上げながら自分の番を待っていたが、張羨はなかなかしゃがまない。体が固まってしまったかのように中を覗き続けている。

 あまりにも遅いので、張機は張羨の服を軽く引っ張った。

 張羨はそれでビクッと震え、慌てて腰を下ろした。

 張機はその反応が理解できず内心首を傾げたが、とにもかくにも中を見なければ何も分からない。

 ゆっくり立ち上がり、そっと中を覗いた。

 すると先ほど張羨がそうであったように、張機の体も固まった。

 そうさせるものがたくさん見えたからだ。

(は、裸の女の人がたくさん……)

 集会所の中にはそんな光景が広がっていた。

 正確には丸裸ではなく半裸といった具合だったのだが、目に毒な若い女の肌がたくさんあらわになっていたのだ。

 もちろん女だけではなく、男も多くいる。男たちに女が付き、酌をしたり体をもたれかからせたりしていた。

(これ……お酒と女の人とを楽しむ、いやらしい宴会……)

 まだ女を知らない張機ではあったが、十二にもなればそれくらい分かる。

 そして十二にもなればそういうことにも興味津々で当然だ。張機も張羨と同じように柔そうな肌色に目を奪われ、体を固めてしまったのだった。

 今はそれどころではないということを理解しつつも、目が離せない。

 それで今度は張羨が張機の服を引っ張った。

 先ほどの張羨と同じように慌ててしゃがむ。

「こ、これって……」

「ああ、そういうことだな。確かに世間に知られたら評判が落ちる宴会だ」

 別にただの富豪であれば趣味が悪いという程度の評判で済むかもしれない。

 しかし教えを説くような立場の于双であれば信用に関わるだろう。しかも女たちに払われる銭は信徒たちから集めているわけだ。

 二人がそう思っているところへ、近場の女の声が聞こえてきた。

「本当に于双様はすごいお方ですね。洛陽からこれだけの人数を呼び寄せるなんて」

 それを聞いて、張羨は三日前聞いた会話の内容を思い出した。

 そういえば洛陽から着くとかなんとか言っていたが、まさか女だったとは。

 女の言葉に野太い男の声が答える。

「ワッハッハ!やはり女は雅た都の女にかぎるからな!田舎の女は土臭くてかなわん!」

「でもそれでわざわざ都から来させられる財力をお持ちなのは、中華を探しても于双様くらいですわ」

「まぁ財力でいったら儂くらいのもおろうが、本当にそれをやるのは儂くらいのものだろう」

 そう言って男はまた笑い声を上げ、追従ついしょうする女たちの笑い声が重なった。

(すぐそこにいるのが于双か!)

 張機と張羨はそのことを理解し、緊張を高めた。

 しかし于双の方は相変わらずご機嫌な会話を続けている。

「娼館を何日か借り切るようなものだ」

「それだって普通のことではありませんよ。それに私たちの旅費だって相当なものになっているでしょう?」

 ここ荊州南陽郡は洛陽のある司隸しれいの南隣ではあるが、それでもまともな神経の持ち主がやることではないだろう。

 事実、于双はまともな神経では口にできないようなことを口走った。

「流行り病のおかげで銭がうなるほど入ってくるからな。こんなふうにしてでも使わんと使いきれんのだよ」

「そこまでお稼ぎになるんだから、于双様の祈祷はとってもすごい治癒力なんですね」

「治癒力?ワッハッハ!儂はただ、病人を安心させて気を楽にしてやっているだけだ。病は気からと言うだろう?それで良くなることも実際あるし、死ぬ時だって少しは楽に死ねる」

 その言葉で、張機と張羨の頭からは女の裸など完全に吹き飛んだ。

 于双の詐欺が完全に明らかになったのだ。

 いくら心が健康にも作用するからと言って、そんなものは患者の望んでいるものではない。明らかな詐欺行為だ。

 しかもそれで大切な人がきちんとした治療を受ける機会を失っているのだから、張機と張羨の脳は沸騰するほどの怒りで満たされた。

 同じように眉を吊り上げて窓の明かりを見上げる。

「張羨、ここまで聞けたら十分だ。もう屋敷を出よう。今の発言を早く先生に伝えないと」

 張機はそのつもりだったのだが、張羨は首を横に振った。

「また先生から嘘だと言われるかもしれないだろ?何か物証を得てから帰りたい」

「物証?いや、もう十分だろ。っていうか無理だよ物証なんて」

 張機はそう思ったのだが、すでに一度嘘認定されている張羨は念を入れたかった。

「例えばだけど、こういう宴会をやっている証拠になる文とか帳簿とか、そういうものが見つかれば」

「そんな簡単に……」

 張機はなおも反対しようとしたが、張羨はそれを聞く前に動き始めた。

「お前だけ先に帰っていい。俺はもう少し探るから」

 張機は離れていく背中に手を伸ばしたが、またしても空振った。

 そして張機は親友を危地に置いて一人帰ることなどできない。仕方なくついて行くことになった。

 張羨は二番目に大きな建物に目をつけ、そちらへと進んでいく。

 塀の周りは警備の人員がそれなりにいたのだが、敷地内には見当たらなかった。

 もしかしたら何人が見回っていたのかもしれないが、幸い二人は誰とも出会わずに目的の建物まで来ることができた。しかも扉は開いている。

 張羨は張機を振り返り、一度うなずいてからすぐ建物へ入っていった。

 その後ろで張機は首を横に振っていたのだが、気づかなかったようだ。

 中は暗かったが、窓からの月明かりで歩けないほどではない。

 廊下のものにぶつからないよう注意しつつ進んでいくと、その先が急に明るくなった。

 どうやら曲がり角の先から、灯火を持った人間が近づいてくるようだ。

 張羨は張機の耳元に口を付けて囁いた。

「基本、俺がなんとかするからお前は口を塞げたら塞いでくれ」

 その物言いはごく平静に感じられたが、張機の心中はそうではない。

 今まで感じたことがないほど鼓動が早くなっているし、喉もカラカラで舌が口内にへばりついている。張羨の言葉にうなずくこともできなかった。

 しかし明かりは近づいてくる。

 張羨は角の壁に背をつけてそれに待ち、灯火に照らされた男の顔が目に入ったところで跳ねるように動いた。

 塀を越える時に使った縄を相手の首にかけ、背中に回って背負うようにその首を締めた。

 蔡幹が教えている兵法は完全な実戦兵法だ。得たい結果を明確に認識し、そのために使えるものは何でも使う。

 この場合は敵に大声を上げさせず無力化することが得たい結果で、手元には縄がある。

 優秀で腹も据わっている張羨はそれだけで十分に動けた。

「ゔっ……!」

 という音を漏らした口を張機は塞ぐべく動いたのだが、その必要はなかった。

 気道が縄でしっかり潰されていたから、張機が手で押さえなくてもそれ以上の声が出ることはなかった。

 男の手足は数秒だけバタついていたが、すぐに筋肉が弛緩してダラリと下がった。

「よし。火はそのままだ」

 張羨から言われて気づいたのだが、張機は無意識に男の持っていた灯火を奪っていた。

 火が危ないと思ってそうしたのかも知れないが、全く記憶がない。それくらい必死だった。

「こ、これからどうする?」

「こいつに聞こう。于双かその側近の仕事部屋でもあればそこを漁る」

 張羨は今しがた落としたばかりの男の肩を掴んで強く揺さぶった。

 その様子を見下ろしながら、張機は幼なじみに対して羨望と劣等感とを抱いていた。

 先ほど男を絞め落とした時もそうだったし、今もそうだが、張羨は鈍くさい自分と比べていつも機敏に動く。

(同じ教育を受けて成長したはずなんだけどな……どうしてこんなに差が開いちゃったんだろう)

 常に迷い、悩み、動きが鈍る自分が惨めになってくる。

 張羨は陰の落ちたような幼なじみの表情には気づかず、男を揺さぶり続けた。

 しばらくすると、男が小さく唸って目を薄く開いた。

 その首筋に素早く短刀を当てる。

「うぅ……」

「動くな。喋るな。お前の首に当てられてるのは刃物だ」

 押し付けられた冷たい感触に、男はすぐ状況を理解したようだ。

 顔を強張らせて口を真一文字に引き結んだ。

 が、この先は張羨の全く思いもよらぬ結果となった。

 男は刃物を理解しながらも声を上げたのだ。

「だ、誰か来てくれ!!」
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