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短編・中編や他の人物を中心にした物語
医聖 張仲景4
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「どうだった?」
張機は屋敷を出るなり、門のそばで待っていた張羨に詰問された。
短い問いではあったが、それは間違いなく詰問と言える口調だった。
ただし、それほど厳しく問い詰められた張機の方も同じくらい厳しい顔で首を横に振った。
「駄目だ。玉梅の熱、全然下がらないって。むしろ高くなってるらしい」
張機は玉梅の寝ているであろう部屋の方を向き、祈るように目を伏せた。
張羨もそちらを向き、こちらは病魔を呪い殺さんばかりに睨みつけた。
玉梅の体調に変化があったのは四日ほど前だ。頭痛や喉の痛みなどが現れた。
よくある風邪の症状ではあったが、その時点で宴会に来た親族の幾人かが体調不良になっていた。
だから蔡幹は油断せず、その日のうちにすぐ医師に診せることにした。
「伯先生にかかってるんだろ?薬が効いてないのか?」
伯先生とは本名を張伯祖という医師で、張機や張羨とは遠戚でもある。
言ってみれば一族の名医であり、この辺りでは何かあればすぐ『伯先生のところへ』と言われるような存在だった。張機と張羨も幼い頃から世話になっていて、顔見知りでもある。
玉梅は発症初日からその治療を受けているのだが、経過は芳しくない。
張機は許婚ということで状況を毎日聞きに来ているのだが、今のところ悪くなったという話しか聞けていないのだ。
感染予防ということで会うことも許されていない。
「うーん……実はその伯先生のことで少し揉めてるみたいで……」
「伯先生で?揉めてる?」
張羨がそう聞き返したところで、屋敷の方から大きな声が上がった。
「だから!あんなのに任せてはいけませんって!」
見ると、その張伯祖が玉梅の父である蔡幹と出てきたところだった。
怒鳴るような声を上げているのは張伯祖の方だ。
「あれは治療ではありません!ただ妄想を押し付けているだけですよ!」
蔡幹はその剣幕に少し肩をすくめながらも、きちんと目を見て反論した。
「しかし、それで実際に良くなった人もいるわけですし……」
「そういうたまたまだってあります!」
「伯先生……現にこの四日で玉梅は悪くなっています。先生の薬を飲んでも、です」
その言葉に張伯祖は一瞬言葉を詰まらせた。
「……っ……それは、そういう経過をたどる病気というだけで」
「伯先生のおっしゃる経過では完治にあと何日かかります?」
「私の見立てでは、あと十日ほどは高熱が続き……」
「十日!?玉梅の熱は当てた手が焼けるような高熱ですよ!?伯先生の治療では死ぬと言われているようなものです!」
「いや、そこを薬で……」
蔡幹は腕を大きく振り払って拒絶を示した。
「とにかく!……私は四日様子を見て駄目なら他の手立てを試すと決めていたのです。私も様々な学問をかじった人間ですからね、物事は実証的に検討すべきだと理解しているつもりです」
(……この男は自分なりの理に基づいて選択している)
それが分かった張伯祖はまだ眉を怒らせながらも、無駄な説得を諦めて押し黙った。
そして大きく鼻息を吐いてから頭を下げ、無言で門をくぐって出ていく。
そこで門のそばにいた張機と張羨に気がついた。
張伯祖は二人を見ると、険しい顔のまま顎をしゃくって道の向こうを指した。
「ちょうどいい。二人ともちょっと来なさい」
そう言って大股で歩いていく。
張機と張羨は顔を見合わせてから、黙って言われた通りついて行った。
張伯祖はしばらく歩いた先の土手を降り、川ほとりの大きな岩に腰掛けた。
何年か前、張機と張羨、玉梅の三人で馬鹿でかい鯉を上げた場所だった。
そのそばにある岩に二人を座らせ、ため息を吐いた。
「……張機はもう聞いているかな?私がお払い箱になったことを」
張機はなんと言ってよいものやら分からず、無言で首を縦に振った。
張伯祖はまたため息を重ねる。
「私の治療は中断され、洛陽から来た祈祷師が引き継ぐことになった」
「祈祷師だって!?」
張羨はその単語に身を乗り出した。
この少年の頭はごく現実的に出来ており、そういった類の人間を信用していない。
ただこの時代は自然科学というものが概念として存在していたとは言い難い時代だ。
人々の認識の中で、祈祷師の祈りと物理法則との境ははっきりしていないだろう。少なくともそういう人間が多かったはずだ。
だから張機の方は張羨のように激しい反応は見せなかった。
「張羨は聞いたことない?ほら、于双っていう祈祷師が病気を治して回ってるって」
「于双?……いや、初耳だな」
「うちの叔父さんもその祈祷と禊で良くなったって話だけど」
それを聞いた張伯祖は張機のことをキッと睨んだ。
「張機。お前の叔父さんはただの風邪で、放っておいてもすぐ治っていたはずだ。玉梅の病とは違う」
「そ、そうですか」
「そもそも彼は桃を食べていないと言う話じゃないか」
桃を感染源と特定したのは張伯祖だ。患者たちの話を聞き、さらに桃を切った料理人がいの一番に発症したことからそう推察した。
そこからまだ未発症の出席者に注意喚起して回ったあたり、親切で腕の良い医師と言えるだろう。
「……とはいえ、結局はそういう身近な人間の話の方が患者にとっては信憑性が高いのも事実だ」
張伯祖は目つきを緩め、疲れたような息を吐いた。
これは現代の医療現場においてもままある問題で、患者にいくら科学データを提示しても、
『でも親戚からこう聞いたよ』
『近所の人がこう言っていたから』
という返事をされることは多い。
もちろん治療において患者の納得というのはとても大切なことではあるが、それによる健康上の不利益が大きい場合、医療従事者は『悔しい』と思ってしまう。
張伯祖もそういう気持ちで先ほど怒鳴っていたのだが、今は脱力して己の無力さを嘆いた。
「いくら患者自身やその家族の選択とはいえ、救える命を救えないのは辛い」
医師の口から出た『命』という単語に、張機と張羨の心臓は大きく跳ね上がった。
「ええっ!?そ、そんなに危ないんですか!?」
「玉梅が、死ぬ!?」
張機にとっては大好きな許婚で、張羨にとっては大切な幼馴染だ。初めて会ったあの日からずっと一緒だった。
その一人が欠けるということは、己の一部が欠けてしまうのと同じだ。
張伯祖は軽率な言葉を使ってしまったことを反省し、両手を前に出して二人を落ち着かせようとした。
「すまんすまん、別に玉梅が絶対に死ぬと言っているわけではない」
しかし、そう言われても二人はまだ安心できない。
張羨は思わず張伯祖の袖を掴んだ。
「絶対って……死ぬ可能性もあるんですか?」
「それはまぁ、私の見立てではそういう転帰をたどることもよくある病だ」
「そんな……」
「特に玉梅は服薬を完全にやめてしまうからな。治療しなければ当然その可能性は上がる」
治療しなければ、ということだが治療は于双という祈祷師が引き継いでいる。
それで張羨は張機の方を向いた。
「その于双ってやつはどんな治療をするんだ?」
「僕も詳しくは知らないけど、身を清めたり、呪符を溶かした湯を飲んだりするって聞いたよ」
「つまり……体を洗ったり、呪いのかかった湯を飲んだり?」
「そうみたい。何でも泰山の聖水を使ってるとかで、かなり銭がかかるって話だったけど」
泰山とは道教の聖地である五岳の一つだ。この時代にも信仰の対象となっており、かの始皇帝や前漢の武帝もここで封禅の儀という儀式を執り行っている。
ここ南陽郡からは結構な距離があるので、その水を汲んで来てということを考えると高額になってもおかしくはない。
それなりに霊験あらたかな話ではあったが、張羨からすると怪しげにしか感じられなかった。
「それ……本当に効くのか?」
張羨は胡散臭げに眉をひそめ、張伯祖は額を押さえて頭を振った。
「効くわけがない。特に禊は冷たい水に浸かるという話だから、むしろ体力を奪って逆効果だ」
「そんな……それじゃ、どうしたら……」
張伯祖は絶望的な声を上げる張羨の肩に手を乗せた。
「私がお前たちをここに連れ出したのは、治療というものへの正しい認識を教えたかったからだ。世の中には祈りや清めで病を治そうとする人間が多いが、あんなものは治療ではない。神霊的なものに頼らない、実証的に検討された手法だけが治療と言えるのだ」
ゆっくりと言い聞かせるような言葉に対し、張機が遠慮がちに反論した。
「あの……さっき先生は実証的にとかって話されてましたけど……」
蔡幹は張伯祖の治療を三日試し、それをもって実証実験とした上で、悪化したから祈祷師を選択したと言っていた。
学問をやっている男だけあって、これはこれで理屈は通っている。
しかし張伯祖からすると穴だらけの理屈でしかない。
それをあらかじめ説明しておかなかった自分が悔しくて、少年二人を掴まえているという所もあった。
「玉梅の病はある種の傷寒(発熱性の疾患)だが、これにかかると初めの二、三日で徐々に熱が上がる。そして酷い高熱になった後、それが十日あまり続き、治る場合にはそこから徐々に熱が下がる。つまり薬を飲んでも四日目の今日にかけて熱が上がるのは当たり前なのだ」
張伯祖が見立てている病気は、現代医学で言うところの腸チフスだ。主にサルモネラ菌に汚染された食料を食べることで感染する。
日本のような先進国(と言ってよいかすでに微妙だが)では患者数が少ないものの、現在でも毎年いくらかの報告はある。
腸チフスという名前や経口感染から食中毒のような嘔吐下痢を想像するかもしれないが、初期はどちらかというとインフルエンザに近い。
発熱、頭痛、関節痛、咽頭炎、便秘、食欲不振、腹痛などが起こり、その後高熱が長く続く。
「もし玉梅の経過が私の言ったようになったら、お前たちは祈祷師などではなく医師を頼るようにして欲しい。そして出来れば大人たちにその話をして欲しい」
張伯祖が望んでいるのは、要はそういうことだ。
子供二人に正しい認識を持ってもらい、そこから大人たちの認識にも影響を与えたいと考えている。
二人ともそれは了解したものの、張羨の方はまた張伯祖の袖を強く引いた。
「でも伯先生、それって玉梅が治った後の話ですよね?それじゃ玉梅はちゃんとした治療を受けられませんし……っていうかさっきも言ってましたけど、下手したら死ぬんですよね?」
「医師として、玉梅が絶対に助かると断言はできん。仮にこの病の患者が十人いたとして、一人も死なないということはない。そういう危険な病なのだ」
腸チフスは栄養状態の良い現代でも、未治療なら十数パーセントが死亡すると言われている。
この時代には抗生剤もないのだから、間違いなく危険な病と言えるだろう。
「蔡幹殿にあらかじめ予期される経過を話しておけばよかったのだが、例の宴会からこの患者が増えて忙しくてな……しかし今さら何を言っても負け惜しみにしか聞こえまい。信じてはくれないだろう」
張伯祖は力なくうつむいたが、張羨は力いっぱい奥歯を噛んだ。
ギリッという音をさせてから立ち上がる。
「俺、先生を説得してきます」
「説得?もちろんそうしてもらえると助かるが……子供のお前たちでは難しいと思うぞ?」
「でも、やらなきゃ玉梅が危ないんですから」
張羨はまだ座ったままの張機を掴んで立ち上がらせた。
「ほら、行くぞ」
「あ、ああ……」
呆然としていた張機も張羨に引っ張られて走り出す。
張伯祖は少年たちの背中に忠告を投げた。
「人を説得する時には、よく言葉を選ぶんだぞ」
忠告とは多くの場合、己が上手くできなかったことへの自省でもある。
この忠告も張伯祖自身の自省だったのだが、己に出来なかったことを他人にやれと言ってもなかなか難しい。
張羨たちの説得は結局、蔡幹をより頑なにさせただけだった。
張機は屋敷を出るなり、門のそばで待っていた張羨に詰問された。
短い問いではあったが、それは間違いなく詰問と言える口調だった。
ただし、それほど厳しく問い詰められた張機の方も同じくらい厳しい顔で首を横に振った。
「駄目だ。玉梅の熱、全然下がらないって。むしろ高くなってるらしい」
張機は玉梅の寝ているであろう部屋の方を向き、祈るように目を伏せた。
張羨もそちらを向き、こちらは病魔を呪い殺さんばかりに睨みつけた。
玉梅の体調に変化があったのは四日ほど前だ。頭痛や喉の痛みなどが現れた。
よくある風邪の症状ではあったが、その時点で宴会に来た親族の幾人かが体調不良になっていた。
だから蔡幹は油断せず、その日のうちにすぐ医師に診せることにした。
「伯先生にかかってるんだろ?薬が効いてないのか?」
伯先生とは本名を張伯祖という医師で、張機や張羨とは遠戚でもある。
言ってみれば一族の名医であり、この辺りでは何かあればすぐ『伯先生のところへ』と言われるような存在だった。張機と張羨も幼い頃から世話になっていて、顔見知りでもある。
玉梅は発症初日からその治療を受けているのだが、経過は芳しくない。
張機は許婚ということで状況を毎日聞きに来ているのだが、今のところ悪くなったという話しか聞けていないのだ。
感染予防ということで会うことも許されていない。
「うーん……実はその伯先生のことで少し揉めてるみたいで……」
「伯先生で?揉めてる?」
張羨がそう聞き返したところで、屋敷の方から大きな声が上がった。
「だから!あんなのに任せてはいけませんって!」
見ると、その張伯祖が玉梅の父である蔡幹と出てきたところだった。
怒鳴るような声を上げているのは張伯祖の方だ。
「あれは治療ではありません!ただ妄想を押し付けているだけですよ!」
蔡幹はその剣幕に少し肩をすくめながらも、きちんと目を見て反論した。
「しかし、それで実際に良くなった人もいるわけですし……」
「そういうたまたまだってあります!」
「伯先生……現にこの四日で玉梅は悪くなっています。先生の薬を飲んでも、です」
その言葉に張伯祖は一瞬言葉を詰まらせた。
「……っ……それは、そういう経過をたどる病気というだけで」
「伯先生のおっしゃる経過では完治にあと何日かかります?」
「私の見立てでは、あと十日ほどは高熱が続き……」
「十日!?玉梅の熱は当てた手が焼けるような高熱ですよ!?伯先生の治療では死ぬと言われているようなものです!」
「いや、そこを薬で……」
蔡幹は腕を大きく振り払って拒絶を示した。
「とにかく!……私は四日様子を見て駄目なら他の手立てを試すと決めていたのです。私も様々な学問をかじった人間ですからね、物事は実証的に検討すべきだと理解しているつもりです」
(……この男は自分なりの理に基づいて選択している)
それが分かった張伯祖はまだ眉を怒らせながらも、無駄な説得を諦めて押し黙った。
そして大きく鼻息を吐いてから頭を下げ、無言で門をくぐって出ていく。
そこで門のそばにいた張機と張羨に気がついた。
張伯祖は二人を見ると、険しい顔のまま顎をしゃくって道の向こうを指した。
「ちょうどいい。二人ともちょっと来なさい」
そう言って大股で歩いていく。
張機と張羨は顔を見合わせてから、黙って言われた通りついて行った。
張伯祖はしばらく歩いた先の土手を降り、川ほとりの大きな岩に腰掛けた。
何年か前、張機と張羨、玉梅の三人で馬鹿でかい鯉を上げた場所だった。
そのそばにある岩に二人を座らせ、ため息を吐いた。
「……張機はもう聞いているかな?私がお払い箱になったことを」
張機はなんと言ってよいものやら分からず、無言で首を縦に振った。
張伯祖はまたため息を重ねる。
「私の治療は中断され、洛陽から来た祈祷師が引き継ぐことになった」
「祈祷師だって!?」
張羨はその単語に身を乗り出した。
この少年の頭はごく現実的に出来ており、そういった類の人間を信用していない。
ただこの時代は自然科学というものが概念として存在していたとは言い難い時代だ。
人々の認識の中で、祈祷師の祈りと物理法則との境ははっきりしていないだろう。少なくともそういう人間が多かったはずだ。
だから張機の方は張羨のように激しい反応は見せなかった。
「張羨は聞いたことない?ほら、于双っていう祈祷師が病気を治して回ってるって」
「于双?……いや、初耳だな」
「うちの叔父さんもその祈祷と禊で良くなったって話だけど」
それを聞いた張伯祖は張機のことをキッと睨んだ。
「張機。お前の叔父さんはただの風邪で、放っておいてもすぐ治っていたはずだ。玉梅の病とは違う」
「そ、そうですか」
「そもそも彼は桃を食べていないと言う話じゃないか」
桃を感染源と特定したのは張伯祖だ。患者たちの話を聞き、さらに桃を切った料理人がいの一番に発症したことからそう推察した。
そこからまだ未発症の出席者に注意喚起して回ったあたり、親切で腕の良い医師と言えるだろう。
「……とはいえ、結局はそういう身近な人間の話の方が患者にとっては信憑性が高いのも事実だ」
張伯祖は目つきを緩め、疲れたような息を吐いた。
これは現代の医療現場においてもままある問題で、患者にいくら科学データを提示しても、
『でも親戚からこう聞いたよ』
『近所の人がこう言っていたから』
という返事をされることは多い。
もちろん治療において患者の納得というのはとても大切なことではあるが、それによる健康上の不利益が大きい場合、医療従事者は『悔しい』と思ってしまう。
張伯祖もそういう気持ちで先ほど怒鳴っていたのだが、今は脱力して己の無力さを嘆いた。
「いくら患者自身やその家族の選択とはいえ、救える命を救えないのは辛い」
医師の口から出た『命』という単語に、張機と張羨の心臓は大きく跳ね上がった。
「ええっ!?そ、そんなに危ないんですか!?」
「玉梅が、死ぬ!?」
張機にとっては大好きな許婚で、張羨にとっては大切な幼馴染だ。初めて会ったあの日からずっと一緒だった。
その一人が欠けるということは、己の一部が欠けてしまうのと同じだ。
張伯祖は軽率な言葉を使ってしまったことを反省し、両手を前に出して二人を落ち着かせようとした。
「すまんすまん、別に玉梅が絶対に死ぬと言っているわけではない」
しかし、そう言われても二人はまだ安心できない。
張羨は思わず張伯祖の袖を掴んだ。
「絶対って……死ぬ可能性もあるんですか?」
「それはまぁ、私の見立てではそういう転帰をたどることもよくある病だ」
「そんな……」
「特に玉梅は服薬を完全にやめてしまうからな。治療しなければ当然その可能性は上がる」
治療しなければ、ということだが治療は于双という祈祷師が引き継いでいる。
それで張羨は張機の方を向いた。
「その于双ってやつはどんな治療をするんだ?」
「僕も詳しくは知らないけど、身を清めたり、呪符を溶かした湯を飲んだりするって聞いたよ」
「つまり……体を洗ったり、呪いのかかった湯を飲んだり?」
「そうみたい。何でも泰山の聖水を使ってるとかで、かなり銭がかかるって話だったけど」
泰山とは道教の聖地である五岳の一つだ。この時代にも信仰の対象となっており、かの始皇帝や前漢の武帝もここで封禅の儀という儀式を執り行っている。
ここ南陽郡からは結構な距離があるので、その水を汲んで来てということを考えると高額になってもおかしくはない。
それなりに霊験あらたかな話ではあったが、張羨からすると怪しげにしか感じられなかった。
「それ……本当に効くのか?」
張羨は胡散臭げに眉をひそめ、張伯祖は額を押さえて頭を振った。
「効くわけがない。特に禊は冷たい水に浸かるという話だから、むしろ体力を奪って逆効果だ」
「そんな……それじゃ、どうしたら……」
張伯祖は絶望的な声を上げる張羨の肩に手を乗せた。
「私がお前たちをここに連れ出したのは、治療というものへの正しい認識を教えたかったからだ。世の中には祈りや清めで病を治そうとする人間が多いが、あんなものは治療ではない。神霊的なものに頼らない、実証的に検討された手法だけが治療と言えるのだ」
ゆっくりと言い聞かせるような言葉に対し、張機が遠慮がちに反論した。
「あの……さっき先生は実証的にとかって話されてましたけど……」
蔡幹は張伯祖の治療を三日試し、それをもって実証実験とした上で、悪化したから祈祷師を選択したと言っていた。
学問をやっている男だけあって、これはこれで理屈は通っている。
しかし張伯祖からすると穴だらけの理屈でしかない。
それをあらかじめ説明しておかなかった自分が悔しくて、少年二人を掴まえているという所もあった。
「玉梅の病はある種の傷寒(発熱性の疾患)だが、これにかかると初めの二、三日で徐々に熱が上がる。そして酷い高熱になった後、それが十日あまり続き、治る場合にはそこから徐々に熱が下がる。つまり薬を飲んでも四日目の今日にかけて熱が上がるのは当たり前なのだ」
張伯祖が見立てている病気は、現代医学で言うところの腸チフスだ。主にサルモネラ菌に汚染された食料を食べることで感染する。
日本のような先進国(と言ってよいかすでに微妙だが)では患者数が少ないものの、現在でも毎年いくらかの報告はある。
腸チフスという名前や経口感染から食中毒のような嘔吐下痢を想像するかもしれないが、初期はどちらかというとインフルエンザに近い。
発熱、頭痛、関節痛、咽頭炎、便秘、食欲不振、腹痛などが起こり、その後高熱が長く続く。
「もし玉梅の経過が私の言ったようになったら、お前たちは祈祷師などではなく医師を頼るようにして欲しい。そして出来れば大人たちにその話をして欲しい」
張伯祖が望んでいるのは、要はそういうことだ。
子供二人に正しい認識を持ってもらい、そこから大人たちの認識にも影響を与えたいと考えている。
二人ともそれは了解したものの、張羨の方はまた張伯祖の袖を強く引いた。
「でも伯先生、それって玉梅が治った後の話ですよね?それじゃ玉梅はちゃんとした治療を受けられませんし……っていうかさっきも言ってましたけど、下手したら死ぬんですよね?」
「医師として、玉梅が絶対に助かると断言はできん。仮にこの病の患者が十人いたとして、一人も死なないということはない。そういう危険な病なのだ」
腸チフスは栄養状態の良い現代でも、未治療なら十数パーセントが死亡すると言われている。
この時代には抗生剤もないのだから、間違いなく危険な病と言えるだろう。
「蔡幹殿にあらかじめ予期される経過を話しておけばよかったのだが、例の宴会からこの患者が増えて忙しくてな……しかし今さら何を言っても負け惜しみにしか聞こえまい。信じてはくれないだろう」
張伯祖は力なくうつむいたが、張羨は力いっぱい奥歯を噛んだ。
ギリッという音をさせてから立ち上がる。
「俺、先生を説得してきます」
「説得?もちろんそうしてもらえると助かるが……子供のお前たちでは難しいと思うぞ?」
「でも、やらなきゃ玉梅が危ないんですから」
張羨はまだ座ったままの張機を掴んで立ち上がらせた。
「ほら、行くぞ」
「あ、ああ……」
呆然としていた張機も張羨に引っ張られて走り出す。
張伯祖は少年たちの背中に忠告を投げた。
「人を説得する時には、よく言葉を選ぶんだぞ」
忠告とは多くの場合、己が上手くできなかったことへの自省でもある。
この忠告も張伯祖自身の自省だったのだが、己に出来なかったことを他人にやれと言ってもなかなか難しい。
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