三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地~ 家族愛の三国志大河

墨笑

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短編・中編や他の人物を中心にした物語

怪盗と女傑 魅音の場合

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(思えばあの玲綺レイキという女に出会ったのがケチのつき始めだ)

 解登カイトウはこの世で最も憎く、最も恐ろしい女の姿を思い浮かべ、木の枝を蹴り折った。

 多少のウサ晴らしになるかと思ってそうしたのだが、そんなことは全くなかった上に、無駄な体力を使ってしまった。

 もちろん平時であればそれで失った体力くらいなんでもないわけだが、今は生死を分けるかも知れない状況にある。

 解登は山で遭難していた。

「くそっ……そもそも遭難だって、あの冷酷女のせいだ」

 自分でも本気でそう思っているわけではないが、思い込もうとするためにあえて口に出した。そうでもしなければやっていられない。

 そもそもの原因は解登が玲綺との契約を反故にしたことなのだが、その罰として解登は契約期間を延長させられた。

 つまり一行が曹操の支配地を抜けても引き続き旅に同行させられたのだ。揚州を南下し、交州に入る所まで働かされることになった。

 と言っても揚州は孫権の勢力圏な上に異民族の地も多いから、曹操の仇敵一家だからといってさして危険が増すわけでもない。何かあった時の保険のようなものだ。

 そして無事に交州に入れたので解登は開放されたのだが、すぐ北へ帰るのももったいない気がしてきた。

 国を縦断するほどの長旅をしてここまで来たのだ。元々あちこちを回っていた身だし、南の土地を見たいと思った。

(せっかくだし、交州の治所である交趾郡こうしぐんまで行ってみよう。あそこは南海貿易で異国の文物が豊富と聞く。まだ見ぬ宝が怪盗 龍を待っていることだろう)

 異文化の価値を理解する解登はそんなことを考えた。

 それで交趾郡のある西へと向かうことにしたのだが、実は玲綺たちの目的地もその交趾郡なのだ。

 契約から開放されてまで、冷酷女に恐怖しながら旅したくはない。

 解登は師匠の餞別である銀の匙を握りしめ、玲綺たちとは別の道へと歩を進めた。遠回りにはなるが、あえてそうしたのだ。

 が、その道は遠回りになるだけでなく、入り組んでいて非常に分かりづらいものだった。しかもあまり利用者がいないのか、途中何か所も獣道に近いものになっていた。

 それで気づけば道に迷い、山で遭難してしまったのだった。

「腹が減った……」

 解登はあるせいぬ師匠に拾われる前、孤児になった時のことを思い出していた。師匠に会ってからは飢えることもなかったので、久しぶりの感覚だ。

 荷の中には結構な量の貴金属や玉などがあり、人里に行けさえすればいくらでも食料を買える。しかし山中ではただの重りでしかない。

 もはや荷を捨てて身軽になった方がいいかと悩み始めた時、解登の耳に鳥の羽音が飛び込んできた。

 それも一羽ではなく、たくさんだ。群れがいるのかもしれない。

(鴨の羽音に聞こえたが……)

 解登は反射的に足元の石を掴んだ。

 投石で鳥が獲れるかというと、かなり難しいだろう。

 しかし今は藁にもすがって生き延びねばならない。

(もし水鳥の群れなら近くに川か池があるはずだ)

 そう考えながら草をかき分けて走ると、思った通り池があった。

 しかし、鳥の群れはすでに飛び立っていて空高くにいる。

(くそっ!遅かったか……ん?あれは……)

 鴨の群れはいなかったが、池の上に鴨は浮いていた。しかも四羽も。

 その四羽とも、体には矢が刺さっていた。

「あー、池のど真ん中に落ちちゃったかー」

 その声のした方を見ると、池の向こうに若い娘がいた。

 まだ十代半ばの娘で、猫っ毛が見る者にあどけない印象を与える。

 その娘が片手に弓を持ち、もう片手で目の上にひさしを作って鴨を眺めていた。

(人だ!!)

 しかも喉から手が出るほどに欲しかった食料も池に浮いている。

 解登は歓喜に胸を躍らせ、頭上で腕を振った。大声で呼びかける。

「君!!そこの君!!」

 娘は反射的に弓を構えたが、その警戒もすぐに解いた。

 解登が満面の笑みで走ってくるものだから、害意のある人間ではないと判断したのだろう。

「君はこの辺りの人かな?狩りをしていたのか」

 解登に問われた娘は念のため矢をつがえたまま答えた。

「この辺りの人間じゃないけど、近くの村にしばらく泊まらせてもらってるの。おじさんは?」

「私は山で迷ってたんだ。人に会えて本当に良かったよ」

「あ、そうなんだ。実は私たちも少し前にこの山で迷ってて、今お世話になってる村の子に助けてもらったんだ。この辺の道、分かりにく過ぎだよね」

 解登は娘の言うことに嬉しくなった。

 人は苦しい時、その苦しみに共感してもらえると嬉しくなる。それにこの娘も遭難していたというなら、助けるのはやぶさかでないだろう。

「君の言うとおりだ。道なのかどうなのか微妙な所が多いし、それが変に曲がりくねっているし」

「そうそう、それに交州の山って北とは植生がかなり違うから混乱しちゃうんだよね。私たち山には慣れてるんだけど、逆にそれで迷っちゃったんだ」

 この娘も自分と同じように北から来たらしい。それも解登に親近感を湧かせた。

 そしてその気持ちのまま娘に頼み込んだ。

「すまないが、食料が底をついてしまっているんだ。あの鴨を一羽分けてくれないだろうか。もちろん支払いはする」

 魅音は解登の顔を見て、それから池の真ん中の鴨へと目を向けた。

 それから曖昧にうなずく。

「それはもちろんいいんだけど……かなり泳がないと取れないところに落ちちゃった……」

 と、娘はそこでふと思い立って手を打った。

「そうだ!おじさんあの鴨取ってきてくれない?それが支払いってことでいいから」

 その提案に、解登の顔はギクリと固まった。

 それは少し前までなら何のことはない提案だった。解登は泳げるし、それができないほど消耗もしていない。

 しかし今はあの冷酷女のせいで水というものがひどく恐ろしくなっている。

 水は飲めるが、湯浴みするのは無理だった。体が勝手に震えてしまうのだ。

 旅の間は気の毒に思った魏夫人と龐舒が湯に浸けた布を持ってきてくれて、それで体を拭いていた。

 娘は突然恐怖に染まった解登の顔に驚き、それから気遣いの滲んだ声をかけてきた。

「ごめんなさい、泳げなかった?無理はしなくていいよ。じゃあ私が……」

「いいや!!大丈夫だ!!」

 解登は過剰なほど大きな声で娘の言葉を遮った。

 恐ろしい。本心ではとても恐ろしい。

 しかし、だからといっていつまでも水を怖がっているわけにもいかないだろう。すでに生活に支障をきたしているのだ。

 それにこのまま水を避け続けるのは、冷酷女への負けを意味するのではないだろうか。

「師匠……あるせいぬ師匠……私は負けません」

 つぶやきつつ、池の畔に立った。

 それから勢いをつけて服を脱ぎ、下帯一枚になる。その勢いのまま、片足を水に浸けた。

 途端に全身が震えだす。随意筋であるはずの骨格筋たちが無意識に痙攣し、歯までガチガチと鳴った。

 明らかに水の冷たさだけで生じる震えではない。

 さすがに見かねた娘が再び気遣わしげに声をかけてきた。

「あのさ、本当に無理しなくていいんだよ?そこまでしてもらわなくても……」

「だっ、大丈夫と言ったら大丈夫だ!!怪盗 龍が水なんぞに負けるわけにはいかない!!」

 解登は叫び、その声で自分を鼓舞しながら水の中に駆け入った。

 水しぶきが上がり、顔にそれがかかる。一瞬だけ気の遠くなるような思いがしたが、また叫び声を上げることで己を取り戻した。

「……ぅうおおおおお!!私は華麗なる怪盗!!怪盗 龍だああああ!!水などにっ、あの冷酷女などに負けてたまるかああああ!!」

 解登は足をバタつかせ、両腕を必死に回しながら泳いだ。

 運動量以上に鼓動が早く打ち、全身がひどく疲弊する。とても苦しかったが、師匠の顔を思い浮かべて己を励ました。

「師匠……あるせいぬ師匠……私に力を……」

 そんなことをつぶやきつつ、見事に鴨までたどり着いた。そして四匹ともしっかり掴み、岸まで戻って来ることができた。

「ハァ……ハァ……ハァ……やった……やったぞ……私はついに、水を克服した!!」

 歓喜のあまり、全身を伸び上がらせて両腕で天を衝いた。

 そんな解登へ、娘が控えめな拍手を送ってくれた。

「おー、よく分かんないけどおめでとうー」

 賛辞でようやく我に返った解登は、急に恥ずかしくなって頭をかいた。

「あ、ああ……ありがとう。みっともないところを見せてしまったね」

「ううん。っていうか、おじさん怪盗 龍なんだね。私も噂は聞いたことがあったけど」

 解登はその時になって初めて自分が怪盗 龍の名を連発していたことに気がついた。

 慌てて訂正する。

「い……いや、違う。私の名は解登と言うんだが、それがそのように聞こえたのだろう」

「でも『龍』って何度も連呼しちゃってたけど」

 解登は言葉に詰まりかけたが、もう勢いでなかったことにしてしまおうと決めた。

「……き、聞き間違いだ。そ、それより君の名は?一緒に狩りをしてる他の人はどこにいるのかな?」

 娘はほんの短い時間だけ解登の顔をじっと見ていたが、別に怪盗 龍だと確定すべき理由もないのでこれ以上問い詰めないことにした。

魅音ミオンだよ。狩りには一人で来たから、私だけだけど」

「……なに?」

 解登は魅音の言うことに眉をひそめた。

 娘一人で狩りをしていることだけでなく、射られた鴨の数に関してだ。

「鴨は四羽仕留められているが……群れが飛び去る前に四射したというのか?君が?」

 だとしたら神技といえるほどの腕前だ。

 魅音はどこにでもいそうな十代半ばの娘に見える。それが神技めいた弓術を身に着けているとは、にわかに信じ難かった。

 そして解登の思った通り、魅音は首を横に振って否定した。

「いや、二射しかしてないよ。まだ水面にいるのを射って、それから飛び立ってすぐのところを射ったの」

 それなら可能だろう。

 が、それでは計算が合わないのだ。

「鴨が四羽で、矢が二射で……」

「こうやって射ったんだよ」

 魅音は矢を二本指に挟み、二本とも同時に弓につがえた。

 そしてそのまま引き絞る。

 解登はそれを見て笑ってしまった。二本射ちなどあまりに現実離れしている。

(なんだ、まぐれか)

 そう認識したが、魅音の方はごく真面目な顔をして狙いをグルリを回した。

「最近これの練習してるんだ。もちろん威力も精度も落ちるから使い所が難しいけど……あ」

 と、矢尻の先がピタリと止まった。

 その直後に弦が鳴り、矢が放たれる。二本の矢は解登の視界を一瞬で横切って茂みの中へ飛び込んだ。

 それから魅音は矢を追ってその茂みに入り、何かゴソゴソと漁り始めた。

 解登は訝しげにそれを見ていたが、魅音が両手を上げるとその目は驚きで見開かれた。

「ほら、こういう風に便利な時もあるんだよ」

 猫のように目を細めた魅音の両手には、丸々と太った兎が一羽ずつぶら下がっていた。


***************


(こんなに近くに村があったのか)

 解登は魅音の背の向こうに見える集落を見て、遭難というものの本質と恐ろしさを知った。

 実は遭難している時、この近くを何度か通ったのだ。

 しかし視界に入らなければ無いのと同じだ。

 解登は自分が人里離れた山深い場所にいると思い、助けを求める声を上げることもしなかった。

(詰まるところ、認識の問題だな。それ次第で人里のすぐそばでも遭難しうる。油断してはならないということだ)

 特に慣れない場所ではそうだろう。

 解登はこれから交州を歩くにあたり、十分な備えをしようと心に決めた。

「あの家だよ。私たち三人、あそこの家の離れに寝泊まりさせてもらってるんだ」

 魅音は村のはずれにある家を指さした。その家は他に比べて大きく、門構えも立派で敷地も広い。

 とはいえ数々の富豪を相手にしてきた解登からすると、大したことはないのだが。

「この村の村長の家かな?」

 田舎の村長らしい家だと思い、そう尋ねた。

「そうだよ。村長さんの孫娘ちゃんが山で迷ってた私たちを助けてくれたんだ。それでそのままお世話になってるの」

 その流れだと、解登もおそらく村長宅に泊まらせてもらえるのだろう。

(ボロ家ではないから、助かるのは助かるな)

 二人が村長の家まで来ると、庭で遊んでいた女の子がこちらに気づいて駆けてきた。この子が魅音たちを助けてくれた村長の孫娘だ。

 まだ十にもならない少女で、幼い明るさを顔中にあふれさせて魅音に抱きついてきた。

「お姉ちゃんお帰りなさい!!今日もたくさん獲って来てくれたんだね!!」

「ただいま。今日は鴨が四羽に兎が二羽だよ」

「すごい!!食べ物もお金もたくさん貯まったし、これならもうお母さんは死ななくて済むよね!!」

「……死ななくて済む?」

 解登は突然出た不吉な単語を思わず繰り返した。

 まだあどけない少女の口から死ぬ死なないとは、ただ事でない。

 驚く解登へ、魅音が事情を説明してくれた。

「あのね、この子のお母さんが人身御供ひとみごくうになるところだったの」

「人身御供?人間の生贄か」

「うん。私たちがこの村に初めて来た時、ひどい嵐のせいで村の田んぼとか畑とかがほとんど駄目になっちゃってて。それで神様に人身御供を捧げてなんとかしてもらおうとしてたらしいの」

「なっ、なんだその馬鹿げた話は!?」

 解登は声を荒げて怒った。

 当たり前だが、人を殺して神に祈ったところで何か解決するはずもない。

 不合理にもほどがある話で、しかもそれが人の死にまで関わっているのだ。自分に関係のないこととはいえ、ひどく腹が立った。

 魅音も初めにその話を聞いた時、同じような思いを抱いたから解登の気持ちはよく分かる。

「だよね。ホント馬鹿げた話だと思う。だから私たちはしばらくこの村にいて、村を立て直す手伝いをすることにしたんだ。それが出来たら人身御供は中止してくれるって、村長さんが約束してくれたから」

 そう言う魅音に抱きついていた少女は、胸を張って声を上げた。

「お姉ちゃんはすごいんだよ!雲嵐ウンランお兄ちゃんと一緒に毎日たくさん食べ物を取ってきてくれるの!それに許安キョアンお兄ちゃんはクワとかスキとか便利な道具をたくさん作って、畑とか作りやすくしてくれるし!」

 まるで自分のことのように自慢げに言ってくる。

 その様子から魅音たちがどれだけ村でありがたがられているかよく分かった。

 それに解登は先ほど魅音の異常な弓の腕前を目の当たりにしている。村を立て直すうんぬんは少々話が大きすぎる気はしたが、かなり貢献はしているのだろうと思った。

「私も山で迷っていたのだが、彼女のように狩りはできない。代わりに金銀の粒をいくらか持っているから、それで少し休ませてもらえないだろうか」

 少女にそんな決定権などないことは当然分かっているが、解登は世話になる者の礼儀としてきちんと頼んだ。

 それにこの少女が魅音たちを助けてくれたから解登も助かったわけなので、ある意味解登の恩人でもある。

 少女は解登に満面の笑みで答えてくれた。

「いいよ!でも出来るだけたくさん払ってね!」

 端から見ればがめついことを言っているようだが、全て母を救うためなのだ。

 そう思うと微笑ましくもあり、人身御供という理不尽に腹立たしくもあり、解登は複雑な感情を抱いた。

 そこへ家の離れの方から声がかかった。

「お帰り、魅音ちゃん。そちらは?」

 魅音は表情をパッと明るくしてそちらを向いた。

「安ちゃん、ただいま。この人は解登さん。私たちみたいに山で迷ってたの」

「それは災難でしたね。僕は許安です。ちょっと色々あって、この村で魅音ちゃんたちと働いています」 

 会釈する許安の両手にはクワがそれぞれ二本ずつ握られている。

 解登は許安の柔和な笑顔に好感を抱きつつ、会釈を返した。

「解登だ。君たちの事情は少しだが今聞いたよ。立派なことだと思う。魅音さんが狩りをして、許安君はそういう農耕器具などを作っているのかな?」

「おっしゃる通りです。狩りで当面の食料を得たり、それを銭に変えて貯めることも大切ですが、やはり生産性自体を上げないといつまでも不安定さが付きまといますからね」

(賢い青年だ)

 そう思いながらも、自身も様々な細工を作る者として気になったことを尋ねた。

「しかし、そもそも貧しい村では原材料を用意するのが難しいだろう。それはどうしたんだ?」

「ああ、それは……」

 と、許安は苦笑してから答えた。

「僕たちの蓄えを切り崩したのと、僕が街の鍛冶屋で手伝いをして鉄製品を分けてもらいました」

「何だって?君たちはそこまでして……」

「でも、鍛冶屋で働いてみるのはすごく楽しかったんですよ。鍛冶の技術も学べましたし、僕自身のためになったのは間違いありません」

 魅音も許安の言うことに大きくうなずいた。

「そうそう、安ちゃんすごく楽しそうだったよね。貯めてたものはほとんど使っちゃったけど、むしろ良かったよ」

 あっけらかんとした魅音の様子に、解登の方が呆れてしまった。

 人身御供を止めるためとはいえ、そうまで他人のために動けるものか。

(要は、本当に心根の優しい子たちなのだな。魏夫人や龐舒君もそうだったが、世の中には善良な人間がいるものだ)

 解登は変装が趣味ということもあり、人と深く接することがあまりなかった。

 だから人という生き物に対し、少し離れたところから冷めた目で見てきたところがある。師匠以外には大切だと思える人間もいない。

 が、少々認識の仕方を改めた方が良いかもしれないと思った。

 少なくとも魏夫人や龐舒、そして目の前の二人は好きになれそうだ。

(この分だと、雲嵐ウンランとかいうもう一人もまた善人かな)

 そんなことを考えていると、その雲嵐がちょうど帰ってきた。

 村道を小走りに駆けてくる。

「お、魅音も帰ってきてたか。二人ともすぐ来てくれ。結構な獲物が獲れたんだけど、俺一人じゃ運べないから置いてきたんだ。他の獣に食べられる前に回収したい」

 許安はクワを置きながら、急ぐふうな雲嵐に尋ねた。

「了解だけど、何がどれくらい獲れたんだ?」

「でかい猪が二頭に、これまたドでかい虎が一頭だ」

「「虎!?」」

 許安と魅音の声が重なった。

 そして勢い込んで尋ねる。

「雲嵐!もしかして虎って、あの……」

「あのすっごい賞金が懸かってた虎!?」

「そうだ、懸賞金付きで手配されてた虎だよ。あちこちで家畜を襲いまくったらしいけど、俺が見つけた時は猪を襲ってるところだった。そこに毒矢を射ち込んで、さらに猪ももらった」

 その報告に、許安と魅音は歓声を上げた。

「さすが雲嵐だ!目がいいし、抜け目ない!」

「さすが兄ちゃん!元山賊なだけある!」

(元山賊?)

 端から見る解登はその言葉に少々引っ掛かりはしたが、どうやら喜ばしい事態らしい。

 猪二頭に虎一頭は大層な収獲だし、その虎には懸賞金まで懸けられているという。

 許安は雲嵐の肩を何度も叩いた。

「やったな!これで村にはかなりの銭が入るし、村長さんも人身御供を完全に諦めてくれるんじゃないか?」

「そのことだけど、実はさっき村の入口で村長さんに会ったんだよ。虎のことを話したら、その約束もしてくれた。人身御供は中止だ」

「えっ!?」

 と、その一言に魅音が驚きの声を上げた。

「あの分からんちんの村長さん、ようやく分かってくれたの!?」

 結構な言いようだが、そんな妹に兄は慣れている。

 ただ慣れているとはいえ、きちんと叱りはした。

「こら、そんな言い方をするもんじゃない。村長さんだって別にやりたくてやろうとしてたんじゃないんだからな。村の会議で人身御供をやることになって、責任感の強い人だから泣く泣く自分の娘を指名したんだ」

 魅音はそう言われても納得などしなかったが、兎にも角にも人身御供が止められたのならそれで良い。

 上機嫌に村長の孫娘の方を向いた。

「良かったね。これでもうお母さんは安心だよ」

 少女はその事実に跳ね上がって喜び、目に涙を浮かべて雲嵐に抱きついた。

「ありがとう!!ありがとうお兄ちゃん!!」

 その頭を優しく撫でる雲嵐の様子に、解登はまた人を一人好きになれそうだと思った。


***************


「あれがこの村の神か……」

 解登はつたに絡まった石製の剣を見上げ、感慨深げにつぶやいた。

 確かに神秘的ではある。

 その石剣があるのは地上からはるか高い場所で、成人男性が縦に二十人並んだよりももっと上になるだろう。

 村は天まで届くような断崖絶壁に接しているのだが、その岩壁から突き出たコブに蔦が伸びている。それが垂れ下がった先に石剣が絡まっているのだ。

 どう考えても登れるような場所ではなく、上から降りてくるのも命が惜しい人間なら絶対にやらないだろう。

 そんな場所に石剣がぶら下がっているのだから、御神体扱いされるのも納得だ。

「大昔に村を救ってくれた英雄の剣らしいよ。今は眠ってるけど、若い女を生贄に捧げたら目覚めてまた村を救ってくれるんだって」

 魅音がそう説明してくれた。二人でその英雄の剣を見上げている。

「ふん、馬鹿馬鹿しい」

 周囲には他に誰もいないこともあり、解登は無遠慮な感想を述べた。

 魅音もそれに同意する。

「私も同じこと言ったんだけどね、兄ちゃんと安ちゃんからそんな風に言っちゃ駄目だって怒られた」

「あの青年たちらしいな。だが、間違いなく馬鹿馬鹿しいだろう。非合理的なものにすがるため、人まで殺してしまうなど」

「兄ちゃんたちもそう思ってるよ。でも人が大切にしてるものは尊重しないといけないんだって」

 魅音からそう言われ、解登は過去のことを思い出した。

 あるせいぬ師匠とこの国を放浪していた頃のことだ。

「昔、私の師匠が宗教組織を一つ潰したことがある」

「え?潰した?」

「そうだ。この村と同じように人身御供をやろうとしていて、しかも教祖が信者からかなり搾取して豪遊しているクズだった」

「最悪だね……」

「ああ、師匠もそう思ったのだろう。だから教祖の隠し持った財宝をことごとく盗んで信者たちにばら撒いた挙げ句、教祖のクズっぷりを暴露して吊し上げた」

「うわぁ、スカッとする話」

「私も胸のすくような思いがしたよ。それでその後、別の村に行った時に私はその村の御神体を盗み出した。師匠に褒められると思ったんだな」

「あー……もしかして、お師匠さん怒った?」

「よく分かったね」

「まぁ、話の流れ的にね」

「私は師匠が宗教というもの自体を憎んでいるのだと思っていたのだが、そうではなかったらしい。人に寄り添い、支えとなって心を救うような宗教はむしろ尊重せねばならないというのが師匠のお考えだった。それに君のお兄さんたちが言うように、人が大切にしてるものは尊重せねばならないともおっしゃっていたな」

「その村の宗教はひどい事してなかったんだ」

「潰した宗教組織とは違って人身御供も搾取もしていなかったし、神官は村人の悩みによく耳を傾けていた。そして、村人たちから大切にされていた」

 解登は今一度、崖の蔦に絡まる石剣を見上げた。

 そして独り言のように、しかし魅音にも向けてつぶやいた。

「……果たしてあの剣は、盗んで師匠に叱られるものだろうか。それとも褒められるものだろうか」

 どう思う?

 そうは言わないが、魅音にも自分が尋ねられていることは分かった。

 人身御供という、多くの人が許容し難いものを引き起こしたのは間違いない。しかしその一方で、村人たちの大切なものであることもまた確かだろう。

 そして今回は人身御供を止められたが、また飢饉でもあれば同じことになるかもしれない。

 魅音には自分なりの意見があったものの、それとは少し違うことを言った。

「お師匠さんに叱られるか褒められるかじゃなくて、解登さんがどうしたいかで決めたらいいんじゃない?」

 そう言われて解登はうつむいた。

 己の胸に向けてそれを尋ねてみて、また少し違うことを思った。

「……私がしたいことと言うが、私の望みは師匠なのだ。私は師匠になりたい。師匠の全てが私の憧れだ。だから師匠ならどうするかで決めたいと思う」

 そんな解登の横顔を見て、魅音は笑った。

「ええ?でも解登さんはお師匠さんにはなれないよ」

「……なんだって?」

 解登は不快と苛立ちを眉間に込め、それを表現してみせた。

 これまでの半生、師匠のような華麗なる怪盗になろうと努力してきたのだ。それを真っ向から否定されればこういう顔もするだろう。

 しかし魅音の方は一向に気にした様子もなく笑い続けている。

「たまにね、『誰それになりたい』って感じの人を見かけるけど、私みたいに自分勝手に生きてる人間からしたらちょっと心配になるんだよね」

「心配?なぜだ?」

「だってさ、存在しない場所に向かって走り続けてるみたいなんだもん。自分以外の他人になることなんて誰にもできないのに、そこを目指して頑張る意味ある?」

「いや、それは……」

「もちろん憧れに近づくために努力するのはいいことだと思うよ?でも結局自分は自分でしかないってことを分からずに頑張り続けちゃうと、やりたくないことをやって苦しんだ挙げ句、最後には絶望することになると思うんだよね」

 好きに生きている魅音からすると、そういう悲しい努力の果てが見えるようで要らぬ心配を抱いてしまうのだ。

(自分はあるせいぬ師匠にはなれない)

 それは解登にとって絶望だった。

 ただその一方で、ずっと分かっていたことでもある。解登はどれだけ努力しても解登でしかなく、そのことが突然脳裏をよぎって叫びそうになったことが何度もあった。

「あるせいぬ師匠……」

 解登は己の胸を掻きむしるように爪を立て、そこに刻まれた師に呼びかけた。

 すると不思議なことに、師の声が聞こえた気がした。解登の記憶にあるに師の声が胸に響き、そこから耳に飛び込んできたのだ。

『いいぞ!君らしくて私は好きだ!』

 その言葉はあるせいぬ師匠がまだ少年だった自分によくかけてくれていたものだった。

 この台詞を言う時の師匠は必ず暖かく笑っていて、解登はその笑顔が何よりも好きだった。

 これは自分に向けられた笑顔だと、そう強く感じられたからだと思う。

 だから解登は寄せられた眉間を緩め、魅音の言葉を受け入れることにした。

「私自身がどうしたいか……」

 あるせいぬ師匠ではなく、自分の望みと価値観で考える。

 その答えは割とすぐに出たのだが、新鮮な思考だったのでつい長く黙考してしまった。

 魅音はそんな解登に関してふと気づいたことがあり、また笑って話しかけた。

「……っていうかさ、盗んだとかなんとか話していいの?解登さん、怪盗 龍だってことを秘密にしたかったんじゃない?」

「いや」

 と解登は短く否定して、魅音に笑い返した。

 どことなく不敵な笑みだった。

「そのことはもう構わないよ。だって君は怪盗 龍の華麗なる助手第一号になるのだからね」


***************


「まったく……怪盗 龍ってやつはどうしようもねぇな」

 村人の一人がぼやいたことを、また別の村人も繰り返した。

「ああ、まったくどうしようもねぇ。なんでこんな田舎の御神体なんか盗みに来るんだよ」

 つい一昨日の朝、怪盗 龍からの予告状が村長の枕元に置いてあったのだ。

 そこにはキザったらしい薔薇の絵とともに、二日後の夜に村の石剣を盗みに来るということが記されていた。

 それで村中の男たちが駆り出され、石剣の下に集まっている。

 今宵は新月だ。松明をいくつか燃やして周囲は明るくしてはいるが、視界は良くない。

 上を向くと、石剣はかなり高いところにあるのでぼんやりしか見えなかった。

「もし本当に御神体が盗まれたら、うちの村はどうなんのかねぇ?」

 初めにぼやいた村人がまたぼやくように言った。

 その心配に表情を暗くする人間もいたが、一人がまったく軽い調子で答えた。

「どうにもなんねぇだろ。この剣は生贄を捧げるまでは眠ってるんだし、盗まれても何も起きねぇよ」

 この神様はそういう神様なのだ。

 ただそう言った男には別の含みもあったらしく、一度鼻を鳴らして言葉を継ぎ足した。

「……まぁ盗まれた後の違いって言ったら、もう生贄を用意しなくていいことくらいじゃないか?」

 当然、そんな風に思う者もいる。人身御供という非道に全員が賛成なわけはない。

 とはいえ普通なら言ってはいけないことなので、

「おい」

とたしなめられはした。

 妙な空気になったので、一人があえて笑ってから頼りになる男たちの方を向いた。

「雲嵐さんに許安さん、二人の弓が頼りだ。よろしく頼むよ」

 雲嵐と許安は頼まれて警備に加わっている。その弓の腕前は村を救ったほどなので、本気で頼りにされていた。

 雲嵐は頭をかきながら村人へ答えた。

「いやぁ……俺たち狩りなら自信ありますけど、人相手は経験ないからどうでしょう」

 真っ赤な嘘だが、雲嵐たちを完璧な善人だと思っている村人は疑いもなくうなずいた。

「猿だと思って射ってもらえればいいんだよ。って言っても、俺は猿も人も射ったことないがね」

 軽い冗談で村人たちが笑った時、その笑い声に混じって不気味な声が聞こえてきた。

 不気味で、不思議な声だ。

 妙に低く、やたらと響く声で、獣の唸り声のようでもあり、妖怪の笑い声のようでもある。

 村人たちは静まり返り、ただその声だけが夜の闇を満たした。

(声が響いてどこから出ているのか分からない……解登さんってすごいんだな)

 雲嵐と許安はそんな風に感心していた。

 二人はすでに怪盗 龍の話を聞いている。そしてこの御神体を盗むという件についても知っている。

 色々と思うところはあったが、自分たちが去った後にまた人身御供が行われないとも限らない。そう思い、目をつむることにした。

 解登の声はどう考えても普通ではなく、特殊な発声法の上に何かしらの道具を使っているのだろうと思えた。

「な、何だこりゃ……」

 一人の村人が声を震わせた時、その背後の崖がぼんやりと光った。

 円形の淡い光の中に、異形の怪物の陰が浮かんでいる。その光が崖の岩壁をゆらりゆらりと舞うように動いた。

 人々はざわめきを上げ、足をすくませてその光を見つめている。誰の顔にも恐怖の色が貼り付いていた。

(もしかして、御神体の祟りか?)

 狙われた御神体が怒っているのかもしれない。

 皆がそんなことを考えたが、その御神体は光のはるか上で怒っても仕方のないような目に遭っていた。

 矢で狙われているのだ。

 石剣を支えるつたにはすでに幾本もの矢が刺さっていて、その数はどんどん増えている。

 村人たちが岩壁の光に気を取られ始めた時からずっと、凄まじい早技で射掛けられていた。

(魅音のやつ、上手くやってるな)

 雲嵐は目だけでこっそりと石剣を見上げた。

 射っているのは魅音だ。飛んでくる矢は全て蔦に命中している。

 蔦は垂れ下がっているから当然当たるたびに揺れるのだが、それにも関わらず百発百中だった。

 しかも魅音のいるはずの場所からは相当な距離がある。

(さすがは魅音ちゃんだ)

 許安もそう感心しているうちに、石剣に繋がった蔦はほとんど切れてしまった。

 支えを失い、自重でゆっくりと傾いていく。そこへとどめの一矢が飛び込み、石剣は完全な自由落下を始めた。

 その段になって雲嵐と許安はようやく上を指さして声を上げた。

「ああっ!御神体が!」

「落ちてきます!どいてどいて!」

 石製の剣なのだから、人の上に落ちれば命を奪うことすらあるだろう。

 急いで真下にいた人を突き飛ばしてどかした。そこへ石剣が落ちてくる。

 ドゴッ

 という重い音とともに地面に激突し、石剣は真っ二つに折れてしまった。

「…………っ!!」

 村人たちはあまりのことに言葉も出なかった。

 ざわめきすら起こらない。それほどの衝撃だったのだ。

 一つには神様が壊れるというありえない事態が起こっていること、そしてもう一つには、何か恐ろしいことが起きるのではないかという恐怖だ。

 その恐怖で誰も折れた御神体に近づくことが出来ず、無言で遠巻きに眺めていた。雲嵐たちに押された男など、恐ろしくて尻餅をついたまま後ずさっている。

 そこへ暗がりから一人が近づいてきた。

 この村の村長だ。もし今動くべき責任が誰かにあるとすれば、この立場の人間に違いないだろう。

「た、大変なことになってしまった……皆、急いでやしろを建てるぞ。御神体を安らかに眠らせるための場所を作るのだ」

 村人たちは村長の言葉にハッとし、ようやく動き始めた。やるべきことが見つかったのだ。

「そ、そうだ……村長のおっしゃる通りだ!!徹夜で社を建てるぞ!」

「おお!俺は木材を取ってくる!」

「俺は道具を!」

「急げ!」

 急に騒がしくなった中、村長は懐から布を取り出して、恭しく折れた石剣を包んだ。

「取り急ぎ、御神体には我が家に来ていただこう。汚いところで申し訳ないが」

 そう言って石剣を大事そうに抱え、歩き始めた。

 そして村長が松明の光からかなり遠ざかったところで、雲嵐がその背中に声をかけた。

「村長さん?なんだか……いつもと声が違いません?」

 本当はいつもの村長とほとんど変わらない声だったのだが、わざとそう言った。そう言うことになっているのだ。

 問われた村長はピタリと足を止めた。

 そして背を向けたまま笑い声を上げ始める。

 それは先ほど村人たちを恐怖させた獣のような、妖怪のような笑い声だった。

 一斉に村人たちが振り向く中、村長の顔をした誰かは、村長とは全く違う声で叫んだ。

「我が名は怪盗 龍!!この村の宝、確かにいただいたぞ!!」

 そう宣言し、暗闇の中へと駆け出した。

 解登はあらかじめ村長を拘束し、入れ替わって警備についていたのだ。

 そして折を見て抜け出し、まずあるせいぬ師匠仕込みの人を恐怖させる声で不安を煽った。

 そこへ凹型の銅鏡で指向性をもたせた灯火の光線を当て、影絵で怪物を描いてさらに注目を集めた。その間に魅音が矢で石剣を落としたのだ。

 何もせず矢を射るだけでは、射線から狙撃者の位置を探られてしまう。それで解登が村人たちの気をそらしたというわけだ。

 まんまと出し抜かれた村人たちは慌てて怪盗 龍を追い始めた。

「ま、待て!待ちやがれ!」

「この野郎!逃がさねぇぞ!」

 色めき立つ男たちをあざ笑うように、解登は哄笑を上げながら逃げた。普段はわざわざ笑い声など上げないが、今は必要なのだ。

 村人たちを完全にまくのではなく、ある程度の距離を保ち続ける必要がある。

 だから視界には入らないが、音で場所が分かるところを狙ってわざと声を出しているのだった。

 解登はそうやってしばらく走り、意図通りの距離を保ったままで、予定していた場所まで来ることに成功した。

「ハッハッハ!!この怪盗 龍が貴様らなんぞに捕まるわけが……」

 相変わらず村人たちを馬鹿にしたような怪盗 龍だったが、その声はそこで突然途切れた。

 まるで存在自体が消えてしまったかのような途切れ方だった。

 そして土地のことをよく知る村人たちは、そうなった理由をすぐに理解した。

 怪盗 龍が進んで行った先は断崖絶壁の崖上だったのだ。しかもその下は人がとても泳げないようなひどい急流になっている。

 怪盗 龍の声が消えた代わりに、かなり低いところでドボンという水音が上がった。

 それで村人たちは怪盗 龍が石剣を持ったまま、激流に飲まれたのだと理解した。

「た、祟りだ……あの馬鹿、御神体を盗むなんて恐れ知らずのことをしたから祟られちまった……」

 一人がつぶやき、誰もがその通りだと思った。

 ただし、こう思った者も少なくはなかった。

(怪盗 龍が上手いこと御神体の祟りを引き受けてくれた)

 ただ盗まれたのでは御神体の怒りが村に向かってきそうなものだが、その怒りはもう怪盗 龍に与えられたわけだ。

 そう思えるのは気が楽で、これからは気兼ねなく御神体の無い村運営、つまり人身御供など考えなくていい村運営ができる。

 人身御供に反対だった人間にとっては、むしろありがたいことでもあった。無論、口には出せないが。

「……こうなっちゃもう仕方ねぇ。俺らも祟られない内に帰るぞ」

 誰かがそう言い、皆が同意して足早に帰り始めた。

 雲嵐と許安はその背中を見送りつつ、横目に解登の声が消えた辺りの茂みを見た。

 解登はそこの茂みへ隠れ、用意していた岩を崖下へと落としたはずなのだ。

 そして予定通りの茂みから親指一本だけが上げられて、成功が祝された。

『やったぞ!!』

 という意味だ。

 雲嵐の持った松明の明かりにそれが映り、許安と二人で安堵の息を吐いた。

 それから解登の指はさらに崖沿いの少し離れたところに向けられた。そちらには不測の事態に備え、魅音が移動してきているはずなのだ。

 魅音からもそれが見えたようで、木の陰から小さく手が振られた。

 解登にはそれが嬉しかった。これまで一人孤独に仕事をこなしてきたが、今日初めて喜びを分かち合うべき人間を得られたのだ。

 だからさらに何か動きを返そうと、茂みの中で身をよじって姿勢を変えようとした。

 しかし茂みを鳴らさないように、無理な動き方をしてしまったらしい。解登は足を滑らせ、雲嵐の耳に地面を強く擦る音が飛び込んできた。

 解登は断崖絶壁のギリギリにいた。それが足を滑らせたのだ。

 その結果として起こることが分かる雲嵐は、反射的に松明を崖に向かって投げ込んだ。

 それからすぐに身を乗り出して崖下へと弓を構える。

 若者の反射神経とは素晴らしい。魅音と許安もほぼ同時に同じようにし、即座に三本の矢が崖下に向かって放たれた。

 絶技の矢たちは滑落する解登の袖を見事に射抜き、崖からまばらに生えた木の一本に突き刺さった。

「さ……さすがは怪盗 龍の華麗なる助手たちだ……」

 解登は青い顔でぶら下がりながら、やはりあるせいぬ師匠にはなれないのだと思い知った。
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