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短編・中編や他の人物を中心にした物語
選ばれた子、選ばれなかった子25
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「……は?あの村の借銭、一括で全部返す?」
句質は言われたことを本気と思えず、オウム返しにした。
今朝方、突然徐林と名乗る商人が訪ねて来たのだ。
それを客間に通して会ってみると、挨拶もそこそこ冗談のようなことを申し入れてきた。
(あの村に、それほどの大枚を叩くほどの価値があるのか?)
句質は元々商売をやっていた男で、商人という生物のものの考え方はよく知っているつもりだ。
商人が払う銭は趣味を除けば投資で、つまるところ見返りの算段がついていると見るべきだろう。
「もしかして、何か地下資源でも出ましたかな?」
具体的なことは考えても分からないので、直球で尋ねることにした。
しかし徐林は一度キョトンとしてから、首を傾げつつ応じた。
「え?……いや、そういう話は聞いてませんけど」
句質はその様子に、相手が普通の商人ではない気がした。利を狙っている雰囲気がない。
「では、徐林殿はどのような理由であの村の借銭を肩代わりしようとなさっているのですか?」
「なんていうか……成り行き、ですね」
「成り行き」
「たまたま宿泊させてもらったらそういう事情を聞かされて、それでなんとなく」
どう考えてもなんとなくで払おうと思える額ではないのだが、この男は本気らしい。
(妙な男だ)
句質は目の前の男の正体を掴めないまま、さらに質問を重ねた。
「では、村人たちは徐林殿の小作農になるというわけでもないのですか?」
「ええ、別にそういうつもりで肩代わりするわけじゃありませんから。あ、でも村長にはされそうです」
「されそう?」
「別になりたくもないんですけどね。ただ他にやりたいこともないし、村の人たちが是非にって押しまくってくるからやるかもしれません」
「はぁ……そうですか」
話せば話すほど、やはり妙な男だと思う。
そんな感情が顔から漏れていたのだろう。徐林は自嘲するように軽く苦笑した。
「まぁ自分でも怪しげなことを言う人間だとは思いますよ。それでも返済は受け取っていただけますよね?」
「いえ、それはまぁ……私としては返してくれるというものを断ることもできませんからね」
当たり前だが、銭貸しが返済を拒否できる道理などない。
(本心では勢力基盤の強化に繋げたかったが……)
句質は私有地、小作農を増やして己の領土を広げたがっている。いわゆる豪族になろうとしているのだ。
近いうちに漢中は曹操か劉備かに攻められてその支配下に入ると考えている。だからその時に勢力を保った状態で媚を売り、さらに身代を増やそうと画策しているのだった。
積極的に侵略者の傘下に入る豪族がいれば、周囲への示しとして優遇されるだろうという読みだ。
(とはいえ、膨れ上がった借銭は村一つの価値を完全に超えている。それを得られるならまぁ良しと思うか)
そう考え、この奇特な商人の申し入れを素直に受けることにした。
「近い期日を決めて払っていただけるなら、利息の計算は止めましょう」
普通ならありがたいことではあったが、徐林は首を横に振った。
村長から預かってきた借銭の証文を出し、書き足された現在の額を指す。
「この額で間違いなければすぐに返させていただきます」
そう言って、自分の資産の大半が入っている袋を前に置いた。
「戦乱のせいで貨幣価値が不安定になっています。現物での返済の方がそちらも良ろしいでしょう」
句質は袋から大量の木箱を取り出した。それを一つ一つ開け、玉などを取り出して確認していく。
間違いなくそれだけの価値があるものだ。むしろ少し多めなほどで、句質がイチャモンをつける余地はどこにも見当たらなかった。
「……結構です。では、これで返済完了ということで」
「ありがとうございます」
句質は頭を下げる徐林へ笑顔を向けた。
正体のよく分からない男ではあるが、これだけのものを持っている人間なら仲良くしておいて損はない。
「いや、その齢でここまでの資産をお持ちとは。ご立派だ」
「まぁそれも成り行きです」
「成り行きなら成り行きで、そういう徳をお持ちということですよ。あの村の村長になられる予定とのことですし、ぜひ今度とも良いお付き合いをお願いします」
句質は手を伸ばして握手を求めた。
徐林はそれを握り返しながら、こちらも笑顔を作った。
「妙な借用書を作ったりしなければ、仲良くできると思いますよ」
その言葉に、句質の頬はピクリと痙攣した。
笑顔のまま手を引き、ゆったりと腰を下ろす。
「……妙な借用書とは?この証文は真っ当に書かれたものですし、利息の計算も書いてある通りにしましたよ」
「真っ当でないとは言いませんが、付帯条項や補足が多すぎるでしょう。そういう見るだけで吐き気がするような細かい文字の中に重要なことが難しく書いてあるのはちょっと」
徐林は指で証文の一点を突ついた。
そこには非常に難解な言い回しで、返済が滞った場合に利息が上がることが書かれている。
「しかも返済開始は借りた翌月からになっていますよね?飢饉の中でいきなりは返せないから、結果的に口頭で伝えられた利息よりも遥かに高い利息になってしまったと今の村長が嘆いていました」
「それは借用書をきちんと読んでいない借り手の責任でしょう」
「そういう発想を簡単には否定できませんけどね。でも『両者とも誠実に対応すること』とか『借銭の目的はうんぬん』とかどうでもいいことまで細かく書いて馬鹿みたいな文量にした挙げ句、その中に紛れ込ませるのは悪意を感じざるを得ません」
「もし仮に悪意があったとしても、借用書が無効にはなりませんよ」
「おっしゃる通りです。ただ、今後もこういうことを続けるなら句質殿自身の身が損なわれることを知っておいてください」
「ほぅ……」
句質はずっとニコニコと笑ったままだったが、その笑みが急に深く、歪んだようになった。
嗜虐的な愉快さが湧き上がってきたのだ。
目の前の男は、句質が身を損なうのだと言ってきた。
ちょっとした説教に聞こえなくもないが、対面している句質は脅されているようにも感じる。
(どこの馬の骨とも知れない商人が、私を脅すか)
当然、何かしてくるなら返り討ちにしてやるつもりだ。
句質は私兵を多数抱えており、荒事になっても負けはしないだろう。
「一体どこの誰が、私の身を損なうというのでしょう?」
徐林は面倒臭そうにボリボリと頭をかいて、面倒臭そうな口調で返答した。
「俺がやってもいいんですけどね、出来ればもうそういうことはしたくないんですよ」
「……?よく分かりませんが、徐林殿がやる気になったら私はどうなるのでしょうねぇ?」
「暗殺されるのですよ」
と、そう答えたのは徐林ではない。
部屋の外で誰かが声を上げたのだ。
徐林はその声に聞き覚えがあった。
(今の声……)
徐林が声の主の顔を思い浮かべると、戸が開いてその顔が現れた。
次にその名を思い浮かべると、句質の方がその名を呼んだ。
「司馬倶殿」
現れたのは青州黄巾党の元首領、司馬倶だった。徐林とはおよそ八年ぶりになる。
(な、なんでここに!?)
徐林はまず驚き、次に怒りが湧いてきた。
司馬倶が父を助ける兵を出さず、逃げたことを思い出したからだ。
しかし当人は驚きも怒りもなく、ごく普通の挨拶を口にした。
「久しいな、徐林」
むしろ懐かしさに目を細めている。
それから句質へと向き直った。
「申し訳ありません、句質殿。つい懐かしい声に耳を引かれ、立ち聞きしてしまいました」
句質の方は一瞬それを咎める顔をしたが、すぐに無理やり笑顔を作った。
そして首を横に振る。
「いえいえ、司馬倶殿は私のことを調べるのがお仕事。立ち聞きされても文句は言えません」
「ありがとうございます」
「しかし、司馬倶殿と徐林殿がお知り合いとは思いませんでした。ということは、徐林殿も張魯様の関係者で?」
(張魯?……一体どういうことだ?)
徐林には事情が掴めなかったが、二人はお構いなしに話を続けた。
「いえ、徐林は先だってお話した私の前歴の知り合いですよ」
「前歴というと、黄巾党の?」
「そうです。徐林は黄巾党で暗殺者をやっておりましてな」
暗殺者、という単語を聞いた句質の表情は固まった。
その顔のまま、徐林に今一度目を向ける。
「暗殺者……それは、冗談ではなく?」
司馬倶はそんな句質の様子が可笑しかったのか、失笑してしまった。
「ふはは……いや、失礼。しかし私も冗談ならもう少しマシなことを口にしますよ。この男は五歳の時から暗殺者として鍛えられ、八歳にしてその手を血に染めました。そして大きなところを話すと、十二歳で州の刺史を暗殺しています」
「し、刺史を!?そんな子供の頃に……」
「句質殿が結構な私兵を抱えられていることは承知していますが、暗殺を確実に防ぐことなど不可能です。悪いことは言いませんから、徐林の周りにはちょっかいをかけないようになさい」
句質は苦々しげな、それでいて妖怪でも見るような目で徐林のことを見た。
実際、妖怪のようなものだろう。暗殺者は恐ろしくもあるし、何より気味が悪い。
「……分かりました、心しておきましょう」
出来ればこれ以上関わり合いたくないと思ったのだろう。
後の句質は淡々と借銭の証文を返し、用事があるからと会見を打ち切った。
徐林は司馬倶がここにいた事情を聞きたいと思っていたのだが、こちらも引っ込んでしまった。
(どういうことだ?しかも張魯と繋がりがあるようなことを言ってたな)
徐林が難しい顔で村へ帰る道を歩いていると、はるか後ろから声がかけられた。
「おい……徐林!!ま、待ってくれ……」
振り返ると、司馬倶が追いかけてきている。
走っていたが、もうそれなりの齢だから完全に息が上がっていた。
「ハァ……ハァ……ふう。いや、さすがに健脚だな。この年寄の足で追いつこうと思ったのが無茶だった」
「……なんですか?」
徐林はそっけなく、それこそ話したくなさそうな雰囲気を出しながらそう言った。
本心では事情が気になってはいるのだが、父を助けようとしてくれなかった司馬倶に対してまともに喋る気になれない。
司馬倶はその様子に苦笑した。
まだ荒く息をしながら、それでも頑張って声を出した。
「まぁ……そんな感じでも、話してくれるだけ良かった。私はお前に殺されるのではないかとすら思っていたからな」
徐林は言われて初めてそれを検討した。
しかし結論は夏侯淵の子供たちに対するものと同じだ。
「もし司馬倶様に家族も友人もいないなら、殺してもいいかもしれないと思います」
「……ふむ?どうやらあの後、お前の中で色々あったようだな」
「別に……ただ、残される人間の気持ちを少し考えるようになっただけです」
司馬倶は徐林の言うことを少し考え、そして納得した。
「なるほどな……お前のような人生を送ると、罪への気づき方がそういう方向からになるのか」
徐林は人を殺すことが幼い頃から日常になりすぎて、殺す対象の気持ちを考えにくい。むしろ、死ねばなんの苦しみも感じなくなるという達観まである。
だから残された周囲の苦しみから罪に気づいたのだと理解した。
徐林は罪という単語を聞いて、二つ瞬きをした。
父のよく口にしていた単語を久しぶりに聞き、あらためて罪というものを考えた。
「俺のやってきたことは……罪なんでしょうね」
「そう思うか?」
「ええ、ふっと酷いことをしたんだなと思う時があります。でも……」
「でも、なんだ?」
「……もし小さい頃に戻ったとして、父さんがそれを求めるなら、俺はやっぱり同じことをしますよ」
それでも自分は父の愛が欲しいと思うのだ。これが徐林の正直な気持ちだった。
司馬倶はそんな徐林を見て眉を歪め、己の心臓を握り潰すように胸を掻いた。
「……お前の罪は、いいのだ。それは私や徐和が抱えるべきものであって、お前がその重さに苦しむべきものではない」
「俺は父さんに、俺のやったことで苦しんで欲しくないですよ」
「しかし罪とはそういうものだし、そうあるべきものでもある」
「俺にそんな話をしてもよく分かんないって知ってるでしょう」
「ああ、そうだったな。それにお前のその罪の認識だと、懺悔も正しくは意味を成すまい」
「……?」
徐林はよく分からない話に首を傾げたが、不思議とそれで懐かしい気持ちになった。
父がまだ生きていた頃、父と司馬倶はよくこういう話をしていて、徐林はよく分からないままなんとなく聞き流していた。
「司馬倶様は相変わらず罪うんぬんで世を救おうとしているんですか?」
言外に、徐林がそこに意味を見出していないということが漏れ出ている。
しかし司馬倶はそんな反応も慣れっこだから、気にもせず大真面目にうなずいた。
「ああ、そうだよ。そのために今は張魯様の下で働いている」
先ほどもそういう話をしていたが、本当にそういうことらしい。
「張魯って、ここ漢中を治めているあの張魯ですよね?」
「ああ、そうだ。私を受け入れ、あれこれと便利使いされている。今も張魯様の命を受け、句質のことを調べに来ているのだ。勢力拡大のために非道を行っているという話や、小作農に対して目に余る扱いをしているという話があってな」
徐林は事情を理解するとともに、少し安心した。
(これなら俺が手を下さなくても句質はかなり叩かれるだろう。司馬倶様は甘くない)
そう思ったが、司馬倶の前歴を考えるとこの現状には問題がある気がした。
「張魯って五斗米道の教祖ですよね?でも司馬倶様って太平道の黄巾党を率いてたわけじゃないですか」
そう、これは完全な宗旨替えに当たるのだ。
別にそれが悪いとは言わないが、その下にいた信者からすれば節操なしと思われても仕方ない。
しかしそこを指摘されても司馬倶の顔には一切の後ろめたさが浮かばなかった。
「私の中では一貫した生き方をしているつもりだよ。罪というものの認識で人の世を救う。その点は太平道も五斗米道もさしたる変わりはない」
司馬倶の言うとおり、この点で二つの宗教はよく似ている。
共に生じた悪いことを自らの行いに起因すると定め、その罪に対する内省や懺悔を重視する。
五斗米道は太平道を参考にしているとまで言われているほどに、罪への向き合い方が酷似しているのだ。
「私と徐和とは同じ思想を共有していた。黄巾党が弱体化した今、もし徐和が生きていれば同じ選択をしたのではないかと思うぞ」
徐林は少し鼻白んだ。
司馬倶が父のことを引き合いに出し、自分を以前のように使おうとしているのではないかと思ったからだ。
(だから追いかけてきたのか)
そう思い、背を向けて歩き出した。
「父さんは死にました。たとえ司馬倶様の言うことが真実でも、俺が動く理由にはなりませんよ」
「……ん?おい、待つんだ。私はそういうつもりで走ってきたわけではないぞ」
「じゃあどういうつもりです」
「徐和からの文だ。それを渡したくて来た」
そう言われた徐林はピタリと足を止めた。止めざるを得ない言葉だった。
「文?」
「八年前、死を覚悟した徐和がお前に宛てて書いた文だ。覚えていないのか?お前はそれを受け取らず、振り払って出て行っただろう」
徐林もそのことは覚えている。
ただ、その文をいまだに司馬倶が持っているとは思わなかった。
「……捨てなかったんですか?行方も分からない人間への文を八年も持ってるなんて」
司馬倶は徐和のことを思い浮かべ、目を閉じて首を横に振った。
「徐和がお前にとって唯一無二の父親であったように、私にとっても唯一無二の同志だった。その息子への最期の手紙だぞ?捨てられるものか」
この言葉で徐林は司馬倶への認識を改めるとともに、これまでの態度に関して申し訳ない気持ちになった。
目の前の男は同じように父を大切に思っていた仲間でもあるのだ。
(考えたら、司馬倶様が兵を出してたところで間に合わなかったんだよな)
単騎で急行した自分ですらそうだったのだから、司馬倶の行動と父の死が関係ないのは明らかだ。
そう思い至った徐林は司馬倶へと向き直り、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。あと……なんかすいませんでした」
「頭を下げることはない。むしろ私の方こそお前に頭を下げないといけないのだよ。徐和と共に、お前に組織の闇を背負わせてしまったのだからな」
「もう終わったことです。それより、手紙は今お持ちなんですか?」
「いや、さすがに出張先まで持ってきてはいない。自宅にあるからうちまで来てくれ」
それから司馬倶は自宅の場所と、いつ頃帰れそうかを伝えてから去って行った。
徐林の方は、とりあえず村人たちに返済の完了を伝えるために村へと戻った。
村では案の定、歓声をもって迎えられた。もはや完全な英雄だ。
誰もが徐林を見ると笑顔を向けてくれる。心からの笑顔で、喜びと感謝とがあふれていた。
「なぁ徐林さん、村長はやってくれるんだろ?」
何人も同じことを聞いてきた。
徐林への礼という意味だけでなく、実は村長の跡取り息子が数年前に亡くなったらしいのだ。
しかし別の候補がまとまらず、村の悩みになっていたらしい。非常に貧しい村だからなりたい者もいない。
今朝までの徐林はそれを受けてもいいかなと思っていた。しかし今は少し心境が変わっている。
「すいません、少し考えさせてください。一つ思い出したことがあって」
「思い出したこと?何だい?」
「父の最期の命令です」
句質は言われたことを本気と思えず、オウム返しにした。
今朝方、突然徐林と名乗る商人が訪ねて来たのだ。
それを客間に通して会ってみると、挨拶もそこそこ冗談のようなことを申し入れてきた。
(あの村に、それほどの大枚を叩くほどの価値があるのか?)
句質は元々商売をやっていた男で、商人という生物のものの考え方はよく知っているつもりだ。
商人が払う銭は趣味を除けば投資で、つまるところ見返りの算段がついていると見るべきだろう。
「もしかして、何か地下資源でも出ましたかな?」
具体的なことは考えても分からないので、直球で尋ねることにした。
しかし徐林は一度キョトンとしてから、首を傾げつつ応じた。
「え?……いや、そういう話は聞いてませんけど」
句質はその様子に、相手が普通の商人ではない気がした。利を狙っている雰囲気がない。
「では、徐林殿はどのような理由であの村の借銭を肩代わりしようとなさっているのですか?」
「なんていうか……成り行き、ですね」
「成り行き」
「たまたま宿泊させてもらったらそういう事情を聞かされて、それでなんとなく」
どう考えてもなんとなくで払おうと思える額ではないのだが、この男は本気らしい。
(妙な男だ)
句質は目の前の男の正体を掴めないまま、さらに質問を重ねた。
「では、村人たちは徐林殿の小作農になるというわけでもないのですか?」
「ええ、別にそういうつもりで肩代わりするわけじゃありませんから。あ、でも村長にはされそうです」
「されそう?」
「別になりたくもないんですけどね。ただ他にやりたいこともないし、村の人たちが是非にって押しまくってくるからやるかもしれません」
「はぁ……そうですか」
話せば話すほど、やはり妙な男だと思う。
そんな感情が顔から漏れていたのだろう。徐林は自嘲するように軽く苦笑した。
「まぁ自分でも怪しげなことを言う人間だとは思いますよ。それでも返済は受け取っていただけますよね?」
「いえ、それはまぁ……私としては返してくれるというものを断ることもできませんからね」
当たり前だが、銭貸しが返済を拒否できる道理などない。
(本心では勢力基盤の強化に繋げたかったが……)
句質は私有地、小作農を増やして己の領土を広げたがっている。いわゆる豪族になろうとしているのだ。
近いうちに漢中は曹操か劉備かに攻められてその支配下に入ると考えている。だからその時に勢力を保った状態で媚を売り、さらに身代を増やそうと画策しているのだった。
積極的に侵略者の傘下に入る豪族がいれば、周囲への示しとして優遇されるだろうという読みだ。
(とはいえ、膨れ上がった借銭は村一つの価値を完全に超えている。それを得られるならまぁ良しと思うか)
そう考え、この奇特な商人の申し入れを素直に受けることにした。
「近い期日を決めて払っていただけるなら、利息の計算は止めましょう」
普通ならありがたいことではあったが、徐林は首を横に振った。
村長から預かってきた借銭の証文を出し、書き足された現在の額を指す。
「この額で間違いなければすぐに返させていただきます」
そう言って、自分の資産の大半が入っている袋を前に置いた。
「戦乱のせいで貨幣価値が不安定になっています。現物での返済の方がそちらも良ろしいでしょう」
句質は袋から大量の木箱を取り出した。それを一つ一つ開け、玉などを取り出して確認していく。
間違いなくそれだけの価値があるものだ。むしろ少し多めなほどで、句質がイチャモンをつける余地はどこにも見当たらなかった。
「……結構です。では、これで返済完了ということで」
「ありがとうございます」
句質は頭を下げる徐林へ笑顔を向けた。
正体のよく分からない男ではあるが、これだけのものを持っている人間なら仲良くしておいて損はない。
「いや、その齢でここまでの資産をお持ちとは。ご立派だ」
「まぁそれも成り行きです」
「成り行きなら成り行きで、そういう徳をお持ちということですよ。あの村の村長になられる予定とのことですし、ぜひ今度とも良いお付き合いをお願いします」
句質は手を伸ばして握手を求めた。
徐林はそれを握り返しながら、こちらも笑顔を作った。
「妙な借用書を作ったりしなければ、仲良くできると思いますよ」
その言葉に、句質の頬はピクリと痙攣した。
笑顔のまま手を引き、ゆったりと腰を下ろす。
「……妙な借用書とは?この証文は真っ当に書かれたものですし、利息の計算も書いてある通りにしましたよ」
「真っ当でないとは言いませんが、付帯条項や補足が多すぎるでしょう。そういう見るだけで吐き気がするような細かい文字の中に重要なことが難しく書いてあるのはちょっと」
徐林は指で証文の一点を突ついた。
そこには非常に難解な言い回しで、返済が滞った場合に利息が上がることが書かれている。
「しかも返済開始は借りた翌月からになっていますよね?飢饉の中でいきなりは返せないから、結果的に口頭で伝えられた利息よりも遥かに高い利息になってしまったと今の村長が嘆いていました」
「それは借用書をきちんと読んでいない借り手の責任でしょう」
「そういう発想を簡単には否定できませんけどね。でも『両者とも誠実に対応すること』とか『借銭の目的はうんぬん』とかどうでもいいことまで細かく書いて馬鹿みたいな文量にした挙げ句、その中に紛れ込ませるのは悪意を感じざるを得ません」
「もし仮に悪意があったとしても、借用書が無効にはなりませんよ」
「おっしゃる通りです。ただ、今後もこういうことを続けるなら句質殿自身の身が損なわれることを知っておいてください」
「ほぅ……」
句質はずっとニコニコと笑ったままだったが、その笑みが急に深く、歪んだようになった。
嗜虐的な愉快さが湧き上がってきたのだ。
目の前の男は、句質が身を損なうのだと言ってきた。
ちょっとした説教に聞こえなくもないが、対面している句質は脅されているようにも感じる。
(どこの馬の骨とも知れない商人が、私を脅すか)
当然、何かしてくるなら返り討ちにしてやるつもりだ。
句質は私兵を多数抱えており、荒事になっても負けはしないだろう。
「一体どこの誰が、私の身を損なうというのでしょう?」
徐林は面倒臭そうにボリボリと頭をかいて、面倒臭そうな口調で返答した。
「俺がやってもいいんですけどね、出来ればもうそういうことはしたくないんですよ」
「……?よく分かりませんが、徐林殿がやる気になったら私はどうなるのでしょうねぇ?」
「暗殺されるのですよ」
と、そう答えたのは徐林ではない。
部屋の外で誰かが声を上げたのだ。
徐林はその声に聞き覚えがあった。
(今の声……)
徐林が声の主の顔を思い浮かべると、戸が開いてその顔が現れた。
次にその名を思い浮かべると、句質の方がその名を呼んだ。
「司馬倶殿」
現れたのは青州黄巾党の元首領、司馬倶だった。徐林とはおよそ八年ぶりになる。
(な、なんでここに!?)
徐林はまず驚き、次に怒りが湧いてきた。
司馬倶が父を助ける兵を出さず、逃げたことを思い出したからだ。
しかし当人は驚きも怒りもなく、ごく普通の挨拶を口にした。
「久しいな、徐林」
むしろ懐かしさに目を細めている。
それから句質へと向き直った。
「申し訳ありません、句質殿。つい懐かしい声に耳を引かれ、立ち聞きしてしまいました」
句質の方は一瞬それを咎める顔をしたが、すぐに無理やり笑顔を作った。
そして首を横に振る。
「いえいえ、司馬倶殿は私のことを調べるのがお仕事。立ち聞きされても文句は言えません」
「ありがとうございます」
「しかし、司馬倶殿と徐林殿がお知り合いとは思いませんでした。ということは、徐林殿も張魯様の関係者で?」
(張魯?……一体どういうことだ?)
徐林には事情が掴めなかったが、二人はお構いなしに話を続けた。
「いえ、徐林は先だってお話した私の前歴の知り合いですよ」
「前歴というと、黄巾党の?」
「そうです。徐林は黄巾党で暗殺者をやっておりましてな」
暗殺者、という単語を聞いた句質の表情は固まった。
その顔のまま、徐林に今一度目を向ける。
「暗殺者……それは、冗談ではなく?」
司馬倶はそんな句質の様子が可笑しかったのか、失笑してしまった。
「ふはは……いや、失礼。しかし私も冗談ならもう少しマシなことを口にしますよ。この男は五歳の時から暗殺者として鍛えられ、八歳にしてその手を血に染めました。そして大きなところを話すと、十二歳で州の刺史を暗殺しています」
「し、刺史を!?そんな子供の頃に……」
「句質殿が結構な私兵を抱えられていることは承知していますが、暗殺を確実に防ぐことなど不可能です。悪いことは言いませんから、徐林の周りにはちょっかいをかけないようになさい」
句質は苦々しげな、それでいて妖怪でも見るような目で徐林のことを見た。
実際、妖怪のようなものだろう。暗殺者は恐ろしくもあるし、何より気味が悪い。
「……分かりました、心しておきましょう」
出来ればこれ以上関わり合いたくないと思ったのだろう。
後の句質は淡々と借銭の証文を返し、用事があるからと会見を打ち切った。
徐林は司馬倶がここにいた事情を聞きたいと思っていたのだが、こちらも引っ込んでしまった。
(どういうことだ?しかも張魯と繋がりがあるようなことを言ってたな)
徐林が難しい顔で村へ帰る道を歩いていると、はるか後ろから声がかけられた。
「おい……徐林!!ま、待ってくれ……」
振り返ると、司馬倶が追いかけてきている。
走っていたが、もうそれなりの齢だから完全に息が上がっていた。
「ハァ……ハァ……ふう。いや、さすがに健脚だな。この年寄の足で追いつこうと思ったのが無茶だった」
「……なんですか?」
徐林はそっけなく、それこそ話したくなさそうな雰囲気を出しながらそう言った。
本心では事情が気になってはいるのだが、父を助けようとしてくれなかった司馬倶に対してまともに喋る気になれない。
司馬倶はその様子に苦笑した。
まだ荒く息をしながら、それでも頑張って声を出した。
「まぁ……そんな感じでも、話してくれるだけ良かった。私はお前に殺されるのではないかとすら思っていたからな」
徐林は言われて初めてそれを検討した。
しかし結論は夏侯淵の子供たちに対するものと同じだ。
「もし司馬倶様に家族も友人もいないなら、殺してもいいかもしれないと思います」
「……ふむ?どうやらあの後、お前の中で色々あったようだな」
「別に……ただ、残される人間の気持ちを少し考えるようになっただけです」
司馬倶は徐林の言うことを少し考え、そして納得した。
「なるほどな……お前のような人生を送ると、罪への気づき方がそういう方向からになるのか」
徐林は人を殺すことが幼い頃から日常になりすぎて、殺す対象の気持ちを考えにくい。むしろ、死ねばなんの苦しみも感じなくなるという達観まである。
だから残された周囲の苦しみから罪に気づいたのだと理解した。
徐林は罪という単語を聞いて、二つ瞬きをした。
父のよく口にしていた単語を久しぶりに聞き、あらためて罪というものを考えた。
「俺のやってきたことは……罪なんでしょうね」
「そう思うか?」
「ええ、ふっと酷いことをしたんだなと思う時があります。でも……」
「でも、なんだ?」
「……もし小さい頃に戻ったとして、父さんがそれを求めるなら、俺はやっぱり同じことをしますよ」
それでも自分は父の愛が欲しいと思うのだ。これが徐林の正直な気持ちだった。
司馬倶はそんな徐林を見て眉を歪め、己の心臓を握り潰すように胸を掻いた。
「……お前の罪は、いいのだ。それは私や徐和が抱えるべきものであって、お前がその重さに苦しむべきものではない」
「俺は父さんに、俺のやったことで苦しんで欲しくないですよ」
「しかし罪とはそういうものだし、そうあるべきものでもある」
「俺にそんな話をしてもよく分かんないって知ってるでしょう」
「ああ、そうだったな。それにお前のその罪の認識だと、懺悔も正しくは意味を成すまい」
「……?」
徐林はよく分からない話に首を傾げたが、不思議とそれで懐かしい気持ちになった。
父がまだ生きていた頃、父と司馬倶はよくこういう話をしていて、徐林はよく分からないままなんとなく聞き流していた。
「司馬倶様は相変わらず罪うんぬんで世を救おうとしているんですか?」
言外に、徐林がそこに意味を見出していないということが漏れ出ている。
しかし司馬倶はそんな反応も慣れっこだから、気にもせず大真面目にうなずいた。
「ああ、そうだよ。そのために今は張魯様の下で働いている」
先ほどもそういう話をしていたが、本当にそういうことらしい。
「張魯って、ここ漢中を治めているあの張魯ですよね?」
「ああ、そうだ。私を受け入れ、あれこれと便利使いされている。今も張魯様の命を受け、句質のことを調べに来ているのだ。勢力拡大のために非道を行っているという話や、小作農に対して目に余る扱いをしているという話があってな」
徐林は事情を理解するとともに、少し安心した。
(これなら俺が手を下さなくても句質はかなり叩かれるだろう。司馬倶様は甘くない)
そう思ったが、司馬倶の前歴を考えるとこの現状には問題がある気がした。
「張魯って五斗米道の教祖ですよね?でも司馬倶様って太平道の黄巾党を率いてたわけじゃないですか」
そう、これは完全な宗旨替えに当たるのだ。
別にそれが悪いとは言わないが、その下にいた信者からすれば節操なしと思われても仕方ない。
しかしそこを指摘されても司馬倶の顔には一切の後ろめたさが浮かばなかった。
「私の中では一貫した生き方をしているつもりだよ。罪というものの認識で人の世を救う。その点は太平道も五斗米道もさしたる変わりはない」
司馬倶の言うとおり、この点で二つの宗教はよく似ている。
共に生じた悪いことを自らの行いに起因すると定め、その罪に対する内省や懺悔を重視する。
五斗米道は太平道を参考にしているとまで言われているほどに、罪への向き合い方が酷似しているのだ。
「私と徐和とは同じ思想を共有していた。黄巾党が弱体化した今、もし徐和が生きていれば同じ選択をしたのではないかと思うぞ」
徐林は少し鼻白んだ。
司馬倶が父のことを引き合いに出し、自分を以前のように使おうとしているのではないかと思ったからだ。
(だから追いかけてきたのか)
そう思い、背を向けて歩き出した。
「父さんは死にました。たとえ司馬倶様の言うことが真実でも、俺が動く理由にはなりませんよ」
「……ん?おい、待つんだ。私はそういうつもりで走ってきたわけではないぞ」
「じゃあどういうつもりです」
「徐和からの文だ。それを渡したくて来た」
そう言われた徐林はピタリと足を止めた。止めざるを得ない言葉だった。
「文?」
「八年前、死を覚悟した徐和がお前に宛てて書いた文だ。覚えていないのか?お前はそれを受け取らず、振り払って出て行っただろう」
徐林もそのことは覚えている。
ただ、その文をいまだに司馬倶が持っているとは思わなかった。
「……捨てなかったんですか?行方も分からない人間への文を八年も持ってるなんて」
司馬倶は徐和のことを思い浮かべ、目を閉じて首を横に振った。
「徐和がお前にとって唯一無二の父親であったように、私にとっても唯一無二の同志だった。その息子への最期の手紙だぞ?捨てられるものか」
この言葉で徐林は司馬倶への認識を改めるとともに、これまでの態度に関して申し訳ない気持ちになった。
目の前の男は同じように父を大切に思っていた仲間でもあるのだ。
(考えたら、司馬倶様が兵を出してたところで間に合わなかったんだよな)
単騎で急行した自分ですらそうだったのだから、司馬倶の行動と父の死が関係ないのは明らかだ。
そう思い至った徐林は司馬倶へと向き直り、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。あと……なんかすいませんでした」
「頭を下げることはない。むしろ私の方こそお前に頭を下げないといけないのだよ。徐和と共に、お前に組織の闇を背負わせてしまったのだからな」
「もう終わったことです。それより、手紙は今お持ちなんですか?」
「いや、さすがに出張先まで持ってきてはいない。自宅にあるからうちまで来てくれ」
それから司馬倶は自宅の場所と、いつ頃帰れそうかを伝えてから去って行った。
徐林の方は、とりあえず村人たちに返済の完了を伝えるために村へと戻った。
村では案の定、歓声をもって迎えられた。もはや完全な英雄だ。
誰もが徐林を見ると笑顔を向けてくれる。心からの笑顔で、喜びと感謝とがあふれていた。
「なぁ徐林さん、村長はやってくれるんだろ?」
何人も同じことを聞いてきた。
徐林への礼という意味だけでなく、実は村長の跡取り息子が数年前に亡くなったらしいのだ。
しかし別の候補がまとまらず、村の悩みになっていたらしい。非常に貧しい村だからなりたい者もいない。
今朝までの徐林はそれを受けてもいいかなと思っていた。しかし今は少し心境が変わっている。
「すいません、少し考えさせてください。一つ思い出したことがあって」
「思い出したこと?何だい?」
「父の最期の命令です」
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