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短編・中編や他の人物を中心にした物語

選ばれた子、選ばれなかった子4

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夏侯淵カコウエン様、一部の兵が遅れてきております」

 隣りを進む副官からそう指摘された夏侯淵は、首を軽く回して後ろを振り返った。

 しかし即座に首を横に振る。

「かまわん。この進軍速度を維持する」

「よろしいので?脱落する兵も出てきますが」

「今は兵数より時間だ。少しでも早く目的地に着く必要がある。ついて来られない者は置いて行くぞ」

「はっ」

 夏侯淵と副官は息を切らしながらその会話をしている。二人とも走っているからだ。

 ただし、馬が無いわけではない。

 今日の夏侯淵が率いているのは全て騎兵なのだが、その全員が馬の手綱を引きながら走っている。

(少しでも馬の疲労を抑えねば)

 そのための措置だった。当たり前だが、馬は人を乗せていない方が長く走れる。

 そこまで気を使わねばならないほど、夏侯淵の騎兵隊は無茶な速さで行軍していた。

 しかしそれが夏侯淵の主君、曹操の命令なのだから仕方ない。

 夏侯淵と曹操は元々親族であり、若い頃から互いを助け合うような仲だった。

 一度など、曹操が犯した罪を夏侯淵が身代わりになって捕縛され、その後曹操に救い出されるという事件まであった。

 曹操の旗揚げ後はこれを主君と仰ぎ、その一武将として働いてはいるが、そんな仲だったので無茶を頼まれることもある。

『吐くまで走るような仕事だが、頼むよ』

 子供のような笑顔でそう言う曹操に、夏侯淵は苦笑で応じるしかなかった。

 その作戦内容は、要するに奇襲だ。

 敵が想定しない速度・経路で行軍してその腹背を突く。

 言ってしまえば単純な話だが、山や河川などの地形、そしてギリギリの行軍速度などを緻密に計算した高度な作戦だった。

(やはりこの人は天才だ)

 夏侯淵は作戦の全容を聞かされた時、思わず唸り声を上げた。

 凡人でははなから無理だと思うような奇襲なのだ。思いつきもしないだろう。

 しかし言われて諸々検討してみると、確かに成しうる作戦であると分かる。

 成功すれば敵は思いもよらぬ方向から攻撃を受けることになり、大打撃を与えられるだろう。

 ただし、それをやり切るにはかなり無茶な速度で軍を進めなければならないのだ。

「馬に乗り直すのは、吐くまで走ってからだぞ」

 夏侯淵は部下たちに向かってそう宣言した。

 きついことを命じているのは分かっているが、吐くくらいなんだと思う。

 ここが主君、曹操が群雄として台頭できるかどうかの分け目になるのだ。

(東郡太守から兗州えんしゅうぼくだぞ。黄巾の連中に感謝するのも変な話だが、おかげで曹操様は躍進できた)

 東郡は兗州に属する郡の一つなのだが、曹操はそこの太守という立場だった。

 しかしつい先日、兗州に黄巾軍が侵攻してきて刺史しし劉岱リュウタイを殺害した。

 それで曹操に兗州牧の地位が回ってきたわけだ。

 ここで『刺史』と『牧』という二つの役職が出てきて分かりづらいだが、両者は共に『その地域の長』だと思っていただければいい。

 細かいことを言うと権限が違ったりはするのだが、どちらにせよ実力が物を言う乱世ではあまり意味もない。

 それに両者が並立したり、自称があったり、資料によってごちゃ混ぜになっていたりでとにかくややこしいから、『その地域の長』というざっくりした認識が一番間違いないように思う。

 ちなみに時代が下って宋代になると『知州(知某州軍州事)』という役職にまとまり、そこから現代日本でも使われている『知事』という単語に繋がることになる。 

(曹操様が兗州牧として立つため、なんとしても黄巾軍を撃退せねば)

 夏侯淵がそう考えている通り、曹操の兗州牧という地位はまだ固まっていない。

 黄巾軍を退けて初めて実質的な立場を得られるのだ。

 曹操が推戴されたのも、

『黄巾軍をなんとかしてくれ』

という期待によるものであることは否めない。

 朝廷も初めは曹操に兗州を治めさせるつもりはなかったのだが、結局は黄巾討伐の詔勅を曹操に宛てて出した。

(黄巾の連中をなんとかしてくれるなら、まぁ)

という意思表示だ。

 世の群雄の中にはこれを貧乏くじだと思う人間も多いだろう。

 青州黄巾党はその軍三十万、非戦闘員を加えると百万と言われる。

 さすがに実数はそこまでではないだろうし、人口の三分の一弱が戦闘員というのは無理があるように思える。

 とはいえ、虚を差し引いても相当な勢力であることは間違いない。その相手を自ら請け合いたいと思う人間などいないだろう。

 が、曹操はそれを引き受けた。

 引き受けたからには、この強大な宗教勢力をなんとかせねばならない。

(私がそのための第一矢となろう)

 夏侯淵は曹操こそが次の世を作り出す英雄だと確信しているから、非常な覚悟で任務に当たっている。

 この人の武将として働くということは、そのまま次の世を作り出すということだ。

(自分は今、創世という大事業の幕開けを担っている)

 そういう自負心を抱きながら、背後の兵が吐瀉物をぶちまける音を聞いた。

(あと何人吐いたら馬に乗ろうか)

 夏侯淵は上がってくるものを飲み込みながら、それを検討していた。
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