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短編・中編や他の人物を中心にした物語

呂布の娘の嫁入り噺39

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「どこへ……行かれるつもりですか?」

 夜の城内で、龐舒は兵の一団の前に立ちはだかってそう問うた。

 ちょうど月が雲に隠れ、辺りの闇がいっそう濃くなっていく。それも相まって、龐舒の姿はまるで亡霊のように見えた。

 龐舒に止められたのは数十人ほどの集団だ。その行こうとしていた先には城門がある。

 先頭にいた兵たちは顔を見合わせ、それから後ろを振り向いた。そちらに自分たちの指揮官がいるからだ。

「おう、龐舒じゃないか。こんな時間にどうした?」

 と、馬上からやけに馴れ馴れしく聞き返してきたのは、魏続ギゾクという一軍の将だ。

 馴れ馴れしいのには理由がある。

 この魏続、実は魏夫人の親族に当たる。つまり龐舒にとって、師の姻族ということになるのだ。

 だから龐舒も普段なら慇懃に接しているのだが、今夜ばかりは慇懃無礼になってしまった。

「こんな時間でないと動けないような下衆げすを見張っているんですよ。あなた方のようなね」

 その声には静かな殺気がこもっていた。あまりに静かすぎて、一部の兵には龐舒が本物の亡霊に思えるほどだった。

 しかし魏続の方はあえて軽い口調を続けた。

「まぁそう怒るな。こんな世の中だ、こういうことも珍しくはないだろう?呂布様だって、今までに何度も裏切ってるじゃないか」

 裏切り。

 魏続たちが今やろうとしていることは、そういうことだった。

 魏続の斜め後ろには、麻縄で過剰なほど縛られた男が馬にくくりつけられている。

 陳宮チンキュウだ。知恵者の軍師を手土産に、曹操軍へ投降しようとしているのだった。

 龐舒もその心境を理解できないわけではない。下邳城はすでに限界が近い上、先日の水攻めだ。

 床上以上の浸水というのは経験した者でなければその絶望は分からない。食料が一部だめになっただけでなく、泥まみれになった居住区というのはひどく人の心をえぐる。

 しかも多くの兵が一度は勝ちを錯覚してしまったから、余計にその心理的な負担は大きかった。

 不幸中の幸いは、今は冬で降水量の少ない季節だということだ。雨さえ降らなければ水は引いてくれる。

 ただし、少ないとはいえ全く降らないわけではない。そして降る度に浸水の恐れがあるというのは、人の心を折るのに十分だった。

「皆もう限界なんだよ。それなのに降伏は逆に難しくなってる。ならもう、こうするしかないだろう」

 魏続はそう言ったが、降伏が難しくなっているわけではない。正確には『条件付きの降伏』が難しくなっているのだ。

 ここまで追い詰められてからの降伏となると『無条件降伏』しか認められないだろう。助命の交渉は出来ない。

 つまり曹操の恨みを受けている者、曹操のお眼鏡に叶わなかった者、そしてその親族たちの命が助かる保証はないのだ。

 呂布と魏夫人、そして玲綺は高確率で処刑されるだろう。龐舒にそんな降伏が受け入れられるわけがなかった。

「勝てばいいんですよ、勝てば。曹操軍を全員殺して、僕たちが生き残るんです」

 そんな成立していない会話に、魏続は眉をひそめた。

 まともな思考ができているとは思えない。龐舒が本物の亡霊にでもなったかのように感じられた。

「おい、正気か?こんな状況でどうやって勝つつもりだ」

「戦います。戦って、戦って、息絶えるまで戦います」

 龐舒のことを多少なりとも知っている魏続はため息をついた。

 この青年のこういう所は嫌いではないが、今はそれがひどく危うげに見える。

「……あの人はな、こんな酷い状況でも尽くしてもらえるほど立派な人生を歩んでないんだよ。お前も呂布様の弟子だからって、義理立てする必要なんて無いんだぜ?一緒に裏切ろう」

 魏続は悪意を持ってそう言ったわけではない。自分のため半分、龐舒のため半分で言ったつもりだ。

 このままここにいても良いことなど何一つ無いことを確信している。

 が、この台詞は龐舒の癇に障った。抑えがたいほどの激しい怒りが湧いてくる。

「……ぁあ?」

 短い声と共に、月明かりで浮かび上がった形相に兵たちは怯えた。

 怯えたあまり、一人の兵が槍で龐舒に突きかかってきた。殺されると思ったのだ。

 しかしその穂先は龐舒に届かない。龐舒の戟の方が圧倒的に速く兵のみぞおちに刺さった。

「殺しはしない。あなた方にはまだ戦力として、呂布様の役に立ってもらう必要がある」

 その言葉通り、兵にめり込んでいるのは石突の部分で致命傷にはなっていなかった。

 一人がやられたことで、他の兵たちも戦いを避けられないことを理解した。

 一斉に龐舒へ襲いかかる。

 二人の兵が鉾を上段に構え、同時に振り下ろした。

 その斬撃の広さから兵たちは必勝を確信したが、龐舒は風のように刃の間を駆け抜けてかわした。しかもすれ違いざまに顎へ当て身を食らわせている。

 兵たちは脳を揺らし、体をグラリと傾けた。

 その二人が地に倒れるより早く、龐舒は次の敵へと向かう。抜けた先には三人の兵がいた。

 この三人とも、目の前の仲間たちがこれほどの早さで抜かれるとは思っていなかった。完全に油断しているところへ龐舒の乱れ突きが襲いかかる。

 兵たちは何もできないまま龐舒に体中を突かれ、即座に戦闘不能に陥った。

 師との鍛錬で、どこをどう打たれれば人間の体が動けなくなるかは熟知している。それこそ十年以上も前から、何度も何度も自身が動けなくなるほど打たれたのだ。

 龐舒は手早く五人を倒すと、横に駆けた。囲まれないようにするためで、集団の端の兵を狙った。

 その狙われた不幸な兵へ、横薙ぎの戟を大振りに振る。

 兵はそれを槍で受けた。

 いや、受けたとは言い切れないかもしれない。

 龐舒の渾身の力で振られた戟は、槍ごとその兵を弾き飛ばした。

「ぐぁ!!」

 と声を上げながら、その兵は隣りの兵へとぶつかった。そしてぶつかられた兵は、さらにその隣りへとぶつかる。

 それで体勢を崩した兵は五人ほどで、龐舒はその機を逃さず踏み込んだ。そしてほんの一呼吸で全員を昏倒させる。

 兵たちはたった一人の妨害者の武力に驚いたが、あくまで多勢に無勢だ。なんとか囲んで袋叩きにしようとした。

 が、龐舒は鍛え上げた足でそれを翻弄し、次々に打ち据えて動けなくしていった。

「りょ、呂布は化け物を育ててんのか!?」

 一人の兵はそう叫んだ直後、首筋を打たれて意識を失った。

 龐舒が低い呼吸音を上げる度、一人、また一人とやられていく。

 その姿はまるで夜狩りをする獣のようで、兵たちは月明かりに浮かぶ猛犬の残像を見た。

 そして倒れた兵が二、三十人になった頃、たまりかねた魏続が前に出てきた。
 
「お前らじゃらちが明かん!俺たちがやるから下がれ!」

 俺たち、と魏続が言ったのは、他にも二人の将が来ていたからだ。宋憲ソウケン侯成コウセイという二将が魏続と共謀し、今回の裏切りに望んでいる。

 三人は実力主義者である呂布の手飼いだ。当然その武も確かなものだった。

 宋憲と侯成は鉾を振って馬を進ませ、魏続と並んだ。

「魏続よ、もう殺してしまうぞ!?いいな!?」

 宋憲は一応だが、そう確認した。龐舒と多少の縁がある魏続を気遣ってのことだ。

 加えて龐舒は共に戦った戦友でもあるから、裏切る方としての遠慮もある。

 それは侯成の方も同じだったが、こちらは魏続の返事を待たずに鉾を繰り出した。

「もはや致し方あるまい!恨んでくれていいぞ!」

 そう言ってもらった龐舒だったが、恨む気など毛頭ない。殺されるつもりはさらさら無かった。

 カッ

 と小さな音が龐舒の足元で鳴り、その直後に侯成は顔をそらした。

 龐舒が地面に転がっていた石を打ち、侯成の顔に飛ばしたのだ。

 その直後には龐舒の体は鉾の内側に入っており、戟で侯成の腹が突き上げられる。

 軽くはない男の体が馬上で浮き、鞍から落とされた。そこへ龐舒はさらに打撃を加えようとする。

 が、宋憲の鉾がその進路に振られ、さらなる追撃を阻んだ。

 しかし龐舒はそれを読んでいた。敢えて牽制させるために自分の前に鉾を出させたのだ。

 龐舒は宋憲の鉾の柄を素早く掴み、自分の方へと引いた。それと同時に宋憲の馬を戟で打つ。驚いた馬は竿立ちになっていなないた。

「うぉおっ!?」

 宋憲は経験豊富な騎兵だから、馬が暴れたからといって落馬することなどない。しかし同時に持っている鉾を思い切り引かれ、さすがに馬上に居続けることは出来なかった。

 しかもさらに悪いことに、落ちて行く先からは龐舒の足が迫ってくる。

 宋憲は顔を強かに蹴り上げられて、意識を朦朧とさせながら地に臥せった。

「龐舒、お前……」

 と、魏続が何かを言おうとしたが、その言葉は飛んで来た鉾によって遮られた。龐舒が宋憲から奪った鉾を投げつけたのだ。

 魏続は戟を横に振ってそれを弾いた。

 しかし、直後にその対応を後悔することになる。

 龐舒がありえない速度で踏み込み、もう目の前にいたからだ。

(適当な投擲とうてきなど食らっておけばよかった!!)

 やけにゆっくりとした感覚の中、向かってくる戟の石突に自らの敗北を悟る。これが自分に届いた時、自分たちの目論見は水泡と帰すのだ。

 が、その石突は届かなかった。

 夜空に響いた短い声で、龐舒の動きはピタリと止められた。

「待て!!」

 魏続はその声によって救われた一方、すぐに絶望もしていた。

 それは自分たちが今まさに裏切ろうとしている主君、呂布の声だったからだ。

「……呂布様」

 龐舒は魏続から目をそらさないまま、師の名を呼んだ。

 それからくるりと戟を回し、刃の方を突きつける。動くなよ、という牽制の意味だ。

 背後では侯成と宋憲が起き上がりかけていたので、そちらには剣を抜いて突きつける。

 が、もう三人とも戦意はないだろう。

 龐舒がいまだに鬼神か龍神かの生まれ変わりだと信じる呂布は、これくらいの人数なら一人で制圧してしまう。それが現れた今、この裏切りは失敗と決まったのだ。

 だから龐舒はその前提で話をした。

「呂布様。彼らは裏切り者ですが、今は一兵でも多くの戦力が欲しい時です。ここはあえて水に流し……」

「構わん。逃がしてやれ」

「そう、逃がし……え?」

 龐舒は師の言ったことがよく理解できず、聞き返した。

 しかし呂布はその単純な命令を繰り返す。

「逃がしてやれと言ったのだ。こいつらはこのまま城を出て、曹操に投降すればいい」

 龐舒はようやく命じられたことを理解したが、納得はできない。

「で……でもそれじゃ、勝てる可能性が低くなって……」

「勝てる可能性など、もはや無い。俺も降伏するつもりだ」

 その言葉に、龐舒はめまいを起こして倒れそうになった。

 足を半歩下げてそれに耐え、呻くようにつぶやく。

「でも……それじゃ呂布様は……」

「処刑される可能性が高いだろうな。ならば死ぬまで戦う、という選択肢も無くはないが、俺がそうするとお前のように付き合う人間、そしてこいつらのように付き合わされる人間が出てくる。どちらも不憫だ。だから降伏を選ぶ」

 それから呂布は、裏切ろうとしている兵たちを見渡した。

「お前たち、今日までよく戦ってくれた。お陰で良い夢が見られたぞ。感謝している」

 そう言う呂布の顔は、笑っていた。

 それが龐舒も見たことのない顔だったから、それ以上の言葉が出て来なくなってしまった。

 呂布はさらに魏続と、その後ろで縛られた陳宮へと目を向けた。

「陳宮がいなくなることで、城内が降伏の是非に揉めることはなくなるだろう。俺みたいな男でも、お前たちがそういう事も考えて手土産を選んだのだと分かるつもりだ。気を遣わせてすまんな」

 陳宮は呂布同様、降伏後に助命される可能性が極めて低い男だ。

 魏続たちとしては残す同僚たちが無駄死にを避けられるよう、確かに気を遣った部分もあった。

 しかしそう言われても、やはり呂布自身は殺される可能性が高いのだ。

 魏続も当然それについて何も感じないわけではなかったから、うつむいて呂布から目をそらすしかなかった。

 呂布は部下を、いや、元部下をそんなふうに苦しめるつもりはなかったから、短く別れを促した。

「もういいぞ、行け」

 最後の命令に従い、兵たちが進み始める。

 龐舒に倒された兵たちを担ぎ上げ、ゆっくりと城門へ向かった。

 龐舒だけが動けず、その場に取り残された。大切な者の死を思い、茫然自失になっていた。

 が、次の師の言葉で我に返る。

 少し進んだ魏続の背中へ呂布が声をかけた。

「おい、ちょっと待て。龐舒も連れて行ってくれ」

 龐舒は師の顔を仰ぎ見た。

 それはつまり、龐舒も裏切りの一行に加えろという意味だ。

 しかし、龐舒にそんなことが出来るわけがない。

「な……何を仰ってるんですか。僕が呂布様を裏切られるはずないでしょう」

「いや、行け。命令だ。俺の首を斬り落とし、その首を持って曹操に投降しろ」

 そのさらなる命令に、龐舒も魏続たちも驚愕した。

「えっ!?そ、それは……え?」

 衝撃のあまり、龐舒は上手く言葉を出せなかった。兵たちからもどよめきの声が上がる。

 しかしそれとは対照的に、呂布は平然とその意図を説明してくれた。

「俺の首の報酬として、曹操に俺の妻と娘を望め。そのくらいの価値はあるはずだ」

 龐舒は正確に師の意図を理解した。

 師は自分の死と引き換えに、家族の命を救おうとしているのだ。

 確かにそれは可能だろう。呂布の首の重さを考えた時、女二人というのはむしろ報酬として軽すぎるほどだ。

(で、でも……それをするには僕が呂布様を殺さないといけない……)

 龐舒はそのことを想像し、再びめまいを起こした。

(い、嫌だ……嫌だ……でも……そうしないと……奥様と玲綺が……)

 この時代、敗者の親族は連座して処刑されることも珍しくはなかった。特に呂布は兗州えんしゅう強奪の時も含め、かなり曹操を苦しめているから九族皆殺しでも全くおかしくはない。

(呂布様……奥様……玲綺……)

 龐舒には師の命令が全くもって合理的なものだと分かるから、むしろ錯乱した。

 その現実的な命令を現実にするには、龐舒の心を殺さなければならない。

 その苦しさに体が耐えられなくなったのか、まず戟を握る手が震え出した。次に足が震え、奥歯もガチガチと鳴り始めた。

 大切なものを守るため、大切なものを壊さなければならない。

 しかしやりたくない。それでもやらなければならない。

 その葛藤の中、龐舒は戟を振って走り出した。

「や、やっぱり曹操と戦って退けましょう!とりあえずこいつらを倒しますから……」

 と、再び兵たちに襲いかかろうとする。

 錯乱のあまり、現実から逃避するためだけに非合理的な行動を採ったのだ。

 呂布はそんな衝動の塊になった弟子の背を追いかけた。

「おい、待て!……ちっ」

 舌打ちをして、首筋に手刀を叩き込む。

 その一撃で龐舒の体からは力が失われ、走った勢いのまま倒れそうになった。それを呂布の腕が抱きとめる。

 龐舒は揺蕩たゆたうような認識の中、師の太い腕の安心感に身を委ねた。

 この腕の中にいる限り、自分は世界で一番幸せなのだと信じて疑わなかった。
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