三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地~ 家族愛の三国志大河

墨笑

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短編・中編や他の人物を中心にした物語

呂布の娘の嫁入り噺15

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「あぁ……袁燿様……」

 玲綺は窓の外の夕日を眺めながら、ため息をついた。

 もしかしたら愛しいあの人も同じように黄昏たそがれながら、自分のことを想ってくれているかもしれないと思ったのだ。

 しかし、後ろで聞いていた龐舒はそんな乙女心に呆れてしまった。袁燿とはもう、恋愛どころか食卓を一緒に囲めるような関係ですらないのだ。

「あのさぁ……袁燿様はもう完全に敵なんだよ?下手したら呂布様だって殺されてたかもしれないんだからね?」

 龐舒の言う通り、呂布と袁燿とは軍事的に敵対関係になっている。実際に呂布の軍はつい先日、袁燿の属する勢力に敗れて帰って来たのだ。

 ただし、帰って来たと言っても玲綺たち家族が今いるここは洛陽ではない。洛陽の西にあるかつての漢の首都、長安だ。

「はぁ……長安から見る夕日も、袁燿様がいる所から見る夕日と同じなのかしら……?」

「……人の話、聞かないね」

「恋する乙女には愛しい人の言葉以外、耳に入らないのよ」

「入ってんじゃんか」

 玲綺は龐舒のツッコミを無視し、またため息をついた。

 そんな玲綺に龐舒もため息をつく。

「……袁燿様とはもう最後に会ってから一年以上経つじゃないか。そもそもそんなに長い時間一緒にいたわけでもないんだし、いい加減あきらめたら?」

 袁燿、そしてその父である袁術が洛陽を脱出してから、すでにそれくらいの期間が経っていた。

 いったんは後将軍として董卓政権に参加していた袁術だったが、為政者としての董卓を早々に見限っている。その下にいたのは本当に短期間で、丁原が殺されてからで数えても半年も経っていない。

 確かに玲綺が袁燿と過ごした時間は長くはないだろう。しかし龐舒は知らないが、自分と袁燿とは恋人同士だったのだ。

 それは別れの時のほんの短い関係だったかもしれない。しかし間違いなく、あの瞬間は恋仲だったと言える。

 そしてその時の甘美な思いと切なさ、そして手の甲の唇の感触を思うと、簡単には諦めきれなかった。

「でも、一時は和睦の話とかもあったじゃない。今後だって仲直りがないとは言えないわ」

 言われて龐舒はその頃のことを思い出した。が、それすら半年以上前のことだ。

「それは難しいんじゃないかな。反董卓連合とは結局ずっと対立が続いてるし」

 さらに始まりの頃からを思い起こし、改めてそう告げた。

 袁術が洛陽を出奔してからほどなくして、反董卓連合というものが結成された。要は董卓の政権を認めないという者の集まりであり、袁術もそれに参加している。

 その対立姿勢は厳しく、董卓が和睦のために送った使者は殺された。

(相手の親族をたくさん処刑してるからな……そりゃ仲直りは難しいよ)

 董卓はこれ以前に、反董卓連合の中心である袁紹や袁術の親族を大量に処刑している。

 もちろんそれには袁紹と袁術が逃げたという事実も影響しているだろう。二人ともそのことに関して様々な思いがあったはずだ。

 それに、そういった事実があれば本音はどうあれ、和睦を受け入れると今度は自分たちが世間の非難を浴びかねない。もはや簡単に収拾のつく事態ではなくなっているのだ。

 そしてそんな中、反董卓連合軍の一員として『江東の虎』と呼び習わされている猛将、孫堅が攻めてきた。

 董卓軍に一度は撃退された孫堅ではあったが、陽人ようじんの戦いと呼ばれる再戦では雪辱を果たし、反董卓連合軍の優勢を決定づけている。

 そしてこの陽人の戦いには呂布、そして龐舒も従軍していた。

(呂布様、なんだかキレが無いな)

 龐舒は戦の間、そればかりが気になっていた。

 いや、その前からずっとそう思っていたのだ。師は丁原を殺してから、どうもそれ以前の師とは違うような気がする。

 龐舒以外の人間には分からないだろうが、何をするにもその顔に一瞬迷いのようなものが浮かぶのだ。その分だけ判断も遅れるし、思い切りも悪い。

 もちろんそれでも呂布は強かったし、騎兵隊の指揮を執らせれば呂布の右に出る者などいない。

 しかし、やはり龐舒にはこれが本当の師の実力とは思えなかった。

(翼の生えた虎を縛る、二本の鎖……)

 許靖に言われたことを思い出し、その重さを苦々しく思う。

(不思議な人だったな。瞳を見るだけで相手の本質が分かるだなんて)

 本人は座興だと言っていたが、あの鎖の話はただの座興には思えなかった。

 それに、そんな話をするくせに鎖の切り方は分からないと言うのだ。もし占い師気取りの軽い人間なら、適当な解決方法をでっち上げて口にするところだろう。

(つまり、本物なんだろうな)

 龐舒は許靖のことをそう認識し、もっと話を聞きたいと思った。

 が、本人はすでに董卓の元から出奔している。結成された反董卓連合の一員に、許靖の従兄弟がいたらしいのだ。それで身の危険を感じての脱走らしい。

(許靖様にはもう頼れない。自分で呂布様の鎖を切る方法を考えないと)

 そう思ったが、やはり良い考えは浮かばなかった。

(まぁ……呂布様が万全でも孫堅を倒すのは難しかっただろうけど)

 戦を思い出し、そう思う。

 陽人での孫堅の防衛体制は完璧で、まるで隙が無かった。ああいうのは、いかに呂布の騎兵隊が強くても崩しようがない。

 孫堅は数多の戦をくぐり抜けた歴戦の勇士であり、江東の虎の名は伊達ではなかった。

 そしてその孫堅を後方支援していたのが袁燿の父、袁術だ。

 つまるところ玲綺の想い人である袁燿は、父である呂布の軍を倒した張本人の陣営ということになる。龐舒の言っていた通り、疑いようもなく敵なのだ。

「そう……私たち二人は運命に引き裂かれたのよ……」

 悲恋、という言葉の響きは若い娘にとって、やや酸味の強い果実のようなものらしい。もしくはその果実酒か。

 玲綺は酔うような気持ちでそんなことをつぶやいた。

 しかし端から見ている龐舒からすると、馬鹿馬鹿しくすら思える。

「そういうのって現実を何も良くしないよ?玲綺らしくないじゃないか」

「いいの。女には過去に浸りたくなる時だってあるんだから」

「それならまぁ……今はもう無い洛陽での思い出に浸って、黄昏れてたらいいよ」

 龐舒は『今はもう無い洛陽』と言った。

 事実、洛陽は人の生活する街としてはもう無い。董卓が宮殿も民家も、全て焼き払ったのだ。

 反董卓連合が結成されてからさして時も経っていない時点で、董卓は焦土戦術という作戦方針を決定し、実行した。

 全て焼き払ったというのは誇張表現ではない。史書にはその惨状について、『二百里以内には何も残されていない』と記録されている。

 そうして国の首都が失われ、新しい首都として洛陽の西方にある長安が遷ばれた。帝と住民はあらかじめそこへ強制的に移住させられている。

 だから玲綺も龐舒も今は長安の屋敷に住んでいた。

 ちなみに、この焦土戦術こそが中国史における董卓の悪名を確固たるものにしている。

 首都を焼くという暴挙はもちろんのこと、街一つの住民を移住させるなど並大抵の困難ではない。しかも洛陽から長安は、現代日本でいうところの東京から京都くらいの距離がある。

(僕たちは良かったけど、移住の過程でたくさん亡くなったっていう話だもんな……)

 龐舒はそのことに心を痛めるだけでなく、申し訳ないとも思った。

 呂布の家族は完全に特権階級だ。似たような立場の人間たちと共に、護衛付きで長安まで安全に旅することができた。

 が、一般民衆はそうではない。死ぬ者も多かった。

 さらに董卓は強制移住に先立ち、難癖をつけて富豪から財産を没収したり、歴代皇帝や大臣たちの陵墓を暴いて副葬品を盗掘している。

 そしてその盗掘を行ったのが呂布だ。董卓に命じられてのこととはいえ、やはりこれも評判が悪い。

 が、本人は平然としていた。

『埋まっているだけで何の役にも立っていない宝を掘り起こし、有効活用するだけだ。何が悪い?』

 ごくごく現実的な呂布は、一切悪びれずにそう言っていた。

 そして悪気なく、龐舒にもそれを手伝わせた。

(そりゃ呂布様は悪いことしてると思ってないから、ただの労働の手伝いを命じるのと同じ感覚なんだろうけど……)

 命じられた龐舒は盗掘前、そして盗掘後に陵墓へひざまずいて謝った。同じようにしている兵も多かった。

 そんな風に他の者ならたたりなどを恐れそうなものだが、呂布という男にはそんなもの脅しにもならないらしい。盗掘は粛々と進められ、無事に多額の軍資金を得ることができた。

 ただし、さすがに街を焼き払う焦土戦術には呂布でも思うところがあったようだ。

『洛陽を焼くのか……』

 そう小さくつぶやいた後、押し黙っていた。ただ、それがいかに有効な戦術であるかは理解できた。

 反董卓連合はこの後しばらくして瓦解することになるが、それにはこの洛陽焼失が間接的な要因になっている。誰もが戦勝後の都での栄華を望んでいたのに、それがもう存在し得ないというのは大きい。

 呂布は陽人の戦いの後、焼け野原となった洛陽でも孫堅と戦ったが、一戦交えるだけ交えてすぐに長安へと引いている。守るだけの戦略的な価値が、洛陽にはもうないのだ。

 勝ったはずの孫堅も、陵墓の修繕を行ってからすぐに洛陽を去った。奮戦の末に得たものは名声だけということになる。

 このように、人道的な問題はあるものの焦土戦術が効果の高い作戦であることは歴史も証明している。

 しかし実際にやられた洛陽の民、そして移住先である長安の民はたまったものではなかった。

 急に住民と消費が増えても、物資の供給量はそう簡単に増やせるものではない。

 しかもここに董卓の悪質な貨幣改鋳かいちゅうが重なり、貨幣価値が極端に下がってしまった。いわゆるハイパーインフレだ。

 生活苦、そしてそこに涼州兵たちの横暴まで加わり、今の長安には怨嗟の声が満ち満ちている。

 ただ、それでもやはり玲綺たちは特権階級だ。色々不便はあっても苦しいというほどのことはなく、普通に暮らせている。

 しかも呂布が戦場から帰って来てからはいっそう媚びる者も多く、物不足のこの時においても贈物まで受け取っていた。

 つい先ほども誰ぞの使者がやって来て、魏夫人が応対していた。

「……仕事、終わったぞ。ちゃんと渡して来た」

 と、そんな声が玲綺の見つめる夕日の方から聞こえてきた。

 その声は、先ほど家に来ていた使者の男の声だった。どうやら贈物を魏夫人に渡した後、塀の向こうで仲間と合流したらしい。

 もう一人の男がそれに答える。

「お疲れさん。特に問題なかったか?」

「ああ。ちょっと抜いたのだって、バレやしねぇよ」

「おい馬鹿っ、こんな所でそんな話……」

「ははは、そんなビビんなって。デカい屋敷だから建物の中までは聞こえやしねぇよ」

「そ、そうか」

 と、二人はそんな会話をしていたのだが、玲綺と龐舒には丸聞こえだった。

 塀の向こうでの会話とはいえ、そこに一番近い窓のそばにいれば内容を聞き取れる程度には聞こえる。

 しかしそうとも思わない二人は迂闊な会話を続けた。

「絹布の贈物か。そりゃ銭の価値がほとんど無くなってんだから、代わりになるのは穀物か布だよな」

「ああ、よく分かった贈物だな。抜きがいがあるってもんだ」

「一本だけじゃなくて、もう二、三本抜いときゃよかったかな?」

「いや、そりゃさすがにバレるだろう」

 それからその二人は控えめな笑い声を上げた。

 龐舒と玲綺はそれを聞いて顔を見合わせたが、二人ともこのネコババに対して何か言う気にはならなかった。

 自分たちが他人に比べていい暮らしをしていることは分かっているし、やはりどこか申し訳ないという気持ちもあるからだ。

「でもよ、それくらい抜いてもバチは当たらないと思わねぇか?ここの呂布ってのが戦に負けたから、もっと酷くなってんだろ?」

「ああ、しかもその呂布が軍の大将に嘘の情報を流したから負けたって噂だぜ。その大将のことが嫌いだから敗けさせてやろうと思ったらしい」

「マジかよ。なんでそんな野郎に贈物なんかを持って行かないといけないんだよ」

 この発言には、さすがに玲綺が口を開きかけた。

『聞こえてるわよ』

 くらい言ってやるつもりだったのだ。

 しかしその口を龐舒が後ろから押さえる。

「ほっときなよ。それより、どんな噂になってるのか知っておいた方がいい」

 呂布くらいの立場になるとあれこれ言われるのは仕方のないことだ。いちいち目くじら立てるよりも、噂の内容を確認した方が有用だと思った。

 玲綺もそれは分かったから、小さくうなずく。

 塀の向こうの二人は聞き耳を立てられているとも思わずに話を続けた。

「嘘の情報って、どんなのを流したんだ?」

「なんか敵が逃げるとか言って、夜通し行軍させて兵を疲れさせたらしいぜ」

(それは……相手の準備が整う前に攻撃しようとしたんだよ)

 実際に従軍していた龐舒はその時のことを思い出し、心の中で男に対して反論した。

 陽人の戦いでは孫堅の防衛体制が万全だったために攻めあぐねたのだ。結果的に間に合わなかったが、少しでも早く着陣する必要があった。

「あと、兵の休憩中に嘘の奇襲情報を流して軍を混乱させたって話もあるな」

(それは孫堅が敵を休ませないためにやった作戦だ)

 夜間に騒がしい物音だけ立てて夜襲を演じ、敵を疲れさせるというのは戦では割と常套手段だ。

 それにどちらにせよ、その程度のことで勝敗が決するような戦でもなかった。

(人の噂って、こんなもんなんだろうな……)

 龐舒がそんなことを思っていると、塀向こうの二人はまた一風違った噂話を始めた。

「そんな奴が董卓様の侍女にまで手ぇ出してよろしくやってるってんだから、また腹の立つ話だよな」

 それを聞いた玲綺と龐舒の表情が固まった。

 どちらかと言えば先ほどまでの話の方が重大な噂なはずではあったが、家族としてはむしろこっちの方が気になってしまう。

「ええ?なんだよそれ。そんなことしてんのか?」

「知らないのか。呂布はすげぇ強ぇから董卓様の護衛もしてるだろ?その関係で、しょっちゅう屋敷の中にまで入ってるらしいんだ」

「へぇ……そんでそこの侍女に手を出してる、と?」

「そういう噂だ。実際に呂布が董卓様の屋敷を出るのは不自然なほど遅い時間らしいぜ?」

 少なくとも、男が今言ったことは本当だった。

 最近の呂布は帰宅するのが異常に遅い。日によっては朝帰りや、帰らずにそのまま翌日の仕事ということもあった。

 玲綺たちは、忙しいのだろう、という程度にしか思っていなかったのだが、よくよく考えてみると董卓の屋敷に行ったという日だけ異常に遅い気がする。

 そう思い至った二人はまた顔を見合わせてから、どんな顔をしていいのか分からずに目を逸らした。

「でもよぉ、主君の侍女に手を出しちまったら怒られるだろ」

「そうだな。バレたらまぁ結構な罰を受けることになるだろうよ」

「そんなに危険を冒してまで手に入れたい女って、どんだけ美人なんだろうな?」

「さぁ……でも董卓様の屋敷の侍女だぜ?どうせ後宮ばりの超美人ばっかりを集めてんだろ」

「だな。マジで羨ましい限りだよ。あーあ、俺も呂布みたいにいい思いがしたいぜ」

「じゃあまずはあれくらいの腕の太さにならねぇと」

「いや、無理だわ諦める」

 二人はそんな軽口を叩きながら歩き始めたらしい。こちらに届く声は徐々に小さくなり、そのうち聞こえなくなった。

 その段になって、ようやく玲綺は口を開いた。

「と……とりあえず最後の話はお母様の耳に入れないようにしましょう。いいわね?」

 龐舒にそう確認したが、当の龐舒は困った顔をするばかりで何も答えない。

「……ちょっと、なんで無視するのよ。何とか言いなさいよ」

 玲綺は語調を強めたが、やはり龐舒は黙ったままだ。

 ただし、よく見ればその瞳は玲綺の顔を見ていない。その少し後ろへと向いている。

 それに気づいて振り返った玲綺は、窓の外の魏夫人と目が合った。

 どうやら庭の花でも摘もうと思って出て来ていたようで、手にハサミを持っていた。

 その顔の暗さを見て、間違いなく先ほどの話を聞いていたのだということが二人には分かった。

「あの、奥様……」

 龐舒は思わず声をかけたが、それ以上何を言っていいのか分からなくて黙ってしまった。

 魏夫人はそんな龐舒を気の毒に思ったらしく、無理矢理に微笑んでくれた。

「いいのよ、大丈夫。英雄色を好むって言うし……こういうのって、きっと仕方ないことなのよ」

 その気丈な笑顔が逆に玲綺の胸を打った。

 そして尊敬する父親に対して、ふつふつと静かな怒りが湧いてくる。

 父は好きだが、大好きな母を悲しませるのは許せない。

 だから玲綺は魏夫人のように『仕方ない』などとは思わず、責め立てることに決めた。

「お母様、一緒にお父様をとっちめてやるわよ」
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