三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地~ 家族愛の三国志大河

墨笑

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短編・中編や他の人物を中心にした物語

小覇王の暗殺者10

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「試し射ちはある程度大きな獣がいいって話だったけどさ……これは大き過ぎない?」

 許安はその黒い生き物を見て、頬を引きつらせながらそうつぶやいた。

 熊だ。しかも結構な大きさだった。

 雲嵐、魅音、許安の三人はできた毒矢を試すために、山でその実験対象を探していた。

 本来の狙いは人間なのだから、それに近い体重であることが望ましい。鳥や兎などでは小さすぎるので、鹿か猪を候補に考えていた。

 が、初めに出くわしたのがこの熊だ。

 まだ多少の距離があるが、向こうもこちらを認めて唸り声を上げている。明らかに威嚇してきていた。

 やや引き気味の許安とは対照的に、魅音は落ち着いた声音を発した。

「いいよ、大きくても。これを倒せたら孫策なんてイチコロでしょ。私が射っていい?」

 魅音は二人にそう確認したのだが、実際にはその言葉が終わる前に矢を放ってしまっている。色々な意味で、この娘らしい早技だ。

 毒矢のやじりは暗褐色を帯びている。その暗い色が、熊の肩へと吸い込まれていった。

 熊は雄叫びを上げ、それから三人に向かって突進してこようとした。

 しかし一歩踏み出す前に、毒矢の刺さった側とは反対の前足に矢が突き立った。

 雲嵐の矢だ。毒矢の効果を見るためこちらは普通の矢で、足止めのためだけに射ったものだった。

 とはいえ、熊は矢の一撃くらいでは止まらない。さらに一歩踏み出そうとした。

 そこへ許安の矢が同じ前足めがけて放たれる。さらに魅音も普通の矢に持ち換えて同じところを狙った。その時には雲嵐の二発目も放たれている。

 三人は後ろに下がりながら、ひたすらに射ちまくった。

 この熊も憐れとしか言いようがない。これほどの弓の手練てだれを三人も同時に相手にするとは、もはや天災に遭ったようなものだ。

 熊が距離を詰める前に、その片足は刺さった矢で針鼠のようになった。

「よし、このまま距離を取って様子を見るぞ」

 雲嵐の指示通り、熊から離れて安全な距離を保つ。

 四足獣はその構造上、足が一本でも使えなくなると極端に走る速度が落ちてしまう。この熊も動けないことはないものの、離れた人間を襲えるほど俊敏な動きはできなくなっていた。

 片足を穴だらけにされた熊は、当然のことながら逃げることにした。ひどく前足が痛むし、そもそも人間は襲って食べるのに魅力的な生き物ではない。

 三人はそれを追う。付かず離れず移動し、熊の様子に目を凝らした。

「僕が死ぬまでの時間を数えるよ」

 許安は心の中で数を数えた。そしてその間、どのような反応が起こるのかを観察する。

 熊は初め、片足を引きずりながらも活発に動いて逃げようとしていた。

 しかし時が経つにつれ、段々とその動きが緩慢になっていく。

 次第に気力を失い、ついには倒れて口から泡を吹きはじめた。

 もう明らかに人を襲う力は失われている。この熊の残りの生は、死ぬまでの時間を苦しむだけのものになった。

 それでも三人はとどめを刺さない。その苦しみを見ることも検証実験であるからだ。

 考えてもみれば非道い行為だが、人類と化学物質、特に毒薬を含めた薬との関係は有史以来このようなものであった。

 話は脱線するが、筆者は過去にこの三人と同じような実験をしたことがある。

 当時、薬学生だった筆者は実習の一環として、マウスに毒物を投与して死ぬまでの挙動を観察するという実験を行った。

 その時に使った薬物はマチンという有毒植物の種子に含まれる成分で、ストリキニーネという。マチンはちょうど雲嵐たちが使っているトリカブトやイポーと同じように、矢毒として用いられることもあった植物だ。

 ストリキニーネには神経を抑制するブレーキを壊すような薬理作用があり、投与するとマウスはまず初めに興奮して暴れ回る。それだけなら見ていてまだマシなのだが、観察を続けると次第に筋肉が強く収縮し続ける剛直性痙攣が起こり、体を反らせたまま動けなくなる。

 この時、筋肉の収縮が強すぎて自身の骨を折ってしまうこともあるらしい。実習書に『そういう音が聞こえるかもしれないから心を強く保つように』というようなことが書いてあった。

 ストリキニーネは意識障害を起こさないので、マウスは意識があるままで痛みと恐怖に苦しみながら死んでいったと思われる。私たちはその様子をストップウォッチ片手に観察し、起こったことをノートに書き記していった。

 泣き出す学生もいた。

 私はマウスの命を無駄にしないよう、しっかり観察しようと目を皿のようにした。

 果たしてあれが学生実習で必要な実験だったかと問われると、今でも微妙だと思う。ただ、こういう実験自体は人の世に有益なことではあるだろう。

 それに、実験をしている研究者たちは別に何の感情も抱かずにこのような事をしているわけではない。大学では毎年実験動物の慰霊祭を行っていたし、教官たちも動物への感謝を忘れないよう諭していた。

 どんな薬もこのようにまず実験動物に投与され、その反応を見ながら効果や副作用、用法や用量が検討されていく。私たちの健康はそういう実験動物の犠牲の上に成り立っているということを知っていて欲しい。

 だからこれを読んでくださった方々も、薬を飲む時には少しでも実験動物への感謝を持っていただけたら嬉しいと思う。

 ……という事を書きたかったがために、かなり脱線してしまった。

 話を戻す。

 許安は熊が完全に死亡したのを確認すると、心の中で数を数えるのを止めた。

 そして毒矢を一本取り出し、その鏃をまじまじと眺めた。

「……売ってもらった時に聞いていた話よりもだいぶ早く効いたみたいだ。狩猟で普通に使うものより、かなり強い毒矢が作れたんだと思う」

 そんな許安へ魅音が後ろからおぶさるように抱きついた。

「すごい!やっぱり安ちゃんは天才!」

 歓声を上げて賞賛したつもりだったが、抱きついた勢いで許安の上半身が大きく傾いた。

 それにより、手に持った矢の先端が許安の顔すれすれを流れる。

「うぉおお!?」

 幸い皮膚に傷はつかなかったものの、切れた髪の毛が数本はらはらと落ちた。

「あ、ごめん」

 魅音は軽く謝って頭を掻いた。

 雲嵐はそんな二人に呆れたようなため息をついた。

「はぁ……まったく、気をつけろよ。冗談じゃすまないぞ」

 そう注意ながら、腰に下げた短刀を抜く。熊をこの場で解体するのだ。ある程度バラさないと大きすぎて運べない。

 三人は熊の血抜きをした後に毛皮を剥ぎ、内蔵を取り出した。そして可食部を切り取っていく。

「こいつは臭いが少ないな。当たりだ」

 熊も個体によって食べ物の好みが異なるが、その好み次第で肉の臭みも違うという。

 雲嵐たちが仕留めた熊は臭みが少なく、上等なものだった。

 魅音も兄の言うことにうなずいた。

「ホント。毒矢の刺さった部分を切り取るのがもったいないくらい」

 そう言いながら、その周囲の肉を切り除いていく。魅音も女だてらにこういった事には慣れているから手際は良かった。

 許安の方は足を順次切断していった。

「そう思うと、やっぱり毒矢での狩猟は良し悪しだね。さっきみたいに事故になりかねないし……」

 別に根に持っているわけでもないが、そんな事をぼやいてみる。

 そうこうしている内に、熊は見事にバラバラにされていった。それを二度に分けて村まで運ぶ。

 それから雲嵐は肉の一部と胆嚢たんのうを笹の葉に包んだ。

「これを村長さんに届けてくるよ。あの人、胃腸が悪いとか言ってたから熊の胆は喜ぶだろ」

 熊の胆嚢は現代でも薬として用いられている。熊胆ゆうたんという生薬名で知られ、その健胃・利胆作用から消化器の不調に効果がある。

 雲嵐がそれを届けると、村長は期待通り喜んだ。

「おお、いつもすまないな。しかも今日は熊胆付きか。ちょうど胃が悪くなりそうな案件が入った所だったからありがたいぞ」

「胃が悪くなりそうな?何か厄介事ですか?」

「厄介も厄介。孫策様の軍がこの近くで野営するらしいんだ。その世話を命じられた」

「ええ!?」

 雲嵐は思わず大きな声を上げた。

 毒矢ができたので、次は孫策に近づく算段だと思っていたのだ。それがまさか向こうから来てくれるとは。

「驚くだろう?軍の演習らしい。その先触れの兵が来て、野営中の手伝いをしろと言って来たんだよ」

「それはまた……大変そうですね。具体的にはどんな事をするんです?」

「兵の食事の世話や、物資の補給だ。物資の方はそれなりの対価を払っていただけるという話だが。しかしそれより何より、何か粗相でも起こしてしまわないかが怖いんだよ。あの小覇王に睨まれるのは避けたいものだ」

「確かに胃が悪くなりそうな厄介事ですね……孫策様を直接接待することもあるんですか?」

「いや、それは無いらしい。本当に兵卒のみが相手だから、言われた通り食事を作って物資を渡せばいいだけではあるんだが……」

 それでも村長は胃を押さえながら眉根を寄せた。確かに気疲れする仕事だろう。

 雲嵐はその話を詳しく聞き、帰ってから許安と魅音に伝えた。

「まさか、こんなトントン拍子に進むなんて……」

 本来なら喜んでいいことなのだろうが、許安はむしろ不安を覚えた。こうも順調だと、逆に怖いと感じてしまう。

 魅音は話を聞いてから、急に表情を消して静かになった。無言で自分の弓を撫でている。

「それで、孫策が来るのはいつなんだ?先触れの兵が来たってことは、そんなに先じゃないんだろ?」

 許安の質問に、雲嵐はその目をまっすぐ見ながら答えた。

「明日だ」

 堂々とそう言ったものの、本当は今晩だった。
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