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短編・中編や他の人物を中心にした物語

短編 張裔1

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時は遡り、劉備軍による益州侵攻が進められていた頃。


「なぜだ!?なぜあそこに敵兵がいる!?」

 軍を率いる張裔チョウエイは、喉を引きつらせるような声を上げた。

 無理もない。敵の部隊が出てきた茂みは張裔の陣の脇腹をモロに突ける位置にあった。

 当然ながら、そんな所にはあらかじめ斥候を送って伏兵がいないことを確認している。

 しかし、現実問題として敵兵は現れているのだ。

「横撃に備えろ!予備隊をそちらに回せ!」

 そう命じつつ、明敏な張裔は敵兵がどこから来たのかの検討をつけた。

(……半刻ほど前のぶつかり合いで崩した部隊だな。恐らくやられたと見せかけて、茂みに集結していたのだろう)

 思い起こしてみると、妙に手応えの小さな敵部隊がいくつかあった。きっとそれらはこの奇襲のための布石だったのだと思われた。

(ということは……まずい!)

 冷や汗を感じながら、大声で命じる。

「魚鱗を左右、背後にも回せ!あらゆる方向からの奇襲に警戒せよ!」

 周囲には茂みが多い。そして手応えの小さかった部隊は複数あった。ということは、そこら中の茂みから敵兵が現れる可能性があるということだ。

 張裔の軍が今とっている陣形は魚鱗の陣といって、部隊を鱗のように何枚も重ねて大きな三角形を作る陣形だ。本陣はその中央後方にある。

 何枚もの魚鱗となった部隊を次々に投入できるため、防御や消耗戦に向いた陣形ではある。ただしそれはあくまで前面の敵に対してであり、陣形の向きと本陣の位置的に、どうしても横や背後からの攻撃には弱い。

諸葛亮ショカツリョウめ……そのつもりでここに誘い込んだな)

 張裔は歯噛みしながら、敵将の名を心の中でつぶやいた。

 諸葛亮。

 事前の情報で相当な切れ者だという話は聞いていた。今のところ、その智謀に良いようにあしらわれている。

(まるでこちらの心を読まれているようだ)

 張裔は戦いながら、ずっとそう感じていた。本気でぶつかりたい時には軽くいなされ、攻められたくない時には必ず攻められる。

 単純に劉備軍が強いということはあるが、それだけではない。動かす者の強力な智謀が感じられた。

 そして、この奇襲だ。茂みが危険なことは分かっていたので調べながらこの戦場に移動してきたが、そんな普通の警戒では諸葛亮には足らなかった。

(まるで人間を相手にしている気がしないな……)

 この奇襲だけでなく、これまでの戦い全体を思い返してそう感じた。

 全てを見透かされている。なにか、人間ではない別の生き物を相手にしているかのようだ。

「しかし……茂みに隠れられる敵兵は多くなはいぞ!しばらく守りに徹しさえすれば、本陣まで崩されるほどではないはずだ!魚鱗を横や後ろにも回したら、そのまましっかりと固めろ!」

 張裔は叫びつつ、また周囲の茂みへと目を配った。今のところ、初めに出てきたところ以外からは敵兵は現れていない。

 と、そこへ大きな音が響いてきた。

 ドンッ

 そんな重低音に顔を向けると、世にも不思議な光景が目に飛び込んできた。

(人とは……空を飛べるものだったのか?)

 張裔は、らしからぬ間抜けなことを考えた。

 しかし、飛んでいたのだ。人が。

張飛チョウヒだ!!張飛が来たぞ!!」

 自軍の誰かがそう叫んだ。

 張裔が相手をしている軍の将は、諸葛亮だけではない。張飛もいた。

 そして、その張飛の騎馬隊が突撃して来たのだった。ちょうど張裔の陣の真正面からだ。

「止めろ!崩れた魚鱗はすぐに立て直せ!」

 そう命じて、次々に魚鱗をぶつけていく。

 が、張飛を先頭とした騎馬隊は止まらない。こちらの部隊を、まるで鱗剥がしで削いでいく程の軽さで崩していく。

「何をしている!先頭の張飛を討ち取ればそれで止まるぞ!大将首はそこだ!」

 張裔はそう兵を叱咤したが、言っている張裔自身がその光景を想像できずにいた。それくらい張飛の強さは人間離れしていたのだ。

 張飛がほこを振る。刃の部分が蛇のように波打った、特殊な鉾だった。

 その鉾が横に動くと、兵の首が三つ飛んだ。それも、剣や槍を両断しながらだ。

 その横薙ぎの力をそのまま利用して、今度は石突きの部分が別の兵の胸に当てられた。

 すると、その兵は馬車にでもぶつかったかのように吹き飛んだ。それが他の兵たちにまたぶつかり、張飛の前の道が空く。

 もはや兵が恐慌状態になってもおかしくないような光景だったが、それでも勇猛な自軍兵はいた。張飛に向かって横合いから鉾で突きかかっていく。

 が、張飛はその鉾の柄を片手で無造作に掴んで止め、鉾ごと投げ飛ばした。兵は信じられないといった顔で宙を舞っていた。

 弓兵が遠くから矢を射かけたが、手刀で叩き落される。馬を狙う者もいたが、鉾のひと振りで馬への射撃まで防がれた。

(無理だ……あれは止められない)

 張裔はそう悟った。

 もちろん張飛にも限界はあるだろう。もし万全の陣形で突撃されたなら、むしろ部隊ごと包囲できたであろう攻め方だ。そのくらい、力技の一点突破だった。

(しかし、今は左右と後ろにも兵を割いている。これでは防ぎきれん)

 茂みからの奇襲に備え、本来前面に厚くしてある魚鱗を全方位に回していた。今から戻しても間に合わないだろう。

(……諸葛亮!!)

 張裔は再びその名を心の中で叫んだ。

 張飛の武力は凄まじい。だが、やはりそれを最大限に発揮する場を作り出したのは諸葛亮なのだ。

 そしてこの段になって、ようやく張裔は他の茂みには敵兵がいないであろうことを察した。

 あれは奇襲目的ではなく、こちらの陣形を崩させるために打った一手であったからだ。であれば、複数の茂みに兵を隠れさせても早期に見つかる危険性が高くなるだけだった。

 ただ今さらそれが分かっても、自分と諸葛亮の勝負の結果には何の影響も及ぼさない。

(詰んだ……張飛はこの本陣に届く)

 張裔は明敏であるがゆえに、己の敗北を即座に理解した。

 となれば、取るべき道は一つだ。

「撤退する!後方の部隊は先行して伏兵がいないかを確認!本陣もすぐに下がるぞ!左右の部隊は崩れた前面を援護して陣形を整えさせろ!これからは潰走を避けることだけを考える!」

 張裔の早すぎる決断に、一人の部下が異論を唱えた。

「まだ我が軍は戦えないほどの損害を被っておりません!」

「本陣が、頭が潰されるのだ。現時点での損害の大きさは関係ない」

「ここを抜かれれば成都城が包囲されます!」

「籠城戦を考えればこそだ。ここでいたずらに兵を減らすわけにはいかん」

「皆で力を合わせれば、あんな虎ヒゲ男など……」

 そう言う部下を、張裔は睨んだ。

 そして剣をすらりと抜く。

(精神論まで持ち出したか……何たる非効率だ)

 張裔は怒っていた。

 張裔という男は、何よりも効率を重んじる。だから非効率なものには、憎しみに近いような感情を抱いてしまうのだった。

(この部下は、非効率なことこの上ない。むしろ斬ってしまった方が効率が上がる)

 そう判断した張裔は剣を振り上げた。そして叫ぶ。

「ここで私に斬られるか、張飛に突撃して肉塊になるか、選べ!どちらも嫌ならば軍令に従うべし!」

 半ば本気でこの部下を斬るつもりだったが、幸いなことにそれ以上の不平は口から出て来なかった。張裔の本気が伝わったからかもしれない。

 そしてその様子を見た周囲の人間たちも、撤退に対する迷いを消した。全員が敗走の損害を減らすため、俊敏に動き始める。

(効率が、上がったな)

 張裔は大きな敗北の中で、その事に小さな満足を覚えていた。


***************


「こちらが降伏にあたってお願いしたい事項です」

 張裔チョウエイは卓の上に書状を差し出した。

 それを劉備リュウビが受け取り、隣りに座った諸葛亮と共に目を通す。

 張裔は今、益州を支配していた劉璋リュウショウの使者として降伏の交渉に来ているところだった。

 劉備は元々、劉璋の敵である張魯チョウロを倒すと称して益州に招き入れられていた。そういう事情だったので劉璋は兵や物資を貸し与えていたのだが、劉備は手のひらを返して劉璋を攻めてきた。

 あんまりといえばあんまりな侵略行為ではあるが、『勝てば官軍』という言葉の分かりやすい例ではある。実際、劉備は今回の戦勝でここ益州の支配者となるのだ。

 成都城を包囲された劉璋は余力を残しながらも『これ以上民を苦しめたくない』との理由で降伏を決意した。そしてその使者として、張裔が劉備の軍営を訪れているのだった。

(これが諸葛亮……)

 張裔は自分を負かした男の顔を、感慨深く眺めた。

 諸葛亮は長身で、涼しげな目元をしていた。パッと見にはそれだけの男に見えるのだが、この頭の中にはちょっと考えられないような智謀が詰まっている。

(あれから何度、あの敗戦を思い起こしたか)

 夜、床につくたび脳裏に浮かぶのだ。

 そしてその都度、諸葛亮の打った一手一手の意味に気付かされる。人間の思考で到れる領域ではないように思えた。

(諸葛亮とは、人間ではない)

 何度もそう思ったが、目の前にいる諸葛亮はただの人間で間違いはない。

 しかし頭の中で何度も何度も敗戦を繰り返した張裔にとって、すでに諸葛亮は雲の上の存在のように思えるのだった。

 その天上人は、張裔の差し出した書状に目を通してごく普通のことを口にした。

「……私としては、特に異論はありません」

 劉備もその言葉にうなずいた。

「私も概ねこれで良いと思うが、一応全員確認しておけ」

 劉備は同席している諸将へ書状を回した。

 卓には諸葛亮だけでなく、張飛や趙雲チョウウン黄忠コウチュウなど錚々《そうそう》たる面子が並んでいる。

 張飛は書状を受け取ると、すぐに隣りの趙雲へ渡した。

 ろくに見もしなかったどころか、その目は書状ではなくずっと張裔に向いていた。

「なかなかの逃げ足だったぜ。あんたを斬りそこねたよ」

 そう言ってニヤリと笑う。

 その表情に、張裔は心の底から震え上がった。

 無理もないだろう。この男が少し動くだけで、人の命が蝋燭の火のように消え去っていた。それを目の当たりにしたのだ。

「私は……今回の戦で、自分が武官に向いていないことがよく分かりました。私はあくまで文官で、帳下司馬ちょうかしばなどという役職を受けるべきではなかった」

 張裔は自嘲して、正直な胸の内を話した。本当に向いていないと思う。

 しかし諸葛亮はその言葉を否定した。

「そうでしょうか?私は張裔殿の戦は見事だったと思います。戦っていて、頭の良い方だということがよく分かりましたし」

 言われた張裔はまた自嘲を深くした。

 頭が良いと言われても、それを見越した諸葛亮から『頭が良い人間ならこう反応するだろう』という罠を張られて、見事に引っかかったのだ。

 あそこで全周囲の茂みに警戒して陣を動かさなければ、もう少し結果は違っていたように思う。

(……いや、それでも敗けという結果は変わらないか。私の敗走は避けられなかっただろう)

 彼我ひがの能力を鑑みて、張裔は素直にそう思い直した。

 そこへ、今度は張飛が敗走を褒めてくれた。

「張裔殿は弱くはねぇよ。さっきも言った通り、逃げっぷりは良かった。上手く逃げられるやつは、戦下手じゃねぇからな」

 諸葛亮もそれに同意した。

「張飛殿の言う通りです。実際、我々は潰走する張裔殿を追い討ちに討つつもりでしたから。しかし撤退の判断が早く、途中に追撃を躊躇させるような物がいくつもあったので、こちらも追撃を遅らせてしまいました」

 張裔は撤退しつつ、罠らしきものや理解が難しいものを多く置いてきていた。例えば逆茂木が妙な所に理路整然と並べられていたり、意味のなさそうな所の草が刈られていたり、といったようなものだ。

 それが完全に無意味なものならば追う側もただの目くらましだと思うだろう。しかし、張裔はそのいくつかに本当の罠を仕掛けさせた。

 それで諸葛亮は警戒せざるをえず、張裔の軍は敗走の被害を最小限に食い止められたのだった。

「確かにあの時の撤退は上手くいったのかもしれませんが、そもそも戦の場には向いていないように思うのです。私の本領は、こういったものですね」

 張裔は先ほどのものとは別に、もう一枚の書状を卓に置いた。

 諸葛亮がそれを手に取る。

「これは?」

「降伏前後の事務処理を効率的に行うための要点です。こちらは私個人が勝手に検討したものですので、あくまでご参考程度にしていただければと思います」

 それに目を通す諸葛亮の眉根は、次第に寄せられていった。そして読み切った後には、反対に晴れやかな顔になっている。

「これは……本当に素晴らしい提案です。そちらの事情がよく分かりますし、この紙一枚で戦後処理の効率は格段に上がるでしょう」

「ありがとうございます」

「張裔殿は確かに事務処理の官僚として抜群の能力をお持ちのようだ」

 諸葛亮の言葉を聞いた劉備は目を光らせた。

「今後、能力の高い人間は我が陣営にどんどん受け入れたいと思っている。劉璋殿配下の方々には、その気はあるだろうか?」

 張裔は首肯した。

「多くの人間はそのつもりでおりますし、劉璋様もそれを勧めておられました」

「何?劉璋殿が?」

 劉備は困惑に眉をひそめた。

 劉璋の側からすれば、劉備はただの侵略者に過ぎない。どう見ても劉璋は被害者であるにも関わらず、戦後はその加害者に仕えろと言うのか。

「不思議に思われるかもしれませんが、劉璋様はそういう方なのです。それに益州は歴史的にもそういった風土の強い地ですので、多くの人間はさしたる抵抗もなく劉備様に仕えるでしょう」

「そうか……それは助かる」

 劉備は本気でありがたいと思った。これから広大な土地を治めるにあたり、優秀な人間はいくらいても足りない。

 諸葛亮は張裔の書いた書状をひらひらと揺らした。

「張裔殿。もし良かったら、この紙のように有能な方々の情報をまとめていただけませんでしょうか?」

「それは構いませんが……私の人物評がどこまで当てになるか。正直に言いますと、私は効率の悪い仕事をする人間はいかに清廉でも、あまり評価する気にならないのです」

 この時代、役人として働くには清廉であることが強く求められていた。

 しかし張裔にはそれがいまいち理解できない。大切なのは実務能力だと思っている。

 諸葛亮は紙に書かれた文章と張裔の顔とを見比べて、何となく納得できた。そういった性向のある人間の書く文章に思える。

「なるほど」

「もし他の適任者を求めるなら、しょく郡太守である月旦評げったんひょうの許靖様を推させていただきますが」

 その名を聞き、劉備と張飛が声を高くした。

「許靖!?そうだ、許靖殿がいる!!ご健在なのだな!?」

「また、なっつかしい名前が出たもんだな!!そういえば蜀郡太守だったか!!兄貴、この間の夜襲が失敗してよかったな!!成功してたら許靖殿も殺してたかもしれねぇからよ!!」

 張飛はそう言って笑い声を上げた。

(そういえば、ちょっとした知り合いだと言っていたな)

 張裔は許靖がそんなことを言っていたのを思い出していた。

 二人の反応を見る限り、ちょっとした、という感じではなさそうに思えたが。

「許靖様はご健在ですよ。ただ……何でも成都城を一人脱走しようとしたとかで、縄を打たれて市中を連行されていたと噂になっていました」

「なに、脱走?」

 劉備は首を傾げた。

 確かに勇猛に戦うような型の人間には見えなかったが、少し違和感があるように感じられる。

 張飛も同じことを思ったようだ。

「許靖殿が脱走か……まぁ、言っちゃわりぃが臆病な人間ではあるし、ないことじゃないかもしれねぇな。だが……なんか事情があるんじゃねぇか?そもそも脱走なんて簡単に出来ることじゃねぇだろ?」

 張裔もそう思っていたので、うなずいて応じた。

「私も変だとは思っているのですが、詳細はうかがっていません。ただ一つ言えるのは、その直後に劉璋様から降伏の意思が表明されたということです。許靖様と劉璋様との間で何かあったのだと思うのですが……」

 張裔にはそれ以上何も言えなかった。

 正直な所、劉璋配下の誰にとっても許靖の脱走騒ぎよりも降伏の方が重大だ。だから脱走の詳細は知られておらず、ただその事実だけが広まっていた。

 諸葛亮が小さく手を上げた。

「もしよろしければ、許靖殿には私の方でお話をうかがっておきます。ぜひお会いしたいと思っていた方ですので、時間を取って益州人士の情報をいただいておきましょう」

 劉備はうなずいて了承した。

「いいだろう。とりあえずはそうしてくれ」

「ありがとうございます。それと、張裔殿。いただいた降伏前後の事務処理の要点ですが、一点だけ気になることがあります」

「なんでしょうか?」

「この『蓄えられた兵糧の処理』という点ですが、『劉璋様に一任』というのはちょっと……」

 張裔は確かにそう書いていた。

 が、考えても見れば無茶な話だ。劉璋は降伏軍の長なわけで、普通ならしばらくは軟禁状態になるだろう。何ら力を持たせるわけにはいかない。

 そんな人間にそれほど大きな仕事を任せるというのは、ちょっとありえない話だった。

 張裔もそれは分かっているのだが、はっきりと首を横に振った。

「しかし、それが一番効率が良いのです。せめてその処理について、劉璋様のご意見を聞かれればよろしいかと思います」

「まぁそのくらいなら構いませんが……それはつまるところ、劉璋様が一番食糧事情を把握している、ということですか?」

「それもありますし、劉璋様はこと食事に関することならば、別人かと思うほどに思考が鋭くなるのです。我が軍はかなりの兵糧を蓄えていましたが、それはひとえに劉璋様のお力です」

「三万の兵を城内の民とともに一年食わせるだけの食糧がある、ということでしたね。それにはこちらも驚愕しましたし、恐怖しました。それが劉璋様のお力だということなら、よほどの能力をお持ちということになります」

「能力というか、好きこそものの上手なれ、ということでしょう。劉璋様は、とにかく食べることが好きな方なので」

 張裔はごく真面目にその事実を言ったのだが、その場に同席した劉備の諸将は思わず吹き出した。

 戦っていた敵の長が、急にただの食いしん坊に感じられたのだ。

 張飛が明るいドヤ顔を劉備に向けた。

「ほらな、兄貴。俺が言った通り、よっぽど食うのが好きなおっさんだったんだよ」


***************


「この図面は……物資運搬のための道具ですか?」

 張裔は諸葛亮の執務室でそう尋ねた。卓の上に絵の描かれた紙が無造作に置いてあったのだ。

「ああ、すいません散らかっていて。すぐに片付けますので、降伏後の細かい打ち合わせを始めましょう」

 諸葛亮はその紙をバサリと上げて、張裔の持ってきた書状を広げた。先ほど劉備たちに見せた書状だ。

 諸葛亮と張裔は降伏後の流れの細かいところを詰めるために、二人で話し合いをすることになっていた。

 降伏条件など大まかなところは先ほど合意を得られたが、武装解除の手続きや入城の流れなど、細かく打ち合わせておかないと混乱が起こる。

 が、それよりも張裔は今見た図面の方に心を奪われた。

「あの……もし差し支えなければ、もう少し見せていただけませんか?」

「張裔殿は今後、同僚になって共に働いてもらうつもりなので構いませんが……まだ検討段階の道具ですよ?」

 諸葛亮は言いながら、紙を再度広げてくれた。

木牛もくぎゅう流馬りゅうば、という名前を試みに付けています。完成すれば、険しい道でも兵糧の輸送などが楽になると思うのですが……」

「これは……画期的です。感動しました」

 張裔は世辞ではなく、真剣にそう思った。

 これが完成すれば、益州の険しい山岳地帯でも輸送効率が上がるだろう。

「そうですか?張裔殿にそう言っていただけるのは嬉しいですね」

「そちらの紙に書かれているものは何です?」

 張裔はまた別の紙を指差した。卓には他にもいくつかの紙が広げてあったのだ。

「ああ、天灯てんとうですね。こちらは空飛ぶ灯火です」

「空飛ぶ!?」

「といっても、こちらも構想段階ですが。火で起こる上昇気流を利用して軽いかごを飛ばし、夜間の伝令などで使えないかと考えています」

「な……何という、凄まじい発想だ……では、こちらは?」

連弩れんど(弓矢の一種)を小型化するための検討図です」

「こ、この大きさの連弩が作成可能なのですか?」

「可能は可能だと思うのですが、これもやはりまだ構想段階ですよ。ただ、私としてはこうやって様々な可能性を検討していって、常に改善を繰り返すことで効率を上げていくことが大切だと思うのです」

 その言葉に、張裔の心は震えた。

 目の前の男の考え方は、張裔の価値観にこの上もなくはまった。

 そして、その頭から湧き出る智謀は張裔の想像の壁を軽く踏み越えている。

(この人は……神仙か?はたまた龍の化身ではなかろうか?)

 極度の現実主義者である張裔は、生まれて初めてそんなことを考えていた。


***************


 熱気渦巻く鍛冶場の中、金属と金属がぶつかる音が鳴り響く中で、張裔は一つの棚を睨んでいた。

 別に特段変わった棚ではない。ただの鍛冶道具が収められた棚だ。

 が、張裔にはそれが憎々しく思えていた。

「……この棚は、なぜここにある?」

 聞かれた鍛冶の職長は、張裔の意図を測りかねた。なぜも何も、鍛冶道具を収納しておくためだ。

「あの……道具を入れておくためで……」

「そんなことは分かっている。そうではなくて、なぜこの位置にあるのかということだ。この棚があるから動線が遮断されて、効率が悪くなっているではないか」

 張裔が言いたいのは、要はそういう事だった。

 その棚は壁にぴったりと接していた。しかも横に長く、鍛冶場の半分以上の長さになっている。

 つまるところ、この棚のせいで鍛冶場はコの字型の空間になってしまっており、端から端に行くには長い距離を移動せねばならない。

 もし壁から人が通れる程度の距離を離せば、作業空間はコの字型からロの字型になって、ぐるりと回る動線が確保できるのだ。

 張裔はそれを説明した。

 しかし、職長の反応は鈍いものだった。

「はぁ……でもまぁ、今のところこれで問題なくやれとりますんで。お役所に決められた量もちゃんと作れとりますし」

 ピキッ

 というような音が、張裔のこめかみで鳴った気がした。少なくとも、張裔自身はそう思った。

(ここの職長を、変えよう)

 それをどう伝えようか考えている時、背後から声がかけられた。

「張裔殿。現場回り、ご苦労さまです」

 その声に振り向くと、そこには張裔の最も尊敬する人物が立っていた。

丞相じょうしょう

 張裔はその人を役職名で呼んだ。

 丞相、というのは全ての役人の頂点に立つ官職だ。ここ蜀漢においては建国以来、諸葛亮が就いている。

「こんな所まで来ていただかなくとも、呼べばすぐ参りますのに」

 諸葛亮は最高官らしからぬ、人懐こい笑顔を見せた。

「いえ、張裔殿の仕事の手を止めたくなかったので。相変わらず抜群の実務能力、生産性ですね」

「褒めていただくほどのことはありません。今も……」

「謙遜する必要はありませんよ。張裔殿がこの職に就かれてから格段に生産性が上がっています。しかも郡太守を務めながら、司金中郎将しきんちゅうろうしょう(冶金や農具、武具などの製造を司る)の兼任ですからね」

 張裔は降伏後、そういう立場になっていた。過去に許靖が務めていた巴郡の太守になり、それと同時に農具や武具の製造を担っている。

 激務といえば激務ではあったが、張裔は充実していた。特に製造所の管理などは張裔に向いていたらしく、効率を求めて改善改善の日々は悪くないものだった。

 張裔は諸葛亮を連れて、熱気が身を焼く鍛冶場から出て行った。

 そして少し離れた東屋あずまやに入り、従者に茶を命じてから話をした。

「確かに、私にはこういったことが天職だったようです。許靖様々ですね」

「あぁ、そういえばこの人事は許靖殿の勧めで下されたものでしたね。なんでも張裔殿の瞳の奥に『効率的に運営される工場』が見えるとのことでした。司金中郎将というのは、確かに適任だったのでしょう」

 張裔も許靖の人物鑑定には驚かされることが多かったが、まさか自分にも向いてくるとは思わなかった。自分は普通に事務の得意な官僚で、それ以上でもそれ以下でも無いと思っていたのだ。

 が、こうやって充実感を得られる仕事を出来ている。加えて実績も評価も上がっているのだ。これ以上のことはない。

「張裔殿は充実……されているようですね?」

 諸葛亮はやや口ごもった言い方でそう確認した。

 張裔はそれに引っかかった。

 普通なら聞き流してしまうような台詞だったが、張裔にはその違和感が分かる。なぜなら諸葛亮という存在は、張裔にとってすでに本来の主君である劉備以上に大きな存在になっていたからだ。

 諸葛亮は、とにかく仕事が出来る。それはもう大変な効率の良さだった。

 そして張裔は、そういう男が好きだった。自分の中で何かピタリとまる気がするのだ。

 劉備陣営に入り、同僚として諸葛亮の能力を間近に見た張裔の認識は、すでに尊敬を通り越して尊崇の域に入っていた。

 その一挙手一投足を見て、どのように効率が良い選択をしているかを考える。それがまた楽しかったし、その意図を見抜いたときには心が踊った。

 だから諸葛亮が多少口ごもったという程度のことでも、その裏に何かあるのだということがすぐに分かった。

「人事異動、でしょうか?」

 張裔は無駄な言葉を避け、単刀直入に尋ねた。

 それをすぐに察せられた諸葛亮は驚いて目を大きくし、それから申し訳なさそうに頭を下げた。

「申し訳ありませんが、おっしゃる通りです。張裔殿はさすがに明敏ですね」

 明敏どころではない頭脳を持った諸葛亮から言われても嬉しいとは思えなかったが、それでも自分を気づかってくれているということは分かった。

「どういった異動でしょうか?」

「巴郡太守から、益州郡太守への異動という話でまとまりかけています」

 ここで出てきた地名が多少分かりづらいが、益州郡というのは益州にいくつかある郡の一つだ。

 益州の中に益州郡があるのだから、どうにもややこしい。しかもこの益州郡は首都のような中心地域ではなく、南部の一地方になる。

 ちなみに現代日本の場合、地方自治体の大きさは県→市→郡→町村といった順になるが、三国志においては州→郡→県となる。日本とは郡と県が逆になっていてこれまたややこしいが、廃藩置県の時にそうしてしまったので仕方ない。

「益州郡というと、前太守が地元民に殺害されたという……」

「そうです。どうも南方の郡は新しい政権に抵抗があるらしく、地元民の反発が大きいと言う話でした。南方は異民族も多いですし、統治が難しいのは確かですね。だからきちんとした仕事の出来る者を送り込みたいのです」

(貧乏くじな気がするな)

 張裔は正直なところ、そう思った。

 諸葛亮もそれは分かっているだろう。だから無理強いはしなかった。

「もし張裔殿が断るなら、強いて異動はさせません。ですが、もし受けていただけるなら助かります」

「丞相は、そこで私に何を期待されているのです?」

 自分に話が持ってこられたということは、何か具体的な理由があるはずだ。先ほど『きちんとした仕事の出来る者』と言っていたが、それだけではないように思える。

 実際、諸葛亮には思惑があった。

「張裔殿には、益州郡において産業の効率化を計ってほしいのです」

「効率化?」

「そうです。新しい政権として益州郡に恩恵をもたらしたいのは山々なのですが、それをできるだけの力がまだありません。そこで益州郡の生産性を上げることで豊かにし、それを以て新政権への好感に繋げたいのです」

 張裔は諸葛亮の言うことに納得した。

 確かに今の劉備政権は、力が小さいのだ。特に銭の力が。

 劉備はこの土地の人間ではないから潜在的な味方というものがいない上に、代々仕えているような家臣もいない。結果としてその心を掴むには褒賞に頼らなければならない部分があった。

 劉備の人としての求心力はとても強いものではあるが、それだけで人は動かないのも世の摂理だ。

 益州を陥とした劉備は、蓄えられていた金銀資産の多くを将兵に配った。そうやって人心を得る必要があったのだ。

(それはそれで仕方なかったことだし、効果も上がったのだが……どうしても今現在の資金力に乏しい)

 諸葛亮は苦々しい気持ちでそれを思った。

 資金力がなければ、地方に恩恵をもたらそうにも難しい。税を減免したり、公共事業を行うことも出来ない。

 それで重臣で話し合った結果、張裔の能力に頼ってみることになった。作業効率や組織効率を上げることで益州郡自体の生産性を引き上げ、それによって豊かさを与えようという話になったのだ。

(果たして上手くいくか……)

 実は諸葛亮自身、この方針には少なからぬ疑問を感じていた。

 もちろん張裔が無事その仕事を果たすことができれば益州郡の生産性は上がるだろう。民にも感謝してもらえるはずだ。

(しかし、前太守を殺害した下手人もまだ捕まっていない状況だ。そもそも現時点での赴任は危険すぎるようにも思えるが……)

 実はこれが最も問題なことなのだが、太守殺害などという大事件が未解決のままだった。しかし調査しようにも、すでに益州郡の人心が離れているため調査員を送ってもまともに進まないらしい。

 どうやら地方豪族の仕業らしいのだが、そうなると余計に調べようがなかった。地域ぐるみで隠蔽されてしまうからだ。

(しかし、事件が未解決だからといって太守を長期間空席にしておくわけにもいかない。そして現状、益州郡のためになる行政を行えそうなのは張裔殿しかいない)

 そうなると、結局はこういった選択肢をとるしかないという結論に至ったわけだ。

 諸葛亮もこの辺りの事情は理解しているから仕方ないと思いつつ、張裔に頼みに来たのだった。

 ただし、先ほども言ったように無理強いするつもりはない。かなりの危険を伴う赴任ではあるからだ。

「この異動は張裔殿さえ良ければ、というものです」

 諸葛亮は重ねてそれを伝えた。

 しかし、張裔は不満だった。だからはっきりその旨を伝えた。

「そういう事でしたら、嫌です」

「……分かりました。でしたら他の人間を……」

「ですがもし丞相が、丞相のご命令として『益州郡に太守として赴任せよ』と言われるなら、私は謹んでお受けいたします」

 張裔の不満はそれだった。

 張裔の諸葛亮に対する感情はすでに好意という程度の表現では不足するほどになっていた。

 忠誠心とは違う。張裔が忠誠を誓うべき相手は劉備であって、諸葛亮ではない。

 ただ、この感情が忠誠心でないにも関わらずこれほど強いということは、むしろ張裔の思いの強さを際立たせていた。

「丞相のご命令であれば、私は死ぬことすらできます」

「張裔殿……」

 諸葛亮はその言葉をありがたく思いながらも、言葉の重さに押し潰されそうな思いがした。

 自分の命令で、部下を死地に追いやる可能性があるのだ。

 諸葛亮はそのことに恐怖しながらも、半ば諦めるように思った。

(今さら……だな。私がこれまでに、どれだけ多くの人間を死地に追いやってきたことか)

 諸葛亮は劉備に付き従って以来、多くの部下・仲間の命を奪ってきた。諸葛亮の命令や提言一つで、非常に多くの人間の命が左右されてきたのだ。

 それはどうしても慣れないことではあり、常にその重さに押し潰されそうになっているが、もはや止まることなど出来はしない。

 自分は劉備・関羽・張飛の三兄弟が作り出す世界の道標みちしるべとならなければならないのだ。

 諸葛亮は背筋を伸ばし、毅然とした態度で命じた。

「丞相として命じます。巴郡太守張裔は、益州郡太守へ転任。引き継ぎが済み次第、早急に現地へ赴任しなさい。あらゆる産業の生産効率を改善し、民の生活に豊かさをもたらすように」

「了解いたしました」

 張裔も背筋を伸ばして拝命した。諸葛亮のきっぱりとした物言いに満足だった。

 それから引き締めた表情を崩し、柔らかな笑顔を見せた。

「正直な所、農具や武具の製造が軌道に乗ってから多少の手持ち無沙汰を感じていたのです。その影響か、今日もちょっとしたことでここの職長を変えてしまおうとしていました」

「そうなのですか?まぁ、張裔殿が必要だと判断したなら変えればいいことだとは思いますが」

「いえ、その職長は現場連中からとても好かれているのです。だから長はそのままで、その補佐に効率的な思考・改善思考を持った人間を置くことにします。劉備様と丞相を見て、それが効率的な組織運営なのだと分かりました」

「なるほど。確かにそれはその通りかもしれませんね」

「丞相に出会ってから、本当に多くのことを学ばせていただきました。ありがとうございます」

「いえいえ、などと普段なら謙遜するところですが、あえて受け入れましょう。そして張裔殿にはまだまだ学んでいただきたいと思います。だから、無事に仕事を終えて帰ってきてください」

 益州郡への赴任が危険なものであることは分かりきっている。だから諸葛亮は命令ではなく、願いとして張裔の無事を口にした。

 そして極めて優秀な官僚の手を取り、願いを込めて強く握った。

 張裔はそんな上司の思いを喜んだ。

「ありがとうございます。ただ先ほども申し上げました通り、私は丞相の命令であれば死ぬことすら出来るのです。たとえ益州郡で縛り首になろうとも、私に後悔はありません」

 しかしそう言って益州郡に赴任した張裔は、赴任後十日あまりで首に縄を巻かれていた。
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