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守る

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 そこには震える手で剣を握った許靖が立ちつくしていた。

「はぁっ……はぁっ……逃げるんだ、二人とも」

 許靖は浅い呼吸を繰り返しながらそう言った。

 血の滴る剣を、どこか焦点が合わない瞳で凝視している。その眉根は大きく歪められ、見るからに苦悶の表情を浮かべていた。

 もし絶望というものがこの世にあるとしたら、許靖の顔はそれを表現できていただろう。

 許靖は心の病を抱えている。抜身の剣を見るだけでも発作を起こし、動悸や過呼吸を起こしてしまうのだ。

 そして、それは董卓に強制されて十人も殺めてしまったという苦悩に起因している。

(もう殺したくない)

 許靖は発作を起こすたびに、心の中でそう叫んできた。

 しかし今、孫たちを守るためとはいえ、また人を殺してしまった。

 心の発作を起こすほどに辛い記憶、辛い思いを抱えているにも関わらず、それをまた繰り返してしまったのだ。

 許靖の精神は今にも崩壊しそうだった。

 しかし、今は目の前の孫たちを守らねばならない。それは自分にとって、何よりも大切なことだった。

 だから心が壊れるのをなんとか食い止め、二人を逃がそうとした。

「た……隊長!!よくも隊長をっ!!」

 兵たちの一人が叫びながら剣を振り上げて駆けてきた。

 上段に構えた剣を、怒りとともに許靖めがけて振り下ろす。

 許靖の瞳はギョロリとその兵を向いた。それがまるでこの世のものではないようで、兵は恐怖を感じて動きをやや鈍らせた。

 ただし、剣はすでに初速を得ている。刃はまっすぐに許靖へ向かって落とされていった。

 誰もが当たると思った次の瞬間、許靖の体がぐらりと揺れた。許靖はふらつくように半歩横に踏み出しながら、手にした剣を下から上へと軽く振った。

 それは、本当に軽い動きに見えた。しかしその軽い動きで兵の剣は空を切り、そして同時に兵の首から鮮血が吹き出した。

 許靖の剣が、敵の頸動脈を正確に斬っていた。

「あ゛……あ゛……あ゛……」

 濁ったうめき声が上げられた。

 春鈴は初め、それは死にゆく兵が上げた声だと思った。しかし兵は無言で倒れていっただけだ。

 そのうめき声は、全身に血を浴びた許靖の上げた声だった。

 味方をもう一人斬った許靖に対し、兵たちがさらに怒りを募らせながら襲いかかった。

 二人の兵が同時に許靖を斬りつけようとする。許靖はその間を割るように踏み込んだ。

 それで敵兵は剣を思い切り振ることが出来ず、刃は許靖の服までしか届かなかった。

 許靖は剣を上げて横に構え、二人の間で体を回した。剣の切っ先はきれいに二人の頸動脈を撫でる。

 許靖はまた血の噴水を浴びた。

 間髪入れず、また別の兵が突きかかってくる。剣に体重を乗せた突きで、体ごと許靖へ突進してきた。

 許靖の足はその場を動かず、上半身を捻りながら剣の切っ先を兵へと向けた。

 許靖の体は突きの軌道から外れ、逆に勢いのついた兵の首は許靖の剣へと突き当たることになった。また頸動脈が斬れ、許靖は血しぶきを浴びた。

(靖じい様……強い!)

 春鈴は祖父の動きを驚愕の思いで見ていた。

 これまでのどの動きも敵の攻撃をぎりぎりでかわしながら、一撃で急所を仕留めている。武としてこれ以上無いほどの理想的な動きだ。

 祖父は今まで道場でもまともに武術など習っていなかったように思える。拳でも蹴りでも、繰り出せば冗談をやっているようにしか見えなかったほどだ。

 しかし考えてもみれば、攻撃を避ける術や捌く術は祖母から教わっていた。

(攻撃を避けながら、剣を頸動脈に当てることだけを考えているんだ)

 春鈴は祖父の動きから、そう検討がついた。

 道場で攻撃を繰り出す許靖がまともな動きをしていなかったのは、そもそも許靖の頭に相手を攻撃する前提が作られていなかったからだ。しかし、今は相手を殺すことだけを考えて動いている。

 立て続けに五人を斬った許靖に対し、兵たちは警戒心を高めて距離を取った。武器を構えたまま遠巻きに囲み、じりじりとその間合い測る。

 そしてこれからの攻め方を考えながら、誰か自分以外の者がまず踏み出すのを期待した。

 ここで隊長が生きていれば的確な指示を出しただろうが、幸い許靖が初めに倒したのが隊長だった。それが兵たちに混乱と不安を招いていた。

「あ゛……あ゛……あ゛ぁ!!」

 許靖はまた濁ったうめき声を上げた。

 兵たちはそれを不気味に感じ、さらに半歩下がる。

 兵たちには恐怖を与えたうめき声だったが、許游とっては違った。許游には、祖父の上げている声の正体が分かる。

 そしてそれを思うと、許游は胸が張り裂けそうだった。

(靖じい様が……壊れてしまう)

 許游の感じやすい心は、はっきりとそれを感じていた。

 許靖の上げているその声は、戦いのために自分を鼓舞しているわけではない。相手を威嚇しているわけでもない。崩れそうな心を保とうと、必死にもがいている声なのだ。

 最も忌避していた殺しを経て、許靖の精神は今にも崩壊しかねない状態だった。この声はそれを何とか繋ぎ止めようとして、苦しみもがいている声だ。

 そしてそれは自分たち孫を守るためなのだと、許游は知っている。だからうめき声を上げながら剣を構える凄絶な背中に、涙が溢れてきた。

(靖じい様……)

 許游の視界は涙で歪み、祖父の姿がぼやけてしまった。

 この祖父の姿をしっかりと目に焼き付けない事はあまりに礼を欠くことだと、許游はそう思った。だからまばたきをして、涙を頬へこぼした。

 反射的に、こぼれた涙を手の甲で弾いた。

 そうすると、体が羽根のように軽くなるのを感じた。先ほどまでの金縛りが嘘のようだ。

(動ける……当たり前だ。生きてるんだから、動けるのは当たり前だ!)

 許游はまだへたりこんでいる春鈴の横を飛ぶように駆け、一瞬で許靖の後ろに立った。

 そしてうめき声を上げる許靖の首筋に素早く手刀を打ち込む。

 苦悶に満ちたうめき声はそれで止み、意識を失った許靖の体はぐったりと力を失った。

 許游は脇の下から腕を入れてそれを支え、屋敷の方へと引きずって行った。そして壁際にそっと祖父を寝かせる。

 兵たちは許游の思わぬ行動にどう動いていいか分からず、戸惑いながらただそれを見ていた。

 どういった事情かは分からないが、目の前の若者は五人も斬った敵を片付けてくれた。これをどう捉えればいいのか、兵たちは悩んだ。

 許游は返り血にまみれて横たわる祖父へ、詫びの言葉をつぶやき落とした。

「ごめんなさい、靖じい様。約束は守れません」
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