三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地~ 家族愛の三国志大河

墨笑

文字の大きさ
上 下
181 / 391

人間ではない

しおりを挟む
「あれは……人間ではない」

 張裔チョウエイは遠い目をして、つぶやくようにそう言った。

「人間では、ない?」

 許靖はそれを繰り返した。

 二人は張裔の執務室で向き合い、湯を飲みながら話をしている。

 本当は茶を淹れたかったが、戦時中でそう贅沢も言っていられない。実際には州で茶も確保してはいるが、先々に備えて出来るだけ節約することになっている。

 張裔は先日自分が率いた戦闘を思い出し、まずは呆然としてから、その後で歯噛みした。

 相手の強さが度を超えていたので、悔しさがこみ上げるのに時間がかかったのだ。

「そうですね……言い訳のようになってしまうかもしれませんが、まるで人間を相手にしているような気がしませんでした」

 張裔は劉備本人と戦ったわけではない。荊州から呼ばれた援軍と戦ってきたのだった。

 荊州から長江を遡って来た劉備の援軍は、巴郡の周辺をまたたく間に攻略していった。

 劉璋はこれを防ぐべく張裔を派遣したが、その勢いを止めることは出来なかった。

 敗れて帰ってきた張裔は敗軍の処理を済まし、ぐったりとしているところへ許靖が訪ねてきたのだった。

「それほどの相手でしたか、諸葛亮ショカツリョウという男は」

 許靖は張裔を下した敵の名を思い出していた。

 諸葛亮。荊州において、劉備に強く請われて仕え始めた男だ。

 世間では、孫権が曹操を大敗させた赤壁の戦いの立役者として認知されている。

 当時、孫権の陣営内では圧倒的な戦力を誇る曹操軍に対して降伏すべしとの論調が強かった。客観的に見れば賢明な判断だろう。

 そんな中、劉備との同盟を説いて徹底抗戦を決断させるのに一役買ったのが諸葛亮だ。

 許靖は諸葛亮に関し、相当な切れ者だという噂もは聞いたことがあった。

 しかし『人間ではない』と言われるまでの認識はさすがに持っていない。

 張裔はまた遠い目をして、先日の戦闘のことを思い起こした。

「まるで、こちらの意図を全てを読まれているかのような戦いでした。牽制には反応せず、本気で攻めた時には軽くいなされる。その一方で、こちらが攻められたくない時、攻められたくない所は必ず攻められます」

「なるほど、よほど頭が良い人間なのでしょうね」

「頭が良い、などという段階は遥かに超えています。あの男の一手は、それが五手先、十手先の布石だったりするのです。後からよく考えていみると、それがよく分かります。軍を引いた帰り道、私はいくつもそれに気がついて震撼しました……」

(それほどか……諸葛亮、恐ろしい男がいるものだ)

 許靖は張裔の話を聞いて恐怖した。その軍勢が許靖たちのいる成都へ迫っているのだ。気が気ではない。

 張裔は表情から力を抜いて、ふっと笑った。

「ですが、私も一矢報いてきましたよ。と言っても、弱い一矢ですがね。頭の良い人間なら気になりそうな罠の痕跡をいくつも残してきました。きっと諸葛亮だからこそ、慎重になるはずです。いくらかの時間は稼げると思います」

 張裔の軍は敗れたとはいえ、それほど大きな被害は出していなかった。そういったやり方で追い討ちされるのを防いだのだ。

 もちろん守る側の成都城にとっても、時間が稼げるのはありがたい。

 許靖は張裔らしい実利の取り方に感心しつつ、ふと聞きたかったことを思い出した。

 それも今日ここへ来た目的の一つだったのだ。

「そういえば、厳顔殿はご無事でしょうか?巴郡は張飛殿に攻められて落ちたということでしたが……」

 劉備の援軍として来た武将は諸葛亮だけではない。張飛、趙雲という歴戦の英傑たちも長江を遡って来ていた。

 諸葛亮、張飛、趙雲はまず巴東郡を落とし、その後は手分けをして各地を平定して回った。厳顔の守っていた巴郡はすでに張飛によって落とされている。

「厳顔殿はご無事なようですよ。確報ではありませんが、捕らえた敵兵からそういった話を聞きました。正面からぶつかり合って負けたのではなく、罠にかかって捕らえられたとのことでしたので」

 張裔は許靖を安心させるように笑って答えてくれた。

 許靖もそれで胸をなでおろした。これは戦で、厳顔は武人であるとはいえ、やはり親しい者の安否は気にかかる。

(とはいえ罠にかかって、か……厳顔殿の悪いところが出たのかもしれない。あの大岩は転がり始めるとなかなか止められないからな)

 許靖は以前にその大岩の転がりに巻き込まれて大アザを作った頬をなでた。

 張裔はさらに笑みを深めて話を続けた。

「無事などころか、張飛に気に入られて賓客のように扱われているという話です。恐らく戒厳令の私たちよりも良い生活を送っていますよ」

「あぁ……確かに、あの二人は気が合いそうです」

 厳顔の「天地」は大岩で、張飛の「天地」は地だ。性質が似ている分、気が合いやすかったのだろう。

 張裔は許靖の顔をまじまじと見直した。

「許靖様は劉備軍の武将たちと過去に面識があるのですよね?」

「面識、と言っても劉備殿、張飛殿、関羽殿の三人だけです。しかも、それはもう二十年以上も前のことですよ」

 許靖は改めてその時のことを思い出した。

 まだ若かった彼らの瞳の奥の「天地」は、関羽が天、張飛が地、劉備が人だった。

 天地人

 その三文字は、中国では古代より世界を表す単語だった。

(あの三人が揃えば、そこに一つの世界が生み出される。それはとてつもない力で、案の定あの三人はこの乱世を駆け上ってこれほどの群雄になった。そして今、また一つ羽化しようとしているように思える。もしかすると、世界の『道標みちしるべ』を見つけたのかもしれないな……)

 許靖は過去に劉備から『自分たちに足らないものを教えてほしい』と請われて、『道しるべを見つけるように』と助言したことがある。

 天地人。劉備たちは三人で世界を作れるほど大きな力を持っているが、世界はただ世界でしかなく、そこには良いも悪いもない。極端な話、世界はその存在自体に意味も目的もないのだ。

 だから世界の『道標』を見つける。それがあれば、きっと劉備たちは世に意味を持って存在できるようになるのだと許靖は思った。

(事実、劉備殿たちは大きな実力がありながら、放浪軍のようにあちこちを渡り歩いていたということだ。しかしここに来て、はっきりとした目的を持って動き始めたように感じる)

 その目的が何なのか許靖には分からなかったが、出来れば益州を攻めるような道程は止めて欲しかった。

 が、そんな事は思っても詮無いことだ。

 許靖は湯を口に含み、飲み下してから大きくため息を吐いた。

 そんな許靖へ、張裔が冗談めかして言った。

「お知り合いなのなら、一つ許靖様だけで降伏してみられたらどうです?きっと厳顔殿以上に厚遇してもらえますよ」

 許靖は張裔へキョトンとした瞳を返した。

 正直な所、劉璋が降伏してくれないかという期待を持ったことはある。しかし自分だけで降伏、という選択肢は考えたこともなかった。

 許靖は笑い声を上げた。

「そうですね、私だけで成都城を脱け出してみましょうか」
しおりを挟む
感想 14

あなたにおすすめの小説

【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原

糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。 慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。 しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。 目指すは徳川家康の首級ただ一つ。 しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。 その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

天竜川で逢いましょう 起きたら関ヶ原の戦い直前の石田三成になっていた 。そもそも現代人が生首とか無理なので平和な世の中を作ろうと思います。

岩 大志
歴史・時代
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。 けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。 髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。 戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!?

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記

颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

【架空戦記】蒲生の忠

糸冬
歴史・時代
天正十年六月二日、本能寺にて織田信長、死す――。 明智光秀は、腹心の明智秀満の進言を受けて決起当初の腹案を変更し、ごく少勢による奇襲により信長の命を狙う策を敢行する。 その結果、本能寺の信長、そして妙覚寺の織田信忠は、抵抗の暇もなく首級を挙げられる。 両名の首級を四条河原にさらした光秀は、織田政権の崩壊を満天下に明らかとし、畿内にて急速に地歩を固めていく。 一方、近江国日野の所領にいた蒲生賦秀(のちの氏郷)は、信長の悲報を知るや、亡き信長の家族を伊勢国松ヶ島城の織田信雄の元に送り届けるべく安土城に迎えに走る。 だが、瀬田の唐橋を無傷で確保した明智秀満の軍勢が安土城に急速に迫ったため、女子供を連れての逃避行は不可能となる。 かくなる上は、戦うより他に道はなし。 信長の遺した安土城を舞台に、若き闘将・蒲生賦秀の活躍が始まる。

悲恋脱却ストーリー 源義高の恋路

和紗かをる
歴史・時代
時は平安時代末期。父木曽義仲の命にて鎌倉に下った清水冠者義高十一歳は、そこで運命の人に出会う。その人は齢六歳の幼女であり、鎌倉殿と呼ばれ始めた源頼朝の長女、大姫だった。義高は人質と言う立場でありながらこの大姫を愛し、大姫もまた義高を愛する。幼いながらも睦まじく暮らしていた二人だったが、都で父木曽義仲が敗死、息子である義高も命を狙われてしまう。大姫とその母である北条政子の協力の元鎌倉を脱出する義高。史実ではここで追手に討ち取られる義高であったが・・・。義高と大姫が源平争乱時代に何をもたらすのか?歴史改変戦記です

織田信長IF… 天下統一再び!!

華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。 この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。 主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。 ※この物語はフィクションです。

土方歳三ら、西南戦争に参戦す

山家
歴史・時代
 榎本艦隊北上せず。  それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。  生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。  また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。  そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。  土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。  そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。 (「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です) 

処理中です...