三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地~ 家族愛の三国志大河

墨笑

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益州

不対等と不当交渉

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 厳寿ゲンジュ文成ブンセイは茶の注がれた碗を持ち上げると、まずその香りを愉しんだ。

 良い香りだ。爽やかな春風が鼻腔を吹き抜けるような感覚を覚えた。口に含むと、程よい渋みの中にほのかな甘みを感じる。

「これは美味い。良い茶葉を使ってらっしゃいますな」

「ああ、きっと上等な茶葉なのでしょう。これは良い」

 厳寿と文成は交互に褒めた。

 当然だろう、太守の妻が手ずから煎れた茶なのだ。たとえ泥水が出されようとも、二人は美味いと言ったはずだ。これまでもそんな苦労を何度もしてきた。

 が、今日はそんな苦労をする必要がないことを二人は心中で喜んでいた。

 この茶は確かに美味い。太守主催の茶会でなくとも、飲みに来たいほどだった。

「気に入っていただけたなら幸いですわ」

 許靖の斜め後ろに控えた花琳は上品な笑みを見せた。

 花琳の笑顔は齢を経て、洗練された美術品のような艶を醸し出すようになっている。

 今日の茶葉は特に厳選した。厳寿や文成たち豪族は上等な茶を飲み慣れているだろうと思い、そういった人間にも合いそうな葉を選んだのだった。

「あまり高価なものではありませんが、私自身が産地へ足を運んで選んだ茶葉です。良いものを選別しているつもりではあります」

「なんと、奥様自らが?」

「許靖様から奥様は茶道楽とうかがっていましたが……なるほど。そこまでいけば確かに道楽と言ってもいいほどです。楽しんでいらっしゃいますな」

 文成はそう言って笑い声を上げ、厳寿も周囲を誘うように笑った。それでこの卓の雰囲気はさっと明るくなった。

 さすがに二人はこういった席に慣れており、盛り上げるのも上手そうだった。

 今日は許靖の主催する茶会の第一回目だ。初回にも関わらず、数十人の人間が参加している。

 ただ、花琳はその全員が喜んで来ているとは思っていない。

(ほとんどが太守の声掛けがあったから来ただけでしょうね。出来るだけ多くの人に楽しんでもらって、二回目以降は喜んで参加してもらえるようにしないと)

 参加者の好みを事前に聞いて、それに合わせた茶を用意した。

 もちろん色々飲める方が楽しかろうから、二杯目以降は選んでもらえるようにもしている。

 この茶会は地元民と移住民という軋轢のある者同士の融和、そして民の声を直接聞くことが主な目的だ。しかし、花琳はこれを機に茶の文化がもっと広まればいいとも思っていた。

 この時代には『茶葉は他の具材と一緒に煮込んで汁物のようにするもの』という認識を持っている人間も多い。

 花琳としては、それがあまりにもったいない。茶葉はもっと良い用い方があり、それは多くの人の心を癒やしてくれる。花琳はこの茶会でそれを知って欲しかった。

 茶会の卓はいくつかに分けられている。初めから初対面ばかりでは気兼ねをするだろうと、今回はいくらか知り合いが固まるように配席されていた。

 許靖のいる席は厳寿や文成など、地元豪族の長など有力者が主に集められている。地元の有力者たちなので、皆顔見知りだ。

 許靖が他の卓を見渡すと、すでに話が盛り上がっている卓もちらほら見て取れた。

 許靖の顔見知りも多い。一足先に開始された武術教室で出会った者たちだ。

(武術教室のように、茶会も成功すればよいが……)

 花琳の武術教室はすでにかなりの好評を得ていた。

 花琳も芽衣も、すでに揚州・交州で長年武術教室を運営してきたので勝手が分かっているし、女性の師範ということで女子供が喜んで護身術を習いに来ていた。

 朱亞シュアたち家族の女性陣が参加していることも大きい。すでに女性がたくさんいるから、気後れせずに参加できるのだ。

 また、厳顔に連れて来られた東州兵たちも結構な人数が参加している。

 花琳の実力は将である厳顔ゲンガンの折り紙付きだ。実際、その強さに心酔して熱心に通う兵も多かった。

 そこで仲良くなった者たちが多いので、あちこちの卓ですでに話が弾んでいた。早くも茶を飲み干してしまった人間もいて、おかわりを要求する声も聞こえた。

「すいません、私はあちこちを回っておもてなししないといけないので、失礼いたします」

 もちろん花琳の他にも給仕の人間はいるが、出来るだけ花琳自身が話を聞いて茶を選別してあげたいと思っていた。初めから会のあちこちを回る予定だ。

「どうぞどうぞ。我らにお構いなく」

「うちの一族の人間にもこの美味い茶を淹れてやって下さい。もう、うちの茶が飲めなくなるかもしれませんが」

 厳寿と文成は笑って花琳を送った。

 許靖は花琳が去ってから一言断っておいた。

「申し訳ありませんが、私も折を見てすべての卓を回りたいと思っていますので……」

 花琳だけでなく、許靖もそうするつもりだった。

 もともと民の声を直接聞きたいということあって開催している会だ。有力者の卓にべったり座っていても仕方がない。

 ちなみに花琳、許靖に加えて、陳祗チンシもあちこちの卓を周旋している。

 陳祗は菓子などの茶受けを給仕する係だ。明るく魅力的な笑顔を見せる美男子の陳祗は、さっそく奥方連中の人気になっていた。

 武術教室でも陳祗目的で来ている女性陣がいくらかいるとのことだった。今も奥方たちが集まった卓に捕まっている。

(普通ならあんなふうに捕まればなかなか逃げられないだろうが……陳祗は女性の扱いが上手い。じきに上手く抜け出すだろう)

 許靖は陳祗を横目に見ながら、あれはあれで特殊な能力か、と改めて感心した。

「ここの卓で十分にお話する時間が取れないかもしれませんが、ご勘弁下さい」

 許靖の断りに、厳寿がうなずいて答えた。

「それは仕方ないことでしょう。ですが許靖様。どうかお礼だけは言わせて下さい」

「お礼?」

 許靖には厳寿の言う礼というものに心当たりがなかったので、オウム返しにそのまま聞き返した。

「ええ、お礼です。おかげさまで趙才チョウサイの店の価格が多少上がりまして、郡の商人たちは胸を撫で下ろしています」

「ああ、その事ですか……」

 なるほど、と許靖は思った。

 趙才と許靖との晩餐後、趙才が従業員たちの待遇を上げたという報告は受けていた。その分が価格に反映されたのだ。

 趙才はこの卓とはだいぶ離れた卓に座っている。一回目の茶会から天敵同士を近くに置く必要はないとの判断で、意識的に離したのだ。

「私は趙才殿に値を上げろとは言っていませんが……」

「分かっております。不当に安く使われていた従業員の待遇を上げさせたのでしょう?我々もうかがっておりますよ」

「許靖様が太守として商売への介入に悩まれたことも含めて、我々は理解しているつもりです。素晴らしい解決策でした。いや、本当にありがたい」

 厳寿と文成は口々に許靖を褒めちぎった。

 同席している豪族や有力者たちも二人と同じ気持ちらしく、皆一様にうんうんとうなずいている。

 どうやら郡の多くの人間にとって、趙才の進出は大問題であったことは間違いないようだった。

 価格破壊、過当競争による同業者の窮乏、従業員の待遇悪化。消費者にとって便利になることが、必ずしも豊かさにつながるわけではないという分かりやすい例だった。

 それからこの卓では皆がその話題で嬉しそうに談笑していたが、文成がポツリとつぶやくように言った。

「ただ許靖様、今度はまた別の所にしわ寄せが行っていまして……」

 それを合図にしたかのように、卓の笑い声がピタリと止んだ。皆うつむいて茶をすすり始める。

 戦勝の宴に訃報でも届いたような反応だった。

(また面倒事だな……)

 許靖は嫌な予感がした。聞きたくないと思いながらも、仕方なく尋ねた。

「どういうことでしょう?」

 文成は少し言いづらそうに話し始めた。

「実は、趙才から生産者への圧力が強くなっているのです」

「圧力……卸値を下げろという圧力ですか」

「おっしゃる通りです。従業員の待遇改善による価格上昇を抑えるためでしょう。取引のあったほとんどの生産者たちに、もっと安く卸すよう交渉があったそうです」

「なるほど。しかし、いくらで卸すかはあくまで店と生産者との個別の交渉によるものですから……」

「いや、それはおっしゃる通りで我らも分かっているのです。しかし、趙才の店はすでにかなりの売上があります。そういった状況での交渉となると……」

 許靖は大体の事態を把握した。

 強力な小売がその大きな売上高を背景に、無茶な交渉を進めようとしているということだ。

「確かに生産者には不利な交渉になりますね」

「そうなのです。中には趙才との取引を無くすと廃業せざるを得ないような者もおりますから、そういった者たちの話を聞くと不憫で不憫で……」

 この卓にいるほとんどの人間はどこかしらの生産者から泣きつかれたようだ。皆同じような面持ちで茶碗に目を落としていた。

 許靖は腕を組んで唸った。これは難題だ。

「おっしゃることは分かりましたが、やはり太守・役所が口を出す問題かと言われると難しいところです。例えば生活が成り立たないほど極端に不当な価格を強要しているなら動きやすいのですが、そうではないのでしょう?」

「ええ、まぁそれはそうなのですが……」

 趙才は優秀だ。下げられるギリギリの所を読んで交渉しているのだろう。

 であれば周囲も動きづらいし、受け入れてしまう生産者もいるだろう。そして受け入れた生産者は貧しくなる。

 相談を受けている許靖にとっても悩ましいところだった。

「この場合、要は線引きが難しいのです。どこまでなら通常の価格交渉で、どこからが不当な圧力かということが決めにくい。こちらも動くのが難しい状況です」

 そもそもこの価格は安すぎると指導したところで、いくらなら良いかという判断なども役所には出来ないだろう。

 本来なら価格は国の専売品を除き、市場に決めてもらうしかないものだ。

「そうですね……」

 文成はそれ以上は何も言えなかった。

 文成自身も分かっているのだ。そもそも悪事と言えるほどのことをやっていれば、はっきりと訴訟にするか、地元豪族として自身が動くだろう。

 微妙な問題だからこそ、こういう形で太守を頼っている所がある。

(私としても心苦しいが、太守だからこそやってはいけないことがある。それは自分のさじ加減で人々の生活を左右させてしまうことだ。こういった微妙な問題の場合、明確な基準もなく太守の強権を使うべきではない)

 それは力を持つ者として、常に意識して置かなければならないことだ。

 折りしも、お願いという形とはいえ従業員の待遇について圧力をかけてしまったばかりだ。あれだって本当に良いことだったか、いまだに悩んでいる。

「また趙才殿と二人で話す機会があればそれとなく言ってみますが、さすがに命令として仕入れ値を上げろということは言えません。あまり期待しないで下さい」

 許靖は卓を囲む者たちへそう伝え、皆が、

(仕方ないか)

というふうにうなずいた。

 だが、やはり一部の民が貧しくなるのだ。その単純な事実が許靖の心を苦しめた。

(有利な立場を利用した不当な交渉、か……世にこれほどの難問があるだろうか?)

 この日からしばらく、許靖の脳裏にこの難問がこびりついて離れなかった。
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