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益州
老いと疲労
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「本当に大変でしたね。ご苦労さまでした」
花琳は夫に労いの言葉をかけながら、煎れたての茶を卓に置いた。
許靖はその卓に上半身をぐったりと横たえた。あまり行儀の良い格好ではなかったが、それだけ疲れているのだ。
しかも明日、明後日も同じ宴が催されるわけだから、少しでも心身を休めたかった。
「……今日のような事件はもう起こらないでくれると思うが」
許靖は茶から上がる湯気をぼんやりと眺めながらつぶやいた。
陳祗と趙才の事が一番の心労だったが、明日からはあのような揉め事は起こらないと信じたい。
花琳も許靖から陳祗のことを聞かされて後悔していた。今朝、手紙のことを伝えていればこのようなことは起こらなかったのだ。
「ごめんなさい、私がもうちょっと早起きして支度をしていれば話す時間が取れたかもしれません」
「いや、花琳に責任があるようなことではないよ。むしろ私は自分の間抜けが呪わしい。なぜ気が付かなかったんだ……」
いくら精神的に余裕がなかったとはいえ、気づいても良さそうな要素は目の前に並べられていたのだ。
許靖は心底、自分が嫌になっていた。
「……齢を取ったのだな」
許靖は改めてそのことを思った。
そんなことは口にしなくても分かっている。もう五十を過ぎたのだ。考えるまでもなく、肉体も頭も全盛期はとうに過ぎている。
だが客観的事実として知っていることと、実際に不都合が起きて主観的に感じることはまた違う。
己の齢が、実感としてしみじみと心に沁みてきた。
「自然のことばかりは仕方ありませんよ。誰だって齢は取ります。だから齢に応じた生き方をしないと」
そう言ってくれる花琳の笑顔はどう見ても実年齢よりだいぶ若いもので、話の説得力はやや滲んでいた。
ただし、許靖も話の大筋には同意だ。
「そうだな。齢に応じた生き方をするのも、老いを嗜むということか」
許靖には『老いは嗜むべきもの』という持論がある。
その向き合い方が、自分にとっても周囲にとっても一番良い方向へ向かうと感じるからだ。
「そうですよ、あなた。太守になって頑張るのはいいですけど、無理はしないでくださいね」
「いや……あまり無理をせず、でもたまには少し無理をする、というくらいが『嗜む』というのに丁度いい気がする。その方がワクワクするだろう?」
この齢でワクワク、という言葉が我ながら可笑しくて許靖は笑った。
花琳もそれに釣られて笑う。笑いながら、先ほど許靖から聞いた事を思い出していた。
「そういえば、先ほど聞いた厳氏の初老だという武人の方のお話ですけど」
「あぁ、厳顔殿のことだな。厳寿殿は推していたし、確かにすこぶる評判がいいのだが……よく知る人間から話を聞くと、本人が隠居を望んでいるらしい」
あの後挨拶に来た人間の中に厳氏の人間がいて、たまたまその話になった。
聞けば、少なくとも本人は悠々自適の幸せを公言しているとのことだった。
「厳寿殿はむしろそれを引っ張り出したくて、私の所に話を持ってきた節がある。太守に引っ張られれば、隠居の草庵から出て来てくれると思っているのかもしれない。しかし、静かに余生を過ごそうという人を引っ張り出すのもな」
花琳はそれを聞いて口元に手を当て、少し考えた。
「……でも、役職を退いてからもひたすらに武を研いていらっしゃるんですよね?」
「ああ、そういう話だったが」
「でしたら、一度私にお会いさせてくださいませんか。厳顔様のためにも、良いようにできるかもしれません」
許靖は即座に了承した。
花琳がそう言うからには、同じく武を磨く人間として感じることがあるのだろう。
「分かった。確かに武人相手なら花琳の方が分かることが多いかもしれない。近いうちに文立という少年と共に連れて来られるはずだから、花琳も同席してくれ」
「お願いします」
花琳はそう返事をして軽くうなずいただけだが、許靖はその小さな動きに大きな頼りがいを感じた。
「……思えば花琳には交州にいる時から随分と助けてもらっているな。交州への避難民と地元民との摩擦も、花琳のおかげで減ったようなものだし」
許靖の言う通り、交州では花琳の主催した武術教室で両者の交流がかなり進んだ。
摩擦が減ったのはそればかりが理由ではないが、確かに花琳の功績は大きなものだった。
「そんな……でも、ここ巴郡でも移民の東州兵と地元民とで摩擦があるのでしょう?」
「そうなんだ。しかも交州の時よりもずっと規模が大きい上、数年前には戦にまでなっているからな……そう簡単ではないが、もし花琳さえよかったらまた武術教室を開いてくれないだろうか」
花琳は嬉しそうに目を細めた。
「それは私の方からあなたにお願いしようと思っていたくらいです。私にとって、道場はとても幸せな場所でしたから。ぜひやらせて下さい」
許靖もそれが花琳にとって良いことであるとは感じていた。
花琳は人に教える喜びを見出していたし、成長する生徒を見るのが嬉しいようだった。
自分たち夫婦は不幸にも息子を失ったが、少なくとも花琳は生徒たちへ子供同然の愛情を注いでいた。
「でもあなた、今は武術教室とは別にやりたいと思っていることもあるのですが……」
花琳はそう言って許靖の向かいに腰を下ろした。
卓にうなだれていた許靖はそれで体を起こし、背筋を伸ばした。妻が真剣な話をしようとしていると感じたのだ。
「やりたいこと?」
許靖は聞き返しながら、煎れられた茶をすすった。そしてすすると同時に、思わず感嘆の声を漏らした。
「?……美味いな。香りもいい」
花琳が煎れてくれる茶はいつも美味いが、今日の茶は特別に良いように感じられた。
包まれるような優しい香りが漂う中、軽く刺すような渋みが口中に残る。その渋みが疲れた脳を心地よく刺激して、許靖は茶に癒やされるのを感じた。
花琳は夫の一言を聞いて笑みをこぼした。夫が疲れているのを見て取って、それに合う茶を選んで煎れたのだ。
「ありがとうございます」
「いや、すまない。今は茶の話ではないな。続けてくれ」
「いいえ。それが茶の話なんです」
「……?」
許靖は話の流れを掴めず、頭に大きな疑問符を浮かべた。
花琳はそんな夫の表情が可笑しくて、また笑みを深くした。
花琳は夫に労いの言葉をかけながら、煎れたての茶を卓に置いた。
許靖はその卓に上半身をぐったりと横たえた。あまり行儀の良い格好ではなかったが、それだけ疲れているのだ。
しかも明日、明後日も同じ宴が催されるわけだから、少しでも心身を休めたかった。
「……今日のような事件はもう起こらないでくれると思うが」
許靖は茶から上がる湯気をぼんやりと眺めながらつぶやいた。
陳祗と趙才の事が一番の心労だったが、明日からはあのような揉め事は起こらないと信じたい。
花琳も許靖から陳祗のことを聞かされて後悔していた。今朝、手紙のことを伝えていればこのようなことは起こらなかったのだ。
「ごめんなさい、私がもうちょっと早起きして支度をしていれば話す時間が取れたかもしれません」
「いや、花琳に責任があるようなことではないよ。むしろ私は自分の間抜けが呪わしい。なぜ気が付かなかったんだ……」
いくら精神的に余裕がなかったとはいえ、気づいても良さそうな要素は目の前に並べられていたのだ。
許靖は心底、自分が嫌になっていた。
「……齢を取ったのだな」
許靖は改めてそのことを思った。
そんなことは口にしなくても分かっている。もう五十を過ぎたのだ。考えるまでもなく、肉体も頭も全盛期はとうに過ぎている。
だが客観的事実として知っていることと、実際に不都合が起きて主観的に感じることはまた違う。
己の齢が、実感としてしみじみと心に沁みてきた。
「自然のことばかりは仕方ありませんよ。誰だって齢は取ります。だから齢に応じた生き方をしないと」
そう言ってくれる花琳の笑顔はどう見ても実年齢よりだいぶ若いもので、話の説得力はやや滲んでいた。
ただし、許靖も話の大筋には同意だ。
「そうだな。齢に応じた生き方をするのも、老いを嗜むということか」
許靖には『老いは嗜むべきもの』という持論がある。
その向き合い方が、自分にとっても周囲にとっても一番良い方向へ向かうと感じるからだ。
「そうですよ、あなた。太守になって頑張るのはいいですけど、無理はしないでくださいね」
「いや……あまり無理をせず、でもたまには少し無理をする、というくらいが『嗜む』というのに丁度いい気がする。その方がワクワクするだろう?」
この齢でワクワク、という言葉が我ながら可笑しくて許靖は笑った。
花琳もそれに釣られて笑う。笑いながら、先ほど許靖から聞いた事を思い出していた。
「そういえば、先ほど聞いた厳氏の初老だという武人の方のお話ですけど」
「あぁ、厳顔殿のことだな。厳寿殿は推していたし、確かにすこぶる評判がいいのだが……よく知る人間から話を聞くと、本人が隠居を望んでいるらしい」
あの後挨拶に来た人間の中に厳氏の人間がいて、たまたまその話になった。
聞けば、少なくとも本人は悠々自適の幸せを公言しているとのことだった。
「厳寿殿はむしろそれを引っ張り出したくて、私の所に話を持ってきた節がある。太守に引っ張られれば、隠居の草庵から出て来てくれると思っているのかもしれない。しかし、静かに余生を過ごそうという人を引っ張り出すのもな」
花琳はそれを聞いて口元に手を当て、少し考えた。
「……でも、役職を退いてからもひたすらに武を研いていらっしゃるんですよね?」
「ああ、そういう話だったが」
「でしたら、一度私にお会いさせてくださいませんか。厳顔様のためにも、良いようにできるかもしれません」
許靖は即座に了承した。
花琳がそう言うからには、同じく武を磨く人間として感じることがあるのだろう。
「分かった。確かに武人相手なら花琳の方が分かることが多いかもしれない。近いうちに文立という少年と共に連れて来られるはずだから、花琳も同席してくれ」
「お願いします」
花琳はそう返事をして軽くうなずいただけだが、許靖はその小さな動きに大きな頼りがいを感じた。
「……思えば花琳には交州にいる時から随分と助けてもらっているな。交州への避難民と地元民との摩擦も、花琳のおかげで減ったようなものだし」
許靖の言う通り、交州では花琳の主催した武術教室で両者の交流がかなり進んだ。
摩擦が減ったのはそればかりが理由ではないが、確かに花琳の功績は大きなものだった。
「そんな……でも、ここ巴郡でも移民の東州兵と地元民とで摩擦があるのでしょう?」
「そうなんだ。しかも交州の時よりもずっと規模が大きい上、数年前には戦にまでなっているからな……そう簡単ではないが、もし花琳さえよかったらまた武術教室を開いてくれないだろうか」
花琳は嬉しそうに目を細めた。
「それは私の方からあなたにお願いしようと思っていたくらいです。私にとって、道場はとても幸せな場所でしたから。ぜひやらせて下さい」
許靖もそれが花琳にとって良いことであるとは感じていた。
花琳は人に教える喜びを見出していたし、成長する生徒を見るのが嬉しいようだった。
自分たち夫婦は不幸にも息子を失ったが、少なくとも花琳は生徒たちへ子供同然の愛情を注いでいた。
「でもあなた、今は武術教室とは別にやりたいと思っていることもあるのですが……」
花琳はそう言って許靖の向かいに腰を下ろした。
卓にうなだれていた許靖はそれで体を起こし、背筋を伸ばした。妻が真剣な話をしようとしていると感じたのだ。
「やりたいこと?」
許靖は聞き返しながら、煎れられた茶をすすった。そしてすすると同時に、思わず感嘆の声を漏らした。
「?……美味いな。香りもいい」
花琳が煎れてくれる茶はいつも美味いが、今日の茶は特別に良いように感じられた。
包まれるような優しい香りが漂う中、軽く刺すような渋みが口中に残る。その渋みが疲れた脳を心地よく刺激して、許靖は茶に癒やされるのを感じた。
花琳は夫の一言を聞いて笑みをこぼした。夫が疲れているのを見て取って、それに合う茶を選んで煎れたのだ。
「ありがとうございます」
「いや、すまない。今は茶の話ではないな。続けてくれ」
「いいえ。それが茶の話なんです」
「……?」
許靖は話の流れを掴めず、頭に大きな疑問符を浮かべた。
花琳はそんな夫の表情が可笑しくて、また笑みを深くした。
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