139 / 391
交州
行き倒れ
しおりを挟む
「陳祗、陳祗、陳祗……」
許靖は口の中で何度かその名を繰り返した。
それを耳にした花琳が尋ねてくる。
「あなた、どうかなさったの?」
「いや、どうにも聞き覚えのある名前のような気がしてな」
陳祗、それが少年の名乗った名前だった。
今は許靖の自宅でぐっすり眠っている。よほど疲れていたようで、出された食事を平らげるとすぐにうつらうつらし始めた。
遠慮せずに泊まるよう伝えると、横になって数秒で寝入ってしまった。
医師の診断も飢えと疲労、軽度の下痢だけで、しっかり食べてゆっくり休めばすぐに良くなると言われた。
「言われてみれば、確かに私も聞いたことがあるような気がします」
「花琳もそうか。しかし、顔は間違いなく初めて見る顔だ」
「そうなんですよね……なんとなくですが、その名前はあなたの口から聞いたように思います。もう随分昔かもしれませんけど」
「私の口からか……」
そう言われても、許靖には全く思い出せなかった。
名前の響きだけという曖昧な既視感に、その日の夜は悶々としながら眠りについた。
***************
翌日、陳祗はやはり疲れていたらしく昼前になってようやく起きてきた。
「あ、あの……ありがとうございました。助けていただいて」
おずおずと礼を言う少年を、許靖たちは妙にいじらしく感じた。
「とりあえず湯浴みをしてきなさい。それから食事にしよう」
言われた通り湯で体を清めた陳祗は、ぼろ布のようだった初対面の印象からは真逆の外見になった。
皇族の落とし胤だと言っても通じるだろう。美少年というべきか、綺麗な女顔の造作で、妙に保護欲を誘う見た目をしている。
許靖は陳祗の瞳の奥の「天地」を改めて見た。
(ぶ厚い曇り空の「天地」だが……妙に違和感がある。恐らくだが、本来なら「天地」の中心になるのは雲に隠された太陽ではないだろうか。本人も何かに怯えているようだし、それが解消されれば雲が晴れるかもしれない)
許靖にはそう感じられた。
今は暗い顔をしているが、本来なら明るい性格をしているように思える。
許靖は陳祗と二人で昼食をとることにした。他の家族は別室だ。陳祗の精神状態を考えて、大勢に囲まれるのは辛いだろうという気遣いからだ。
食事をしながら許靖は尋ねた。
「多少落ち着いたかな?もし嫌でなければ、君が行き倒れていた事情を話してくれないかな」
陳祗はその言葉に箸を止め、うつむいた。
許靖としてもその反応は予想していた。昨日も今日も、陳祗は名前以外のことを話したくない様子だった。
いや、話したくないというよりは、何かを恐れているようだ。
「言いたくなければ無理に言わなくていい。でも、もし私たちに出来ることがあるなら言いなさい。君が何を抱えているのか、何を背負っているのか知らないが、私も家族も君を助けたいと思っているよ」
その言葉に、陳祗は涙を一つこぼした。それが汁椀に落ち、高い水音が小さく響いた。
それを聞いた許靖は、陳祗への同情をより深く感じた。
陳祗は孫たちとあまり変わらない年齢のはずだ。
無邪気に日々を過ごしている春鈴や許游と比較すると、行き倒れていた上に何か辛く重いものを隠している陳祗が哀れに見えて仕方なかった。
「あの……でしたら一つお願いがあります」
「何でも言ってくれ」
遠慮がちな陳祗を安心させるために、許靖は笑顔を向けた。
が、次の言葉でその笑顔は微妙に固まってしまう。
「許靖という人を探しています。もしお手伝いいただけるなら、とても助かります」
その一言に許靖はなんと言ったらいいか分からなくなり、すぐには答えられなかった。
「えーっと……」
「元は豫州汝南郡の方で、今はこの交州に避難してきているそうです。元々は中央政府の高官だったとうかがっています」
許靖は頬を撫でながら、小首をやや傾げていた。
それを見た陳祗は何か勘違いをしたようで、さらに説明を追加してきた。
「あ、月旦評の許靖といえば結構な有名人だというお話です。あと、花神の御者という通り名も、分かる方には分かるそうです」
「それ、私だ」
許靖はようやくその一言が言えた。通り名二つまで同じであれば、同姓同名もありえないだろう。
「……え?」
「いや、だからそれ私。許靖」
許靖は自分の顔を指さしながら答えた。
陳祗はきょとんとした。許靖の人差し指とその先の顔とを交互に見比べる。
いまいち反応が鈍かったので、許靖はもう一言説明を加えてやった。
「私の名前は許靖という。そういえば、私は自己紹介もしてなかったのか。名乗りが遅くなって申し訳ない」
陳祗の目はみるみる丸くなった。
「お、大叔父様!?」
叫ぶような一言に、今度は許靖の目が丸くなった。
「大叔父?と、いうことは……」
大叔父とは祖父の弟に当たる。ということは、陳祗は許靖の兄の孫ということだ。
許靖は自分が感じていた既視感に納得ができた。
「……なるほど。陳祗、私は君の名前に聞き覚えがあったんだ。その理由がよく分かった。君は私の兄である許胤の孫だね。君が産まれた時、兄上から大変な喜びの手紙が来たのをよく覚えている」
許靖は胸のつかえが下りたようだった。
許靖と陳祗とは会ったことがなく、兄からの手紙で名前だけを知っていた。これが名前だけの既視感があった理由だ。
「大叔父様……でもまさか、そんな事って……」
少年はまだ信じられないようだった。許靖にも信じがたいような話だが、実際にそうなのだから仕方ない。
許靖は兄の手紙を思い出しながら、懐かしい気持ちになった。
「兄上には子供も孫もたくさんいるが、全て女だった。そこに待望の男児である君が産まれた。私は手紙でしか話を聞いていないが、手紙からだけでも随分と嬉しかったのだろうとよく分かったよ」
「はい……お祖父様にはとても可愛がって……いただきました」
陳祗の言葉の最後の方は震えていた。
そしてうつむき、また涙がポロポロとこぼれてきた。
それを見た許靖は思わず背筋を伸ばした。兄の記憶の懐かしさに暖かくなっていた気持ちが一気に冷めていく。
兄が元気で幸せならなら、陳祗はこのような顔をしないだろう。
「兄上に何かあったのか?」
「お祖父様は、つい先日亡くなられました。ここへ来るための旅の途上です」
陳祗の声は震えていたが、聞き取れないほど乱れてはいない。
許靖は聞き間違いではないことを残念に思った。
(この乱世だ……そうでなくとも兄上はもうそれなりの年齢だった。しかし、だからといって納得も受容も簡単ではないな)
人の死に順当などというものはない。許靖は改めてそのことを実感した。
「しかし旅の途上でとは……兄上の死因はなんだったんだ?」
「恐らく、毒を盛られました。お祖父様がここに来ることを喜ばない者がいるのです」
許靖はさすがに驚いた。
殺されたにしても、賊に襲われたり戦に巻き込まれたならともかく、毒殺とは尋常の死に方ではない。
「毒を?一体どういう……」
「大叔父様へ、劉璋様からの手紙を預かっています。お祖父様と私の旅の目的は、その手紙を大叔父様にお届けすることでした。それを読んでいただければお分かりいただけます」
許靖は混乱した。
特に『劉璋』という名前が出てきたことには衝撃を受けている。
(劉璋というと、益州刺史(長官)の劉璋か?州一つ治める大物からの手紙……しかも、兄が毒殺されるような事情を秘めた手紙か……)
陳祗は荷物をあさり、帯を取り出すとその縫い目を歯で切ってほどき始めた。何かあったときのために、手紙を厳重に隠していたのだろう。
取り出された手紙を差し出された許靖は、受け取ることをためらった。
ここ交州に落ち着いてから、もう十年も平穏な日々を送ることができている。
初めこそ戦乱からの避難先だと思っていた土地だが、最近はここに骨を埋めるのも悪くはないと思っていた。この紙切れは、その平穏を壊すものなのではないだろうか。
しかし目の前の少年は祖父を殺され、行き倒れになってまでも許靖にこれを届けに来た。
受け取るのは確かに恐ろしかったのだが、受け取らないだけの勇気もまた許靖にはないのだった。
許靖は口の中で何度かその名を繰り返した。
それを耳にした花琳が尋ねてくる。
「あなた、どうかなさったの?」
「いや、どうにも聞き覚えのある名前のような気がしてな」
陳祗、それが少年の名乗った名前だった。
今は許靖の自宅でぐっすり眠っている。よほど疲れていたようで、出された食事を平らげるとすぐにうつらうつらし始めた。
遠慮せずに泊まるよう伝えると、横になって数秒で寝入ってしまった。
医師の診断も飢えと疲労、軽度の下痢だけで、しっかり食べてゆっくり休めばすぐに良くなると言われた。
「言われてみれば、確かに私も聞いたことがあるような気がします」
「花琳もそうか。しかし、顔は間違いなく初めて見る顔だ」
「そうなんですよね……なんとなくですが、その名前はあなたの口から聞いたように思います。もう随分昔かもしれませんけど」
「私の口からか……」
そう言われても、許靖には全く思い出せなかった。
名前の響きだけという曖昧な既視感に、その日の夜は悶々としながら眠りについた。
***************
翌日、陳祗はやはり疲れていたらしく昼前になってようやく起きてきた。
「あ、あの……ありがとうございました。助けていただいて」
おずおずと礼を言う少年を、許靖たちは妙にいじらしく感じた。
「とりあえず湯浴みをしてきなさい。それから食事にしよう」
言われた通り湯で体を清めた陳祗は、ぼろ布のようだった初対面の印象からは真逆の外見になった。
皇族の落とし胤だと言っても通じるだろう。美少年というべきか、綺麗な女顔の造作で、妙に保護欲を誘う見た目をしている。
許靖は陳祗の瞳の奥の「天地」を改めて見た。
(ぶ厚い曇り空の「天地」だが……妙に違和感がある。恐らくだが、本来なら「天地」の中心になるのは雲に隠された太陽ではないだろうか。本人も何かに怯えているようだし、それが解消されれば雲が晴れるかもしれない)
許靖にはそう感じられた。
今は暗い顔をしているが、本来なら明るい性格をしているように思える。
許靖は陳祗と二人で昼食をとることにした。他の家族は別室だ。陳祗の精神状態を考えて、大勢に囲まれるのは辛いだろうという気遣いからだ。
食事をしながら許靖は尋ねた。
「多少落ち着いたかな?もし嫌でなければ、君が行き倒れていた事情を話してくれないかな」
陳祗はその言葉に箸を止め、うつむいた。
許靖としてもその反応は予想していた。昨日も今日も、陳祗は名前以外のことを話したくない様子だった。
いや、話したくないというよりは、何かを恐れているようだ。
「言いたくなければ無理に言わなくていい。でも、もし私たちに出来ることがあるなら言いなさい。君が何を抱えているのか、何を背負っているのか知らないが、私も家族も君を助けたいと思っているよ」
その言葉に、陳祗は涙を一つこぼした。それが汁椀に落ち、高い水音が小さく響いた。
それを聞いた許靖は、陳祗への同情をより深く感じた。
陳祗は孫たちとあまり変わらない年齢のはずだ。
無邪気に日々を過ごしている春鈴や許游と比較すると、行き倒れていた上に何か辛く重いものを隠している陳祗が哀れに見えて仕方なかった。
「あの……でしたら一つお願いがあります」
「何でも言ってくれ」
遠慮がちな陳祗を安心させるために、許靖は笑顔を向けた。
が、次の言葉でその笑顔は微妙に固まってしまう。
「許靖という人を探しています。もしお手伝いいただけるなら、とても助かります」
その一言に許靖はなんと言ったらいいか分からなくなり、すぐには答えられなかった。
「えーっと……」
「元は豫州汝南郡の方で、今はこの交州に避難してきているそうです。元々は中央政府の高官だったとうかがっています」
許靖は頬を撫でながら、小首をやや傾げていた。
それを見た陳祗は何か勘違いをしたようで、さらに説明を追加してきた。
「あ、月旦評の許靖といえば結構な有名人だというお話です。あと、花神の御者という通り名も、分かる方には分かるそうです」
「それ、私だ」
許靖はようやくその一言が言えた。通り名二つまで同じであれば、同姓同名もありえないだろう。
「……え?」
「いや、だからそれ私。許靖」
許靖は自分の顔を指さしながら答えた。
陳祗はきょとんとした。許靖の人差し指とその先の顔とを交互に見比べる。
いまいち反応が鈍かったので、許靖はもう一言説明を加えてやった。
「私の名前は許靖という。そういえば、私は自己紹介もしてなかったのか。名乗りが遅くなって申し訳ない」
陳祗の目はみるみる丸くなった。
「お、大叔父様!?」
叫ぶような一言に、今度は許靖の目が丸くなった。
「大叔父?と、いうことは……」
大叔父とは祖父の弟に当たる。ということは、陳祗は許靖の兄の孫ということだ。
許靖は自分が感じていた既視感に納得ができた。
「……なるほど。陳祗、私は君の名前に聞き覚えがあったんだ。その理由がよく分かった。君は私の兄である許胤の孫だね。君が産まれた時、兄上から大変な喜びの手紙が来たのをよく覚えている」
許靖は胸のつかえが下りたようだった。
許靖と陳祗とは会ったことがなく、兄からの手紙で名前だけを知っていた。これが名前だけの既視感があった理由だ。
「大叔父様……でもまさか、そんな事って……」
少年はまだ信じられないようだった。許靖にも信じがたいような話だが、実際にそうなのだから仕方ない。
許靖は兄の手紙を思い出しながら、懐かしい気持ちになった。
「兄上には子供も孫もたくさんいるが、全て女だった。そこに待望の男児である君が産まれた。私は手紙でしか話を聞いていないが、手紙からだけでも随分と嬉しかったのだろうとよく分かったよ」
「はい……お祖父様にはとても可愛がって……いただきました」
陳祗の言葉の最後の方は震えていた。
そしてうつむき、また涙がポロポロとこぼれてきた。
それを見た許靖は思わず背筋を伸ばした。兄の記憶の懐かしさに暖かくなっていた気持ちが一気に冷めていく。
兄が元気で幸せならなら、陳祗はこのような顔をしないだろう。
「兄上に何かあったのか?」
「お祖父様は、つい先日亡くなられました。ここへ来るための旅の途上です」
陳祗の声は震えていたが、聞き取れないほど乱れてはいない。
許靖は聞き間違いではないことを残念に思った。
(この乱世だ……そうでなくとも兄上はもうそれなりの年齢だった。しかし、だからといって納得も受容も簡単ではないな)
人の死に順当などというものはない。許靖は改めてそのことを実感した。
「しかし旅の途上でとは……兄上の死因はなんだったんだ?」
「恐らく、毒を盛られました。お祖父様がここに来ることを喜ばない者がいるのです」
許靖はさすがに驚いた。
殺されたにしても、賊に襲われたり戦に巻き込まれたならともかく、毒殺とは尋常の死に方ではない。
「毒を?一体どういう……」
「大叔父様へ、劉璋様からの手紙を預かっています。お祖父様と私の旅の目的は、その手紙を大叔父様にお届けすることでした。それを読んでいただければお分かりいただけます」
許靖は混乱した。
特に『劉璋』という名前が出てきたことには衝撃を受けている。
(劉璋というと、益州刺史(長官)の劉璋か?州一つ治める大物からの手紙……しかも、兄が毒殺されるような事情を秘めた手紙か……)
陳祗は荷物をあさり、帯を取り出すとその縫い目を歯で切ってほどき始めた。何かあったときのために、手紙を厳重に隠していたのだろう。
取り出された手紙を差し出された許靖は、受け取ることをためらった。
ここ交州に落ち着いてから、もう十年も平穏な日々を送ることができている。
初めこそ戦乱からの避難先だと思っていた土地だが、最近はここに骨を埋めるのも悪くはないと思っていた。この紙切れは、その平穏を壊すものなのではないだろうか。
しかし目の前の少年は祖父を殺され、行き倒れになってまでも許靖にこれを届けに来た。
受け取るのは確かに恐ろしかったのだが、受け取らないだけの勇気もまた許靖にはないのだった。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
48
1 / 4
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる