三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地~ 家族愛の三国志大河

墨笑

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交州

誤解

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「許靖殿、申し訳ありません」

 呼び出された許靖へそう謝ったのは、急がせた士燮シショウではなく袁徽エンキだった。

 許靖が城に着き、案内された部屋に入るとそこには士燮だけでなく袁徽もいたのだ。そして許靖の顔を見るなり謝ってきたのは、袁徽の方だった。

 許靖は急に呼び出されたことを謝られたのだと思ったが、どうやらそうではないらしい。袁徽の強く寄せられた眉間は、もっと申し訳ない事実が背景にあることを示唆していた。

「私が余計なことをしてしまったばかりに……」

 袁徽の言葉を遮るように、部屋の扉が勢いよく開け放たれた。

 三人がそちらを向くと、扉の外には肥えた巨漢が仁王立ちになっていた。

 その後ろには警備の兵があたふたしているのが見える。兵の制止を無視して扉を開けたのだろう。

 巨漢は部屋を舐めるように見渡した。そして士燮と袁徽の他には許靖しかいないことを確認すると、顔中の筋肉を動員して大げさな笑みを作った。

「あなたが許靖殿ですな?おめでとうございます。今日この時より、あなたの栄華が始まるのです。共に曹操様の元で働く私からも、お祝いをさせてください」

 そう言いながら両手をいっぱいに広げた。

 そしてそのまま許靖に近づいてきて、獣でも捕らえるように抱きしめてきた。

(な、なんだこの人は……)

 許靖は狼狽しながらも、巨漢の瞳を盗み見た。

 瞳の奥の「天地」では大きな猪が走っていた。

 いや、その勢いは走っていたと言うどころではない。草木や動物、岩までも弾き飛ばしながら進む様子は、まさに猪突猛進という言葉がそのまま当てはまった。

(押しが強すぎる人だ……参ったな、苦手だ)

 許靖は正直なところ、そう感じていた。

 しかし、今はそれよりも気になることがある。

 巨漢の男は重要な単語を口にしていたが、許靖はそれを聞き逃しはしなかった。

「そ……曹操様の元、と言われましたか?」

 許靖は太い腕と肉の厚い腹とに挟まれながら、もごもごと確認した。

 巨漢は許靖をパッと離し、それからまた大げさな笑顔を作った。

「これは失礼いたしました。自己紹介がまだでしたね。私は曹操様より仰せつかって参りました、張翔チョウショウと申します。あなたをお迎えに上がったのですよ」

 許靖の頭の中ではいまだに何が何やら分からなかったが、とりあえずこの男の名前だけは分かった。 

「張翔殿ですね。許靖と申します。お目にかかれて光栄です」

 相手がやたら笑顔でこちらを見るので、許靖もとりあえず笑顔を作って丁寧に挨拶した。

「しかし……私を迎えにというのはどういうことでしょうか?それも曹操殿のご命令で?」

 その質問に張翔が答える前に、袁徽が口を挟んだ。

「私が荀彧ジュンイク殿に手紙を送ったのです。内容は許靖殿の能力や人柄を賞賛するものです」

 ここで出た荀彧という男は『王佐の才』でもって世に知られる、曹操の腹心中の腹心だ。

 若くしてその才を認められ、曹操は軍事と国事の全てを荀彧に相談すると言われていた。

 許靖の明敏な頭は、事実関係の流れをだいたい理解した。

 高名な儒学者である袁徽が、曹操の腹心へ人物を称賛する手紙を送ったわけだ。

 手紙の内容や対象となった人物にもよるだろうが、『野の賢人から国家の重鎮への推薦状』と捉えられてもおかしくはないだろう。

(なるほど。手紙を送ったのは袁徽殿でも、それが推薦状と認識されるなら私自身が曹操殿に仕えることを望んでいると受け取られても仕方ないな……むしろ、私が袁徽殿に頼んで推薦してもらったと思うのが普通かもしれない)

 張翔も許靖が当然来るものと信じて疑っていないようだ。厄介な話になりそうだった。

「許靖殿。私はいつでも出られますから、早くご帰宅なさって準備されるとよろしい。士燮様の許可もいただいておりますから、何もうれうことはありません」

「いや、許可というか、私は許靖殿の意思が大事だという話をしただけで……」

 珍しく士燮の歯切れが悪かった。

 それも仕方ないことかもしれない。士燮は許靖を正式に任官していないのだ。いわば、ただの食客のようなものだった。

 出て行くのは全くの自由であり、このような場合には完全に弱みとなってしまう。

 本音としては許靖に出て行って欲しくはないが、引き止めるだけの道義が存在しない。張翔もそれがよく分かった上で強く出ているのだった。

 ただし、曹操も交州を支配する士燮の気を悪くしたくはない。だからこうして張翔を派遣して話を通させている。

 加えて士燮との誼を通じておく事も、張翔派遣の目的の一つとしていた。

 許靖の意思、と言われた張翔はやたら大きな笑い声を上げた。

「意思ですか。そういえば許靖殿は何年か前、曹操様のお誘いになびかれなかったそうですね。ですがあの時とは曹操様のお立場はまるで違う。それはお分かりでしょう」

 張翔の言う通り、許靖は揚州にいる頃に曹操から親密な手紙を受け取っていた。

 その時の曹操はただの群雄の一人だったが、この数年でその力、立場、存在感は飛躍している。

 許靖も張翔の言うことはよく理解できた。

「曹操殿は帝を保護されているとのことですね。その忠なること、心より尊敬申し上げます」

 許靖は曹操への敬意を示すため、その使者である張翔へ頭を下げた。

 帝は董卓の死後、董卓の部下たちによる内紛から逃れて放浪していた。

 極貧の放浪生活だったらしく、食うにも困るほどだったという。群雄たちからは当然それを保護すべきだという意見は出てくるのだが、果たしてどれだけの人間が本音でそれを望んでいただろうか。

 帝はすでに力を失い、権威だけを持った亡霊のような存在だ。自ら新しい時代を作ろうとする群雄たちにとって、旧時代の亡霊など目障りでしかないだろう。口では何と言おうと、野垂れ死んで欲しいというのが本音だったのではないか。

 そんな中、曹操は荀彧の勧めもあって帝の保護に乗り出した。他の群雄の抵抗にあいながらもそれを成し遂げ、曹操の本拠地である許昌キョショウに迎え入れた。

 帝の保護。

 それが数年前の曹操との一番の違いだろう。もちろん多くの戦に勝利して勢力を拡大していることも違いの一つだろうが、そのような群雄は他にもいる。

 しかし、帝はただ一人だ。それを手中に収めた曹操は、他の群雄とは一線を画した立場を手に入れた。

(力を伴わない権威は、効果も副作用も強い劇薬のようなものだ。しかし曹操殿の器なら上手く乗りこなせるだろう)

 許靖はこの伝聞を耳にした時、そのような感想を持った。そして現実に、曹操は帝の権威をこれ以上ないほど上手く利用している。

 張翔を大きく出させている自信も、主の背後にいる帝から来るところが大きかった。

「曹操様に仕えるということは、帝に仕えるということですからな。全ての忠臣は曹操様の元へ集うべきなのです。許靖殿も漢の忠臣でいらっしゃるなら、まさか断りはしないでしょう」

 少々強引ではあるが、張翔の言うことは理屈としては十分成り立つのだ。

 この時代には一般的な道徳観として忠臣であることを求められるし、漢帝国自体は少なくとも理屈上はまだ滅びてはいない。

 しかし、と許靖は思う。

(この帝、漢帝国、忠誠という視点での理屈は……果たして民の方を向いているのだろうか?そして、それは私たち家族の生活とはまた乖離かいりしたところにあるように思う)

 許靖ははっきりと、正直に答えることにした。特にこういう押しの強すぎる人間にははっきりと伝えなければならない。

「申し訳ありませんが、私は曹操殿の元には行けません」

 張翔の笑顔が凍りついたように固まった。それから急に冷えた真顔になる。

 これまで終始上機嫌だっため、気の弱い人間ならこれだけでもこの男の気持ちを忖度してしまうだろう。

 しかし、許靖は家族の幸せも背負っているのだ。毅然とした態度を貫かなくてはならない。

「私が交州へ避難しているのは、自分と家族の安全のためです。戦を避けるために来ています。そして曹操殿は帝を保護されたことで、この乱世を統一する意思をより鮮明に示したと言えます。つまり、進んで戦に身を投じていらっしゃるのです。曹操殿は、私の希望とは真逆の方向へ進んでいると言って間違いないでしょう」

 きっぱりと断られた張翔は、それでも再び笑顔を作って明るく言った。

「曹操様はこの上ないほど戦上手です。ご家族に危険はないでしょう」

「戦に絶対はありませんし、曹操殿とてこれまで何度も負けています。支配地のかなりの部分を獲られたこともあったはず。家族にそのような危険を冒させるわけにはいきません」

 こと戦に関しては、勝敗について確実なことは何もない。であれば、そもそも戦の起こりづらい土地にいるのが一番危険性が低いと言える。

 張翔はなおも食い下がった。

「許靖殿は現在、漢帝国では公的には罪人の扱いです。あの董卓からの逃亡とはいえ、無許可で帝の元を離れたのですから当然でしょう。しかし、こちら来ていただければそのような罪は抹消されます」

「名ばかりの罪など、家族の安全に比べたら何ほどのこともありますまい」

「……これは本来なら私の口から言ってはいけないことなのですが、許靖殿はかなりの待遇で迎えられる予定です。少なくとも、許靖殿が元々務められていた地位以上のものは用意されるはずです。ご家族にとっても悪いことではないでしょう」

 許靖の最後の役職は御史中丞ぎょしちゅうじょう(官吏の監察官)だ。かなりの高官に当たる。それ以上の役職となると、政権でも相当重要な位置に座ることになるだろう。

 しかし許靖は相手によく伝わるよう、しっかりと首を横に振って見せた。

「家族は私が高い地位に昇ることなど望みません。もちろん、人並み以上の生活自体は誰だって望むでしょう。ですが、一定以上の生活や栄華を喜ぶかはどうかはもはや好み、嗜好の領域です。残念ながら、私の一家の嗜好とはズレがあります」

 張翔の顔からは完全に笑顔が消え、額に青筋が立っていた。

 それはそうだろう。許靖自身が曹操に仕えることを望んでいるという前提で来ているなら、張翔の仕事は難度のごく低いものと認識されているはずだ。

 それが果たせずに帰れば、子供の使いも出来ない男だと評価されるかもしれない。

 張翔の眉が釣り上がる一方で、士燮は安堵して表情を緩めた。袁徽は相変わらず申し訳なさそうに眉間を寄せている。

 許靖はできるだけ張翔に媚びた姿勢を作らないように注意し、意識して背筋を伸ばした。それが押しの強すぎるこの男への一番の対処だと思った。

 張翔はなおも言葉を重ねて許靖を説得しようとし続けた。

「私は曹操様の元へ行くことがあなたの幸せだと信じています。だから……」

 張翔の口から流れる多くの言葉の中で、少なくともこの『あなたの幸せだと信じている』という部分だけは、この男が本気でそう思っているのだと感じられた。

(だからこそ、このような男は苦手なのだ)

 許靖は改めてそう思った。
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