三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地~ 家族愛の三国志大河

墨笑

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交州

暖と涼

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「許靖殿、一体どんな妖術を使われました?まさか、あの二人を朋輩にしてしまうとは」

 士燮シショウは妖術という言葉を使ったが、割と冗談のつもりでもなかった。

 犬猿の仲だった二人が、許靖が来てからの数カ月で一番の親友のようになってしまったのだ。

 全く型の違う二人だが、互いを補い合うようにして良い組み合わせになっているらしい。

 しかもそれを機に、袁徽エンキの講義は大変評判が良くなっている。現地人の受け入れやすい内容や、現地人にとっても利益になる考え方を講義するようになったとのことだった。

 士燮と許靖は役所の応接室で向かい合い、茶を飲んでいる。最近は涼しくなってきたので、熱い茶が出されていた。

「私は何もしておりません。今回のことは、妻がよくやってくれた結果だと思います」

「女傑だと噂の奥方ですな。確かにそうかもしれませんが、それが出来る舞台を整えた許靖殿の功績とて大きい。それに、中央からの避難民向けの講義も好評です。おかげで互いに多くの誤解がとけたようだ」

 士燮の言う通り、避難民向けの講義は大変有用なものになった。

 現地人と付き合う上でどのような事を注意しなければならないかがよく分かったし、袁徽の講義で現地人というだけで見下したり差別しないようにすべきことが強く諭された。

 武術教室も相変わらず人気で、避難者と現地人との良い交流になっている。これまでは子供や女性が主な対象者だったが、最近は成人男性や兵の鍛錬も受け入れるようになっていた。

「なんにせよ、士燮様のお役に立てたのなら幸いです」

 許靖は士燮の瞳の奥の「天地」を見た。そこでは一匹の巨大な象がいる。

 己の住む森が栄えられるように、植物や動物を上手く調整していた。

(やはり、欽の「天地」に似ている)

 許靖は改めてそう思った。失った息子に似ているのだ。

 士燮は息子どころか許靖の父でもおかしくない齢だが、それでも息子が側にいるようで嬉しかった。

 この「天地」のおかげで許靖は士燮を好きになったし、士燮のために働きたいと思って武術教室の運営や講義などを精力的にこなしているという部分が間違いなくあった。

 士燮は茶をすすってからまた笑顔を向けた。

「奥方がもし男性だったら、一軍の将にしたいほどです」

「将を務めるには腕っぷしが強いだけではだめでしょう」

「それが分かっている人間が、将に向いているのです。それこそ許靖殿が将になってくれればいい」

 許靖は笑った。

 男にしては珍しく、許靖は産まれてこの方将軍になりたいなどと思ったことは一度もなかった。

「まさか。私のような臆病者は戦という言葉を聞いただけで身が震えます」

「ならば、文官として私の右腕になるのはいかがかな?」

 変わらぬ口調でそう言ってきた士燮だったが、許靖はその目が笑っていないことに気づいた。

 直感で、冗談ではないのだろうと思った。

 許靖は逡巡した。これまでは身軽な立場であった方が戦乱を避けるのに良いと思い、あえて誰かに正式に仕えることはしなかった。

(しかし、士燮様なら……)

 許靖はそうも思う。

 息子の瞳とよく似た「天地」を持つ士燮は、まだ心の傷の癒えない許靖にとってすがりたくなるほどに魅力ある人物だった。

「士燮様、私は……」

「冗談ですよ。忘れてください」

 士燮は突然、前言を撤回して笑った。

「いや、本音を言うと冗談でもなかったのですがね。許靖殿が私の瞳ばかり覗くので、気が変わりました」

 許靖は目を伏せ、頭を下げた。確かに失礼なことだったろう。

「ご不快な思いをさせてしまいました。申し訳ありません」

「いや、それ自体は良いのです。私の瞳を悪いものだと思っているわけではないのですから。ですが、息子殿の幻影を追い続けられては仕えられる側として辛い。それに私はあなたの息子殿ではないのですから、いつかあなた自身も傷つきます」

 許靖は心に刃を突き立てられたように感じた。

 図星を突かれたのだ。しかも、士燮の方が許靖のことを正確に理解していた。

(いや……本当は私自身、気が付いていたんだ。士燮様の瞳の奥の「天地」は許欽のそれとよく似ているが、決定的に違うところがある)

 許靖はわざと目をつむっていたその事を、改めて自覚した。

 許欽の「天地」の中心である人間は森の『管理』をしているが、士燮の「天地」の中心である象は森を『支配』しているのだ。

 管理者と支配者、両者とも森が栄えられるように様々な調整を行うが、根本的な違いがある。

 許欽の管理人は、森のあらゆる動植物と共に生きていた。一方で士燮の象は、あくまでその上に君臨しているのだ。

 共に生きることと、君臨すること。この違いは大きい。必要に迫られて獣を狩る時も、士燮の象の方が容赦ない。

「士燮様のおっしゃる通りです。確かに私は息子の幻影を追っております。そしてそれは息子の死をまだ十分受け入れ切れないように、すぐに振り切れる幻影でもないのだと思います」

 士燮は許靖の素直な言葉を喜んだ。

 そして、やはりこの男は自らの支配地に利益をもたらす者だと、改めて判断した。

「許靖殿。正式な任官がなくとも、今後も州の運営に協力してもらえましょうか?」

「もちろん、それは喜んで。私も妻も世のため民のためになるということについて、この齢になってよく考えます」

 それは正直な気持ちだった。特に孫が産まれてから、どうしたらこの子たちが幸せに暮らしていけるような世の中にできるかを本気で考える。

 士燮は安堵のため息を吐いた。

「そう言っていただけると、大変助かります。許靖殿の力は借りたいが、実は任官には色々と面倒事もあったものですから。正直なところ、一番ありがたい形になったかもしれないと思っているところです」

 できれば任官せずに働いて欲しかった、というのが士燮の本音だという。何か事情があるのか。

「面倒事、ですか」

「ええ。避難者の中に優秀な人材が多いのは間違いないのですが、外から来た人間ばかりを取り立てていたら、当然地元の人間からの反発を受けます。場合によっては交州各地の有力者にあらかじめ根回しする必要もありますし、力関係の変化とその均衡も考えなければなりません。一人任官するのにも、色々と面倒が多いのですよ」

 士燮は眉間にしわを作って、複雑な笑い顔を見せた。

 士燮はもう六十前後で、この時代ならば老人に分類される齢だろう。しかし、その外見からは溢れんばかりの精力を感じさせている。

 だから許靖はずっと有能で強い士燮ばかりを感じてきたのだが、今の笑い顔からはおりのように溜まった疲労が見え隠れしていた。

 よほどの心労が積み重ねられなければ、このような顔はできないだろうと思った。

(支配者が支配者でいることも、楽なことではないのだろう)

 交州というかなりの広範囲を治める支配者は、一介の難民から同情を受けていた。

 許靖はそのことに自ら気づき、人の幸せというものの複雑さに思いを巡らせた。
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