三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地~ 家族愛の三国志大河

墨笑

文字の大きさ
上 下
70 / 391
放浪

揚州

しおりを挟む
「あなた、これから行く会稽かいけい郡で本当に最後なのですよね?」

 許靖はやや不満げな花琳をなだめるべきだとは思ったが、下手な嘘をついてしまうと後でろくな事はない。

 正直に答えた。

「この乱世だ。どこでも戦は起こりうるし、最後の避難になるとは言い切れない。辛い思いをさせて申し訳ないとは思うが……」

 許靖一行は呉郡から会稽郡へと繋がる街道を南下していた。

 許靖、花琳、許欽、陶深、小芳、芽衣の六人に加えて、許貢が十人の護衛をつけてくれている。

 呉郡と会稽郡は隣接しているとはいえ、道中何事もないとは言い切れない。護衛がいるにこしたことはないだろう。

(今回は前回のように護衛たちから襲われることはないだろうな)

 許靖はその点、あまり心配していなかった。

 あの時の護衛たちは命令を発した陳温がすでに亡くなっていたが、今回は都尉の許貢が健在だ。

 護衛の兵たちは今後も軍で働かないといけないのだから、下手なことはできないだろう。

「もちろん私はあなたが行くところなら、どこへでもついて行きます。でも、こうもあちこち移ることがあなたにとっても、家族にとっても良いこととは思えません。世の中には色々な民族があると聞きますが、漢民族は基本的に定住の民族です。それで幸せになれるような文化の中で生活しているのですから」

 花琳は育ちが良いだけに、民族論や文化論まで持ち出してきた。

「まぁまぁ、そう言わないでくれ。海への小旅行も楽しいものだったのだろう?ここまで来たから行けたのだし……私は仕事で行けなかったが」

 許靖は結局二ヶ月もの期間、許貢に働かされた。

 多くの人間に会ってその評を許貢に伝えるのはもちろんのこと、それ以外にも役所のあらゆる部門や民間の店舗・工房などを見せられて、意見を求められた。

 許靖はもともと中央政府の高官で、行政の実務上も特に重要な地位にいた人間だ。

 月旦評の許靖という人物鑑定家としてだけでなく、役人としての経歴も重宝された。

 その二ヶ月の間に、李浩やその部下たちの家族も呉郡へと移ってきた。郡の福祉政策の一環として、許貢の主導で戦災者などを住まわせる場所がいくつか用意されていたのだ。

 許靖一家もそれを多少手伝った。厳しいことを言っていた花琳も許欽も、いざ実際に困っている人間が来ればあれこれと世話を焼いてやるのだった。

(しかし、許貢は思いのほか人使いが荒かったな……)

 当初の話通り、花琳たちが護衛付きで海への小旅行をするということになった時、許靖は当然自分も行けるものだと思っていた。

 が、許貢は当たり前のように当日許靖の仕事の予定を入れていた。

 芽衣などは海がこれ以上ないほど楽しかったらしく、しばらくはその話ばかりだった。

「許靖おじさんも来ればよかったのに。ほんっとうに楽しかったよ!」

 芽衣はこれまでに何度も聞かされた言葉を今も繰り返した。許靖だって行けるものなら行きたかった。

 小芳が嬉々として大声を上げている娘を横目に見ながら、鋭く注意した。

「芽衣、言葉遣い」

 母親に叱られた芽衣は肩をすくめて黙った。

 花琳がそれをかばう。

「いいじゃない、今のままで。私は可愛くて好きよ」

「お嬢様がそうやって甘やかすからこの歳になっても子供みたいな言葉遣いが抜けないんです。いい加減ちゃんとしないと」

 最近になって、小芳は娘の言葉遣いに関してうるさく注意するようになっていた。

 今はまだ可愛いで済むかもしれないが、いつかそうもいかない時が来るだろう。きちんとしつけるには少し遅いほどだ。

 可愛いと庇う花琳自身、息子の許欽には小さい頃からしっかりとした言葉遣いを身に着けさせている。この辺りは自分の子供かどうかという点で、視点と責任とが違うだろう。

 父親の陶深が二人の間に入るように言葉を挟んだ。

「でもまぁ、確かに海は良かった。水平線まで広がる水面、美しい貝の散らばる浜辺、いつまでも打ち寄せる波の音……ああいった感動を作品に乗せられれば、いくらでも良い物が作れる」

 陶深はもともと住居を移動することに対して、何の感情も持ち合わせていなかった。危険があるなら動こうか、という程度の気持ちだ。

 しかし色々な場所の様々な風景・文化を見るにつれ、次第に旅が好きになっていった。今回の移動に関しても、まだ見ぬ風景や文化への期待の方が大きかった。

「旅はいい……本当に、いい」

 陶深は宝飾品の職人だ。美しいものに対する感性が鋭い。自然、旅をしても他の人よりも感動することが多く、それが自身の作品への創意・意欲へと昇華されるという職業上の利益にも繋がっていた。

 小芳も夫への良い影響については理解しているが、今は娘の将来について話しているのだ。

「あなたはものづくり以外に興味がないから芽衣の礼儀作法も気にならないんでしょうけどね。普通の人にとっては大切なことなのよ」

「いや、僕もそれは分かっているつもりだが……」

 その言葉は半分以上が嘘だった。

 陶深は良くも悪くも職人気質の人間で、仕事と美的感覚以外の部分に対するこだわりがひどく希薄だった。

 礼儀作法が不要だとは思わないが、言葉遣いなど人それぞれに違った方がその人の個性が出て面白いのではないかというのが正直なところだった。

「嘘おっしゃい。礼儀作法よりも個性があった方が面白いとか思ってるくせに」

 妻に図星を突かれた陶深は黙り込むしかなかった。良くも悪くも、妻は自分のことをよく理解してくれている。

 許欽が陶深に助け舟を出すために口を開いた。

「まぁ、言葉遣いなんてものは一朝一夕には直らないでしょうし、そう急ぐ必要もないんじゃないでしょうか。そのうち身につきますよ」

 芽衣は横を歩く許欽を見上げるように上目使いで尋ねた。

「……やっぱり欽兄ちゃんも、言葉遣いはちゃんとしていた方がいいと思う?」

「別に私に対して気を遣う必要はないと思うけどね。やっぱり外部の人に対しては大切だと思うよ」

 小芳はその言葉に素早く反応した。

「欽君も奥さんになる人はちゃんとした人の方がいいと思うでしょ?」

「え?えぇ、まぁ……」

 許欽の回答はやや不明瞭だった。

 しかしそれでも芽衣にとっては動機付けに十分だったようで、口を真一文字に引き結んで一つうなずいた。やる気を出したのだろう。

 結局そのやる気は三日坊主に終わるのだが、小芳はそんな娘を見て満足そうに笑った。

 陶深はその様子にやや複雑な感情を覚え、許靖は見通せない息子の心情に思いを巡らせた。

 それから父親二人はよく晴れた空を見上げ、その思考を雲のように霧散させていった。
しおりを挟む
感想 14

あなたにおすすめの小説

【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原

糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。 慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。 しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。 目指すは徳川家康の首級ただ一つ。 しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。 その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。

天竜川で逢いましょう 起きたら関ヶ原の戦い直前の石田三成になっていた 。そもそも現代人が生首とか無理なので平和な世の中を作ろうと思います。

岩 大志
歴史・時代
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。 けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。 髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。 戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!?

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記

颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

旧式戦艦はつせ

古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。

鎌倉最後の日

もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!

【架空戦記】蒲生の忠

糸冬
歴史・時代
天正十年六月二日、本能寺にて織田信長、死す――。 明智光秀は、腹心の明智秀満の進言を受けて決起当初の腹案を変更し、ごく少勢による奇襲により信長の命を狙う策を敢行する。 その結果、本能寺の信長、そして妙覚寺の織田信忠は、抵抗の暇もなく首級を挙げられる。 両名の首級を四条河原にさらした光秀は、織田政権の崩壊を満天下に明らかとし、畿内にて急速に地歩を固めていく。 一方、近江国日野の所領にいた蒲生賦秀(のちの氏郷)は、信長の悲報を知るや、亡き信長の家族を伊勢国松ヶ島城の織田信雄の元に送り届けるべく安土城に迎えに走る。 だが、瀬田の唐橋を無傷で確保した明智秀満の軍勢が安土城に急速に迫ったため、女子供を連れての逃避行は不可能となる。 かくなる上は、戦うより他に道はなし。 信長の遺した安土城を舞台に、若き闘将・蒲生賦秀の活躍が始まる。

処理中です...