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放浪
揚州
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許靖は踏み出しかけた妻を制止した。
それで花琳の足はピタリと止まる。
今しがた向かおうと思った相手を目で牽制しながら、静かに許靖の元へと下がった。
「……あなた、この人たちは強盗殺人をしようとしたんですよ。少し思い知らせてさしあげたほうがいいわ」
芽衣もそれに同調した。
「そうよ。私の幸せ家族計画を邪魔するやつは、全員股間を潰してやるんだから」
体が浮き上がるほどの金的を目の当たりにした兵たちは、恐怖とともにやや内股になった。
(……そう言えば、芽衣はあまり力が強くないからそれに合わせた技を重点的に教えていると言っていたな。金的などは得意技なのかもしれない)
許靖はそんなことを思い出していた。
しかし、同じ男として股間を潰されるのは忍びない。許靖は助け舟を出してやることにした。
「李浩殿。あなたが物盗りをしようと思ったのは、ご家族を戦から避難させるためですね?」
問われた李浩は苦しげな表情で答えた。
「はい。家族のためとはいえ、許されることではないことは分かっていますが……」
「でしたら、そもそもこの行為自体に意味がない」
「……意味がない?」
李浩は許靖の言葉の意味を理解しかねてオウム返しに聞き返した。
許靖はうなずいて説明を続けた。
「そうです。意味がないのです。李浩さんは私が人物鑑定家だということをご存知ですよね?」
「亡くなった陳温様より、月旦評の許靖殿のお話はうかがっています」
「その私が見たところ、今しがた芽衣に倒された人は嘘をついていると思われます。あなたのご家族を避難させる伝手など持ってはいないでしょう」
李浩は倒れた男に目をやった。
しかし、顔を地面にめり込ませたまま意識を失っているので、何も確認することはできない。
許靖は男の瞳を思い浮かべた。
(あの男の瞳の奥の「天地」では、鼬のような小動物がずっと何かを貪り食っていた。自分が満たされることしか考えていない人間だ)
瞳の奥の「天地」はそうだったが、それをそのまま話しても困惑されるだけだろう。許靖は李浩たちが納得できるように話をした。
「李浩殿も部下の方々も、あの人が自分の得ばかりを考えている人間だということが分かっているのではありませんか?同僚なら誰でも気づきそうなほど、典型的な自己中心的人物です。伝手が嘘とかいうどころではなく、きっと得た銭は自分一人で持ち逃げするつもりですよ」
許靖は息が乱れないように、気を強く保ちながらしゃべった。
董卓に植え付けられた心の病で、剣が抜かれた時からずっと激しい動悸に見舞われているのだ。
薬指の指輪を回しながら、花琳を視界に留めて心を落ち着けようとした。
許靖の言葉には全員思うところがあったようで、互いに目を見合わせながら小さく頷いている。
許靖はその様子から、もうひと押しで穏便に済ませられそうだと感じた。
「李浩殿も他の方々も、こんなことをするほど悪い方はいらっしゃらないようにお見受けします。単純な物盗りが目的ではないなら、もう止めましょう。皆さんがどう唆されたかは分かりませんが、あの人の口車に乗ってもあなた方の望むものは手に入らないはずです」
兵たちはしばらく逡巡していたが、李浩がまず剣を鞘に収めると全員がそれに倣った。
そして李浩が膝をついて頭を下げると、同じように全員が頭を下げてくる。
「許靖殿のおっしゃる通りだ。よくよく考えれば、あの男のでまかせだったのだと分かります。他の者も私と同じように、家族を避難させたいと思って話に乗ってしまったのです。大切なものを失う恐怖で全員が正常な判断力を失っていました……どうかお許しください」
許靖たち、特に男三人は安堵の息を吐いた。
花琳と芽衣で兵たち全員を倒せるとしても、穏便に済ませられるならその方がいいに決まっている。
「頭を上げてください。私も家族を守りたいという気持ちは分かります」
李浩はそう言われても頭を上げなかった。そのままの姿勢で何か悩むように地面を凝視している。
しばらくそうした後、李浩は決心したように頭を一度上げてから、もう一度深々と頭を下げた。そして叫ぶような声を上げる。
「許靖殿!このようなことをして頼める義理ではありませんが、どうかお聞きください!あなた方はこれから呉郡へと避難されますが、もし我らの家族も受け入れてくれそうな地があればご連絡いただけないでしょうか!?ここにいる兵の家族は皆、何かしらの病なり障害なりを持った者が身内におるのです!」
それは、ちょっと気圧されるほどの大音声だった。李浩の痛切な思いが伝わるようだ。
実際、それは許靖の心に強く響いた。
(戦では罪のない民の犠牲が付きものだ。戦う意志のない者でも奪われ、傷つけられ、殺される……そうまでして、人はなぜ戦うのか……)
董卓につけられた心の傷が疼くようだった。
(そういえば、私が殺した男たちも周毖の親族たちだった。親族というだけで何の罪があったのか……この人たちの家族も、自分が殺したあの男たちのように殺されるのかもしれない)
そう思うと、許靖は恐怖にも似た同情心が湧き上がってくるのを感じた。
多分に自己嫌悪を含んだその感情は、一般的には罪悪感と呼ばれるものだったろう。
それで花琳の足はピタリと止まる。
今しがた向かおうと思った相手を目で牽制しながら、静かに許靖の元へと下がった。
「……あなた、この人たちは強盗殺人をしようとしたんですよ。少し思い知らせてさしあげたほうがいいわ」
芽衣もそれに同調した。
「そうよ。私の幸せ家族計画を邪魔するやつは、全員股間を潰してやるんだから」
体が浮き上がるほどの金的を目の当たりにした兵たちは、恐怖とともにやや内股になった。
(……そう言えば、芽衣はあまり力が強くないからそれに合わせた技を重点的に教えていると言っていたな。金的などは得意技なのかもしれない)
許靖はそんなことを思い出していた。
しかし、同じ男として股間を潰されるのは忍びない。許靖は助け舟を出してやることにした。
「李浩殿。あなたが物盗りをしようと思ったのは、ご家族を戦から避難させるためですね?」
問われた李浩は苦しげな表情で答えた。
「はい。家族のためとはいえ、許されることではないことは分かっていますが……」
「でしたら、そもそもこの行為自体に意味がない」
「……意味がない?」
李浩は許靖の言葉の意味を理解しかねてオウム返しに聞き返した。
許靖はうなずいて説明を続けた。
「そうです。意味がないのです。李浩さんは私が人物鑑定家だということをご存知ですよね?」
「亡くなった陳温様より、月旦評の許靖殿のお話はうかがっています」
「その私が見たところ、今しがた芽衣に倒された人は嘘をついていると思われます。あなたのご家族を避難させる伝手など持ってはいないでしょう」
李浩は倒れた男に目をやった。
しかし、顔を地面にめり込ませたまま意識を失っているので、何も確認することはできない。
許靖は男の瞳を思い浮かべた。
(あの男の瞳の奥の「天地」では、鼬のような小動物がずっと何かを貪り食っていた。自分が満たされることしか考えていない人間だ)
瞳の奥の「天地」はそうだったが、それをそのまま話しても困惑されるだけだろう。許靖は李浩たちが納得できるように話をした。
「李浩殿も部下の方々も、あの人が自分の得ばかりを考えている人間だということが分かっているのではありませんか?同僚なら誰でも気づきそうなほど、典型的な自己中心的人物です。伝手が嘘とかいうどころではなく、きっと得た銭は自分一人で持ち逃げするつもりですよ」
許靖は息が乱れないように、気を強く保ちながらしゃべった。
董卓に植え付けられた心の病で、剣が抜かれた時からずっと激しい動悸に見舞われているのだ。
薬指の指輪を回しながら、花琳を視界に留めて心を落ち着けようとした。
許靖の言葉には全員思うところがあったようで、互いに目を見合わせながら小さく頷いている。
許靖はその様子から、もうひと押しで穏便に済ませられそうだと感じた。
「李浩殿も他の方々も、こんなことをするほど悪い方はいらっしゃらないようにお見受けします。単純な物盗りが目的ではないなら、もう止めましょう。皆さんがどう唆されたかは分かりませんが、あの人の口車に乗ってもあなた方の望むものは手に入らないはずです」
兵たちはしばらく逡巡していたが、李浩がまず剣を鞘に収めると全員がそれに倣った。
そして李浩が膝をついて頭を下げると、同じように全員が頭を下げてくる。
「許靖殿のおっしゃる通りだ。よくよく考えれば、あの男のでまかせだったのだと分かります。他の者も私と同じように、家族を避難させたいと思って話に乗ってしまったのです。大切なものを失う恐怖で全員が正常な判断力を失っていました……どうかお許しください」
許靖たち、特に男三人は安堵の息を吐いた。
花琳と芽衣で兵たち全員を倒せるとしても、穏便に済ませられるならその方がいいに決まっている。
「頭を上げてください。私も家族を守りたいという気持ちは分かります」
李浩はそう言われても頭を上げなかった。そのままの姿勢で何か悩むように地面を凝視している。
しばらくそうした後、李浩は決心したように頭を一度上げてから、もう一度深々と頭を下げた。そして叫ぶような声を上げる。
「許靖殿!このようなことをして頼める義理ではありませんが、どうかお聞きください!あなた方はこれから呉郡へと避難されますが、もし我らの家族も受け入れてくれそうな地があればご連絡いただけないでしょうか!?ここにいる兵の家族は皆、何かしらの病なり障害なりを持った者が身内におるのです!」
それは、ちょっと気圧されるほどの大音声だった。李浩の痛切な思いが伝わるようだ。
実際、それは許靖の心に強く響いた。
(戦では罪のない民の犠牲が付きものだ。戦う意志のない者でも奪われ、傷つけられ、殺される……そうまでして、人はなぜ戦うのか……)
董卓につけられた心の傷が疼くようだった。
(そういえば、私が殺した男たちも周毖の親族たちだった。親族というだけで何の罪があったのか……この人たちの家族も、自分が殺したあの男たちのように殺されるのかもしれない)
そう思うと、許靖は恐怖にも似た同情心が湧き上がってくるのを感じた。
多分に自己嫌悪を含んだその感情は、一般的には罪悪感と呼ばれるものだったろう。
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