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洛陽

董卓

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「許靖殿、そこをどかれよ。あなたを殺したくはない」

 袁紹エンショウは許靖の鼻先へ剣を突き付けながら、低い声で凄んでみせた。

 剣の切っ先は赤く染まっている。本物の血だ。

 普段から芝居がかった言動をする男だが、今日ばかりは演技でないことが明らかだった。

 許靖は剣の切っ先には焦点を合わせず、袁紹の瞳をじっと見た。その瞳の奥の「天地」では、美しく装飾された天秤が揺れている。

「私は許靖殿のことを尊敬している。その清廉な人柄も、高い実務能力も、卓抜した人物鑑定眼も。それらを失うのは、あまりにも惜しい」

 少なくとも『惜しい』という部分に嘘偽りはないだろう。

 袁紹は利に聡い。常に物事を天秤にかけ、己の利益になるように行動できる。

 瞳の奥の「天地」で揺れる天秤がそれを示していた。

 物事を正確に評価できるということは、生きていく上でも物事を成し遂げていく上でも非常に重要になる。

 ただし、あまりに自分の利益が分かり過ぎてしまうというのも問題ではあった。それは袁紹の器を一回り小さくしかねない。

(そして、この人は己の利になるなら人くらい躊躇なく殺せる)

 許靖の頬を、一筋の汗が流れた。どこかでボヤが出ているのか、焦げ臭いにおいが漂ってくる。

 ただ、ここまで火が回っているわけではないので、流れる汗は暑いから出ているわけではないだろう。

「袁紹殿、私もあなたを尊敬しています。だからこそ、このような強引な手段は避けていただきたい。あなたの名にも傷がつきます」

 許靖の声は意外にも堂々としており、心中の恐怖を感じさせないものだった。

 袁紹は許靖が臆病な人間だと聞いていたので、その事に少しだけ驚いた。剣を突き付けられても思いのほか平静を保っている。

(袁紹殿は、ここで私を殺しても利がないことをよく分かっているはずだ)

 許靖には瞳の奥の「天地」から、そういう推察ができている。それで勇気を振り絞り、密かに足を震わせながらも袁紹と対峙できていた。

 しかし今、宮殿のあちこちでは殺戮が起きている。袁紹自身、返り血で甲冑が赤く染まっているのだ。

 そのような状況で人間に冷静な判断を期待するのは少し無理があるだろう。絶対安全だなどと、とても言えるものではない。

 袁紹は血に濡れた剣で宙を薙いだ。

宦官かんがんたちはやり過ぎた!もはや粛正するしかない!そしてそれは宦官におもねって私利私欲を満たし、政道を乱した者も同じだっ!」

 袁紹の強い語調に驚いたのか、許靖の背後で、

「ひぃっ」

と引きつるような声が上がった。

 部屋の隅の戸棚に頭を突っ込み、尻だけを出した男が震えている。

 この男は許靖の親戚で、許相キョショウという政治家だった。

 許相は役人としては大物だ。過去には三公(特に地位の高い三つの役職)に上ったこともあった。

 しかも許相の父、祖父も三公を経験している。三代続けて三公など、名門中の名門と言えるだろう。

 しかし許相はその地位に反し、世間のほとんどの人間から尊敬されてはいなかった。

 この時代、後漢末期は宦官(皇帝の私的な居住空間で仕えるために去勢された官吏)が政治の実権を握り、賄賂が横行したため政治がひどく乱れていた。

 その中でそれほどの地位にいるということは、宦官に媚びへつらって賄賂を駆使してきた証拠に他ならない。

 許靖が初めて洛陽に赴任して来た時、近しい親戚なので当然挨拶に伺った。許相はその席で、

「この役職に就くにはこのくらいの銭が必要で……」

ということを懇切丁寧に教えてくれた。

 あまつさえ、その賄賂を自分が一時立て替えることすら提案してきたのだ。しかも本人には何の悪気もなく、完全に親切心から出た提案だった。

 さすがに許靖は恥ずかしくなり、自分からは距離を置くようになった。

 が、向こうは人が好いのか身内に優しいのか、出会った時には妙な馴れ馴れしさで接してくる。

 許相は産まれながらの支配階級であるから、おもねる人間が多い。自分から相手に好意を見せてやることが親切なのだと思っている節があった。

 そんな許相や宦官たちに対抗していたのが、外戚(皇帝の妻の親族)の何進カシンとその一派である袁紹たちだ。

 何進は宦官勢力の一掃を図り、軍事力を背景に圧力をかけることにした。地方の軍勢を洛陽へ呼び寄せ、脅す形で宦官勢力を除こうとしたのだ。

 しかし、その計画の途中で何進が宦官たちに暗殺されてしまった。

 何進が権力を握れば必ず過去の不正を糾弾されて、宦官たちは処刑されるだろう。彼らも生き残るのに必死だった。

 この話を聞いた時、許靖はむしろ暗殺した側の宦官たちの身を危ぶんだ。

(宦官たちが『何進を殺せば全て収まる』と思っているなら、認識が甘いと言わざるを得ない。これで終わってしまえば、袁紹殿にとってあまりに利が無い)

 素早く状況を判断した袁紹は、軍勢を引き連れて宮中に乱入した。

 もちろん本来なら許されることではないが、名目は立つ。

「腐敗した宦官たちと、それにおもねる腐敗官吏を除くのだ!」

 袁紹はそう叫んで兵を叱咤した。

 宦官にも罪のある者、ない者がいたはずだが、袁紹の軍勢は宦官であれば例外なく斬った。宦官でない者は斬られないために服をたくし上げ、男性器を見せて宦官でないことを証明したという。

 しかし、去勢されていなくても斬られる人間たちが何人かいた。それが宦官たちと共に腐敗した政治を行っていた許相たちだ。

 許相自身もそれは分かっており、宮中を逃げまどった末に許靖の執務室に駆け込んだ。親族なので助けてくれると思ったのだろう。

 許靖としてはいい迷惑ではあったが、目の前で殺されそうになっている人間に対して何もしないわけにもいかない。

 それで兵を連れて部屋に入ってきた袁紹の前に立ちはだかったのだった。

(しかし……実際のところ立ちはだかったところで意味はない。私に戦闘能力など皆無だ。しかも武器すらない。袁紹殿は斬ろうと思えばいつでも斬れるし、斬らずとも軽く突き飛ばせば退かせられる)

 許靖もそれは分かっていた。

 袁紹がそれをすぐにしなかったのは許靖を優秀な文官として尊重し、一応だが話をしてくれているからに過ぎない。そして、その一応はもう終わった。

 袁紹は剣を下ろし、許靖の方へ歩を進めてくる。その手が許靖の胸に届く直前、袁紹の背後で兵たちの叫び声が上がった。

「な、なんだこの女!?」

 そして次の瞬間、一人の兵が袁紹の頭上を越えて飛んできた。

 その兵が頭から許靖にぶつかる。

「ぐぇっ」

 許靖のものか兵のものか、生々しい声が絞り出された。

「あら、失礼」

 その謝罪の声は、許靖にとってよく聞き慣れたものだった。

「ごめんなさい、あなた。お怪我はないかしら」

 そう言って部屋に入ってきたのは花琳だ。

 突然の闖入者ちんにゅうしゃに兵たちが剣を向けたが、それをするするとかわして許靖のそばまで走り寄った。

 許靖に乗っている兵を軽々と持ち上げ、ごみでも放るように部屋のわきへ投げる。

 突然のことに袁紹は目を白黒させていたが、やがて絞り出すように声を出した。

「……そ、そう言えば許靖殿の奥方は女傑じょけつであると聞いたことがある。そちらが奥方かな?」

 許靖は花琳に抱き起されながら答えた。

「はい、自慢の妻です」

「ほう……で、そのご自慢の奥方は本日、どのようなご用件でこのような殺戮の場に来られたのかな?」

 花琳は平時ならば愛想がよいと思われる笑顔を作り、腰に下げた袋に手を添えた。

「主人がお弁当を忘れておりましたので、お届けに」

「ふざけるな!」

 兵の一人がそう叫んで花琳に斬りかかってきた。仲間を投げ飛ばされて激昂しているのだろう。

 花琳は兵の剣が届くよりも早くその懐に踏み込み、体重の乗った肘をみぞおちに沈めた。兵が膝から崩れ落ちる。

 それを見た他の兵たちも一斉に斬りかかろうとしたが、それを袁紹が一喝した。

「やめろ!大の男が何人がかりで婦人一人を斬るつもりだ」

 その言葉で兵たちの体がビクッと止まった。

 このように格好を気にするのも袁紹の人格の一つだろう。瞳の奥で揺れている天秤には、見るもきらびやかな装飾が施されている。

 花琳は袁紹に頭を下げた。

「ありがとうございます」

 そう礼を口にしてから、許靖の腕を掴む。

「このような状況ですし、本日の主人の勤務は早退ということでよろしいですね」

「ああ、結構です。お気をつけて」

 花琳は許靖の腕を引いて扉の方へ歩き出した。

「ちょ、ちょっと待ってくれ」

 許靖は抗議したが、花琳は強い力で許靖を引いた。

 力づくでこられては花琳にかなうはずもない。許靖は扉の方へと歩みを進めざるを得なかった。

「道を開けろ」

 袁紹に命じられて下がった兵たちの間を二人が歩いて行く。袁紹はその背中を無言で見送った。

 廊下に出た許靖は花琳へかすれたような声をかけた。

「部屋の奥に……」

 花琳の横顔には厳しい表情が浮かんでいる。許靖の方を見ずに口を開いた。

「あの奥にいたのは許相様ですね。あなたの親族です。不憫ですが、かばえばあなたやその周囲にも害が及ぶかもしれません」

 後漢王朝に限らず古代、中世の国家では、誰かに大きな罪があればそれに連座して周囲の人間が罰を受けることがあった。

 ましてや罪人が親族で、それを庇ったとなればなおさらだ。場合によっては許靖だけでなく、息子の許欽キョキンにまで罪が及ぶかもしれない。

 花琳の取った行動は正しい。許靖にとっての最善を考えてくれていた。

 今日も自分の身を思って駆けつけてくれたのだろう。本当に感謝している。

(しかし……殺されるのが分かっていて見捨てるのか……)

 許靖は心に黒い染みのようなものがこびりつくのを感じた。この染みは何をしたところで取れそうもない。

 廊下を行く二人の背後で、大きな悲鳴が上がった。

 許靖はその声に耳をふさぎたくなったが、花琳が強い力で腕を引いているのでそれは叶わなかった。
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