三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地~ 家族愛の三国志大河

墨笑

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豫州

馬磨き

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※閲覧いただき、ありがとうございます。
 本編がちょっと長いので、お試しなら『小覇王の暗殺者(ep.216)』『呂布の娘の嫁入り噺(ep.239)』『段煨(ep.285)』あたりから読んでいただいてもよろしいかと思います※

↓小覇王の暗殺者より、許安、雲嵐、魅音のイラストです↓


↓呂布の娘の嫁入り噺より、呂玲綺のイラストです↓


↓短編 段煨より、段煨のイラストです↓


※以下より本編※


「新しく雇った馬磨きが、月旦評げったんひょう許靖キョセイだというのか?」

 劉翊リュウヨクは、太守の執務室で思わず書類から顔を上げた。

 豫州汝南郡よしゅうじょなんぐんの太守、劉翊の仕事熱心なことには定評がある。賄賂が横行し、腐敗した官吏がはびこる後漢王朝末期には珍しいことだった。

 その日も机に書類や木簡を山積みにして処理しつつ、同時に部下からの報告を受けていた。普段からこのように報告と事務処理とを同時に行っている。

 就任当初、書類から顔も上げずに報告を聞く劉翊を見た部下は、

(適当な仕事をする野郎が来たもんだな)

などと内心毒づいていたものだ。しかし、しばらくすると、

(……どうやら耳と目玉に別々の脳みそがついているらしい)

そう思い直した。

 この上司は書類仕事をこれ以上ないほど的確に片づけているくせに、報告内容を聞き漏らしていたことが一度もない。

 しかも、報告中にハッとさせられるような質問を挟んでくるのだ。こちらを見もせずに。

 そんな劉翊なので、今日も目線は卓の上に落ちたままで報告を聞いていた。しかし今はその二つの目玉が上を向き、まっすぐに部下を見つめている。

 上司から直視されたのは久しぶりで、部下はやや体を硬くした。

「は、はい。どうやらそのようなのです」

「そのよう、というのはどういうことだ。本人に確認したのではないのか?」

 劉翊はあいまいな表現を好まない。仕事のできる男だった。

「不明瞭な回答をして申し訳ございません。本人にも確認済みです。ただ、その本人が「はぁ、一応そうなのですが……」などと、あまり歯切れの良い返事をしなかったもので」

「……ふむ?そうか」

 劉翊は筆を握ったまま腕を組み、しばらく思案した。

「月旦評の許靖か……」

 月旦評、とは少し前まで巷で有名だった人物評論会だ。

 毎月一日に有志が集まり、世の人物の良し悪しやどのようなことができる器なのか、といったことを評論するのである。今話に出ていた許靖とその従兄弟である許劭キョショウが中心になって開催していた。

 もの好きが集まって他人のことを、あいつはああだ、こうだと言い募るのであるから、捉え方によってはこの上なく無礼なことだろう。実際にこういった集まりを忌避している人間がいるのは確かだった。

 しかし、この月旦評は世間の評判がすこぶる良かった。評価が的を射ていることが多いだけでなく、その表現が秀逸なのである。

(治世の能臣、乱世の奸雄かんゆう、か)

 劉翊は、許劭が曹操ソウソウという青年に対して下した評価を思い出していた。自らも多少知るこの青年に対し、人物評論としてこれ以上ない表現だと思ったものだ。

 曹操はこの数十年後、乱世を雄飛して三国の一つ、魏の武皇帝となった人物である。その未来を知りようのないこの時においても、曹操という人物の勇躍が目に見えるようで心躍る。

 この頃の中国では『人物鑑定』というものが社会的に大きな価値を持っていた。

 優秀な人材が欲しい者は、まず世評の良い人物を捜す。世評の良い人物を手っ取り早く探すには、良い人物鑑定を受けた人間を探すのが良い。つまり優れた人物鑑定家から良い評価を受けられれば、それだけで仕事の口がいくらでも湧いてくるという時代だった。

 賄賂で官吏の腐敗が蔓延する中、なんとか優れた人物を見出そうとする社会の自衛反応だったのかもしれない。

 このように誰もが優れた人物鑑定家から評価を受けたがった結果、自然と人物鑑定家自身も世間で一目置かれる存在となった。

 それゆえ、世に名高い月旦評の許靖ともなればいわゆる「名士」という人種に分類されて良いだろう。自ら進んで仕官せずとも雇いたい、食客に迎えたいという人間は多くいるはずで、いくらでも稼ぐ道はあるはずだった。

 それが今、郡役所の厩舎きゅうしゃで馬磨きの仕事をしているという。

(組織は人だ。人物を見極め、採用や配置を的確に行える人間がいるなら喉から手が出るほど欲しいが……)

 劉翊は虚空を見つめながら思案している。

「……許靖の従兄弟である許劭の方は功曹(郡の人事を司る役職)に採用されていたが、そこから仕官の推薦はなかったのか?」

「詳しくは存じません。しかし、あれば馬磨きなどしていなさそうですが」

 それはそうだろう。

 劉翊は部下の当たり前の回答にうなずいた。

「いかがいたしましょう。とりあえず、お会いになりますか?」

「いや、何か事情があるのかもしれん。とりあえずそのままにしておけ」

「……よろしいので?」

 部下がそう念押しをする程度には名の売れた人物だ。

 劉翊はもう一度うなずいた。

「昨今は有能な人物でも、仕官を断る者が多い。それは大志を秘めてのこともあれば、腐敗した政治組織を忌避してのこともある」

(……そういえば、私も小物として取り立てられることが嫌で仕官を拒んだことがあったな)

 劉翊は自らの過去を思い出して自嘲気味に笑った。

「なんにせよ無理強いはできんし、そうしても長くは続かんだろう。しばらくは様子を見つつ、仕官しない理由が分かれば報告せよ」

 劉翊はこの台詞の後半にはまたいつものごとく、書類に目を落としてしゃべっていた。

 それを見た部下は、

「かしこまりました」

と頭を下げ、早々に部屋から退出した。

 劉翊は無駄を好まない。

 報告が終わったのならすぐに退出して別の仕事に取り掛かれ……などと言われたことはないが、それでも劉翊を上司として仕事をしていれば、嫌でもそのような働き方になってしまう。

(上が少しは気を抜いてくれないと、下も気が抜けないんだよ……)

 部下が廊下で不満とともに漏らしたため息は、そこにいくらかの尊敬が含まれる分だけ厄介なのだった。

 そこでふと、廊下の窓から厩舎の方角に目を向けた。

(……月旦評の許靖、か。しかし稼げるのに稼がないでいるってことは、よほどの蓄えがあるのか?)

 役所の建物に遮られて厩舎は目に入らない。視線の先には広い中庭と、徐々に紅く色づき始めた庭木があるだけだった。

(名士なんて言われている連中は皆、何かしら一般人には理解できないような道楽を持っていると聞くが……馬磨きもそれか?)

 そう思うと、厩舎のほうへ向かって舌打ちでもしたい気分に襲われた。

(こっちは食っていくために、汗水たらして稼いでるってのに……)
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