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半夏瀉心湯、六君子湯、四君子湯、二陳湯9
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景は油断なく六君子刀を展開したまま、源一郎の病邪化が解除されたのを確認した。
そして安堵の息を吐く。
「ふぅ……当面の敵は倒したが……」
「ああ、見事なものだったよ」
パチパチパチ、と軽い拍手が送られる。
いまだに繋がったままの電話の向こうから、蚩尤が笑顔で手を叩いていた。
「いや、本当に大した手並みだ。この間も一人で病邪二体をやったとは聞いていたけど、こうもあっさり倒すとはね。闘薬術の出力が平均的な医聖とは段違いだ」
そうやって持ち上げてはいたが、そんな景と戦う蚩尤の表情には余裕しか現れていない。
事実として、戦力差はどうしようもないほどなのだ。
「褒め殺しにしようとしたって無駄ですよ。油断なんてしません」
「あれ?また敬語に戻っちゃうんだ。別にそのままでもいいのに」
「仮にも神様ですし、この戦力差で勝てると思ってませんし」
蚩尤は景の言葉がよほど意外だったのか、目をパチクリとしばたたかせた。
「そんなのかい?さっきの態度だと、本気で僕を殴りに来るつもりだと思ったんだけど」
「本気で殴りに行くつもりですよ。でも、それと勝てるかどうかは別です」
「本当に現実主義なんだね。でも少し安心した。勝てるとは思ってないけど、勝つつもりで全力を尽くしてくれるってわけだ」
「そうですね。今、めっちゃ暴れたい気分なんで」
その軽い物言いとは裏腹に、景の目は力を込めて蚩尤を睨みつけている。
明らかな敵意を叩きつけられ、蚩尤は満足そうに笑った。
「その気迫、その力、君は本当に素晴らしい。それに初めての闘薬術をあそこまで使いこなす器用さにも目を見張ったよ」
器用さと言われても、今のところ景は初めての闘薬術ばかりで病邪を仕留めてきたからよく分からない。
ただ、器用と言うなら自分より器用な医聖を知っている。
「俺よりも、そこいる月子の方がよっぽど器用ですよ。初めて握った芍薬甘草刀を完全に思い通りに動かせてましたから。その時の病邪もほぼ単独討伐でしたし」
景はそれで月子への暴力が予防できればと思って話した。
しかし蚩尤が床に這いつくばる月子へ落としたのは、どこかつまらなさそうな視線だった。
「へぇ、この中の下程度の女がね」
鼻を鳴らして爪先で頭を小突く。
それを見た景の頭は真っ白になり、再び敬語が消えた。
「てめぇ……!」
「アハハハ!」
蚩尤はいかにも愉快そうに破顔する。
「やっぱり君はその方がいいよ!僕に負けた後も、君だけは僕に敬語を使わなくていい特権をあげようじゃないか!」
すでに勝ちを確信している蚩尤だが、その根拠は十分すぎるほどあるのだ。余裕を隠そうともせず、悠然とそんなことを言い放った。
それから片手に握っていたスマホを耳に当てる。
「もういいよ。やって」
電話口にその短い指示が発せられた直後、本殿の外で二つの声が上がった。
「人参、朮、茯苓、甘草、生姜、大棗……いでよ、魔剣 四君子刀!」
「半夏、陳皮、茯苓、甘草、生姜……いでよ、魔剣 二陳刀!」
それらの声に続き、本殿の壁が爆発したような音を立てた。
見るとそこには大穴が開いており、穴の向こうに二人の男が立っていた。
背の高い痩せた男と、背の低い小太りの男だ。
二人とも額に黒い角を生やしており、邪気まといの医聖であることが明らかだった。
まず背の高い方が穴から入ってきて、低い方がそれに続く。
「景、君の未来の同僚を紹介させてくれ。そこにいるのが我が軍が誇る四天王の二人、亀井南陽と亀井北陽だ。彼らは特定の隊に所属していない、僕直属の医聖なんだよ」
紹介された二人だが、一同を傲然と見回すだけでお辞儀の一つもしない。
それどころか、その周囲には殺気を放つ刀がクルクルと舞っている。
先ほど景が使ったのと同じ踊る刀だ。ただし、本数が少し違う。
背の高い方の周囲に舞っているのは四本、背の低い方の周囲には二本だった。二人とも別に武器を帯びていないので、それが今二人の発動している闘薬術なのだろうと察せられた。
「お前らがさっきの邪気嵐を起こしたのか」
景の質問に、二人ではなく蚩尤が答えた。
「その通りだよ。どうせここに集まるだろうと思って外に待機させていたんだ」
「病邪で倒せなかったから、今度はこいつらにやらせるってことだな」
「それもその通りだけど、病邪みたいにあっさりやれるとは思わない方がいい。后土姉さまから聞いているだろうけど、邪気まといの医聖は病邪みたいに最適処方ならダメージが跳ね上がるってわけじゃないからね」
后土から聞いていたのは『処方の適切さにはあまり左右されずに効くみたいだった』という話だったが、見方を変えると蚩尤の言う通りになる。
病邪のように、瑤姫の四診ビームを当てれば弱点を突けるというものでもないということだ。
「いきなり四天王とか出すんだな」
お言葉に甘えてということか、さっさと敬語をやめてしまった景が鼻を鳴らして揶揄した。余裕ぶっている割に、いきなり全力ではないか。
「開戦と同時に最大限の打撃を与えるというのは戦のセオリーだよ。だからうちの軍でも屈指の力を持つ南北兄弟を配置していたんだ」
そう説明する蚩尤の顔は本当に楽しそうだった。
戦力を配置する。そういう戦の一手がこの神にとって、この上ない喜びなのだろう。
南北兄弟という呼ばれ方をした二人が一歩踏み出す。亀井という名字が同じ事でも想像はついていたが、この二人は兄弟らしい。
(見た感じ、背の高い痩せた方が兄で南陽で、背の低い小太りが弟の北陽かな)
二人ともまだ二十代だろうが、背の高い方がいくらか年上に見える。
だから景はそんなことを考えたのだが、その思考をフッと暗い笑みで捨てた。
(……誰が誰とか、どうでもいいか。これから二人ともぶっ飛ばすんだから)
やるべきことを再認識し、まだ発動したままの闘薬術に命じる。
「行け!六君子刀!」
六本の踊る刀が敵に向かって飛んだ。
それに応じ、邪気をまとった兄弟の刀が黒い軌跡を描いて舞う。
ガキィン!
と、六つの剣戟が本殿に鳴り響いた。
火花を散らし、刀と刀が空中で押し合う。たまにギリギリと刃の擦れ合う音がした。
その張り詰めた空間から後退しつつ、瑤姫が警告の声を発した。
「景!そのままじゃ不利かも!」
「何!?どうしてだ!?」
「その二人が使っている闘薬術は六君子刀じゃなくて、四君子刀と二陳刀よ!さっき六君子湯は二つの基本処方が合わさったものだって言ったでしょ!?四君子湯と二陳湯がそれなの!」
言われた景は、先ほど聞いた瑤姫の解説を思い出した。
「確か……脾気虚と脾胃湿痰、だったか!?」
「そう、四君子湯が脾気虚の基本処方で、二陳湯が脾胃湿痰の基本処方!」
つまり四君子湯は消化器が弱っている時の基本処方で、二陳湯は脾胃に水分が滞留している時の基本処方ということになる。
そしてその二つの基本処方を合わせたものが六君子湯ということだ。
それは分かったのだが、だからといって不利になる理由は分からない。
「だから、どうしてそれがまずいんだよ!?」
「見ての通り、四君子刀は四本の踊る刀を操る闘薬術で、二陳湯は二本の踊る刀を操る闘薬術なのよ!当然だけど、本数が少ない方が一本一本の力は強くなるわ!」
四本を操る南陽の力は四分の一、二本を操る北陽の力は二分の一、そして六本を操る景の力は六分の一に分散されることになる。都合、景と北陽は三倍も違う計算になってしまうのだ。
当然それを分かっていた蚩尤は余裕の笑みを深くした。
「珍しくその駄女神の言うことが正しいよ。っていうか、今そうやって押し合ってられるのがすごいことなんだよ。四天王のざっと三倍だからね。僕の配下の中でも出力はまず間違いなく一番だろう」
すでに景を配下に加えた物言いだ。
「……はぁ?こんなんで……」
景のその言葉の途中で、フッと蚩尤の姿が消えた。
いや、蚩尤だけでなく月子や由紀、玄二たちのホログラムも突然消えてしまった。
「汝らは戦いをするのだろう?無駄話が過ぎるな」
その言葉に振り向くと、神農が景のスマホに向かって軽く手を掲げていた。どうやらその一動作で通話を切ったようだ。
(そういうちょっとした神術は使えるんだから少しは手伝えよ!)
そんな風に苛立った景の耳に、初めて聞く声が届いた。
小太りで小男の方、亀井北陽の声だ。
「なんだよ、蚩尤様に俺の働きを直接見てもらえるチャンスだったのに……」
舌打ちとともに不満を漏らしてから、腕を横に振った。
その動きに応じ、北陽の操る二陳刀が押し合いの角度を変えて景の六君子刀を横に逸らした。そしてその二刀をいったん自分の周囲に戻し、ため息を吐く。
兄の南陽もそれに合わせ、同じようにして四本の四君子刀を自分の側に戻した。
「そう愚痴を言うな。見られていない所でもきっちり働くのが部下の務めだ」
「兄貴は相変わらずクソ真面目だな。でも実際に頑張りを見てもらった方が報酬も弾むってもんだろ」
はぁ、と南陽がため息を吐いた。どこか諦めたようなため息で、こんなことを言う弟に慣れているようだった。
「蚩尤様が世界を屈服させた後は医聖の天下だ。報酬なら心配ない」
「だからって何でもってわけにはいかねぇだろ」
「じゃあ例えば、何が欲しいんだ」
「そうだな……」
北陽は考える風に顎へ手を当てて、それから口元を歪ませた。
まるでわざとではないかと疑うほど、下卑た笑みが浮かんでいる。
「そこはやっぱ、女じゃねぇか?」
こんな弟にもやはり慣れているのか、北陽はまた似たようなため息で応じた。
「それこそ医聖というだけで女が寄ってくる世界になるだろうよ」
「いやいや、それは一般人の女だろ?せっかくなら医聖の女を囲いたくねぇか?そんな世界なら、医聖の女はいっそプレミアもんだぜ」
「お前……」
南陽の弟に対するため息はいよいよ深くなった。
「樹里に振られたことをいまだに引きずってるのか」
「なっ……」
北陽は兄の指摘に言葉を詰まらせかけた。
「バ、バカ言ってんじゃねぇ!っていうか振られたとかじゃねぇし!あいつが自分より強い医聖と結ばれたいとか言ってたから気ぃ使って声かけてやっただけだし!」
「まぁ……樹里はああいう女だが、誰でもいいというわけではなかったようだな」
「そういう言い方はやめろ!」
気を使わない兄に対して弟は吠え、それから大きく咳払いをしてみせた。
「と、ともかくだ。俺は医聖の女を手に入れる。別に樹里への当てつけとかじゃないからな」
そう口にしている時点で当てつけだと思われるだろうに、何も考えないようなことを口にした。
それからまた、先ほどと同じわざとらしいほどの下卑た顔になる。
「それでよ兄貴。さっき蚩尤様の足元に転がってた女、あれを報酬としてもらえねぇかな」
「もらうってお前……人間だぞ」
「世界が変わるんだからそういうのだってナシとは言い切れねぇよ。それにあいつはつまるところ、医聖の反逆者だろ?見せしめに奴隷ってのもアリだと思うんだ」
言ってから、北陽は自分の言葉が気に入ったらしく繰り返した。
「女奴隷、いい響きだな。男の夢じゃねぇか」
下卑た口で下卑たことを言い、下卑た笑い声を上げた。品性の欠片もないような声が本殿に響き渡る。
神農と后土はそれを聞いても神らしく泰然自若としていたが、瑤姫はあからさまに嫌な顔をした。形の良い眉が不快げに寄せられる。
しかしその直後、瑤姫の眉は大きく持ち上げられた。驚きと警戒、そして小さくない恐怖のためだ。
見張った目が、北陽とはまた別に方向に向けられた。
そこに神である瑤姫が恐れるほどのものがあったからだ。
「……ぁあ?」
小さな声を発したのは景だった。六本の刀に囲まれた景が、北陽のことをじっと見ている。
それだけならどうという事もない光景なのだが、なぜか瑤姫の背筋はゾクリと震えた。肌は氷を首筋に当てられたかのように粟立っている。
景は瞳孔の開いた瞳で敵を見据え、静かに告げた。
「月子を……奴隷だと?殺すぞ」
永い時を過ごす瑤姫でさえ、ここまで殺気の込もった『殺すぞ』という言葉を聞いたことがなかった。
傍目にそれを見ている瑤姫ですらそうだったのだから、直接その殺気をぶつけられた北陽はひとたまりもない。
ヒッ、と小さな悲鳴を上げて、尻餅をついてしまった。
それでドンと床板が鳴ったのだが、その音にヒュンヒュンという風切音が重なった。
見ると、景を囲む六君子刀がその場で回転し始めていた。
六本の刀身はみるみる内に回転数を上げ、風切音も次第に大きくなっていく。しまいにはゴウゴウと巨大な風車でも回っているような音になった。
「な、何だあれは……風が……見える?」
南陽が信じられないという様につぶやきを漏らした。こちらも景の殺気に当てられたようで、足を小刻みに震わせている。
そして南陽のつぶやいた通り、六君子刀の周囲では景色が歪んで見えるほどの風が渦巻いていた。そうなるだけの気流が生まれるほど、激しく回転しているのだ。
「あ、兄貴……アレはヤベェ!」
「分かってる!本気でやるぞ!」
兄弟は眼前の光景に圧倒されつつも、戦意は失わずに己の闘薬術へ力を込めた。
二人は蚩尤の軍における四天王なのだ。世界を征服できる最強の軍隊、その頂点にほど近い存在である。
そういった矜持が二人の心を奮い立たせ、十二分のパフォーマンスを発揮させた。すなわち最大限の力でもって四君子刀、二陳刀を繰り出した。
四天王の本気の力を受けた刀身は邪気の尾を引き、景へと迫る。それらは当たれば戦車の装甲すら断ち切る必殺の刃だった。
が、それらは景の操る六君子刀に触れた瞬間、あっけなく砕かれた。
パキィーン
という高い音を残して粉々になり、邪気のモヤになって浄化されていく。
「なっ!?」
「……っ!」
信じがたい結果に北陽は叫び、南陽は絶句した。
そもそも闘薬術で出現させた武器が完全に破壊されるところなど、初めて見た。
邪気まといの武器と邪気を払う闘薬術、という相性はあるのだろうが、后土の医聖たちを相手にした時にもこんなことは一度もなかった。
要は、景の闘薬術の出力が桁違いなのだ。
(もしかして……先ほど押し合っていた時はただの様子見だったのか?)
まさかと思う一方で、あれが手加減でなければ眼前の光景がおかしい。
考えてもみれば、変ではあった。南陽の四君子刀と北陽の二陳刀では、その出力が倍ほども違っていたはずだ。
しかし敵はその六本ときれいに力を均衡させ、押し合っていた。よほど余裕がなければできることではない。
それに気づけば、結論を得られるのはすぐだった。
(こいつはヤバ過ぎる!化物だ!)
景の底知れなさを理解した南陽は、弟に向かって声を張り上げた。
「北陽!逃げるぞ!」
言いざま景に背を向けた南陽の体が突如として宙を舞った。
圧倒的な力で全身をもみくちゃにされ、上も下も分からないような状況に晒される。
その視界の隅に、一瞬だけ刀身のきらめきが見えた気がした。
(まさかこれは……六君子刀の風圧か!?)
張中景があの信じられない力で六君子刀を飛ばしたのだろう。
ただしあの刃が直接当たっていれば、自分の体は一瞬でバラバラになっているはずだ。そうなっていないということは、風圧だけで翻弄されているのだろう。
そうして南陽が次に天地がしっかりと認識できたのは、背中から床に叩きつけられてからだった。
「ぐぁっ……」
呻きつつも、逃げるために仰向けになった体を急いで起こそうとした。
しかしその機先を制し、鋭い刃が首筋に添えられる。交差する二本の刀身が正確に頸動脈に触れていた。
目だけを動かして横を見ると、弟の北陽も全く同じ状況に陥っていた。仰向けに倒れて首筋に二本の刀を当てられ、体を起こすこともままならない。
「それで動けないってことは、首を落とされれば邪気まといが解けるってことだな?」
景は二人へゆっくりと歩み寄りながら、冷たい声で確認した。
それは質問口調の言葉だったのだが、二人は答えない。だから景は再度確認することにした。
「そうなんだな?」
「くそっ……」
そうやって北陽が悪態で返した直後、六君子刀の一本が北陽の脛を激しく打ち据えた。斬るのではなく、峰打ちだ。
鈍い音がして、関節ではないその部分がくの字に折れ曲がった。
「っぎゃあああああ!」
本殿に北陽の絶叫が響き渡る。
一方、それを引き起こした景はというと、全くの平静な顔色をしていた。
「なるほどな。邪気まといだと死にはしないって話だけど、痛覚はあるのか」
目の前の現象から冷静に情報を読み取るその姿は、さながら熟練の研究者のようだった。
例えば毒性試験のために薬物を投与されたマウスを観察中、というような目をしている。
「后土様からいくらか教えてもらったけど、邪気まといの情報はまだまだ不足してるからな。いい実験体が手に入ったことだし、色々試させてもらうぞ」
そう宣言してすぐ、六君子刀の柄が北陽の腹に落ちてきた。
「ゲフゥッ」
柄頭で強打された小太りの腹が、強制的に肺の中の空気を吹き出させる。
苦痛に歪むその顔をじっくり眺めてから、景は独り言のようにつぶやいた。
「折れてる足からは邪気が多く漏れてるが、打たれただけの腹から漏れる量は少ない……重い怪我の方が邪気の漏れが多いってことか」
景の指摘通り、脛の骨折部位からはおびただしい量の黒いモヤが溢れ出ているが、腹の方からは少量だ。
そして邪気は漏れ出た端からすぐに浄化されて光に変わっていく。やはり闘薬術で与えたダメージは、邪気の浄化に繋がるようだ。
「そんで一定以上の邪気を失ったら邪気まといが解けるとか、そんな感じか?首が切断されれば一気に邪気が失われて、邪気まといの即解除ってことになるんだろ?」
邪気まといが解ければ傷は塞がるという話だったので、死にはしないはずだ。
つまり一般人における即死級のダメージは、邪気まといの即解除とほぼ同じことなのだろう。
そういう景の推論に、南陽は口をつぐんだ。
邪気まといの情報は軍事機密だ。その漏洩は当然のことながら蚩尤の不興を被ることになるだろう。
北陽も苦痛に顔を歪めながら、努力して口を真一文字に引き結んでいる。
「答えた方がいいぞ。その方が実験の試行回数が減る」
その分だけ苦痛は減るぞ、という意味で景は警告した。それは二人にもしっかり伝わったことだろう。
しかし、それでも言葉は発せられない。
景もそれを残念がるでもなく、六君子刀に新たな命令を下す。
北陽の片足、折られた方とは反対の足の太ももに剣先が突き刺さった。
「ぐぅっ……ぁぁぁああああ!」
悲鳴が後になって大きくなったのは、刺さった刀身が肉の中でグチグチと動かされたからだ。生きたまま大腿直筋をミンチにされれば、こんな大声も上げるだろう。
その声量が大きくなればなるほど、邪気の噴出量も多くなる。
「思った通り、より深く傷つけば、より多くの邪気が漏れ出るってことだな」
一見ただ残酷な行為の中で、景は冷静に邪気まといを分析している。
しかし南陽は繰り返される弟の悲鳴に冷静ではいられず、悲痛な声を上げた。
「か、勘弁してやってくれ!さっき奴隷とか言ってたことなら誤解なんだ!弟は昔からわざと悪ぶる癖があって、本気で言ってたわけじゃない!」
この残虐行為の何割かは景の怒りによるものだろう。そう考えて宥めようとしたのだが、景は怪訝な顔をした。
「なんかえらく他人事な言い方だな。実験はn数が多い方がいいって知らないのか?」
「n数?どういう意味だ?」
「お前も切り刻まれるってことだよ」
「……え?」
南陽が小さなつぶやきを返した直後、その頬のすれすれに六君子刀が落ちてきた。
ほんの一ミリずれていたなら頬肉が削げていた位置だ。
が、頬肉が削げなかったからと言って、それは何ら南陽の幸いではなかった。
耳が削げ落ちたからだ。
「っぎゃぁあああああ!」
兄弟だからか、南陽は先ほど足を折られた時の北陽とよく似た悲鳴を上げた。
いきなり耳を削がれれば当然な反応だろうが、景は迷惑そうに眉をしかめた。
「うるさい奴らだな。喋るなら邪気まといの情報を喋れよ」
「あ……あ……あ……」
「うぁ……ぁぁ……」
呻きながら短い呼吸を繰り返す二人に、景の冷たい視線が落とされる。
その瞳に見られるだけで心臓が凍てつきそうだったのに、ことさら冷ややかな声が降ってきた。
「せっかく耳を落としたことだし、鼓膜をくり抜いて耳が聞こえるか試してみるか。邪気まといでの部位欠損が感覚にどう影響するのか、調べておいた方がいいだろう」
南陽の体が無意識にビクンと震えた。恐怖という名の本能が筋肉を痙攣させたのだ。
検証内容を決めた景は早速それを実行しようとした。
が、神農の声がそれを止める。
「待て、張中景よ」
南北兄弟はそれをまさに神の声として聞いた。救いの神だ。
自分たちの造反した神であることは重々承知だが、それでも神とは慈悲深いものだと感動した。
その偉大なる神は、無感動な声で続ける。
「いきなり聴覚を奪ってしまうと、その後の実験に差し支える。それは最後の方がいいだろう」
兄弟はこの言葉の意味を、すぐには理解しかねた。やはり神の言葉は難解なのかと思考を巡らせた。
しかし、どう考えてもそのまま受け取る以外に解釈のしようがない。
「あ、そうですね」
景もそのままの意味に捉え、南陽の鼓膜に寄せていた剣先を下げた。
その様子を眺めつつ、こちらも神の一柱である后土は寂しげにつぶやいた。
「どれだけ強くても、やっぱりあの人とは違うわね……」
ふぅ、と切ないため息は吐くものの、景を止めようとはしない。
そして瑤姫はというと、景の横顔をただじっと見つめていた。
その瞳は不安げで、どこかネジの外れたようになった景への心配が見て取れた。またそれに加え、后土とはまるで別種の寂しさも浮かんでいた。
明らかに今まで見てきた景とは別種の景がそこにいるのだ。
自分のことを苛立ちの込もった目で睨む、いつもの景とは違う。自分の言動に怒鳴り散らす景とも違う。
むしろ冷ややかなほど頭が冷めているようなのに、肌がひりつくほどに怒っているのがはっきり分かるのだ。
瑤姫にはそんな景が分からなかった。
医聖の責務を話した時、自分の身を危険に晒してまで戦いたくないと言っていた景。
しかしいざ身近な人間が傷つけられた時、我を忘れて戦いに身を投じてしまった景。
この矛盾しているとも思える言動の内に、瑤姫の知らない景がいることが寂しいのだった。
しかし、それを口にすることはしなかった。ただ無言でじっと景の横顔を見つめた。
まるで見ることにより、少しでも知らない景を知ろうとするかのように、見つめ続けた。
そうやって誰も景のやることに文句を言わないから、景の残酷な実験は継続される。この憐れな兄弟を救ってくれる神はいないのだ。
結局二人が泣きながら全てを喋り始めるまで、ものの五分とかからなかった。
そして安堵の息を吐く。
「ふぅ……当面の敵は倒したが……」
「ああ、見事なものだったよ」
パチパチパチ、と軽い拍手が送られる。
いまだに繋がったままの電話の向こうから、蚩尤が笑顔で手を叩いていた。
「いや、本当に大した手並みだ。この間も一人で病邪二体をやったとは聞いていたけど、こうもあっさり倒すとはね。闘薬術の出力が平均的な医聖とは段違いだ」
そうやって持ち上げてはいたが、そんな景と戦う蚩尤の表情には余裕しか現れていない。
事実として、戦力差はどうしようもないほどなのだ。
「褒め殺しにしようとしたって無駄ですよ。油断なんてしません」
「あれ?また敬語に戻っちゃうんだ。別にそのままでもいいのに」
「仮にも神様ですし、この戦力差で勝てると思ってませんし」
蚩尤は景の言葉がよほど意外だったのか、目をパチクリとしばたたかせた。
「そんなのかい?さっきの態度だと、本気で僕を殴りに来るつもりだと思ったんだけど」
「本気で殴りに行くつもりですよ。でも、それと勝てるかどうかは別です」
「本当に現実主義なんだね。でも少し安心した。勝てるとは思ってないけど、勝つつもりで全力を尽くしてくれるってわけだ」
「そうですね。今、めっちゃ暴れたい気分なんで」
その軽い物言いとは裏腹に、景の目は力を込めて蚩尤を睨みつけている。
明らかな敵意を叩きつけられ、蚩尤は満足そうに笑った。
「その気迫、その力、君は本当に素晴らしい。それに初めての闘薬術をあそこまで使いこなす器用さにも目を見張ったよ」
器用さと言われても、今のところ景は初めての闘薬術ばかりで病邪を仕留めてきたからよく分からない。
ただ、器用と言うなら自分より器用な医聖を知っている。
「俺よりも、そこいる月子の方がよっぽど器用ですよ。初めて握った芍薬甘草刀を完全に思い通りに動かせてましたから。その時の病邪もほぼ単独討伐でしたし」
景はそれで月子への暴力が予防できればと思って話した。
しかし蚩尤が床に這いつくばる月子へ落としたのは、どこかつまらなさそうな視線だった。
「へぇ、この中の下程度の女がね」
鼻を鳴らして爪先で頭を小突く。
それを見た景の頭は真っ白になり、再び敬語が消えた。
「てめぇ……!」
「アハハハ!」
蚩尤はいかにも愉快そうに破顔する。
「やっぱり君はその方がいいよ!僕に負けた後も、君だけは僕に敬語を使わなくていい特権をあげようじゃないか!」
すでに勝ちを確信している蚩尤だが、その根拠は十分すぎるほどあるのだ。余裕を隠そうともせず、悠然とそんなことを言い放った。
それから片手に握っていたスマホを耳に当てる。
「もういいよ。やって」
電話口にその短い指示が発せられた直後、本殿の外で二つの声が上がった。
「人参、朮、茯苓、甘草、生姜、大棗……いでよ、魔剣 四君子刀!」
「半夏、陳皮、茯苓、甘草、生姜……いでよ、魔剣 二陳刀!」
それらの声に続き、本殿の壁が爆発したような音を立てた。
見るとそこには大穴が開いており、穴の向こうに二人の男が立っていた。
背の高い痩せた男と、背の低い小太りの男だ。
二人とも額に黒い角を生やしており、邪気まといの医聖であることが明らかだった。
まず背の高い方が穴から入ってきて、低い方がそれに続く。
「景、君の未来の同僚を紹介させてくれ。そこにいるのが我が軍が誇る四天王の二人、亀井南陽と亀井北陽だ。彼らは特定の隊に所属していない、僕直属の医聖なんだよ」
紹介された二人だが、一同を傲然と見回すだけでお辞儀の一つもしない。
それどころか、その周囲には殺気を放つ刀がクルクルと舞っている。
先ほど景が使ったのと同じ踊る刀だ。ただし、本数が少し違う。
背の高い方の周囲に舞っているのは四本、背の低い方の周囲には二本だった。二人とも別に武器を帯びていないので、それが今二人の発動している闘薬術なのだろうと察せられた。
「お前らがさっきの邪気嵐を起こしたのか」
景の質問に、二人ではなく蚩尤が答えた。
「その通りだよ。どうせここに集まるだろうと思って外に待機させていたんだ」
「病邪で倒せなかったから、今度はこいつらにやらせるってことだな」
「それもその通りだけど、病邪みたいにあっさりやれるとは思わない方がいい。后土姉さまから聞いているだろうけど、邪気まといの医聖は病邪みたいに最適処方ならダメージが跳ね上がるってわけじゃないからね」
后土から聞いていたのは『処方の適切さにはあまり左右されずに効くみたいだった』という話だったが、見方を変えると蚩尤の言う通りになる。
病邪のように、瑤姫の四診ビームを当てれば弱点を突けるというものでもないということだ。
「いきなり四天王とか出すんだな」
お言葉に甘えてということか、さっさと敬語をやめてしまった景が鼻を鳴らして揶揄した。余裕ぶっている割に、いきなり全力ではないか。
「開戦と同時に最大限の打撃を与えるというのは戦のセオリーだよ。だからうちの軍でも屈指の力を持つ南北兄弟を配置していたんだ」
そう説明する蚩尤の顔は本当に楽しそうだった。
戦力を配置する。そういう戦の一手がこの神にとって、この上ない喜びなのだろう。
南北兄弟という呼ばれ方をした二人が一歩踏み出す。亀井という名字が同じ事でも想像はついていたが、この二人は兄弟らしい。
(見た感じ、背の高い痩せた方が兄で南陽で、背の低い小太りが弟の北陽かな)
二人ともまだ二十代だろうが、背の高い方がいくらか年上に見える。
だから景はそんなことを考えたのだが、その思考をフッと暗い笑みで捨てた。
(……誰が誰とか、どうでもいいか。これから二人ともぶっ飛ばすんだから)
やるべきことを再認識し、まだ発動したままの闘薬術に命じる。
「行け!六君子刀!」
六本の踊る刀が敵に向かって飛んだ。
それに応じ、邪気をまとった兄弟の刀が黒い軌跡を描いて舞う。
ガキィン!
と、六つの剣戟が本殿に鳴り響いた。
火花を散らし、刀と刀が空中で押し合う。たまにギリギリと刃の擦れ合う音がした。
その張り詰めた空間から後退しつつ、瑤姫が警告の声を発した。
「景!そのままじゃ不利かも!」
「何!?どうしてだ!?」
「その二人が使っている闘薬術は六君子刀じゃなくて、四君子刀と二陳刀よ!さっき六君子湯は二つの基本処方が合わさったものだって言ったでしょ!?四君子湯と二陳湯がそれなの!」
言われた景は、先ほど聞いた瑤姫の解説を思い出した。
「確か……脾気虚と脾胃湿痰、だったか!?」
「そう、四君子湯が脾気虚の基本処方で、二陳湯が脾胃湿痰の基本処方!」
つまり四君子湯は消化器が弱っている時の基本処方で、二陳湯は脾胃に水分が滞留している時の基本処方ということになる。
そしてその二つの基本処方を合わせたものが六君子湯ということだ。
それは分かったのだが、だからといって不利になる理由は分からない。
「だから、どうしてそれがまずいんだよ!?」
「見ての通り、四君子刀は四本の踊る刀を操る闘薬術で、二陳湯は二本の踊る刀を操る闘薬術なのよ!当然だけど、本数が少ない方が一本一本の力は強くなるわ!」
四本を操る南陽の力は四分の一、二本を操る北陽の力は二分の一、そして六本を操る景の力は六分の一に分散されることになる。都合、景と北陽は三倍も違う計算になってしまうのだ。
当然それを分かっていた蚩尤は余裕の笑みを深くした。
「珍しくその駄女神の言うことが正しいよ。っていうか、今そうやって押し合ってられるのがすごいことなんだよ。四天王のざっと三倍だからね。僕の配下の中でも出力はまず間違いなく一番だろう」
すでに景を配下に加えた物言いだ。
「……はぁ?こんなんで……」
景のその言葉の途中で、フッと蚩尤の姿が消えた。
いや、蚩尤だけでなく月子や由紀、玄二たちのホログラムも突然消えてしまった。
「汝らは戦いをするのだろう?無駄話が過ぎるな」
その言葉に振り向くと、神農が景のスマホに向かって軽く手を掲げていた。どうやらその一動作で通話を切ったようだ。
(そういうちょっとした神術は使えるんだから少しは手伝えよ!)
そんな風に苛立った景の耳に、初めて聞く声が届いた。
小太りで小男の方、亀井北陽の声だ。
「なんだよ、蚩尤様に俺の働きを直接見てもらえるチャンスだったのに……」
舌打ちとともに不満を漏らしてから、腕を横に振った。
その動きに応じ、北陽の操る二陳刀が押し合いの角度を変えて景の六君子刀を横に逸らした。そしてその二刀をいったん自分の周囲に戻し、ため息を吐く。
兄の南陽もそれに合わせ、同じようにして四本の四君子刀を自分の側に戻した。
「そう愚痴を言うな。見られていない所でもきっちり働くのが部下の務めだ」
「兄貴は相変わらずクソ真面目だな。でも実際に頑張りを見てもらった方が報酬も弾むってもんだろ」
はぁ、と南陽がため息を吐いた。どこか諦めたようなため息で、こんなことを言う弟に慣れているようだった。
「蚩尤様が世界を屈服させた後は医聖の天下だ。報酬なら心配ない」
「だからって何でもってわけにはいかねぇだろ」
「じゃあ例えば、何が欲しいんだ」
「そうだな……」
北陽は考える風に顎へ手を当てて、それから口元を歪ませた。
まるでわざとではないかと疑うほど、下卑た笑みが浮かんでいる。
「そこはやっぱ、女じゃねぇか?」
こんな弟にもやはり慣れているのか、北陽はまた似たようなため息で応じた。
「それこそ医聖というだけで女が寄ってくる世界になるだろうよ」
「いやいや、それは一般人の女だろ?せっかくなら医聖の女を囲いたくねぇか?そんな世界なら、医聖の女はいっそプレミアもんだぜ」
「お前……」
南陽の弟に対するため息はいよいよ深くなった。
「樹里に振られたことをいまだに引きずってるのか」
「なっ……」
北陽は兄の指摘に言葉を詰まらせかけた。
「バ、バカ言ってんじゃねぇ!っていうか振られたとかじゃねぇし!あいつが自分より強い医聖と結ばれたいとか言ってたから気ぃ使って声かけてやっただけだし!」
「まぁ……樹里はああいう女だが、誰でもいいというわけではなかったようだな」
「そういう言い方はやめろ!」
気を使わない兄に対して弟は吠え、それから大きく咳払いをしてみせた。
「と、ともかくだ。俺は医聖の女を手に入れる。別に樹里への当てつけとかじゃないからな」
そう口にしている時点で当てつけだと思われるだろうに、何も考えないようなことを口にした。
それからまた、先ほどと同じわざとらしいほどの下卑た顔になる。
「それでよ兄貴。さっき蚩尤様の足元に転がってた女、あれを報酬としてもらえねぇかな」
「もらうってお前……人間だぞ」
「世界が変わるんだからそういうのだってナシとは言い切れねぇよ。それにあいつはつまるところ、医聖の反逆者だろ?見せしめに奴隷ってのもアリだと思うんだ」
言ってから、北陽は自分の言葉が気に入ったらしく繰り返した。
「女奴隷、いい響きだな。男の夢じゃねぇか」
下卑た口で下卑たことを言い、下卑た笑い声を上げた。品性の欠片もないような声が本殿に響き渡る。
神農と后土はそれを聞いても神らしく泰然自若としていたが、瑤姫はあからさまに嫌な顔をした。形の良い眉が不快げに寄せられる。
しかしその直後、瑤姫の眉は大きく持ち上げられた。驚きと警戒、そして小さくない恐怖のためだ。
見張った目が、北陽とはまた別に方向に向けられた。
そこに神である瑤姫が恐れるほどのものがあったからだ。
「……ぁあ?」
小さな声を発したのは景だった。六本の刀に囲まれた景が、北陽のことをじっと見ている。
それだけならどうという事もない光景なのだが、なぜか瑤姫の背筋はゾクリと震えた。肌は氷を首筋に当てられたかのように粟立っている。
景は瞳孔の開いた瞳で敵を見据え、静かに告げた。
「月子を……奴隷だと?殺すぞ」
永い時を過ごす瑤姫でさえ、ここまで殺気の込もった『殺すぞ』という言葉を聞いたことがなかった。
傍目にそれを見ている瑤姫ですらそうだったのだから、直接その殺気をぶつけられた北陽はひとたまりもない。
ヒッ、と小さな悲鳴を上げて、尻餅をついてしまった。
それでドンと床板が鳴ったのだが、その音にヒュンヒュンという風切音が重なった。
見ると、景を囲む六君子刀がその場で回転し始めていた。
六本の刀身はみるみる内に回転数を上げ、風切音も次第に大きくなっていく。しまいにはゴウゴウと巨大な風車でも回っているような音になった。
「な、何だあれは……風が……見える?」
南陽が信じられないという様につぶやきを漏らした。こちらも景の殺気に当てられたようで、足を小刻みに震わせている。
そして南陽のつぶやいた通り、六君子刀の周囲では景色が歪んで見えるほどの風が渦巻いていた。そうなるだけの気流が生まれるほど、激しく回転しているのだ。
「あ、兄貴……アレはヤベェ!」
「分かってる!本気でやるぞ!」
兄弟は眼前の光景に圧倒されつつも、戦意は失わずに己の闘薬術へ力を込めた。
二人は蚩尤の軍における四天王なのだ。世界を征服できる最強の軍隊、その頂点にほど近い存在である。
そういった矜持が二人の心を奮い立たせ、十二分のパフォーマンスを発揮させた。すなわち最大限の力でもって四君子刀、二陳刀を繰り出した。
四天王の本気の力を受けた刀身は邪気の尾を引き、景へと迫る。それらは当たれば戦車の装甲すら断ち切る必殺の刃だった。
が、それらは景の操る六君子刀に触れた瞬間、あっけなく砕かれた。
パキィーン
という高い音を残して粉々になり、邪気のモヤになって浄化されていく。
「なっ!?」
「……っ!」
信じがたい結果に北陽は叫び、南陽は絶句した。
そもそも闘薬術で出現させた武器が完全に破壊されるところなど、初めて見た。
邪気まといの武器と邪気を払う闘薬術、という相性はあるのだろうが、后土の医聖たちを相手にした時にもこんなことは一度もなかった。
要は、景の闘薬術の出力が桁違いなのだ。
(もしかして……先ほど押し合っていた時はただの様子見だったのか?)
まさかと思う一方で、あれが手加減でなければ眼前の光景がおかしい。
考えてもみれば、変ではあった。南陽の四君子刀と北陽の二陳刀では、その出力が倍ほども違っていたはずだ。
しかし敵はその六本ときれいに力を均衡させ、押し合っていた。よほど余裕がなければできることではない。
それに気づけば、結論を得られるのはすぐだった。
(こいつはヤバ過ぎる!化物だ!)
景の底知れなさを理解した南陽は、弟に向かって声を張り上げた。
「北陽!逃げるぞ!」
言いざま景に背を向けた南陽の体が突如として宙を舞った。
圧倒的な力で全身をもみくちゃにされ、上も下も分からないような状況に晒される。
その視界の隅に、一瞬だけ刀身のきらめきが見えた気がした。
(まさかこれは……六君子刀の風圧か!?)
張中景があの信じられない力で六君子刀を飛ばしたのだろう。
ただしあの刃が直接当たっていれば、自分の体は一瞬でバラバラになっているはずだ。そうなっていないということは、風圧だけで翻弄されているのだろう。
そうして南陽が次に天地がしっかりと認識できたのは、背中から床に叩きつけられてからだった。
「ぐぁっ……」
呻きつつも、逃げるために仰向けになった体を急いで起こそうとした。
しかしその機先を制し、鋭い刃が首筋に添えられる。交差する二本の刀身が正確に頸動脈に触れていた。
目だけを動かして横を見ると、弟の北陽も全く同じ状況に陥っていた。仰向けに倒れて首筋に二本の刀を当てられ、体を起こすこともままならない。
「それで動けないってことは、首を落とされれば邪気まといが解けるってことだな?」
景は二人へゆっくりと歩み寄りながら、冷たい声で確認した。
それは質問口調の言葉だったのだが、二人は答えない。だから景は再度確認することにした。
「そうなんだな?」
「くそっ……」
そうやって北陽が悪態で返した直後、六君子刀の一本が北陽の脛を激しく打ち据えた。斬るのではなく、峰打ちだ。
鈍い音がして、関節ではないその部分がくの字に折れ曲がった。
「っぎゃあああああ!」
本殿に北陽の絶叫が響き渡る。
一方、それを引き起こした景はというと、全くの平静な顔色をしていた。
「なるほどな。邪気まといだと死にはしないって話だけど、痛覚はあるのか」
目の前の現象から冷静に情報を読み取るその姿は、さながら熟練の研究者のようだった。
例えば毒性試験のために薬物を投与されたマウスを観察中、というような目をしている。
「后土様からいくらか教えてもらったけど、邪気まといの情報はまだまだ不足してるからな。いい実験体が手に入ったことだし、色々試させてもらうぞ」
そう宣言してすぐ、六君子刀の柄が北陽の腹に落ちてきた。
「ゲフゥッ」
柄頭で強打された小太りの腹が、強制的に肺の中の空気を吹き出させる。
苦痛に歪むその顔をじっくり眺めてから、景は独り言のようにつぶやいた。
「折れてる足からは邪気が多く漏れてるが、打たれただけの腹から漏れる量は少ない……重い怪我の方が邪気の漏れが多いってことか」
景の指摘通り、脛の骨折部位からはおびただしい量の黒いモヤが溢れ出ているが、腹の方からは少量だ。
そして邪気は漏れ出た端からすぐに浄化されて光に変わっていく。やはり闘薬術で与えたダメージは、邪気の浄化に繋がるようだ。
「そんで一定以上の邪気を失ったら邪気まといが解けるとか、そんな感じか?首が切断されれば一気に邪気が失われて、邪気まといの即解除ってことになるんだろ?」
邪気まといが解ければ傷は塞がるという話だったので、死にはしないはずだ。
つまり一般人における即死級のダメージは、邪気まといの即解除とほぼ同じことなのだろう。
そういう景の推論に、南陽は口をつぐんだ。
邪気まといの情報は軍事機密だ。その漏洩は当然のことながら蚩尤の不興を被ることになるだろう。
北陽も苦痛に顔を歪めながら、努力して口を真一文字に引き結んでいる。
「答えた方がいいぞ。その方が実験の試行回数が減る」
その分だけ苦痛は減るぞ、という意味で景は警告した。それは二人にもしっかり伝わったことだろう。
しかし、それでも言葉は発せられない。
景もそれを残念がるでもなく、六君子刀に新たな命令を下す。
北陽の片足、折られた方とは反対の足の太ももに剣先が突き刺さった。
「ぐぅっ……ぁぁぁああああ!」
悲鳴が後になって大きくなったのは、刺さった刀身が肉の中でグチグチと動かされたからだ。生きたまま大腿直筋をミンチにされれば、こんな大声も上げるだろう。
その声量が大きくなればなるほど、邪気の噴出量も多くなる。
「思った通り、より深く傷つけば、より多くの邪気が漏れ出るってことだな」
一見ただ残酷な行為の中で、景は冷静に邪気まといを分析している。
しかし南陽は繰り返される弟の悲鳴に冷静ではいられず、悲痛な声を上げた。
「か、勘弁してやってくれ!さっき奴隷とか言ってたことなら誤解なんだ!弟は昔からわざと悪ぶる癖があって、本気で言ってたわけじゃない!」
この残虐行為の何割かは景の怒りによるものだろう。そう考えて宥めようとしたのだが、景は怪訝な顔をした。
「なんかえらく他人事な言い方だな。実験はn数が多い方がいいって知らないのか?」
「n数?どういう意味だ?」
「お前も切り刻まれるってことだよ」
「……え?」
南陽が小さなつぶやきを返した直後、その頬のすれすれに六君子刀が落ちてきた。
ほんの一ミリずれていたなら頬肉が削げていた位置だ。
が、頬肉が削げなかったからと言って、それは何ら南陽の幸いではなかった。
耳が削げ落ちたからだ。
「っぎゃぁあああああ!」
兄弟だからか、南陽は先ほど足を折られた時の北陽とよく似た悲鳴を上げた。
いきなり耳を削がれれば当然な反応だろうが、景は迷惑そうに眉をしかめた。
「うるさい奴らだな。喋るなら邪気まといの情報を喋れよ」
「あ……あ……あ……」
「うぁ……ぁぁ……」
呻きながら短い呼吸を繰り返す二人に、景の冷たい視線が落とされる。
その瞳に見られるだけで心臓が凍てつきそうだったのに、ことさら冷ややかな声が降ってきた。
「せっかく耳を落としたことだし、鼓膜をくり抜いて耳が聞こえるか試してみるか。邪気まといでの部位欠損が感覚にどう影響するのか、調べておいた方がいいだろう」
南陽の体が無意識にビクンと震えた。恐怖という名の本能が筋肉を痙攣させたのだ。
検証内容を決めた景は早速それを実行しようとした。
が、神農の声がそれを止める。
「待て、張中景よ」
南北兄弟はそれをまさに神の声として聞いた。救いの神だ。
自分たちの造反した神であることは重々承知だが、それでも神とは慈悲深いものだと感動した。
その偉大なる神は、無感動な声で続ける。
「いきなり聴覚を奪ってしまうと、その後の実験に差し支える。それは最後の方がいいだろう」
兄弟はこの言葉の意味を、すぐには理解しかねた。やはり神の言葉は難解なのかと思考を巡らせた。
しかし、どう考えてもそのまま受け取る以外に解釈のしようがない。
「あ、そうですね」
景もそのままの意味に捉え、南陽の鼓膜に寄せていた剣先を下げた。
その様子を眺めつつ、こちらも神の一柱である后土は寂しげにつぶやいた。
「どれだけ強くても、やっぱりあの人とは違うわね……」
ふぅ、と切ないため息は吐くものの、景を止めようとはしない。
そして瑤姫はというと、景の横顔をただじっと見つめていた。
その瞳は不安げで、どこかネジの外れたようになった景への心配が見て取れた。またそれに加え、后土とはまるで別種の寂しさも浮かんでいた。
明らかに今まで見てきた景とは別種の景がそこにいるのだ。
自分のことを苛立ちの込もった目で睨む、いつもの景とは違う。自分の言動に怒鳴り散らす景とも違う。
むしろ冷ややかなほど頭が冷めているようなのに、肌がひりつくほどに怒っているのがはっきり分かるのだ。
瑤姫にはそんな景が分からなかった。
医聖の責務を話した時、自分の身を危険に晒してまで戦いたくないと言っていた景。
しかしいざ身近な人間が傷つけられた時、我を忘れて戦いに身を投じてしまった景。
この矛盾しているとも思える言動の内に、瑤姫の知らない景がいることが寂しいのだった。
しかし、それを口にすることはしなかった。ただ無言でじっと景の横顔を見つめた。
まるで見ることにより、少しでも知らない景を知ろうとするかのように、見つめ続けた。
そうやって誰も景のやることに文句を言わないから、景の残酷な実験は継続される。この憐れな兄弟を救ってくれる神はいないのだ。
結局二人が泣きながら全てを喋り始めるまで、ものの五分とかからなかった。
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