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桂枝加芍薬湯、桂枝加芍薬大黄湯7
しおりを挟む「バ、バイクって気持ちいいね」
月子は人生初のタンデムから降りて、恥ずかしそうに感想を述べた。
景と月子はバイクで神社の麓まで乗りつけている。月子が落ち着くまで時間がかかったので、神農との約束の時間を過ぎてしまったのだ。
だから急ぐためタンデムをしたのだが、引きこもりにいきなりバイクはキツかったかもしれない。景は走りながらそう後悔していた。
しかし月子は気持ち良かったと言う。景は安堵の息を吐きながらヘルメットを脱いだ。
「怖くなかった?いきなり乗せて悪かったよ」
「ううん、大丈夫。私のせいで神農様と瑤姫様を待たせることになっちゃったし、急いでくれてむしろありがとう」
「神農様はともかく、瑤姫の方はいくら待たせてもいい」
「え?でも……」
「あの駄女神には気を使ってやるだけの価値がない」
ピシャリと断言するの聞いて、月子はなぜか瑤姫が羨ましくなった。
(わ、私も瑤姫様みたいに景君から遠慮なく扱われたい)
そう思い、なんだか胸がモヤモヤした。
だから景に、
「ところで月子さん……」
と言われて反射的に、
「月子って呼んで」
と頼んでいた。
それからすごく恥ずかしくなったのだが、景の方は別に気にした風もなかった。
「ああ、じゃあ俺のことも景でいいよ」
「え?で、でもそっちが年上だし……私からは、け、景君にするね」
本当は呼び捨て同士の関係に憧れていたのに、根性がなくてついヒヨってしまった。半引きこもりの悲しい性だ。
「別に俺は年上とか気にしないけど。まぁ好きに呼べばいいよ」
あえて景も押しはしなかったので、そういう形になった。
少し残念な気もしたが直後に、
「それで月子」
「な、何?景君」
というやり取りをして、
(これもイイじゃん!)
と心中でガッツポーズを決める月子だった。
「俺には神社本殿の上の方に黒いモヤのようなものが見えるんだけど、月子には見えるかな?」
実はバイクに乗っている時からそれには気がついていた。どうか見間違いであってくれと思いながら近づき、今ははっきり見えてしまっている。
景の目が節穴でなければ、それは邪気のようだった。大変に嫌な光景である。
しかし景達のいる小山の麓からはまだ少々遠い。万が一の見間違いに期待し、月子に尋ねてみた。
昨日の源一郎は邪気のモヤに囲まれても何一つ気づいていないようだった。つまり一般人には邪気は見えないということだ。
「本殿の上?」
月子はじっと目を凝らした。
イエスなら見間違い、ノーなら邪気で確定と思ったのだが、月子の回答はなんとも微妙なものだった。
「言われてみれば、薄っすら黒いものが見えるような?」
これでははっきり分からない。
ただ続く言葉で、景は別の可能性に思い至った。
「でも不思議だね。もう空は暗いのに、それでもあの黒いのはそこにあるのが分かる気がする」
これは景が感じていることと完全に合致していた。
邪気は黒い。だから黒い夜空を背景にすれば見えないはずなのに、その存在がなぜか明確に捉えられるのだ。
(可能性としては一般人でも邪気が見える人間が一部いるか……もしくは……もしかして……月子にも医聖の因子がある?)
景は頭の中でその可能性をもう少し掘り下げようとした。
しかし脳がしっかり回転を始める前に、邪気溜まりに変化が起こった。
凄まじい速度でこちらに向かって動き始めたのだ。
「……っ!芽生えよ医聖の因子!」
四度目ともなると景の反応も早いものだった。
素早く闘薬術を発動させ、とりあえずの刀を出す。
「桂枝、芍薬、甘草、大棗、生姜……いでよ!魔剣 桂枝刀!」
景が桂枝刀を選択したのは、取り回しがよくて使いやすいからだ。
平均的な能力アップが望める葛根刀と迷ったが、今回は唱える生薬数が少ない桂枝刀にした。
そして実際に、その短い時間差が問題になるほど邪気は速かった。気づけばもう目の前に迫っている。
「らぁっ!」
景が桂枝刀を振ると、その剣先からさらに十メートル以上の邪気がきれいに二つに割れた。さらに割れた周囲の邪気は浄化されて消えていく。
闘薬術は病邪だけでなく、その元となる邪気に対しても効果があるようだ。
ただし邪気は霧のように広範囲に広がっている。斬撃で切り裂いたところで、消せるのは全体のほんの一部だった。
(闘薬術は病邪を倒すのには向いてるけど、邪気自体を払うのには向いてないな。これじゃキリがない)
景がそう思った通り、さらに数度桂枝刀を振ったにも関わらず邪気はすぐに周囲に立ち込めた。
そして悪くなった視界の中、何か低い音が耳に入ってくる。
「グルルルル……」
初めは月子の腹が鳴っているのかと思ったが、それにしては音が大きい。それにスーパーで聞いていたグル音と比べると、獣の唸り声に近いような気がした。
しかしその低音は確かに月子がいた方から聞こえてくる。
「もしかして……ヤバい!」
そちらに向けて桂枝刀を振ると、邪気が裂けて視界が通った。そして景は自分の耳が正しかったことを知った。
やはりお腹の鳴る音ではなく、獣の唸り声だったのだ。そこには獣がいた。
いや、正確な言い方をすると半分だけ獣というような存在だ。月子が半分獣になっている。
「お、狼女!?」
一見してそうだと思える容姿だった。
頭に狼のものと思しき耳が生えている。ただし元の耳も髪の間から覗いているので、まるでコスプレのようだった。
しかし両手は肉球と大きな爪が付いたものになっていて、腰からはフサフサとした尻尾まで生えている。一瞬でこんなコスプレ早着替えはできないだろう。
「病邪化したのか!」
言ってから、そりゃそうだろうと己のうかつさを呪った。邪気を斬ろうとするよりも月子を抱えて逃げるべきだったのだ。
考えてもみれば当然の帰結だ。周囲に邪気が充満しているのだから、元々持病のある月子は病邪の依代になるに決まっている。
つまりこの狼女は、『過敏性腸症候群』の病邪ということになる。
「グルルルル!」
月子は唸り声を大きくして景のことをキッと睨んだ。
その顔からは明らかに理性が抜けており、破壊衝動に駆られた一個の化け物と化してしまったことがよく分かる。
そしてその化け物の行動として、実際に景へと襲いかかってきた。本物の狼もこれほどではなかろうと思えるほどの速度で突進してくる。
「ガァアア!」
「くっ!」
景は月子の噛みつき攻撃を半身になりながら避け、続く爪の引っ掻きを桂枝刀で弾いた。
そしてバックステップで距離を取る。
「速い!」
バイクを気持ちいいと言っていた月子だが、そんなもの目ではないような速度で追いかけてくる。
本当に速い。汗のにじむ景の首元めがけ、伸びた犬歯が迫った。
よけきることが出来ないと判断した景は、桂枝刀を素早く回して月子の横っ面を殴った。
相手が病邪とはいえ、肉体に完全憑依しているので少し気が引ける。感覚としては月子を殴ってるのと同じだ。
しかし闘薬術は基本的には人間を傷つけないはずだ。それを信じて加減はせず、思い切り刀身をぶつけた。
「キャンッ」
月子が頬を押さえて後ろへ下がった。かなり痛そうだ。
しかしその様子は景にとって予想外だった。
「効いてる?桂枝湯は風邪の処方だと思ってたけど……」
そのはずだ。実際に源一郎の時は『汗をかいている虚弱者の風邪』ということで効いていた。
しかし月子は風邪を引いていなかったし、母に似て虚弱でもなさそうだ。
「もしかして過敏性腸症候群に桂枝湯が効いてるのか?そういえば瑤姫が腹の引きつりに芍薬が効くとか言ってたけど、桂枝湯にも芍薬は入ってるな……」
そのことに気がついた景は、これからの方針に悩んだ。
このままゴリ押しで倒すか、それとも瑤姫が来るまで待つか。
これだけ邪気が充満しているのだから、さすがの駄女神も気づいて来てくれるだろうと期待したい。それに今は神農も下界に顕現しているはずなのだ。
そして桂枝刀は効果が見られるものの、最適というわけではなさそうだ。顔面に思い切り当ててあの程度となると、結構手間取るかもしれない。
そんなことを考えている間に立ち直った月子が踏み込んできた。
「ガァア!」
「うわっ!」
顔面に向かってきた爪をギリギリかわしたが、髪をかすめてその数本が宙を舞った。
やはり速い。気を抜けば立ちどころにやられそうだ。
続けざまに放たれた反対の爪を桂枝刀で受け止め、押し返しながら思う。
(もっと芍薬の力が強く出てくれれば倒せそうなんだけどな……なぁ桂枝刀、もうちょい頑張ってくれないか?)
景は一般知識として知っている芍薬の花、そして講義で見てかろうじて覚えていた生薬としての芍薬を思い浮かべた。
すると突如として桂枝刀が輝き、刀身から光る玉が飛び出してきた。
「うおっ!?」
「ガル!?」
月子もその光球に驚いたようで飛び退る。
光る玉は景の目の前で静止した。すぐ近くで見て分かったが、玉は何かを内包しているようだ。
眩しいので少し見えづらくはあるものの、落ち着いて見ると先ほど思い浮かべた生薬の芍薬だと分かった。
「芍薬?……もしかして、これが桂枝湯に含まれる芍薬の力なのか?」
もしそうならと思いながら、景はダメ元でその力が強くならないか念じてみた。
すると見る間に光が強くなっていく。燦々と輝く球体は景の心に応じ、初めの倍くらいの明るさになった。
そしてその光を受け止めた桂枝刀も、同じように明るく輝いた。
「ま、まぶしい!」
景が一瞬目を閉じて、それから再び開いた時、そこにはあるはずの桂枝刀は姿を変えていた。
刀身が短いのはそのままだが、握りが違う。白木の柄だったのが黒漆の塗柄になっていて、そこに蒔絵で芍薬があしらわれている。
雅な金蒔絵の芍薬だ。
「……ドスが懐刀になった?」
言ってみれば、そういう変化だった。
懐刀、もしくは懐剣や守り刀とも呼ばれるような外見になっている。ただしドス程度の長さはあるため、女性の婚礼衣装に使われるような懐剣よりもやや長くはあるが。
(どういうことだ?葛根刀や麻黄刀への変化と違って、生薬構成は変わってないはずだけど……)
景は困惑に眉をひそめた。
ただ起こったことから察するに、生薬の種類はそのままで芍薬の力が強くなったように思える。
「桂枝湯……衆方の祖とかいう基本処方だって話だったけど……一体何になったんだ?」
瑤姫が挙げていた桂枝湯からの派生処方が景の頭に思い浮かぶ。
あまりに多過ぎて全てを覚えてなどいないが、その一番初めに挙げられていた名前にふと引っかかった。
「……桂枝加芍薬湯?」
景のつぶやきに応えるように、蒔絵の芍薬がキラリと光った気がした。
考えてもみれば妙な名前だ。桂枝湯には元から芍薬が入っているのに『加芍薬』とはどういうことか。
そう思ってからようやく気づく。
「桂枝加芍薬湯って、桂枝湯の芍薬を増やした方剤なのか!」
おそらくそういうことなのだろう。
そして、それならば過敏性腸症候群の病邪には向いていそうだと思えた。
「頼むぞ!桂枝加芍薬刀!」
景は自らで発見した新たな闘薬術を握りしめ、月子へと迫る。
しかしこの時の景は期待のあまり、一つ間違った思い込みをしていた。
速度のある過敏性腸症候群の病邪に対抗できる処方だとしたら、スピードがかなり上がるのだろうと思ったのだ。
(……意外に遅い!?)
しかし実際のスピードはさほどでもなかった。身体強化の系統としては桂枝刀に近く、平均的だという葛根刀に比べればパワーやスピードは落ちるだろうと感じられた。
「ガウッ!」
月子は景の接近に合わせ、カウンターで爪の攻撃を繰り出してきた。
顔面を狙った鋭い一撃だ。しかも避けようとした景を追って軌道を変えてくる。
油断していたつもりはないが、スピードに関して下手に期待をしてしまっていた分だけ反応が遅れた。
結果として、全力での回避に切り替えてもよけきれないような状況に陥ってしまった。
(やばっ)
景は鳥肌を立てながら、爪でざっくりと頬を裂かれる自分を想像した。痛いだけではすまないはずだ。
が、意外なことにその爪はあっさりとかわすことができた。
というのも、自分で驚くほどに景の上半身がグニャリと曲がったからだ。体感的には九十度くらい曲がったようにも思える。
(め、めっちゃ柔らかくなってる!)
瑤姫の話だと、芍薬は筋肉の緊張をやわらげるという話だった。それが柔軟性という形で身体強化に現れているようだ。
景は続く爪、牙の攻撃もかわしたが、体操選手顔負けの柔らかさで関節が動いた。
バネ式のパンチングボールよろしくグニャリグニャリと揺れてよける。
(元が固めだからちょっと楽しいな)
多分だが、今なら股割りでも余裕でできるはずだ。それは立位体前屈がギリプラスという景からすれば軽く憧れだったりする。
腕を振ると、肩の可動範囲も明らかに広い。
景はそれを利用し、月子の攻撃をかわしながら真後ろというありえないような方向へ斬撃を繰り出した。
「キャンッ!」
月子の大きめな胸を斬りつけると、犬のような悲鳴を上げて背を向けた。
やはりちょっと可哀想な気がするが、だからといってここで止めるわけにはいかない。
景は怯んだ月子の尻尾を掴み、
(フッサフサのモッフモフだ!)
などと思いながら、腰から腹へ桂枝加芍薬刀を一気に貫き通した。
↓おまけ、月子のイラストです↓
月子は人生初のタンデムから降りて、恥ずかしそうに感想を述べた。
景と月子はバイクで神社の麓まで乗りつけている。月子が落ち着くまで時間がかかったので、神農との約束の時間を過ぎてしまったのだ。
だから急ぐためタンデムをしたのだが、引きこもりにいきなりバイクはキツかったかもしれない。景は走りながらそう後悔していた。
しかし月子は気持ち良かったと言う。景は安堵の息を吐きながらヘルメットを脱いだ。
「怖くなかった?いきなり乗せて悪かったよ」
「ううん、大丈夫。私のせいで神農様と瑤姫様を待たせることになっちゃったし、急いでくれてむしろありがとう」
「神農様はともかく、瑤姫の方はいくら待たせてもいい」
「え?でも……」
「あの駄女神には気を使ってやるだけの価値がない」
ピシャリと断言するの聞いて、月子はなぜか瑤姫が羨ましくなった。
(わ、私も瑤姫様みたいに景君から遠慮なく扱われたい)
そう思い、なんだか胸がモヤモヤした。
だから景に、
「ところで月子さん……」
と言われて反射的に、
「月子って呼んで」
と頼んでいた。
それからすごく恥ずかしくなったのだが、景の方は別に気にした風もなかった。
「ああ、じゃあ俺のことも景でいいよ」
「え?で、でもそっちが年上だし……私からは、け、景君にするね」
本当は呼び捨て同士の関係に憧れていたのに、根性がなくてついヒヨってしまった。半引きこもりの悲しい性だ。
「別に俺は年上とか気にしないけど。まぁ好きに呼べばいいよ」
あえて景も押しはしなかったので、そういう形になった。
少し残念な気もしたが直後に、
「それで月子」
「な、何?景君」
というやり取りをして、
(これもイイじゃん!)
と心中でガッツポーズを決める月子だった。
「俺には神社本殿の上の方に黒いモヤのようなものが見えるんだけど、月子には見えるかな?」
実はバイクに乗っている時からそれには気がついていた。どうか見間違いであってくれと思いながら近づき、今ははっきり見えてしまっている。
景の目が節穴でなければ、それは邪気のようだった。大変に嫌な光景である。
しかし景達のいる小山の麓からはまだ少々遠い。万が一の見間違いに期待し、月子に尋ねてみた。
昨日の源一郎は邪気のモヤに囲まれても何一つ気づいていないようだった。つまり一般人には邪気は見えないということだ。
「本殿の上?」
月子はじっと目を凝らした。
イエスなら見間違い、ノーなら邪気で確定と思ったのだが、月子の回答はなんとも微妙なものだった。
「言われてみれば、薄っすら黒いものが見えるような?」
これでははっきり分からない。
ただ続く言葉で、景は別の可能性に思い至った。
「でも不思議だね。もう空は暗いのに、それでもあの黒いのはそこにあるのが分かる気がする」
これは景が感じていることと完全に合致していた。
邪気は黒い。だから黒い夜空を背景にすれば見えないはずなのに、その存在がなぜか明確に捉えられるのだ。
(可能性としては一般人でも邪気が見える人間が一部いるか……もしくは……もしかして……月子にも医聖の因子がある?)
景は頭の中でその可能性をもう少し掘り下げようとした。
しかし脳がしっかり回転を始める前に、邪気溜まりに変化が起こった。
凄まじい速度でこちらに向かって動き始めたのだ。
「……っ!芽生えよ医聖の因子!」
四度目ともなると景の反応も早いものだった。
素早く闘薬術を発動させ、とりあえずの刀を出す。
「桂枝、芍薬、甘草、大棗、生姜……いでよ!魔剣 桂枝刀!」
景が桂枝刀を選択したのは、取り回しがよくて使いやすいからだ。
平均的な能力アップが望める葛根刀と迷ったが、今回は唱える生薬数が少ない桂枝刀にした。
そして実際に、その短い時間差が問題になるほど邪気は速かった。気づけばもう目の前に迫っている。
「らぁっ!」
景が桂枝刀を振ると、その剣先からさらに十メートル以上の邪気がきれいに二つに割れた。さらに割れた周囲の邪気は浄化されて消えていく。
闘薬術は病邪だけでなく、その元となる邪気に対しても効果があるようだ。
ただし邪気は霧のように広範囲に広がっている。斬撃で切り裂いたところで、消せるのは全体のほんの一部だった。
(闘薬術は病邪を倒すのには向いてるけど、邪気自体を払うのには向いてないな。これじゃキリがない)
景がそう思った通り、さらに数度桂枝刀を振ったにも関わらず邪気はすぐに周囲に立ち込めた。
そして悪くなった視界の中、何か低い音が耳に入ってくる。
「グルルルル……」
初めは月子の腹が鳴っているのかと思ったが、それにしては音が大きい。それにスーパーで聞いていたグル音と比べると、獣の唸り声に近いような気がした。
しかしその低音は確かに月子がいた方から聞こえてくる。
「もしかして……ヤバい!」
そちらに向けて桂枝刀を振ると、邪気が裂けて視界が通った。そして景は自分の耳が正しかったことを知った。
やはりお腹の鳴る音ではなく、獣の唸り声だったのだ。そこには獣がいた。
いや、正確な言い方をすると半分だけ獣というような存在だ。月子が半分獣になっている。
「お、狼女!?」
一見してそうだと思える容姿だった。
頭に狼のものと思しき耳が生えている。ただし元の耳も髪の間から覗いているので、まるでコスプレのようだった。
しかし両手は肉球と大きな爪が付いたものになっていて、腰からはフサフサとした尻尾まで生えている。一瞬でこんなコスプレ早着替えはできないだろう。
「病邪化したのか!」
言ってから、そりゃそうだろうと己のうかつさを呪った。邪気を斬ろうとするよりも月子を抱えて逃げるべきだったのだ。
考えてもみれば当然の帰結だ。周囲に邪気が充満しているのだから、元々持病のある月子は病邪の依代になるに決まっている。
つまりこの狼女は、『過敏性腸症候群』の病邪ということになる。
「グルルルル!」
月子は唸り声を大きくして景のことをキッと睨んだ。
その顔からは明らかに理性が抜けており、破壊衝動に駆られた一個の化け物と化してしまったことがよく分かる。
そしてその化け物の行動として、実際に景へと襲いかかってきた。本物の狼もこれほどではなかろうと思えるほどの速度で突進してくる。
「ガァアア!」
「くっ!」
景は月子の噛みつき攻撃を半身になりながら避け、続く爪の引っ掻きを桂枝刀で弾いた。
そしてバックステップで距離を取る。
「速い!」
バイクを気持ちいいと言っていた月子だが、そんなもの目ではないような速度で追いかけてくる。
本当に速い。汗のにじむ景の首元めがけ、伸びた犬歯が迫った。
よけきることが出来ないと判断した景は、桂枝刀を素早く回して月子の横っ面を殴った。
相手が病邪とはいえ、肉体に完全憑依しているので少し気が引ける。感覚としては月子を殴ってるのと同じだ。
しかし闘薬術は基本的には人間を傷つけないはずだ。それを信じて加減はせず、思い切り刀身をぶつけた。
「キャンッ」
月子が頬を押さえて後ろへ下がった。かなり痛そうだ。
しかしその様子は景にとって予想外だった。
「効いてる?桂枝湯は風邪の処方だと思ってたけど……」
そのはずだ。実際に源一郎の時は『汗をかいている虚弱者の風邪』ということで効いていた。
しかし月子は風邪を引いていなかったし、母に似て虚弱でもなさそうだ。
「もしかして過敏性腸症候群に桂枝湯が効いてるのか?そういえば瑤姫が腹の引きつりに芍薬が効くとか言ってたけど、桂枝湯にも芍薬は入ってるな……」
そのことに気がついた景は、これからの方針に悩んだ。
このままゴリ押しで倒すか、それとも瑤姫が来るまで待つか。
これだけ邪気が充満しているのだから、さすがの駄女神も気づいて来てくれるだろうと期待したい。それに今は神農も下界に顕現しているはずなのだ。
そして桂枝刀は効果が見られるものの、最適というわけではなさそうだ。顔面に思い切り当ててあの程度となると、結構手間取るかもしれない。
そんなことを考えている間に立ち直った月子が踏み込んできた。
「ガァア!」
「うわっ!」
顔面に向かってきた爪をギリギリかわしたが、髪をかすめてその数本が宙を舞った。
やはり速い。気を抜けば立ちどころにやられそうだ。
続けざまに放たれた反対の爪を桂枝刀で受け止め、押し返しながら思う。
(もっと芍薬の力が強く出てくれれば倒せそうなんだけどな……なぁ桂枝刀、もうちょい頑張ってくれないか?)
景は一般知識として知っている芍薬の花、そして講義で見てかろうじて覚えていた生薬としての芍薬を思い浮かべた。
すると突如として桂枝刀が輝き、刀身から光る玉が飛び出してきた。
「うおっ!?」
「ガル!?」
月子もその光球に驚いたようで飛び退る。
光る玉は景の目の前で静止した。すぐ近くで見て分かったが、玉は何かを内包しているようだ。
眩しいので少し見えづらくはあるものの、落ち着いて見ると先ほど思い浮かべた生薬の芍薬だと分かった。
「芍薬?……もしかして、これが桂枝湯に含まれる芍薬の力なのか?」
もしそうならと思いながら、景はダメ元でその力が強くならないか念じてみた。
すると見る間に光が強くなっていく。燦々と輝く球体は景の心に応じ、初めの倍くらいの明るさになった。
そしてその光を受け止めた桂枝刀も、同じように明るく輝いた。
「ま、まぶしい!」
景が一瞬目を閉じて、それから再び開いた時、そこにはあるはずの桂枝刀は姿を変えていた。
刀身が短いのはそのままだが、握りが違う。白木の柄だったのが黒漆の塗柄になっていて、そこに蒔絵で芍薬があしらわれている。
雅な金蒔絵の芍薬だ。
「……ドスが懐刀になった?」
言ってみれば、そういう変化だった。
懐刀、もしくは懐剣や守り刀とも呼ばれるような外見になっている。ただしドス程度の長さはあるため、女性の婚礼衣装に使われるような懐剣よりもやや長くはあるが。
(どういうことだ?葛根刀や麻黄刀への変化と違って、生薬構成は変わってないはずだけど……)
景は困惑に眉をひそめた。
ただ起こったことから察するに、生薬の種類はそのままで芍薬の力が強くなったように思える。
「桂枝湯……衆方の祖とかいう基本処方だって話だったけど……一体何になったんだ?」
瑤姫が挙げていた桂枝湯からの派生処方が景の頭に思い浮かぶ。
あまりに多過ぎて全てを覚えてなどいないが、その一番初めに挙げられていた名前にふと引っかかった。
「……桂枝加芍薬湯?」
景のつぶやきに応えるように、蒔絵の芍薬がキラリと光った気がした。
考えてもみれば妙な名前だ。桂枝湯には元から芍薬が入っているのに『加芍薬』とはどういうことか。
そう思ってからようやく気づく。
「桂枝加芍薬湯って、桂枝湯の芍薬を増やした方剤なのか!」
おそらくそういうことなのだろう。
そして、それならば過敏性腸症候群の病邪には向いていそうだと思えた。
「頼むぞ!桂枝加芍薬刀!」
景は自らで発見した新たな闘薬術を握りしめ、月子へと迫る。
しかしこの時の景は期待のあまり、一つ間違った思い込みをしていた。
速度のある過敏性腸症候群の病邪に対抗できる処方だとしたら、スピードがかなり上がるのだろうと思ったのだ。
(……意外に遅い!?)
しかし実際のスピードはさほどでもなかった。身体強化の系統としては桂枝刀に近く、平均的だという葛根刀に比べればパワーやスピードは落ちるだろうと感じられた。
「ガウッ!」
月子は景の接近に合わせ、カウンターで爪の攻撃を繰り出してきた。
顔面を狙った鋭い一撃だ。しかも避けようとした景を追って軌道を変えてくる。
油断していたつもりはないが、スピードに関して下手に期待をしてしまっていた分だけ反応が遅れた。
結果として、全力での回避に切り替えてもよけきれないような状況に陥ってしまった。
(やばっ)
景は鳥肌を立てながら、爪でざっくりと頬を裂かれる自分を想像した。痛いだけではすまないはずだ。
が、意外なことにその爪はあっさりとかわすことができた。
というのも、自分で驚くほどに景の上半身がグニャリと曲がったからだ。体感的には九十度くらい曲がったようにも思える。
(め、めっちゃ柔らかくなってる!)
瑤姫の話だと、芍薬は筋肉の緊張をやわらげるという話だった。それが柔軟性という形で身体強化に現れているようだ。
景は続く爪、牙の攻撃もかわしたが、体操選手顔負けの柔らかさで関節が動いた。
バネ式のパンチングボールよろしくグニャリグニャリと揺れてよける。
(元が固めだからちょっと楽しいな)
多分だが、今なら股割りでも余裕でできるはずだ。それは立位体前屈がギリプラスという景からすれば軽く憧れだったりする。
腕を振ると、肩の可動範囲も明らかに広い。
景はそれを利用し、月子の攻撃をかわしながら真後ろというありえないような方向へ斬撃を繰り出した。
「キャンッ!」
月子の大きめな胸を斬りつけると、犬のような悲鳴を上げて背を向けた。
やはりちょっと可哀想な気がするが、だからといってここで止めるわけにはいかない。
景は怯んだ月子の尻尾を掴み、
(フッサフサのモッフモフだ!)
などと思いながら、腰から腹へ桂枝加芍薬刀を一気に貫き通した。
↓おまけ、月子のイラストです↓
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第一次世界大戦にあった「もう一つの可能性」が実現した世界線。1950年4月7日、合同演習をする為航行中、大和型戦艦三隻が同時に左舷に転覆した。
大和型三隻は沈没した……、と思われた。
だが、目覚めた先には我々が居た世界とは違った。
大海原が広がり、見たことのない数多の国が支配者する世界だった。
祖国へ帰るため、大海原が広がる異世界を旅する大和型三隻と別世界の艦船達との異世界戦記。
※異世界転移が何番煎じか分からないですが、書きたいのでかいています!
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※戦艦など知らない人も楽しめるため、解説などを出し努力しております。是非是非「知識がなく、楽しんで読めるかな……」っと思ってる方も読んでみてください!※
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
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