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桂枝加芍薬湯、桂枝加芍薬大黄湯5

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 その日の夕方、月子は珍しく自分の意志で外出していた。

 行き先は近所のスーパーである。たまに頼まれて買い物に来てはいたが、自ら望んで来ることはほとんどなかった。

 ただ今日も『自ら望んで』というような積極的な事情ではないかもしれない。瑤姫と景、その二人に会いたくないがためにこうしているのだ。

 今晩、再び神農様が降臨されるらしい。そこに家族で立ち会うよう両親から言われた。

 それはいい。それはいいのだが、なぜか瑤姫、景という今朝の二人まで来るという。

(二人にはあのことを知られた……きっと私のことを汚い女、恥ずかしい女だと思ってるはずだ)

 実際にはそんな事全く無いのだが、長く引きずってきた半引きこもりはそんなふうに思ってしまうのだった。

 汚い。そう思われるのは怖かった。

『きったねぇな』

 心無い男子から言われたその言葉がいまだに耳に残っている。

 さらに月子という名にかこつけて、

『うんこ付き子~』

などとからかわれた事もあった。フラッシュバックするように、ふとそれを思い出すのだ。

 だから月子は人が怖かった。自分のトラウマを知られると、その人は自分のことを汚いと思うはずだ。

 そして今日、張中景と瑤姫に会うということは、その恐怖に晒されるということになる。耐えられる気がしない。

 月子は結局逃げることを選択し、夕方から外に出た。祖父母には買い物に行くとだけ伝えた。

 家族は基本的に月子が外へ出るのを喜ぶため、止められはしなかった。祖母が早めに帰ってくるように言ってきたが、今晩の予定を考えての注意だろう。

 しかし月子は可能な限り遅くまで逃げ続けるつもりだった。

 そして今はとりあえずスーパーにいる。遅くまで逃げるなら、小腹を満たすお菓子くらい買っておいてもいいかと思ったからだ。

 ただ、神である神農はそんな不義理を見ているのかもしれないと思った。そして、だから神罰を与えたのかもしれないとも思った。

 月子の頭にそんな思考が浮かんだのは、スーパーの客として小学校の同級生がいたからだ。

 ただでさえ人が怖い月子だが、同級生はもっと怖い。すでにあの事件を知られているのだから、汚いものを見る目を向けてくるに決まっている。

 しかもその同級生は率先して月子をからかってきた男子だった。うんこ付き子と囃し立ててきた子だ。

 お互いすでに二十歳になっているから、当然見た目はだいぶ変わっている。しかし月子にとっては見間違えようはずもない男子だ。

 死にたくなるほどの苦しさとともに、何度も何度もフラッシュバックした顔なのだから。

「…………っ!」

 月子はものも言えずに立ちつくした。

 鼓動が早くなり、血の流れは激しくなっているはずなのに、血の気が引いていく。

 そしてお腹がグルグルと鳴った。ストレスを感じるといつも調子が悪くなる、過敏すぎる腸だ。

 あの日もそうだった。友達とやり取りしていた手紙を男子に取られ、面白半分にそれを読み上げられた。

 当時の好きな人のことも書いてあったから、内気な女子小学生にはひどいストレスだった。

 それから教室に鳴り響いた音は、つまるところ月子にとって世界が崩壊する音だった。まさに女子一人の世界が終わったのだ。

 そういえば手紙を読み上げたのも今そこにいる男子だった。自分という存在を終わらせた人間だ。

 それが向こうから歩いてきたのだから平静でいられるはずがない。

 ただし、その男子の方は月子の顔が視界に入っても一切の反応を示さなかった。なぜならまるで覚えていなかったからだ。

 多くのいじめの加害者がそうであるように、大した害意もなくやっていた。だからいじめなどという阿呆なことができた。だから覚えてなどいない。

 それは腹が立つことではあっても、仮に月子が知ることができれば恐怖が和らぐことではあっただろう。その男子を前にしても、汚いと思われることはないのだから。

 しかし月子は知らない。

 だからその男子がどんどん近づいてきて、ついにはすれ違う瞬間、恐怖のあまりめまいを起こして倒れかけた。

「……おわっと!」

 誰かが月子の肩を掴んだ。

 視界が白くなっているのでよく分からなかったが、受け止めてくれた人がいたらしい。

 体を支えてゆっくりと座らせてくれる。

 そして視界が戻ってくると、その人の顔もはっきり見えた。

(は、張中景……?)

 ややはっきりしない思考の中、月子は今朝盗み見ていた男の名を頭の中に浮かべた。

 景がこのスーパーにいたのは全くの偶然だ。

 バイトが思ったより早く終わり、約束の時間まで少しあるので暇つぶし半分に入った店がここだっただけである。

 そして月子を見かけた。源一郎から今朝写真を見せられていたので、すぐに気がついた。

 しかもどうにも様子がおかしいし、ひどく顔色が悪いように見えた。

 だから迷いながらも近づいていくと、案の定いきなり倒れそうになったので慌てて支えた。

 座らされた月子がどうしていいか分からず口をつぐんでいると、景が月子の顔を覗き込んできた。

「大丈夫?」

 こちらを気使ってくれた言葉だと分かりはするが、それでも月子にとって景は怖い。汚いと思われているはずだからだ。

 しかも例の男子も月子の前で足を止め、何事かというような視線を送ってきた。

(怖い……!)

 あまりのストレスに、再び視界が白くなりかける。

 そんな月子の耳に別の声が飛び込んできた。

「お客様!どうされました!?」

 見ると、男の店員がこちらへと駆けてくる。月子が倒れかけたのを見て心配してくれたのだろう。

 しかしどうやら慌て者のようで、それまで品出ししていた卵のパックを片手に持ったままだった。

 しかもあろうことか、それを持ったまま月子の手前で転んでしまった。

 当然パックの中身は割れ、卵の黄身や白身が床に広がっていく。

 それは月子の服にまで届き、生地に黄色いシミができた。

「うわ、きったねぇ」

 例の男子がポツリとつぶやいた。

 そして次に月子の意識が戻ったのは、なぜかスーパーから走り出ている時だった。どうやら無意識のまま体の方が勝手に逃げ出したらしい。

 しかし記憶が繋がったところで頭の中はほとんど空だった。空にせねば心が危なくなるほどの辛く、苦しく、悲しい記憶が蘇る。

 月子は空っぽになった心のまま、涙だけはあふれ返らせてひた走った。
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