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桂枝湯3
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「張中君、そのおでこどうしたの?」
「景、お前おでこどうしたんだ?」
月曜の景は大学の友人たちから何度も似たようなことを聞かれた。
理由は景のおでこに青あざができていたからだ。
「ああ、寝ぼけてこけちゃったんだよ」
景はそう答えていたが、本当は違う。三日前『インフルエンザ』の病邪と戦った時に、特大の瓦礫をぶつけられた痕だ。
葛根刀の身体強化のおかげで大きな怪我にはなっていないのだが、目立つところなのでどうしても聞かれる。
景はそれに答える度、
(全部あの駄女神のせいだ!)
(もう二度と病邪とは戦わないからな!)
などと心中で不満を爆発させていた。
そしてバイト先の薬局でヘパリン類似物質のクリームを購入して帰宅すると、今日もまたその駄女神に迎えられることになる。
「おかえり~。ねぇ景?アイス食べたいから買ってきて~」
いつものようにソファに寝っ転がりながら、帰宅早々に甘味をリクエストされた。
「……なんでだよ?」
景はジトッとした目で瑤姫を見下ろしながら理由を尋ねた。
「なんでって、暑いからよ。エアコンの設定を冷え過ぎない程度にしてたら食べたくなったの」
「そうじゃなくて、なんで俺が居候のアイスを買ってこないといけないんだって聞いてるんだよ」
はっきりと苛立ちを込めて再度尋ねた。
しかしこの駄女神には察するという能力がないのか、気にも留めない。
「私はお金を持ってないんだから景が買うしかないじゃない」
まるで的外れな回答をしてきた。
(こんの駄女神が……)
景が怒りのあまり二の句が継げないでいると、瑤姫はハァとため息をついて立ち上がった。
「……仕方ないわね。じゃあ私が買ってくるからお金ちょうだい」
またしても的外れなことを言ってきた瑤姫に対し、景はさすがに声を荒らげた。
「俺がお前に金をやる理由がないって言ってるんだよ!俺の金だぞ!」
「何言ってるの!景の生活資金は大部分が仕送りでしょう!?それを堂々と『俺の金』だなんて、恥ずかしくないの!?」
「え?……いや……その……」
景は予想外の反論に戸惑い、言葉に詰まってしまった。
瑤姫の言う通り、大学生である景の収入は半分以上が仕送りだ。そして言われてみれば、それを自分の金だと思うのは恥ずかしいことな気がしてきた。
「そういう認識って正直どうかと思うわ!親のお金を自分のお金だと思って、醜く執着までして!」
「お、俺はそういうつもりじゃ……」
「だったらアイス代くらいケチらず出しなさい!」
「あ、ああ……」
ほとんど勢いに飲まれるような形で景が財布を取り出すと、瑤姫は引ったくるようにして取り上げた。
そしてその時点で、ようやく景は話の流れがおかしいことに気がついた。
景の認識がどうであれ、日がな一日ゴロゴロしている居候にアイスを買ってやる道理などない。
「ちょっと待て!」
「待たないわよ。私の論破勝ち~」
決して論破などされていないのだが、一時でも惑わされた自分に景は腹が立った。
しかし手を伸ばしても瑤姫はスルリと身をかわして玄関へと駆けて行く。
(くそ!こうなったらとことん追いかけて……)
いったんはそう思ったが、すぐに馬鹿馬鹿しくなった。
考えてもみれば、たかがアイス代のことではあるのだ。そのためにクソ暑い外を走り回るのは結局のところ損でしかない。
「ほんっとうに……どつしようもない駄女神だな」
ため息を吐いて、控えめなエアコンの効いた部屋でゆっくり過ごすことにした。
それにさすがの瑤姫とはいえ、自分の分しか買ってこないなどということはないだろう。要はアイスのお使いに行かせたと思えばいいのだ。
景は瑤姫の体温が残ったソファに座り、テレビをネットの動画配信に切り替えた。景は地上波も観るが、どちらかといえばネット中心だ。
そうやってしばらくリラックスしていると玄関のチャイムが鳴った。瑤姫ならわざわざチャイムを鳴らさないので、来客だろう。
「はーい」
インターフォンで外の様子を見ると、見たことのない中年男性が立っていた。痩せた男で、画面越しにも顔色が良くないように見える。
「あの……すいません。私、神農神社の神主で……設楽源一郎という者なのですが……」
名乗った男に対し、景は小さく首を傾げながら聞き返した。
「……えっと?神主さんが何の御用でしょうか?」
「あの……三日前の夜、あなたがうちの境内で戦っていたことに関してお聞きしたいことがありまして……」
景はそこまで言われてようやく理解した。神農神社というのは『インフルエンザ』の病邪と戦ったあの神社のようだ。
正月くらいしか参拝しない景は神社名も覚えていなかったが、言われてみればそんな名前だった気がする。
そして言っていることから察するに、瑤姫の『原状回復』が効いていないようだ。設楽源一郎という男はあの戦いを覚えている。
(ど、どうする?適当に誤魔化して帰ってもらうか?)
そうしようと口を開きかけたが、すぐにまた閉じた。
(……いや、違うな。瑤姫にもう一度原状回復をかけてもらわないといけない。帰ってくるまでここで引き止めておくのがベストだ)
瑤姫の話では、病邪のことは世間に知られない方が良いようだった。関わりたくないので詳しくは聞いていないが、その力を悪用される可能性があるという話だ。
だからこの男が病邪のことを覚えているなら、その記憶を消さなければならないと考えた。
「分かりました。今出ます」
景は玄関へ行き扉を開けると、すぐに中を指さした。
「中でお話を聞きますよ。どうぞ」
入るよう促された源一郎は二の足を踏んだ。
こうまであっさりと承諾してもらえるとは思っていなかったから、むしろためらってしまったのだ。
それに目の前の青年は見た目が普通でも、化け物じみた戦闘能力があるのをこの目で見た。恐れるなという方が無理だろう。
しかし自分から話を聞きたいと言っておいて、断るのもおかしな話だ。
(それに……私はどうしても気になるんだ。瑤草だとしか思えない花をこの青年が植えていて、しかも瑤姫と呼ぶ女性と一緒にいた)
そういう事実がある以上、源一郎としては何が何でも話を聞きたいのだ。
「すいません、では失礼します」
意を決し、玄関に足を踏み入れた。
入ってしまえばどうということはない、普通の家だ。むしろ玄関が吹き抜けで広々としており、客としては受け入れられているようで妙に落ち着く。
「こっちです。リビングで話しましょう」
源一郎が景に続いて広いリビングに入ると、エアコンの冷気がひんやりと肌を撫でた。
外は七月の陽気だから普通なら気持ちがいいのだろうが、源一郎の肌は小さな針に刺されたように粟立った。寒い。
(ああ、これはマズいな。久しぶりにジワッとしてブルッとするやつだ)
ジワッとしてブルッとするやつ、というのは源一郎が幼い頃からよくなる風邪の症状だ。
ジワッと薄く汗をかき、ブルッと寒くなる。汗をかいているから特に風が吹くと辛い。
ひどい高熱にはあまりならないのだが、こういう軽い症状が昔はしょっちゅう現れていた。
(最近はそれほど多くはないが……やはり神農様のお守りが輝きを失ったせいか?)
倦怠感と頭重感に襲われながら、勧められてソファに座った。
景の方は小さな椅子をキッチンから持ってきて、そこに腰掛けようとした。
が、ふと気づいてキッチンに戻り、氷の入った麦茶のグラスを持ってきた。源一郎が汗をかいていたのが目に入ったからだ。
「どうぞ」
「あ……どうも」
しっかりした若者だな、と源一郎は思った一方、正直なところ今は冷たい飲み物はキツい。
しかし口をつけないのも失礼なので、一口だけ飲む。すると案の定ブルッと震えてしまった。
(あ、この人もしかして……風邪だったか?)
つい先日『風邪の引き始め』と戦った景はその雰囲気を敏感に感じ取った。
もしそうなら温かいものに変えるべきかと思ったが、その前に源一郎が話を始めた。
「それで、三日前の神社でのことなのですが……」
「ああ、迷子の女の子を保護した時のことですよね?」
と、景は間髪入れずに言葉を挟んだ。
こういう時はこちらのペースに引きずり込むべきだと考え、言葉を重ねる。
「境内でちょっと騒いじゃいましたけど、うるさかったですか?すいませんでした」
愛想よく笑いながら、しかし申し訳無さそうに頭を下げた。
「……は?」
源一郎は思わずキョトンとして、それから抗議の声を上げた。
「い、いや!あれはちょっと騒いだとかいうレベルじゃないですよ!本殿が崩壊してましたし!」
「えっ!?今、神農神社の本殿は崩壊してるんですか!?それは大変ですね」
驚いてみせた上に、まるで他人事のようなお悔やみを言ってくる。
源一郎はあ然としたが、すぐに景の意図は分かった。
神社でのあの激しい戦闘はなかったことにしようとしているのだ。そしてこう主張されると圧倒的に源一郎の分が悪い。
現に本殿はきれいに直ってしまっていて、戦いの跡などどこにもないのだ。
しかし、と源一郎は思い直した。
「別に私は本殿を一度壊されたことを責めに来たわけではありません。もう直っている以上、求める損害もありませんし」
それは本心であるので、はっきりとそう伝えた。
景の方は内心少し安堵したが、答えるわけにはいかない。無言で先を促した。
「私がここに来たのは、あれがどういったことなのか聞きたかったからです。特に張中君と一緒にいた女性のことです。私には君が『瑤姫』と呼んでいたように聞こえました」
「…………」
景はまだ答えない。
何をどう答えるべきか、どう答えていいか考えている。
返事がないので源一郎は言葉を続けた。
「あれは、あの方は本当に瑤姫なのですか?いえ、瑤姫様なのですか?それならば我が神社の祭神である神農様のご息女でいらっしゃることになる」
ここまで話を聞いて、景にはようやく源一郎が来訪した理由を把握できた。
言葉通り何かを責めに来たわけではなく、己の信仰対象に近しい存在が顕現していることを知って会いに来たのだろう。
景のこの推論は正しく、源一郎はそのためにわざわざ探偵まがいのことまでして景の家を突き止めた。
なんと大学から家まで後を尾けて来たのだ。
久兵衛のスマホ画面から景が学生であることを知った源一郎は、張り込みの刑事のように大学で待ち伏せをしてその姿を見つけた。学部まで知っていたので、そこまでは難しくなかった。
しかし跡をつけるのは思いの外大変だった。景はバイクで通学しているからだ。
(やっぱり久兵衛に住所を聞いてみればよかったか!?)
そう後悔しかけたが、友人に教え子の個人情報を漏らさせるのも気が引ける。久兵衛は『面白い』と思えばそれくらいやってしまう人間ではあったが、できることなら避けたかった。
だから源一郎は体調が悪いのに無理をして走り、そのかいもあってたまたま通りかかったタクシーを拾うことができた。
そして尾けられていることに気づかない景はのんきにバイト先を回って帰宅した。
もし尾行のことを知れば景も腹を立てたかもしれないが、目の前にいるのは真摯な信仰心を見せている神職だ。さして悪い印象は持たなかった。
(わざわざあの駄女神を様付けするために言い直したくらいだからな。俺たちに悪意があるわけじゃなさそうだ)
そう考えて、警戒心を少し緩めた。
「瑤姫なら今はちょっと出かけてますけど、もう少ししたら帰って来ますよ。お茶でも飲みながら待っててください」
どちらにせよ、瑤姫に原状回復の神術をかけ直してもらわないといけないのだ。だから瑤姫が帰ってくるまで待つよう伝えることにした。
源一郎はようやく得られたその返事に顔を輝かせた。
「ほ、本当に瑤姫様がいらっしゃるのですね!?そして……あ、あ、あ、会わせていただけるのですね!?」
興奮のあまりセリフを噛んでしまった源一郎に、景は苦笑した。
あの駄女神にそんな価値などないと断言できる景ではあったが、人の大切なものをけなすことの愚は知っている。
だから苦笑を無理やり愛想笑いに変え、鷹揚にうなずいてみせた。
「ええ。本当に瑤姫ですし、ここで待ってれば会えますよ。そこらのコンビニかスーパーに行ってるだけですから、そんなに時間はかからないと思います」
源一郎はまずま興奮し、心拍数につられて体温まで上がったのか冷たい麦茶を一気に流し込んだ。
が、得てして精神に体調はついて行かないものだ。虚弱である源一郎など特にそうだった。
だから麦茶の冷たさが食道を通って胃の腑まで落ちた時、寒さでブルブルっと体が震えた。
(な、なんだ?)
景がそう思ったのは源一郎が震えたからではない。震えた瞬間に、景の視界に不思議なものが現れたからだ。
部屋のそこら中に黒いモヤが漂い始めた。
嫌な雰囲気のモヤだ。まるで闇が物質として具現化したようにすら見えた。
そしてそれらは急速に源一郎の体へ吸い込まれていく。
「し、設楽さん?」
「何でしょう!?」
景の問いかけに、源一郎は興奮冷めやらない様子で問い返してきた。
どうやら黒いモヤには気づいていないようだ。
(っていうかこれ……俺にしか見えてないんじゃ……)
そんな気がした。
というのも、どうもモヤの雰囲気が病邪に似ているように感じたからだ。そういえば初めて見た病邪の周囲にもこんなモヤがあった気がする。
そしてそれが今、目の前の男に集まっているのだ。そのことの意味に思い至った景は、反射的に声を上げていた。
「芽生えよ、医聖の因子!」
「景、お前おでこどうしたんだ?」
月曜の景は大学の友人たちから何度も似たようなことを聞かれた。
理由は景のおでこに青あざができていたからだ。
「ああ、寝ぼけてこけちゃったんだよ」
景はそう答えていたが、本当は違う。三日前『インフルエンザ』の病邪と戦った時に、特大の瓦礫をぶつけられた痕だ。
葛根刀の身体強化のおかげで大きな怪我にはなっていないのだが、目立つところなのでどうしても聞かれる。
景はそれに答える度、
(全部あの駄女神のせいだ!)
(もう二度と病邪とは戦わないからな!)
などと心中で不満を爆発させていた。
そしてバイト先の薬局でヘパリン類似物質のクリームを購入して帰宅すると、今日もまたその駄女神に迎えられることになる。
「おかえり~。ねぇ景?アイス食べたいから買ってきて~」
いつものようにソファに寝っ転がりながら、帰宅早々に甘味をリクエストされた。
「……なんでだよ?」
景はジトッとした目で瑤姫を見下ろしながら理由を尋ねた。
「なんでって、暑いからよ。エアコンの設定を冷え過ぎない程度にしてたら食べたくなったの」
「そうじゃなくて、なんで俺が居候のアイスを買ってこないといけないんだって聞いてるんだよ」
はっきりと苛立ちを込めて再度尋ねた。
しかしこの駄女神には察するという能力がないのか、気にも留めない。
「私はお金を持ってないんだから景が買うしかないじゃない」
まるで的外れな回答をしてきた。
(こんの駄女神が……)
景が怒りのあまり二の句が継げないでいると、瑤姫はハァとため息をついて立ち上がった。
「……仕方ないわね。じゃあ私が買ってくるからお金ちょうだい」
またしても的外れなことを言ってきた瑤姫に対し、景はさすがに声を荒らげた。
「俺がお前に金をやる理由がないって言ってるんだよ!俺の金だぞ!」
「何言ってるの!景の生活資金は大部分が仕送りでしょう!?それを堂々と『俺の金』だなんて、恥ずかしくないの!?」
「え?……いや……その……」
景は予想外の反論に戸惑い、言葉に詰まってしまった。
瑤姫の言う通り、大学生である景の収入は半分以上が仕送りだ。そして言われてみれば、それを自分の金だと思うのは恥ずかしいことな気がしてきた。
「そういう認識って正直どうかと思うわ!親のお金を自分のお金だと思って、醜く執着までして!」
「お、俺はそういうつもりじゃ……」
「だったらアイス代くらいケチらず出しなさい!」
「あ、ああ……」
ほとんど勢いに飲まれるような形で景が財布を取り出すと、瑤姫は引ったくるようにして取り上げた。
そしてその時点で、ようやく景は話の流れがおかしいことに気がついた。
景の認識がどうであれ、日がな一日ゴロゴロしている居候にアイスを買ってやる道理などない。
「ちょっと待て!」
「待たないわよ。私の論破勝ち~」
決して論破などされていないのだが、一時でも惑わされた自分に景は腹が立った。
しかし手を伸ばしても瑤姫はスルリと身をかわして玄関へと駆けて行く。
(くそ!こうなったらとことん追いかけて……)
いったんはそう思ったが、すぐに馬鹿馬鹿しくなった。
考えてもみれば、たかがアイス代のことではあるのだ。そのためにクソ暑い外を走り回るのは結局のところ損でしかない。
「ほんっとうに……どつしようもない駄女神だな」
ため息を吐いて、控えめなエアコンの効いた部屋でゆっくり過ごすことにした。
それにさすがの瑤姫とはいえ、自分の分しか買ってこないなどということはないだろう。要はアイスのお使いに行かせたと思えばいいのだ。
景は瑤姫の体温が残ったソファに座り、テレビをネットの動画配信に切り替えた。景は地上波も観るが、どちらかといえばネット中心だ。
そうやってしばらくリラックスしていると玄関のチャイムが鳴った。瑤姫ならわざわざチャイムを鳴らさないので、来客だろう。
「はーい」
インターフォンで外の様子を見ると、見たことのない中年男性が立っていた。痩せた男で、画面越しにも顔色が良くないように見える。
「あの……すいません。私、神農神社の神主で……設楽源一郎という者なのですが……」
名乗った男に対し、景は小さく首を傾げながら聞き返した。
「……えっと?神主さんが何の御用でしょうか?」
「あの……三日前の夜、あなたがうちの境内で戦っていたことに関してお聞きしたいことがありまして……」
景はそこまで言われてようやく理解した。神農神社というのは『インフルエンザ』の病邪と戦ったあの神社のようだ。
正月くらいしか参拝しない景は神社名も覚えていなかったが、言われてみればそんな名前だった気がする。
そして言っていることから察するに、瑤姫の『原状回復』が効いていないようだ。設楽源一郎という男はあの戦いを覚えている。
(ど、どうする?適当に誤魔化して帰ってもらうか?)
そうしようと口を開きかけたが、すぐにまた閉じた。
(……いや、違うな。瑤姫にもう一度原状回復をかけてもらわないといけない。帰ってくるまでここで引き止めておくのがベストだ)
瑤姫の話では、病邪のことは世間に知られない方が良いようだった。関わりたくないので詳しくは聞いていないが、その力を悪用される可能性があるという話だ。
だからこの男が病邪のことを覚えているなら、その記憶を消さなければならないと考えた。
「分かりました。今出ます」
景は玄関へ行き扉を開けると、すぐに中を指さした。
「中でお話を聞きますよ。どうぞ」
入るよう促された源一郎は二の足を踏んだ。
こうまであっさりと承諾してもらえるとは思っていなかったから、むしろためらってしまったのだ。
それに目の前の青年は見た目が普通でも、化け物じみた戦闘能力があるのをこの目で見た。恐れるなという方が無理だろう。
しかし自分から話を聞きたいと言っておいて、断るのもおかしな話だ。
(それに……私はどうしても気になるんだ。瑤草だとしか思えない花をこの青年が植えていて、しかも瑤姫と呼ぶ女性と一緒にいた)
そういう事実がある以上、源一郎としては何が何でも話を聞きたいのだ。
「すいません、では失礼します」
意を決し、玄関に足を踏み入れた。
入ってしまえばどうということはない、普通の家だ。むしろ玄関が吹き抜けで広々としており、客としては受け入れられているようで妙に落ち着く。
「こっちです。リビングで話しましょう」
源一郎が景に続いて広いリビングに入ると、エアコンの冷気がひんやりと肌を撫でた。
外は七月の陽気だから普通なら気持ちがいいのだろうが、源一郎の肌は小さな針に刺されたように粟立った。寒い。
(ああ、これはマズいな。久しぶりにジワッとしてブルッとするやつだ)
ジワッとしてブルッとするやつ、というのは源一郎が幼い頃からよくなる風邪の症状だ。
ジワッと薄く汗をかき、ブルッと寒くなる。汗をかいているから特に風が吹くと辛い。
ひどい高熱にはあまりならないのだが、こういう軽い症状が昔はしょっちゅう現れていた。
(最近はそれほど多くはないが……やはり神農様のお守りが輝きを失ったせいか?)
倦怠感と頭重感に襲われながら、勧められてソファに座った。
景の方は小さな椅子をキッチンから持ってきて、そこに腰掛けようとした。
が、ふと気づいてキッチンに戻り、氷の入った麦茶のグラスを持ってきた。源一郎が汗をかいていたのが目に入ったからだ。
「どうぞ」
「あ……どうも」
しっかりした若者だな、と源一郎は思った一方、正直なところ今は冷たい飲み物はキツい。
しかし口をつけないのも失礼なので、一口だけ飲む。すると案の定ブルッと震えてしまった。
(あ、この人もしかして……風邪だったか?)
つい先日『風邪の引き始め』と戦った景はその雰囲気を敏感に感じ取った。
もしそうなら温かいものに変えるべきかと思ったが、その前に源一郎が話を始めた。
「それで、三日前の神社でのことなのですが……」
「ああ、迷子の女の子を保護した時のことですよね?」
と、景は間髪入れずに言葉を挟んだ。
こういう時はこちらのペースに引きずり込むべきだと考え、言葉を重ねる。
「境内でちょっと騒いじゃいましたけど、うるさかったですか?すいませんでした」
愛想よく笑いながら、しかし申し訳無さそうに頭を下げた。
「……は?」
源一郎は思わずキョトンとして、それから抗議の声を上げた。
「い、いや!あれはちょっと騒いだとかいうレベルじゃないですよ!本殿が崩壊してましたし!」
「えっ!?今、神農神社の本殿は崩壊してるんですか!?それは大変ですね」
驚いてみせた上に、まるで他人事のようなお悔やみを言ってくる。
源一郎はあ然としたが、すぐに景の意図は分かった。
神社でのあの激しい戦闘はなかったことにしようとしているのだ。そしてこう主張されると圧倒的に源一郎の分が悪い。
現に本殿はきれいに直ってしまっていて、戦いの跡などどこにもないのだ。
しかし、と源一郎は思い直した。
「別に私は本殿を一度壊されたことを責めに来たわけではありません。もう直っている以上、求める損害もありませんし」
それは本心であるので、はっきりとそう伝えた。
景の方は内心少し安堵したが、答えるわけにはいかない。無言で先を促した。
「私がここに来たのは、あれがどういったことなのか聞きたかったからです。特に張中君と一緒にいた女性のことです。私には君が『瑤姫』と呼んでいたように聞こえました」
「…………」
景はまだ答えない。
何をどう答えるべきか、どう答えていいか考えている。
返事がないので源一郎は言葉を続けた。
「あれは、あの方は本当に瑤姫なのですか?いえ、瑤姫様なのですか?それならば我が神社の祭神である神農様のご息女でいらっしゃることになる」
ここまで話を聞いて、景にはようやく源一郎が来訪した理由を把握できた。
言葉通り何かを責めに来たわけではなく、己の信仰対象に近しい存在が顕現していることを知って会いに来たのだろう。
景のこの推論は正しく、源一郎はそのためにわざわざ探偵まがいのことまでして景の家を突き止めた。
なんと大学から家まで後を尾けて来たのだ。
久兵衛のスマホ画面から景が学生であることを知った源一郎は、張り込みの刑事のように大学で待ち伏せをしてその姿を見つけた。学部まで知っていたので、そこまでは難しくなかった。
しかし跡をつけるのは思いの外大変だった。景はバイクで通学しているからだ。
(やっぱり久兵衛に住所を聞いてみればよかったか!?)
そう後悔しかけたが、友人に教え子の個人情報を漏らさせるのも気が引ける。久兵衛は『面白い』と思えばそれくらいやってしまう人間ではあったが、できることなら避けたかった。
だから源一郎は体調が悪いのに無理をして走り、そのかいもあってたまたま通りかかったタクシーを拾うことができた。
そして尾けられていることに気づかない景はのんきにバイト先を回って帰宅した。
もし尾行のことを知れば景も腹を立てたかもしれないが、目の前にいるのは真摯な信仰心を見せている神職だ。さして悪い印象は持たなかった。
(わざわざあの駄女神を様付けするために言い直したくらいだからな。俺たちに悪意があるわけじゃなさそうだ)
そう考えて、警戒心を少し緩めた。
「瑤姫なら今はちょっと出かけてますけど、もう少ししたら帰って来ますよ。お茶でも飲みながら待っててください」
どちらにせよ、瑤姫に原状回復の神術をかけ直してもらわないといけないのだ。だから瑤姫が帰ってくるまで待つよう伝えることにした。
源一郎はようやく得られたその返事に顔を輝かせた。
「ほ、本当に瑤姫様がいらっしゃるのですね!?そして……あ、あ、あ、会わせていただけるのですね!?」
興奮のあまりセリフを噛んでしまった源一郎に、景は苦笑した。
あの駄女神にそんな価値などないと断言できる景ではあったが、人の大切なものをけなすことの愚は知っている。
だから苦笑を無理やり愛想笑いに変え、鷹揚にうなずいてみせた。
「ええ。本当に瑤姫ですし、ここで待ってれば会えますよ。そこらのコンビニかスーパーに行ってるだけですから、そんなに時間はかからないと思います」
源一郎はまずま興奮し、心拍数につられて体温まで上がったのか冷たい麦茶を一気に流し込んだ。
が、得てして精神に体調はついて行かないものだ。虚弱である源一郎など特にそうだった。
だから麦茶の冷たさが食道を通って胃の腑まで落ちた時、寒さでブルブルっと体が震えた。
(な、なんだ?)
景がそう思ったのは源一郎が震えたからではない。震えた瞬間に、景の視界に不思議なものが現れたからだ。
部屋のそこら中に黒いモヤが漂い始めた。
嫌な雰囲気のモヤだ。まるで闇が物質として具現化したようにすら見えた。
そしてそれらは急速に源一郎の体へ吸い込まれていく。
「し、設楽さん?」
「何でしょう!?」
景の問いかけに、源一郎は興奮冷めやらない様子で問い返してきた。
どうやら黒いモヤには気づいていないようだ。
(っていうかこれ……俺にしか見えてないんじゃ……)
そんな気がした。
というのも、どうもモヤの雰囲気が病邪に似ているように感じたからだ。そういえば初めて見た病邪の周囲にもこんなモヤがあった気がする。
そしてそれが今、目の前の男に集まっているのだ。そのことの意味に思い至った景は、反射的に声を上げていた。
「芽生えよ、医聖の因子!」
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そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
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