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桂枝湯1

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 神農神社しんのうじんじゃの神主である設楽源一郎したらげんいちろうはその日、社務所で事務仕事をしていた。ルーチンワークの帳簿付けとその確認だ。

 いつもならさして時間のかかる仕事ではないのだが、その日はなぜか何度計算し直しても数字が合わない。

 それで暗くなってからも社務所に残っていた。

「……駄目だ。どうしても合わない」

 源一郎はパソコンのディスプレイから視線を外し、目頭を揉んだ。

 四十過ぎの体にはあちこち問題が生じてきている。眼精疲労もその一つだ。

 とはいえ、実はそれでも源一郎の若い頃に比べるとずっと元気になっている。

 昔はひどく虚弱な子供で、何かにつけすぐに体調を崩していた。しょっちゅう医者にかかるので、かかりつけ医のカルテには『万年風邪』と記されていたほどだ。

 しかも不思議なことに、源一郎が体調を崩すといつの間にか周りの物が壊れていることが多いのだ。

 勉強机や犬小屋、公園の遊具など、様々な物が気づけば大鎚で叩かれたようにひしゃげていた。

 源一郎が壊れる瞬間を目撃したことはない。しかしその前後で記憶が曖昧になるのが常だった。

 幼いながらに自分は悪霊にでも取り憑かれているのではないかと思い、恐ろしかった。

 しかしある日を境にこの恐怖は消えることになる。

 その前夜、寝ている源一郎の枕元に一人の男が立った。まばゆいほどの光を背負った男だ。

『なんと邪気を吸い寄せやすい子供か。これほどの者はそういない』

 男は嘆息してそんなことを言ってきた。

 顔は後光のせいでよく見えなかったが、輪郭と鐘のように響く声だけでそれがとても神々しい存在なのだと源一郎には理解できた。

『このままでは今後も簡単に病邪を宿してしまうことだろう。世界のバランスを維持するために特別措置を行う。明日、我が神社へ来るのだ。五百円を忘れずにな』

 我が神社、とだけ言われても普通ならどこか分からず悩むだろう。

 しかし源一郎はまだ幼かったせいか、迷わず自分の家から一番近い神社へ向かった。もちろんお小遣いの五百円玉を握ってだ。

 行くと、本殿横の社務所で後の義母となる女性がお守りを販売していた。若い巫女服姿の前に色とりどりの守り袋が並んでいる。

 源一郎にはその一つが明らかに輝いて見えた。別に光など放ってはいないのに、なぜか輝きを感じるのだ。

 値段はぴったり五百円だったが、そのことも当然だと思えた。

 源一郎はすぐさま輝くお守りを指さし、五百円玉を差し出した。

 そしてそれ以来、肌身放さず身につけている。

 するとご利益があったようで、体調を崩すことがぐっと減った。相変わらず虚弱ではあるのだが、『まぁこのくらいの人もいるよね』程度にはなることができた。

 そして何より嬉しかったのが、体調を崩した時に物が壊れることがなくなったことだ。

 自分が何か得体の知れない脅威に晒されているのではないかという恐怖は少年にとってひどいストレスだった。

 そこから救ってくれた存在、夢枕に立ってくれた神と思われる存在に源一郎は感謝し、信仰した。信仰のあまり、神社の一人娘に入婿して神主にまでなった。

 そうして今も働いている。

「あっ、ここだ。ここのプラスとマイナスが逆になってるじゃないか」

 ケアレスミスを発見し、ようやく帳尻が合った。

 ほっと一息ついてから大きく伸びをして、表計算ソフトを閉じた。これで本日の業務は終了だ。

神農しんのう様、おかげさまで本日も無事に務めを果たすことができました。ありがとうございます」

 源一郎は胸ポケットからお守りを出し、目礼して感謝を表した。

 もちろん本殿には御神体もあるのだが、源一郎にとってはこのお守りこそが神との繋がりだ。

 この神社、神農神社では名前の通り『神農』という神を祀っている。

 神農は別名『炎帝神農』『薬王大帝』『五穀仙帝』とも呼ばれ、医薬や農業を司っている。

 仏や七福神の多くと同じように外来神で、元は古代中国で崇められていた神だ。

(さて、早く帰るとしよう。夏だというのにインフルエンザが流行っているみたいだし、私みたいなのは油断するとすぐかかるからな)

 そんなことを考えながらパソコンとテレビの電源を落とした。

 仕事中つけっぱなしだったテレビから、刑務所で夏のインフルエンザ流行というニュースが流れていた。その後なにかのトラブルで中継が切れたようだが、仕事に集中していたのでそこはよく分からない。

 しかし自分のような虚弱者は本当に注意せねばならないということはよく分かっている。お守りのおかげでマシにはなっているが、それでも人より体が弱いのだ。

 そうして片付けを済ました源一郎が社務所の電気を消した時、本殿前の広場から物音が聞こえた。

 誰かが来たようだ。

(なんだ?こんな時間に参拝客か?)

 ないことではないが、あまりない。

 そういえば神社の賽銭泥棒や御神体の盗難など、罰当たり極まりない事件がたまに世間を騒がせている。

 そんなニュースを思い出した源一郎はすぐには外に出ず、電気を消したまま社務所の窓からそっと外の様子を覗き見た。

 すると、プロレスラー顔負けの体格をした男の背中が見えた。もう少し目を凝らすと、その陰には小学校低学年くらいの少女もいた。

 夜の神社では妙な組み合わせだし、男の体格がどう見ても普通ではない。源一郎は対応に悩んだ。

(ど、どうする?通報すべきか?だが……ただのプロレスラーとその親戚という可能性も?まずは声をかけてみるか?)

 しかし、声をかけて暴れられては自分の力では抗うことなどできないだろう。というか、男の体格を見るに一般人が押さえつけるのは無理そうだ。

(やはり通報か……)

 源一郎がスマホに手を伸ばしかけた時、階段の方から若い男の叫び声が聞こえた。もう一人現れたようだ。

(……あの男!日本刀を持ってるじゃないか!)

 これはもう通報すべき事案で間違いない。

 源一郎はそういう結論を得たのだが、この後の怒涛の展開によって源一郎は通報することすら忘れてしまった。

 後から現れた男が目で追うこともできないような速度で大柄な男に斬りかかったのだ。

 そして刀を叩きつけられた男は吹き飛び、なんと神社の本殿に突っ込んで破壊してしまった。

(神農様!)

 源一郎が声にならない悲鳴を上げたのは言うまでもない。

 しかし本殿の不幸はこれで終わらなかった。なぜかあれほどの勢いで吹き飛んだ男がまだ生きており、台風など目ではないような突風を発生させたのだ。

 この風により、かろうじてまだ立っていた柱も倒れてしまった。本殿はもはや廃墟と化している。

 そしてその後は少年漫画もかくやというような戦闘になった。片方が刀を振るい、もう片方が風で攻める。

 源一郎はあっけに取られてその攻防を見つめた。

 本殿が破壊されたショックもあったのだろう。社務所の窓がビリビリと揺れたが、逃げようという意思さえ湧いてこなかった。

 それから二人はいったん遠くへ飛んでいったが、しばらくすると刀を持った男の方だけが帰って来た。どうやらこちらが勝ったらしい。

 後から緑色の髪をした女もやってきたが、髪の色などもはや些事でしかなかった。それほどの混乱だ。

 そしてさらにまた不思議なことが起こった。

 男が少女に刀を刺すと、少女はなぜか元気になったのだ。しかもよく見ると刀は初めと形が変わっていた。

 もう意味が分からない。

(な、何が起こっているんだ……)

 すでに混乱の極地にある源一郎だったが、その精神状態はまだまだ終わらない。

 女が何か言って手を掲げると、光の粒子が現れて廃墟同然になっていた本殿が元通りに直った。

 もちろんそれは喜ばしいことだったのだが、光の粒子は源一郎のところにも飛んできた。

 本殿を直してくれたありがたい光ではあるが、あまりに超常的な現象に源一郎は本能的な恐怖を感じた。

「な、なんだ!?来るなっ」

 源一郎が小さく叫んだ途端、胸ポケットのお守りが光って周囲に膜のようなものが現れた。

 そしてその膜に当たった光の粒子は何事もなかったかのように姿を消した。

「……し、神農様がお守りくださったのか?」

 そう感じたが、はっきりとは分からない。分からないことだらけだ。

「本当に何なんだ……」

 つぶやく源一郎に気づかないまま、三人は境内から去っていく。

 まさか幻覚でも見ていたのではないかと思い、そっと窓を開けると男が喋っている声が聞こえた。

 目だけでなく耳でも存在が確認できたので、やはり現実なのだろうと再認識した。

瑤姫ようき……」

 遠くて話の内容までは聞き取れなかったが、男は女のことをそう呼んでいたように聞こえた。

(……瑤姫?今、瑤姫と言ったのか?瑤姫といえば、神農様の娘の一人ではあるが……)

 首を傾げながら、尋ねるつもりで胸ポケットのお守りを取り出した。

「神農様、これは一体……ん?」

 源一郎は違和感に眉を寄せ、目を擦ってからもう一度お守りを見た。

 いつもと違う。見慣れたはずのお守りだが、明らかに変化があった。

 枯れているというか、以前のような輝きが失われているのだ。それはまるでエネルギーを使い果たしてしまったかのようにも見える。

 源一郎の胸はざわりと不安に揺れた。
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