90 / 107
36フンババ2
しおりを挟む
「やった、独り占めだ!」
私は大自然の露天風呂で一人、両腕を広げて開放感に浸った。
広々とした空間で誰に気遣うこともなく裸でいる。妙に爽快で、高揚した気分になった。
「すぐにでも温泉に飛び込みたいけど……まずは体を洗わないと」
かけ湯だけしてすぐ入る人もいるが、私はしっかりと体を洗ってから入る派だ。備え付けのソープで頭から爪先まできれいに洗い、贅沢すぎる湯船に身を浸した。
今夜は月明かりが綺麗だということで、照明は抑えめにしてある。月に照らされた湯気が幻想的でとても良い。
耳には小さな水音と、虫の声だけが心地良く響いていた。
それからしばらくすると、男湯の方から人の声が聞こえてきた。
(あの声は……ダナオスさんとフワワさんだな)
私はすぐにそう気がついた。男湯とは大きな衝立で隔てられているだけなので、耳を澄ませば隣りの様子は丸分かりだ。
(二人とも裸なんだよね……こんな薄い板一枚隔てて……どんな体してるんだろう?)
私の頭はピンク色の妄想で占められた。
(特にフワワさん……あの巨体なんだから、よっぽど凄まじいものをぶら下げているのでは……)
一気に体温が上がってのぼせそうになった私は、半身浴に切り替えてからさらに耳を澄ました。
ダナオスさんはこの一週間フィールドワークに勤しんでおり、フワワさんは森のパトロールに精を出していた。二人ともかなりお疲れだろう。
「うぅ~……」
そんなおっさんっぽい声が聞こえてきた直後、ダナオスさんは何かに気がついたようだった。
「あれ?あの草は見たことがないな。何ていう草です?」
「湯冷まし草、そう呼ばれてる。温泉の近くだけ、生える。のぼせの薬になる」
「へぇ~すごい。一つ取ってもいいですか?」
「構わない。でもあの辺、よく滑る。気をつけろ」
「大丈夫ですよ……って、うわぁ!!」
何やってるんだ、あのドジっ子ドライアドは。気をつけろって言われたのに滑ってる。
私は一人呆れていたが、事態はこれだけで終わりではなかった。
どうやら滑ったダナオスさんを助けようとして、フワわさんも急いで来たらしい。
しかし、そのフワワさんも滑ったようだ。
「うおおっ」
そんな声が上がった直後、フワワさんの巨体が倒れてぶつかった。
女湯と男湯を隔てている衝立へと。
私はそれを理解した瞬間、すぐに体をお湯の中へと肩まで沈めた。発情体質を得てしまっているとはいえ、乙女の条件反射だ。
ただし、それと同時に男湯の方へ思いっきり頑張って目を凝らした。
今なら見えるかもしれない。フンババのアレが。
「す、すまない。すぐ直す」
フワワさんはそう言い、起き上がって衝立を立て直そうとした。
(今だ!!今なら……!!)
私は身を乗り出し、不随意筋で支配されているはずの瞳孔をなんとか広げようと一生懸命目を見開いた。
が、心の底から残念なことに、湯けむりのせいで月明かりだけではハッキリと物が見通せない。
そしてフワワさんは言葉通り、すぐに衝立を立て直してしまった。
ただ衝立が上がる直前、一瞬だがそのシルエットが見えたような気がした。
(……え?フワワさんって、足が三本ある?)
私がそう思った直後、森をパトロールさせているブルーからの念話が届いた。
その内容に私は気持ちを入れ直し、男湯へ声を投げた。
「……フワワさん、ダナオスさん。うちの子が犯人を見つけたみたいです」
****************
「なるほど!カーバンクルにはそんな使い方があるのか!」
ダナオスさんは私の横を走りながら感嘆の声を上げた。
「これは便利なモンスターですね!」
私はその褒め言葉をカーバンクルのバンクルに伝えてやった。
するとバンクルは嬉しかったのか、よりいっそう体の光を強くしてみせた。
私たちは森の中を走っている。月夜とはいえ森の中は暗いので、私は明かり代わりにバンクルを召喚していた。
カーバンクルは魔石が本体だが、その周囲に発光体の身体を発生させる。
それが明るいのでもしやと思って召喚してみると、狙い通り良好な光源となった。しかも光の強さはある程度の調節可能だ。
バングルの発光体は白い大蛇のような形をしていて、私たちはその白蛇について走っていた。
ただし、明かりがあっても夜の森を走るのは難しい。私とダナオスさんは木の根や石につまづいて何度もこけそうになった。
「かかえる」
フワワさんは一言そう言うと、私たちをそれぞれの腕で抱き上げた。
そしてそのまま走り続ける。
「あ、ありがとうございます」
「重くないですか?」
私たちの礼に、フワワさんは首を横に振った。
「フンババ、力強い。このくらい、軽い。それより、行き先、照らしてくれ」
私は言われた通り、ブルーのいる方向へバンクルを先導させた。
ブルーは犯人に気づかれないよう、その近くに身を潜ませている。温泉を出た私たちは、急いでその場所へと向かっているのだ。
ちなみにこのお手柄スライムは、これまでの犯行現場から次に犯人が現れそうな場所を予測して張り込んでいたらしい。
(ブルーの頭がいいのは知ってたけど、まさかこれほどとは……っていうか、それスライムの脳みそで出来ることなの?)
私はフワワさんの腕の中で揺られながら、うちの子の賢さにあらためて感心していた。
「できれば、ガルーダ見て、思い直して欲しかったが……」
私たちを抱えたフワワさんは、小さな声でそうつぶやいた。
この優しいフンババは、この後に及んでも犯人を捕まえることを悩んでいるようだった。
脅すだけで止めてくれればそれが一番、だが捕まえてしまえば罰しないといけない。
愛と寛容とを旨とするフンババにとって、悪人でも罰するのは辛いことだと言う。
「だが、捕まえられる状況。やはり、捕まえないわけにもいかないか」
そうつぶやきながら、地面を強く蹴った。
フンババはさすがに森に慣れている。かなりの速度で森を駆け抜け、ごく短時間で目的の場所に着いた。
「あっ!あの人っぽいです!」
私はバンクルの光に照らされて薄っすらと姿を見せた人間を指さした。
こんな夜中に森深くを散策している人なんて、まずいないだろう。この人が犯人で間違いない。
犯人は私たちに気がつくと、まずは逃げようとした。
しかしすぐにフンババ相手では逃げ切れないと思い直したようだ。
くるりと体を反転させると、私たちに向かって手をかざした。
すると次の瞬間、人の頭くらいの岩が弾丸のように私たちに向かって飛んできた。
おそらく岩魔法か何かだろう。
私は急いで魔素による身体強化を行ったが、その必要はなかった。フワワさんが私とダナオスさんを両脇に投げて避けさせてくれたからだ。
しかしその代わり、フワワ自身は避ける動作も防ぐ動作もできなかった。岩の弾丸がモロに顔面にぶつかる。
森に鈍い音が響き、私は血の気が引いた。
「フワワさん!!」
「大丈夫。それより犯人を」
(だ、大丈夫!?)
人の頭ほどの岩が直撃したのだ。
どう考えても大丈夫ではなさそうに思えたが、確かにその声は平静そのものだった。
とはいえ、さらに攻撃を重ねられたらかなわない。私は言われた通り犯人の拘束を優先することにした。
「バンクル!!」
急いでバンクルを向かわせる。
白い大蛇は素早く犯人に巻き付いて動きを封じた。ちょっと強めに締め上げながら警告する。
「抵抗されると怪我させることになるかもしれません!降参してください!」
「わ……分かったよ!参った!降参だ!」
思ったより強く締め過ぎてしまったのか、犯人はすぐにそう宣言してくれた。
私はバンクルの力を弱めながら、今度はフワワさんの方へと向き直った。
「ほ、本当に大丈夫ですか?どう見ても大怪我になるやつでしたけど……」
フワワさんは私を安心させるように優しく笑った。
「本当に大丈夫。フンババ、頑丈。このくらい、どうということない」
ダナオスさんもその言葉を補足して私を安心させてくれた。
「『フンババ七つの鎧』と言って、フンババは鎧を七重に重ね着しているほど防御力が高いと言われています。多分、本当に大丈夫です」
「俺だってフンババ相手じゃなけりゃ、あんなヤバい攻撃しねぇよ」
そう言ったのは、バンクルに縛られた犯人だ。見たところヒューマンの若い男性のようだった。
「それでも足止めくらいにはなるかと思ったが……バケモンめ」
吐き捨てるような言葉とは裏腹に、その人の顔は涙と鼻水だらけになっている。
(そんなに強く締め過ぎたかな?痛かったかな?)
もしやり過ぎたなら、ちょっと申し訳ない。
フワワさんはそんな犯人の前に立ち、厳かな態度で尋ねた。
「バノン杉、とても貴重な樹。多くの生き物に、福音もたらす。なぜ勝手に伐った?」
(なぜも何も、盗んで売るためだよね?)
私はそう思ったのだが、犯人の言い分はそれとは違った。
「ハッ!福音だって!?俺にとっちゃ疫病神だよ!」
(……え?バノン杉が疫病神?)
どういうことだろう。
私たちがそう思っていると、犯人は自分でその先を説明してくれた。
「俺のこの顔を見ろ!バノン杉のせいでこうなっちまうんだ!」
犯人の顔は相変わらず涙と鼻水でグシャグシャになっている。さらにクシャミをした。
それを見たフワワさんとダナオスさんは顔を見合わせた。そして同時につぶやく。
「「魔粉症……」」
「そうだ!おれはバノン杉の出す魔粉によるアレルギーで目や鼻がやられる、重度の魔粉症だ!」
(ま、魔粉症!?)
そんな花粉症みたいな病気があるのか。
っていうか、症状的には花粉症とほぼ同じっぽい。
でも考えてみれば、どんなものにもアレルギーを持った人がある程度はいるものだ。魔粉にアレルギーがあっても全くおかしくはない。
「俺はこの魔粉症のせいでずっと辛い思いをしてきたんだ!遠くに引っ越そうかとも思ったが、家族がいるからそれもできねぇ!だから腹が立って腹が立ってしょうがなくて、バノン杉を伐ってやったんだよ!」
犯人はそう叫んだ。
(そういえば花粉症の人って、スギとかヒノキとかが憎たらしくってしょうがないって聞くもんなぁ……花粉の時期じゃなくても見るだけでムズムズするとか言うし)
そうは思ったものの、私は犯人の言い分には反論させてもらった。
「で、でも盗んだ木は売ったんですよね?じゃあやっぱり自分の懐を温めようとしたんじゃ……」
「いいや。確かに木は売ったが、その金は全額を環境保護団体に寄付させてもらったよ。バノン杉の保護以外をしている団体にな!」
犯人はそう言ってからそっぽを向いてしまった。
こうなると、私としても簡単にこの人が悪人とも言い切れなくなってしまった。
(何だか……事情が事情だから可愛そうな気もしてきたな)
そうは思ったが、やはり大切な木を勝手に伐採してしまうのは犯罪だ。
フワワさんは大きなため息をついてから犯人に歩み寄った。
そしてその頭に大きな手のひらを置く。
「お前の言いたいこと、分かった。でも無許可の伐採、やはり悪いこと」
「……俺だってそのくらい分かってるよ。牢屋でもなんでもぶちこみゃいい」
「いや、お前に必要なもの、牢屋ではない」
フワワさんはそう言ってゆっくりと首を横に振った。
その様子があまりに慈愛に満ちていたので、私には言葉の先が予想できてしまった。
(愛と寛容)
それがこの犯人には必要なのだと、フワワさんはそう言うつもりだ。それこそがフンババの最も大切にする教えなのだから。
私はその事に感動しつつ、ちょっと涙ぐんだりした。
が、実際にフワワさんの口から出た言葉は全くの別物だった。
「お前に必要なもの、医師の正しい診断と処方」
「……え?」
私は思わず聞き返してしまったが、フワワさんはそのまま先を続けた。
「魔粉症、今はとても良い薬ある」
私は肩透かしを食らったような気持ちになったが、ダナオスさんはごく普通にウンウンとうなずいている。
そしてフワワさんの言葉を補足してくれた。
「今は毎日少量ずつ魔粉の成分を摂取することで体を慣らしていく治療法があります。舌の下にしばらく入れてから飲み込む薬です。これなら外来で治療できますし、負担も小さいと思います。結構長く続けないと効果が出ないので多少の忍耐は必要ですが、ぜひ耳鼻咽喉科にご相談を」
……ん?そういえば元の世界でもそんな記事を読んだような気がする。
確か、普通の花粉症でもそういう薬があるはずだ。気になる方はぜひ耳鼻咽喉科にご相談を。
ダナオスさんは治療法の話を続けた。
「慣らす薬だけでなく、重度の方に使える強力な薬もありますから症状がひどい間はそちらでもいいと思います。それに従来通りのアレルギー症状を抑える薬も、最近は種類が増えて眠気などの副作用が少ないものが多くなっています。そういったアレルギーの薬は症状が出る二週間くらい前から飲み始めた方がよく効くので、ぜひ早めに受診してくださいね」
聞きましたか?花粉症の皆さん。早めの受診、早めの飲み始めが大切ですよ。
フワワさんはまた慈愛に満ちた笑顔を犯人に向けた。
「明日、フンババの名医、紹介する。今夜は村、泊まるといい」
犯人の目からはまだ涙が流れていたが、それは魔粉症だけが原因ではないように感じられた。
(愛と寛容より、時に医師の正しい診断と処方)
私はそのことを強く胸に刻み込んだ。
***************
☆元ネタ&雑学コーナー☆
ここから先は筆者が話の元ネタなどを気の向くままに書き記しているコーナーです。
本編のストーリーとは関係ないので興味ない方は読み飛ばしてください。
〈フンババ〉
フンババはメソポタミア神話に登場する森の番人です。
レバノン杉の森を守る守護者だったとされています。
その姿は恐ろしく『口は竜、顔は獅子、胸は洪水』、『咆哮は洪水、口は火、吐息は死』などと表現されました。
ただそういう恐怖の対象にされているのも、あくまで森を守るためであるそうです。
『こんな怖いやつだから木を盗みに来るなよ?』というわけですね。
七つの光輝で身を護る激強な番人だったのですが、そのうち一つしか身に着けていない時に襲われてしまいました。
襲ってきたのは英雄ギルガメッシュで、目的はフンババの守るレバノン杉を伐採することでした。
大地が裂けるほどに激しい戦った両者ですが、結局はギルガメッシュが勝ってフンババは殺されます。
そしてレバノン杉は伐採されることに。
しかも番人がいなくなったことで他の人間たちもどんどん伐りに来て、ついには絶滅が危惧されるほどになってしまいました。
これが史上最古の自然破壊だとも言われています。
実際ギルガメッシュはこの時のことを後々神様たちに責められますから、良いことではなかったのかも知れませんね。
〈花粉症〉
作中でも触れているので繰り返しになりますが、花粉症には新しい薬や治療がたくさんあります。
眠気などの副作用が少ない飲み薬、花粉の成分を少しずつ摂取して慣らしていく治療法、症状のコントロール困難な方が使える強力な薬……
仕方ないと諦めずに受診したら楽になるケースが多いと思います。
ぜひ早めの受診を。症状が出始める少し前から薬を飲んだ方がよく効くので、本当に早めの受診をお勧めします。
〈温泉療法〉
温泉って本当に意味あるの?水道水のお風呂と変わらないんじゃない?
と思っている方、いませんか?
筆者もそんなふうに感じていたので調べたことがあるのですが、科学的にもある程度は検証されていました。
例えば体が温まると血流が良くなったりするのは普通に理解できると思いますが、ただの水道水よりも塩や重曹を加えた方が体温を上昇させることが分かっています。
水道水を塩水にするだけでより温まるなんて意外ですよね。
また二酸化炭素や硫化水素には血管拡張作用があり、水道水と炭酸水のお風呂を比較すると、やはり炭酸水の方が末梢血流が良くなるそうです。
あと分かりやすいところでは、酸性泉には殺菌作用があり、アルカリ泉は角質や皮脂を剥がしてツルツルにしてくれます。またマンガンやヨードが入っていると殺菌作用は強くなります。
他にも体内の物質を調べて肯定的な結果を得ている研究がいくつかあり、確かに温泉成分にはそれなりの意味があるようです。
とはいえ筆者としては、そんなデータよりも『温泉で感じる幸せ』が一番体に良いのではないかと思っているので、実際に入る時にはただ無心で楽しみたいと思います。
おまけイラスト
***************
お読みいただき、ありがとうございました。
気が向いたらブクマ、評価、レビュー、感想等よろしくお願いします。
それと誤字脱字など指摘してくださる方々、めっちゃ助かってます。m(_ _)m
私は大自然の露天風呂で一人、両腕を広げて開放感に浸った。
広々とした空間で誰に気遣うこともなく裸でいる。妙に爽快で、高揚した気分になった。
「すぐにでも温泉に飛び込みたいけど……まずは体を洗わないと」
かけ湯だけしてすぐ入る人もいるが、私はしっかりと体を洗ってから入る派だ。備え付けのソープで頭から爪先まできれいに洗い、贅沢すぎる湯船に身を浸した。
今夜は月明かりが綺麗だということで、照明は抑えめにしてある。月に照らされた湯気が幻想的でとても良い。
耳には小さな水音と、虫の声だけが心地良く響いていた。
それからしばらくすると、男湯の方から人の声が聞こえてきた。
(あの声は……ダナオスさんとフワワさんだな)
私はすぐにそう気がついた。男湯とは大きな衝立で隔てられているだけなので、耳を澄ませば隣りの様子は丸分かりだ。
(二人とも裸なんだよね……こんな薄い板一枚隔てて……どんな体してるんだろう?)
私の頭はピンク色の妄想で占められた。
(特にフワワさん……あの巨体なんだから、よっぽど凄まじいものをぶら下げているのでは……)
一気に体温が上がってのぼせそうになった私は、半身浴に切り替えてからさらに耳を澄ました。
ダナオスさんはこの一週間フィールドワークに勤しんでおり、フワワさんは森のパトロールに精を出していた。二人ともかなりお疲れだろう。
「うぅ~……」
そんなおっさんっぽい声が聞こえてきた直後、ダナオスさんは何かに気がついたようだった。
「あれ?あの草は見たことがないな。何ていう草です?」
「湯冷まし草、そう呼ばれてる。温泉の近くだけ、生える。のぼせの薬になる」
「へぇ~すごい。一つ取ってもいいですか?」
「構わない。でもあの辺、よく滑る。気をつけろ」
「大丈夫ですよ……って、うわぁ!!」
何やってるんだ、あのドジっ子ドライアドは。気をつけろって言われたのに滑ってる。
私は一人呆れていたが、事態はこれだけで終わりではなかった。
どうやら滑ったダナオスさんを助けようとして、フワわさんも急いで来たらしい。
しかし、そのフワワさんも滑ったようだ。
「うおおっ」
そんな声が上がった直後、フワワさんの巨体が倒れてぶつかった。
女湯と男湯を隔てている衝立へと。
私はそれを理解した瞬間、すぐに体をお湯の中へと肩まで沈めた。発情体質を得てしまっているとはいえ、乙女の条件反射だ。
ただし、それと同時に男湯の方へ思いっきり頑張って目を凝らした。
今なら見えるかもしれない。フンババのアレが。
「す、すまない。すぐ直す」
フワワさんはそう言い、起き上がって衝立を立て直そうとした。
(今だ!!今なら……!!)
私は身を乗り出し、不随意筋で支配されているはずの瞳孔をなんとか広げようと一生懸命目を見開いた。
が、心の底から残念なことに、湯けむりのせいで月明かりだけではハッキリと物が見通せない。
そしてフワワさんは言葉通り、すぐに衝立を立て直してしまった。
ただ衝立が上がる直前、一瞬だがそのシルエットが見えたような気がした。
(……え?フワワさんって、足が三本ある?)
私がそう思った直後、森をパトロールさせているブルーからの念話が届いた。
その内容に私は気持ちを入れ直し、男湯へ声を投げた。
「……フワワさん、ダナオスさん。うちの子が犯人を見つけたみたいです」
****************
「なるほど!カーバンクルにはそんな使い方があるのか!」
ダナオスさんは私の横を走りながら感嘆の声を上げた。
「これは便利なモンスターですね!」
私はその褒め言葉をカーバンクルのバンクルに伝えてやった。
するとバンクルは嬉しかったのか、よりいっそう体の光を強くしてみせた。
私たちは森の中を走っている。月夜とはいえ森の中は暗いので、私は明かり代わりにバンクルを召喚していた。
カーバンクルは魔石が本体だが、その周囲に発光体の身体を発生させる。
それが明るいのでもしやと思って召喚してみると、狙い通り良好な光源となった。しかも光の強さはある程度の調節可能だ。
バングルの発光体は白い大蛇のような形をしていて、私たちはその白蛇について走っていた。
ただし、明かりがあっても夜の森を走るのは難しい。私とダナオスさんは木の根や石につまづいて何度もこけそうになった。
「かかえる」
フワワさんは一言そう言うと、私たちをそれぞれの腕で抱き上げた。
そしてそのまま走り続ける。
「あ、ありがとうございます」
「重くないですか?」
私たちの礼に、フワワさんは首を横に振った。
「フンババ、力強い。このくらい、軽い。それより、行き先、照らしてくれ」
私は言われた通り、ブルーのいる方向へバンクルを先導させた。
ブルーは犯人に気づかれないよう、その近くに身を潜ませている。温泉を出た私たちは、急いでその場所へと向かっているのだ。
ちなみにこのお手柄スライムは、これまでの犯行現場から次に犯人が現れそうな場所を予測して張り込んでいたらしい。
(ブルーの頭がいいのは知ってたけど、まさかこれほどとは……っていうか、それスライムの脳みそで出来ることなの?)
私はフワワさんの腕の中で揺られながら、うちの子の賢さにあらためて感心していた。
「できれば、ガルーダ見て、思い直して欲しかったが……」
私たちを抱えたフワワさんは、小さな声でそうつぶやいた。
この優しいフンババは、この後に及んでも犯人を捕まえることを悩んでいるようだった。
脅すだけで止めてくれればそれが一番、だが捕まえてしまえば罰しないといけない。
愛と寛容とを旨とするフンババにとって、悪人でも罰するのは辛いことだと言う。
「だが、捕まえられる状況。やはり、捕まえないわけにもいかないか」
そうつぶやきながら、地面を強く蹴った。
フンババはさすがに森に慣れている。かなりの速度で森を駆け抜け、ごく短時間で目的の場所に着いた。
「あっ!あの人っぽいです!」
私はバンクルの光に照らされて薄っすらと姿を見せた人間を指さした。
こんな夜中に森深くを散策している人なんて、まずいないだろう。この人が犯人で間違いない。
犯人は私たちに気がつくと、まずは逃げようとした。
しかしすぐにフンババ相手では逃げ切れないと思い直したようだ。
くるりと体を反転させると、私たちに向かって手をかざした。
すると次の瞬間、人の頭くらいの岩が弾丸のように私たちに向かって飛んできた。
おそらく岩魔法か何かだろう。
私は急いで魔素による身体強化を行ったが、その必要はなかった。フワワさんが私とダナオスさんを両脇に投げて避けさせてくれたからだ。
しかしその代わり、フワワ自身は避ける動作も防ぐ動作もできなかった。岩の弾丸がモロに顔面にぶつかる。
森に鈍い音が響き、私は血の気が引いた。
「フワワさん!!」
「大丈夫。それより犯人を」
(だ、大丈夫!?)
人の頭ほどの岩が直撃したのだ。
どう考えても大丈夫ではなさそうに思えたが、確かにその声は平静そのものだった。
とはいえ、さらに攻撃を重ねられたらかなわない。私は言われた通り犯人の拘束を優先することにした。
「バンクル!!」
急いでバンクルを向かわせる。
白い大蛇は素早く犯人に巻き付いて動きを封じた。ちょっと強めに締め上げながら警告する。
「抵抗されると怪我させることになるかもしれません!降参してください!」
「わ……分かったよ!参った!降参だ!」
思ったより強く締め過ぎてしまったのか、犯人はすぐにそう宣言してくれた。
私はバンクルの力を弱めながら、今度はフワワさんの方へと向き直った。
「ほ、本当に大丈夫ですか?どう見ても大怪我になるやつでしたけど……」
フワワさんは私を安心させるように優しく笑った。
「本当に大丈夫。フンババ、頑丈。このくらい、どうということない」
ダナオスさんもその言葉を補足して私を安心させてくれた。
「『フンババ七つの鎧』と言って、フンババは鎧を七重に重ね着しているほど防御力が高いと言われています。多分、本当に大丈夫です」
「俺だってフンババ相手じゃなけりゃ、あんなヤバい攻撃しねぇよ」
そう言ったのは、バンクルに縛られた犯人だ。見たところヒューマンの若い男性のようだった。
「それでも足止めくらいにはなるかと思ったが……バケモンめ」
吐き捨てるような言葉とは裏腹に、その人の顔は涙と鼻水だらけになっている。
(そんなに強く締め過ぎたかな?痛かったかな?)
もしやり過ぎたなら、ちょっと申し訳ない。
フワワさんはそんな犯人の前に立ち、厳かな態度で尋ねた。
「バノン杉、とても貴重な樹。多くの生き物に、福音もたらす。なぜ勝手に伐った?」
(なぜも何も、盗んで売るためだよね?)
私はそう思ったのだが、犯人の言い分はそれとは違った。
「ハッ!福音だって!?俺にとっちゃ疫病神だよ!」
(……え?バノン杉が疫病神?)
どういうことだろう。
私たちがそう思っていると、犯人は自分でその先を説明してくれた。
「俺のこの顔を見ろ!バノン杉のせいでこうなっちまうんだ!」
犯人の顔は相変わらず涙と鼻水でグシャグシャになっている。さらにクシャミをした。
それを見たフワワさんとダナオスさんは顔を見合わせた。そして同時につぶやく。
「「魔粉症……」」
「そうだ!おれはバノン杉の出す魔粉によるアレルギーで目や鼻がやられる、重度の魔粉症だ!」
(ま、魔粉症!?)
そんな花粉症みたいな病気があるのか。
っていうか、症状的には花粉症とほぼ同じっぽい。
でも考えてみれば、どんなものにもアレルギーを持った人がある程度はいるものだ。魔粉にアレルギーがあっても全くおかしくはない。
「俺はこの魔粉症のせいでずっと辛い思いをしてきたんだ!遠くに引っ越そうかとも思ったが、家族がいるからそれもできねぇ!だから腹が立って腹が立ってしょうがなくて、バノン杉を伐ってやったんだよ!」
犯人はそう叫んだ。
(そういえば花粉症の人って、スギとかヒノキとかが憎たらしくってしょうがないって聞くもんなぁ……花粉の時期じゃなくても見るだけでムズムズするとか言うし)
そうは思ったものの、私は犯人の言い分には反論させてもらった。
「で、でも盗んだ木は売ったんですよね?じゃあやっぱり自分の懐を温めようとしたんじゃ……」
「いいや。確かに木は売ったが、その金は全額を環境保護団体に寄付させてもらったよ。バノン杉の保護以外をしている団体にな!」
犯人はそう言ってからそっぽを向いてしまった。
こうなると、私としても簡単にこの人が悪人とも言い切れなくなってしまった。
(何だか……事情が事情だから可愛そうな気もしてきたな)
そうは思ったが、やはり大切な木を勝手に伐採してしまうのは犯罪だ。
フワワさんは大きなため息をついてから犯人に歩み寄った。
そしてその頭に大きな手のひらを置く。
「お前の言いたいこと、分かった。でも無許可の伐採、やはり悪いこと」
「……俺だってそのくらい分かってるよ。牢屋でもなんでもぶちこみゃいい」
「いや、お前に必要なもの、牢屋ではない」
フワワさんはそう言ってゆっくりと首を横に振った。
その様子があまりに慈愛に満ちていたので、私には言葉の先が予想できてしまった。
(愛と寛容)
それがこの犯人には必要なのだと、フワワさんはそう言うつもりだ。それこそがフンババの最も大切にする教えなのだから。
私はその事に感動しつつ、ちょっと涙ぐんだりした。
が、実際にフワワさんの口から出た言葉は全くの別物だった。
「お前に必要なもの、医師の正しい診断と処方」
「……え?」
私は思わず聞き返してしまったが、フワワさんはそのまま先を続けた。
「魔粉症、今はとても良い薬ある」
私は肩透かしを食らったような気持ちになったが、ダナオスさんはごく普通にウンウンとうなずいている。
そしてフワワさんの言葉を補足してくれた。
「今は毎日少量ずつ魔粉の成分を摂取することで体を慣らしていく治療法があります。舌の下にしばらく入れてから飲み込む薬です。これなら外来で治療できますし、負担も小さいと思います。結構長く続けないと効果が出ないので多少の忍耐は必要ですが、ぜひ耳鼻咽喉科にご相談を」
……ん?そういえば元の世界でもそんな記事を読んだような気がする。
確か、普通の花粉症でもそういう薬があるはずだ。気になる方はぜひ耳鼻咽喉科にご相談を。
ダナオスさんは治療法の話を続けた。
「慣らす薬だけでなく、重度の方に使える強力な薬もありますから症状がひどい間はそちらでもいいと思います。それに従来通りのアレルギー症状を抑える薬も、最近は種類が増えて眠気などの副作用が少ないものが多くなっています。そういったアレルギーの薬は症状が出る二週間くらい前から飲み始めた方がよく効くので、ぜひ早めに受診してくださいね」
聞きましたか?花粉症の皆さん。早めの受診、早めの飲み始めが大切ですよ。
フワワさんはまた慈愛に満ちた笑顔を犯人に向けた。
「明日、フンババの名医、紹介する。今夜は村、泊まるといい」
犯人の目からはまだ涙が流れていたが、それは魔粉症だけが原因ではないように感じられた。
(愛と寛容より、時に医師の正しい診断と処方)
私はそのことを強く胸に刻み込んだ。
***************
☆元ネタ&雑学コーナー☆
ここから先は筆者が話の元ネタなどを気の向くままに書き記しているコーナーです。
本編のストーリーとは関係ないので興味ない方は読み飛ばしてください。
〈フンババ〉
フンババはメソポタミア神話に登場する森の番人です。
レバノン杉の森を守る守護者だったとされています。
その姿は恐ろしく『口は竜、顔は獅子、胸は洪水』、『咆哮は洪水、口は火、吐息は死』などと表現されました。
ただそういう恐怖の対象にされているのも、あくまで森を守るためであるそうです。
『こんな怖いやつだから木を盗みに来るなよ?』というわけですね。
七つの光輝で身を護る激強な番人だったのですが、そのうち一つしか身に着けていない時に襲われてしまいました。
襲ってきたのは英雄ギルガメッシュで、目的はフンババの守るレバノン杉を伐採することでした。
大地が裂けるほどに激しい戦った両者ですが、結局はギルガメッシュが勝ってフンババは殺されます。
そしてレバノン杉は伐採されることに。
しかも番人がいなくなったことで他の人間たちもどんどん伐りに来て、ついには絶滅が危惧されるほどになってしまいました。
これが史上最古の自然破壊だとも言われています。
実際ギルガメッシュはこの時のことを後々神様たちに責められますから、良いことではなかったのかも知れませんね。
〈花粉症〉
作中でも触れているので繰り返しになりますが、花粉症には新しい薬や治療がたくさんあります。
眠気などの副作用が少ない飲み薬、花粉の成分を少しずつ摂取して慣らしていく治療法、症状のコントロール困難な方が使える強力な薬……
仕方ないと諦めずに受診したら楽になるケースが多いと思います。
ぜひ早めの受診を。症状が出始める少し前から薬を飲んだ方がよく効くので、本当に早めの受診をお勧めします。
〈温泉療法〉
温泉って本当に意味あるの?水道水のお風呂と変わらないんじゃない?
と思っている方、いませんか?
筆者もそんなふうに感じていたので調べたことがあるのですが、科学的にもある程度は検証されていました。
例えば体が温まると血流が良くなったりするのは普通に理解できると思いますが、ただの水道水よりも塩や重曹を加えた方が体温を上昇させることが分かっています。
水道水を塩水にするだけでより温まるなんて意外ですよね。
また二酸化炭素や硫化水素には血管拡張作用があり、水道水と炭酸水のお風呂を比較すると、やはり炭酸水の方が末梢血流が良くなるそうです。
あと分かりやすいところでは、酸性泉には殺菌作用があり、アルカリ泉は角質や皮脂を剥がしてツルツルにしてくれます。またマンガンやヨードが入っていると殺菌作用は強くなります。
他にも体内の物質を調べて肯定的な結果を得ている研究がいくつかあり、確かに温泉成分にはそれなりの意味があるようです。
とはいえ筆者としては、そんなデータよりも『温泉で感じる幸せ』が一番体に良いのではないかと思っているので、実際に入る時にはただ無心で楽しみたいと思います。
おまけイラスト
***************
お読みいただき、ありがとうございました。
気が向いたらブクマ、評価、レビュー、感想等よろしくお願いします。
それと誤字脱字など指摘してくださる方々、めっちゃ助かってます。m(_ _)m
12
お気に入りに追加
538
あなたにおすすめの小説
美人四天王の妹とシテいるけど、僕は学校を卒業するまでモブに徹する、はずだった
ぐうのすけ
恋愛
【カクヨムでラブコメ週間2位】ありがとうございます!
僕【山田集】は高校3年生のモブとして何事もなく高校を卒業するはずだった。でも、義理の妹である【山田芽以】とシテいる現場をお母さんに目撃され、家族会議が開かれた。家族会議の結果隠蔽し、何事も無く高校を卒業する事が決まる。ある時学校の美人四天王の一角である【夏空日葵】に僕と芽以がベッドでシテいる所を目撃されたところからドタバタが始まる。僕の完璧なモブメッキは剥がれ、ヒマリに観察され、他の美人四天王にもメッキを剥され、何かを嗅ぎつけられていく。僕は、平穏無事に学校を卒業できるのだろうか?
『この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません』
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
冤罪だと誰も信じてくれず追い詰められた僕、濡れ衣が明るみになったけど今更仲直りなんてできない
一本橋
恋愛
女子の体操着を盗んだという身に覚えのない罪を着せられ、僕は皆の信頼を失った。
クラスメイトからは日常的に罵倒を浴びせられ、向けられるのは蔑みの目。
さらに、信じていた初恋だった女友達でさえ僕を見限った。
両親からは拒絶され、姉からもいないものと扱われる日々。
……だが、転機は訪れる。冤罪だった事が明かになったのだ。
それを機に、今まで僕を蔑ろに扱った人達から次々と謝罪の声が。
皆は僕と関係を戻したいみたいだけど、今更仲直りなんてできない。
※小説家になろう、カクヨムと同時に投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる