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第二十七話

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 燦々と朝日に照らされる大聖堂の廊下は、白漆喰の壁や柱が朝日を反射して実際よりも明るい印象を通るものに与えていた。
 教団の象徴となる白で統一された内装は、飾りがほとんどない質素なものとなっている。権威を示す宗教画やモニュメントは一般の参拝客向けの施設に施し、関係者向けには質素にするというのは教団施設の大きな特徴だ。
 今やすっかりと『懐かしく』なってしまった飾り気のない内装を横目に、エリナは普段のメイド服姿で中庭へと向かう。
 途中ですれ違った職員や教団騎士達が、尊崇の目で一礼するのを複雑な感情で受け止める。あの戦争で大きな負傷してからと言うもの、彼女は一種の偶像と化していた。
『神敵を討ち取るために己が身と命を捧げた乙女』……昏睡から目覚めたら、自分の立場はそうなっていた。
 単純に、魔力制御にすぐれていたから教団側のテストパイロットとしてマギアフレームの開発に関わり、そのまま『精霊戦争』の勃発によって実戦へと雪崩れ込んだだけの話だ。
 それだけの話だったのに、いつの間にやら自分とゼノンを含む五人のテストパイロットが『ファーストファイブ』などと呼ばれる事態になっているのだから、政治というのはいつの時代も逞しく、しぶといものだ。
 そんなことを考えているうちに、目的の中庭へとたどり着く。

「……!!」

 そこは相変わらず、見事な光景が広がっていた。
 視界を埋め尽くす、薔薇の花畑。色とりどりの花弁が咲き誇るそこは、今は朝日に照らされてそれ自体が輝いているようにも見えた。
 その中に、じょうろを片手に愛おしげに薔薇を撫でる、詰め襟の僧服を纏った小柄な老人を認めて、エリナは歩み寄った。

「お久しぶりです。枢機卿猊下」

 その声に、老人が顔を上げた。褐色の肌につるりとした禿頭、がま口のような大きな唇を柔和に綻ばせて、エリナを見上げる。
 ジュリアス・マクハーディ枢機卿。海の向こうの異国の血を引きながら、教団枢機卿へと昇り詰めた才人……ある者からは『黒き聖人』と賞賛され、またある者からは『はらわたまで黒いガマガエル』と陰口をたたかれる……そんな人物である。

「おや、エリナ。ひさしぶりだねぇ、元気そうで何よりだ」
「はっ……猊下こそ、お変わりないようで何よりです」

 微笑みそのままの穏やかな声に、エリナはかしこまって答えた。

「それで、今は王太后付の侍女である君が、わざわざここまで足を運んで何用かな?」
「はっ、聖騎士マクシミリアン卿より伝言でございます……『真実の巫女、その目をお借りしたい』と……」

 その問いに、エリナは簡潔にゼノンの要請を伝える。それを聞いた枢機卿は、フフっと笑った。

「全く……相も変わらず、実に律儀で……貴族的な男だ」

 その評に、エリナは眉をひそめた。本人が聞いたら、間違いなく顔をしかめる内容だったからだ。

「あの男の立場なら、大公家と王家の連名で、直接我らに下命することも出来るはず……それをせんと言うことは、我らが教団まで共犯として巻き込むつもりかな?」
「……緊急時の連携に支障が出ないように、とのことでした」

 それを聞いて、とうとう枢機卿は吹き出した。

「くはは!! ことが起これば主導権は必然、王家が握ることになる……国防はあくまで国家の管轄だからね。我らが擁する騎士団も所詮は私兵……緊急時には彼らの下につくこととなる」
「…………」

 パチンと、金属音が鳴る。枢機卿が腰に下げていたはさみで、一輪の花を切り落としたのだ。園芸はさっぱりなエリナだったが、切り落とした花が見事な花弁を綻ばせていること……剪定の対象にはなり得ないことぐらいは想像がついた。

「それを彼は、要請という形をとって我らを立てつつ、貴族への言い訳もきっちりと成立させている……卑しい教団の手を借りるのではなく、あくまで従える、とね。全く、いつも平民と嘯きながら、その手管は貴族……いや、政治家のそれだ。王太后陛下の教育は万全なようだね」

 柔和な口調から次々と飛び出す、痛烈な皮肉……このアストリア大陸では差別の対象となる黒い肌を持ちながら、枢機卿という地位まで昇り詰めたのがよくわかる舌禍だった。
 はさみを収めて、切り落とした花を拾い上げる。

「個人的な好悪はどうあれ、従わねばならん要請だ。わたしの方から『真実の巫女』にお伝えしよう」
「ありがとうございます」
「ついては、マクシミリアン卿に伝えてほしい」

 礼を言うエリナを半ば遮りながら、変わらぬ柔和な微笑みを向ける。

「『聖騎士の勤めにその身命を捧げてくださること、心より感謝します』とね」

 差し出される薔薇の花とともに突きつけられた言葉は、最早皮肉を通り越して一種の呪詛となっていた。

「……必ず」

 差し出された薔薇を受け取りながら、エリナはこれからの波乱を思い浮かべて、鉄面皮の苦渋を深くした。


 朝の校舎の廊下を、アンジェリーナは軽やかに進んでいく。今日の彼女は上機嫌だった。すれ違う生徒が訝しげな疑問顔になるほどに。
 理由は言わずもがな、会心の出来の贈り物を贈る日が来たからだ。
 ここまで晴れやかな気持ちで登校するのは、もしかしたら初めてかも知れない。そう思ってしまうほど、婚約してからのアンジェリーナにとって学校生活というものは暗澹としていた。
 何せ、アーノルドと接する機会……と言うより、尻拭いをする機会が一番多いのはこの学院だったのだから。
 人の目のある校内で渡す気はなかったが、忘れずに持ち込んできている。放課後が今から楽しみだった。
 そんな楽しい気持ちを胸に抱いて、ウキウキと廊下を進んでいたときだった。

「ベルリエンデぇ!!」

 聞き覚えのある……ここで聞こえてはならない声が背後から噴き上がって、驚きとともに足を止めて振り返った。

「あなた……」

 視線の先には、アレクサンダー・リーランドがいた。当主代行の姉から直々に謹慎を課されているはずのアレクサンダーが……
 どうして、と思う間もなく、詰め寄ってきたアレクサンダーに胸ぐらを掴まれて廊下の壁に叩きつけられた。

「あっ!!」

 背中に衝撃が走って、息が詰まる。そんな様子を一顧だにせず、つばを飛ばしながらアレクサンダーがまくし立てる。

「お前の口からマクシミリアンに命令しろ!! あの黒い機体を俺によこせってなぁ!!」
「く、黒い機体? なんの話をしているのですか!?」

 黒い機体。装星機のことで間違いなかった。

「テメェは知らなくていい!! 言われたとおりにすりゃいいんだよ!!」
「わ、わけがわかりません!! なぜわたくしがそんなことをしなければならないのですか!?」

 当然の疑問を、アンジェリーナは口にした。
 それ以前に言ってやりたいことはいくらでもあった。だが、言葉が出てこない……剥き出しの敵意と暴力に晒されて、恐怖がアンジェリーナの心を支配していた。

「決まってんだろ!! あの野郎はお前の言うことなら聞くからな!!」
「そう言う問題ではないでしょう!! あなたのためになぜわたくしが意味のない命令をしなければならないのですか!!」
「それが国防のためになるって言えば従うか!? 王太子妃さんよぉ!!」
「国防のためというなら、家を通じて陛下に上申なさい!! わたくしにはそんな権限はありません!!」

 朝の廊下で突如勃発した騒ぎに、人垣が出来ていた。
 他の生徒からの注目を浴びているというのに、アレクサンダーは止まる気配がない。先日の敗北が、それほどまでに大きく響いていると言うことだろうか……
 歯がみしながら考えたとき、アレクサンダーの表情が変わった。
 とっておきと言わんばかりの、邪悪な笑顔に。
 顔を寄せて、囁いてくる。

「言うとおりにしねぇなら、今すぐファルメールの件をバラす」
「……!?」

 その言葉に、アンジェリーナは凍り付いた。
 ファルメールの件。それが何を示すのか、考えるまでもない。
 こんな人垣の中心で暴露されれば……どうなるかなど、火を見るより明らかだ。自分たちを取り囲む群衆の視線が、粘つく瘴気となってアンジェリーナを苛んだ。

「さぁ、どうする? お前の一存であいつの将来閉ざしてみるか?」

 勝ち誇った顔でそう言うアレクサンダーの姿に、絶望が去来する。言うとおり、というのは自分の望む結果に、と言う意味のはず。即ち、アンジェリーナが命令したとしてもゼノンが応じなければ同じだ。そして、世界守護の要たる装星機を、誰かに譲り渡すことなど出来るはずがない……
 打つ手はない……力なく頷こうとした……その時だった。

――周りを見ないからこうなるんだ、ひよっこども

 脳裏に、ゼノンの言葉が蘇る。

(周りを……)

 その言葉が、アンジェリーナを冷静にさせていた。同時に、脳裏に温かく響いたゼノンの声が、目の前の恐怖と困難に立ち向かう勇気と力をくれた。
 普段の聡明さを取り戻したアンジェリーナの頭脳が、アレクサンダーの不遜にある一抹の違和感を捕らえて、たぐり寄せ……一つの推測へと導いていた。

(この程度のことで、こんな重要なカードを切る……つまり)
「お断りします」

 その推測が、アンジェリーナにそう答えさせていた。

「な、なんだと!?」

 アレクサンダーが、明らかにうろたえる。
 予想外だとでも言いたげに……

「テメェ、あいつの醜聞をバラすって言ってるんだぞ!? 止めようとは……」
「お好きになさればよいでしょう。あなた程度が知っていると言うことは、少なくとも高位貴族にはとっくに知れていると言うことです。人の口に戸は立てられぬ……特に貴族の口はとても大きいものですからね」

 フッと笑ってやる。

「だからって……バラされてもいいってのかよ!?」

 完全に狼狽しているアレクサンダー。推測は当たっていた。
 醜聞だなんだと言っているが、具体性は欠片もない。間違いない。アレクサンダーはカティアの件の詳細を知らない……何かが起こったという、その事実しか知らないのだ。
 それが、陵辱か否かを含めて。そして、彼のカードはこの一枚っきりだ。切ってしまって……それが通じなければそれまでだ。

「ですからお好きになさればよろしいでしょう? ここで暴露するというならご自由に。止められなかったわたくしも批難されるでしょうが、身から出た錆。甘んじて指弾を受け入れましょう」

 不敵な笑みを浮かべて饒舌に語ってやれば、

「黒い機体、と言うのが何を示しているのか、わたくしにははかりかねますが、我がリーズバルトに存亡に関わる存在である、と言うことは想像がつきます。同時に」

 意味ありげに、言葉を切って、笑顔を浮かべる。

「あなたにはとっても魅力的な、素敵なオモチャだって言うことも」

 相手を見下した、嘲笑を。

「欲しいものが手に入らないからだだをこねる……そんな無様は幼年部で卒業なさいな。すでにマギアフレームを任され国防の一翼を担う者として情けなく思いませんか?」
「……て、てめぇ……」

 謹慎のことは知らぬフリをして、せせら笑うように言ってやる。案の定、顔を真っ赤にしてわなわなと震えだした。
 もう一押しだ。

「祖国に嫁ぐ女の覚悟、見誤ったか!? アレクサンダー・リーランド!!」

 腹の底から叫ぶ。それに気圧されたかのように、アレクサンダーが一歩下がった。

「自らの尻も拭けない青二才風情が、王国史に足跡を残そうと企てたか!! その為に道理を曲げることも辞せざるか!? 秩序を尊ぶという、国に仕える者として当然のことすらできぬのであれば、今すぐその剣を捨てよ!!」

 アレクサンダーが拳を握りしめた。すぐに到来するであろう衝撃に備えて、防御魔術を密かに執行する。
 同時に、見下しきった嘲笑を浮かべた。

「分も弁えぬ愚か者は、泥に這いつくばったまま野垂れ死ぬのがお似合いよ」

 ブチッと、何か切れる音が聞こえた気がした。その刹那、
 アンジェリーナの左頬に、衝撃が走った。ごづっ、と言う鈍い音が同時に脳に響いて、そのまま吹っ飛ばされて転倒する。
 アレクサンダーに殴り飛ばされていた。

「下手に出てればつけあがりやがって!!」

 倒れた脇腹に、追い打ちの衝撃が走る。息が詰まる。

「四の五の言わず、あの野郎に!! マクシミリアンに!!」

 べきん。
 何かが砕け折れる音が、廊下に響き渡った。
 釣られて見上げると、ねじり上げられたアレクサンダーの左腕、その肘に別の誰かの肘が叩き込まれて、曲がってはいけない方向に曲がっていた。
 ごぎぃ。
 続く異音は、下の方……アレクサンダーの左脚から。その脛に横合いから足刀が打ち込まれて、あらぬ方向にへし曲がっていた。当然、立てなくなって膝を付いていた。

「へ?」

 間抜けな声を上げるアレクサンダー。それに向かって、彼の左手足を損壊させた赤毛の男……ゼノンの極限まで冷え切った声が、短く問いかけた。

「呼んだか?」


 左脚を破壊されて両膝をついたアレクサンダー、その左の鎖骨に、ゼノンは下段突きを容赦なく打ち込んだ。
 伸ばした右腕、その拳が相手の鎖骨を粉砕する感触が生々しく伝わる。

「……ッ!?」

 悲鳴を上げる暇など与えない……口が開きかけた顔、その髪をひっつかんで顔を上げさせ、その鼻面を左の肘で叩き潰した。
 ぎゅっと、まるで踏み潰されたカエルのような声を上げて、アレクサンダーが吹っ飛んだ。廊下と教室を隔てる壁に叩きつけられて、そのままズルリと倒れ伏す。

(離せって言ってんだろ!? このクソ野郎!!)

 脳裏に、在りし日の少女の悲鳴が響き続ける。
 それに返される、嘲笑も。
 ゆらりと倒れたアレクサンダーに歩み寄る。

「あ、あ……や、やめ……」

 懇願するように、右手を伸ばしてくる。それをおもむろに掴んだ。
 そのまま、両手を添えて無造作に……その手首をへし折った。

「ぎゃあああああああ!!」

 アレクサンダーの絶叫が廊下に響き渡る。
 お前がなぜ悲鳴を上げる? 懇願も哀願も黙殺したお前が。お前が仲間達にしたことをその身にそのまま返してやる。
 掴んだままの右腕を引っ張って伸ばし、学院指定の革靴の底で、ゆっくりとアレクサンダーの首を踏みつけた。
 恐怖に染まった瞳が、ゼノンを見上げ、それを見据えながら、脚を振り上げた。
 思い知れ。お前が踏みにじってきた者の痛みを。
 心を灼く怒りにまかせて、脚を打ち下ろそうとした、その時だった。

「だめです!! ゼノン様!!」

 アンジェリーナの悲鳴が、鋭くゼノンの耳朶を打った。
 我に返る。声のした方向に振り向くと、起き上がって頬と脇腹を押さえるアンジェリーナと目が合った。

「それ以上は……だめです……正気に、返ってください……」

 そのアンジェリーナの言葉に、ようやく周りの様子を見渡した。
 遠巻きにしている人垣は、今や完全に静まりかえっていた。
 多くの生徒が初めて目の当たりにする、剥き出しの暴力に。
 大半の生徒は男女問わずに青ざめて硬直し、更にひどい生徒は、ある者はその場で腰を抜かしてへたり込み、またある者は涙を流して目をそらしていた。女生徒の何人かは、ショックでそのまま気を失っている。

(気持ちはわかるけど……やり過ぎよ、あんた)

 自分を窘める、かつての聖女の声が、脳裏に響いた。
 それでようやく、本当に我に返る。

「アンジェ……!!」

 呼びかけて駆け寄り、その傷を診た。
 殴られた左頬は赤くなって腫れ始めていて、口の中を切ったのか唇の端から一筋の血を垂らしていた。右手で押さえたままの脇腹は、ここでは診れない……

「あ、あの、ゼノン様!?」

 有無を言わさず、彼女を抱き上げる。柔らかく温かい感触がするが、今はそれどころではない。

「医務室へ行くぞ」
「あ、あの……」
「どうした?」

 歩き出したゼノンに、アンジェリーナは弱々しく声をかける。

「その……人目が……」

 いつの間にやら立ち直ったらしい何人かが、好奇の視線を送っていた。
 それに歯がみしたゼノンは、聞こえよがしに叫ぶ。

「こんなことまで噂の種にする下衆など放っておけ!!」

 その叫びに、注目していた何人かが気まずそうに目をそらした。
 そのまま憮然とした顔の廊下を医務室に向けて進む。道を空けるかのように、人垣が割れていった。
 その光景を、鋭い一対の視線が見送っているのに、最後まで気付かなかった。


「大したことないわね。防御魔術が効いてくれたみたい」

 医務室について、校医にアンジェリーナを引き渡して、診療して十分ばかりの結論がそれだった。
 ゼノンは、心の底から安堵して……半眼で、ベッドに横たわるアンジェリーナを睨み付けた。

「あ、あのー……なんでしょう?」

 すっとぼけた問いに視線で返して、口を開く。

「二度とあんな無茶はするな」
「無茶? えーと、それは……」
「殴らせただろう?」

 有無を言わせぬ口調で詰問する。誤魔化しはきかないと悟ったアンジェリーナが、苦笑混じりに答える。

「はい……」
「なんでんなことした?」

 ゼノンの鋭い問いに、頬を書きながらアンジェリーナは答える。

「……あの方……リーランド侯爵令息……その、かなり暴走しているようでしたので……確実に、公から排除できるよう、方策しました」
「その為に殴らせたってか……」
「はい……それが一番早道でしたので」

 あっけらかんとした答えにあきれそうになり……それをアンジェリーナの「ですが」と言う声が遮った。
 見ると、ふるふると、小刻みに、震えていた。

「や、やっぱり怖かったみたいです……今になって、その、震えております……」

 気丈な笑顔に浮かぶ、涙。
 どういう地位にあろうと、アンジェリーナは年頃の御令嬢なのだ。
 暴力を受けて、怖がらないはずがない。

「次からは俺を呼べ」

 真っ直ぐにアンジェリーナを見つめながら言う。

「いざとなったら、地位を使ってでも排除する」

 そう言って、校医の方に向き直った。

「それじゃあ、後はよろしく」
「わかっていますよ。お任せあれ」

 その言葉に一礼して立ち去ろうとして……

「……あれが『先生』の息子か……」

 無意識に、愚痴っていた。
 怪訝顔のアンジェリーナと校医を残して、医務室を出る。
 教室には向かわずに、正面玄関へ。そのまま校舎にそってぐるりと裏地に足を向ける。
 学院の裏庭とでも呼ぶべきそこは、大した手入れもされていない殺風景な空間で、滅多に人はやってこない。校舎の壁に背中を預けて座り込む。
 目的のモノ――シガレットケースを懐から取り出して、その中身を咥えて、無言で火を点した。
 深く、静かに紫煙をくゆらせる。

「…………」

 虚空を見つめる紅い瞳には、何も映っていない。ただただ、視線を向けるだけ……文字通りの上の空。
 ゆっくりとライターとシガレットケースを懐にしまい……入れ替わりで取り出したのは、一枚の写真。

「…………」

 逞しい体躯を野戦服で包み、豪快な笑顔を見せる、アレクサンダーと同じ金髪碧眼の壮年の男。間に一人挟んだ隣に、簡素な司祭服に身を包み、優しげな微笑みを浮かべる黒髪の美女。
 そして……その間で、大人二人から文字通りに子ども扱いされて不貞腐れている、幼い頃の、自分。
 男は、アレクサンダーの父親……先代リーランド侯爵・クリストフ。美女は、先代聖女・イリス・アルフェノス。
 ゼノンの人生に多大な影響を与えた二人の人物……その二人と撮った、唯一の写真だった。
 乾いた無表情で写真を見つめ、物思いにふけろうとしたまさにその時だった。

「不良生徒、一名はっけーん」

 涼やかな少女の声が、ゼノンの耳朶を打った。
 見上げると、学院の制服に身を包んだ長身の女生徒が一人。在りし日そのままの薄紫の髪をサイドテールに結い上げて、研ぎ澄まされたナイフのような硬質な美貌、そこを縁取る眼鏡の奥の爛々とした瞳は、在りし日そのままだった。

「……リリィ」
「ひさしぶりだねゼノン。水くさいじゃないか、僕に何の挨拶もないだなんて」

 僕と自称する、少年っぽい口調もあの日のままだった。
 リリィナ・ハンター辺境伯爵令嬢。
 この王立魔導学院の当代生徒会長にして、ゼノンの戦友……ベルリエンデ公爵の横紙破りがあったあの夜、休息をともにした狙撃手だった。
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