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第十五話
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手を引かれて連れ出されるまま、アンジェリーナは校内をゼノンと連れ立っていく。
そうしているうちに気付く。手を引かれて歩いているのに、アンジェリーナの歩調に全く乱れがない。ゼノンの方が、アンジェリーナの歩調を感じ取って、それに合わせてエスコートしてくれているのだと気付く。
女性へのエスコートとしては、完璧な所作……平民の男性にできることではない。高等な教育を受けた、貴族の男性にしかできない所作だ。
初めて議論を交わした日のことを思い出す。あのとき書庫を訪れたレオナルドは、立ち上がろうとしないゼノンの所作を咎めなかったし、サロンで戦争のことを聞いたときのフローレンスも、ゼノンのことを気安く呼んで、気の置けない関係であることを感じさせた。
そんな王族との関係を踏まえると、アンジェリーナはある一つの推測に行き着いていた。
(……この方は、もしや……)
相手の素性に当たりを付けて、自分よりも頭一つ背の高いゼノンを見上げると、目の前の男をどうしようもなく意識してしまう。
無論、今自分の手を取っている、相手の手のことも。
バクバクと、心臓が高鳴っていた。原因は言わずもがな、自分の手を握るゼノンのぬくもりだ。
アンジェリーナの手を取ったゼノンの手は、大きくて、固くて、あたたかい。その感触に頬が熱くなる。貴族令嬢として生きてきたアンジェリーナは、初めて男性というものを文字通り肌で感じていた。
元軍人の考古学者……その肩書きに似合っているように思える力強い感触にドキドキしながら、口を開きかける。と、
「いい一発だったな」
いたずらっぽい口調のゼノンの声が、アンジェリーナの耳朶を打った。
「なかなかに見ものだったよ。君にあんな一面があったとはね、新鮮だった」
「あ、ありがとうございます……ではなくて!!」
「俺のために怒ってくれたことは嬉しい」
改まった口調のゼノンの言葉に、アンジェリーナは思わず口を噤んだ。
「けれど、その気持ちだけで十分だよ」
「……ですが、あなたのことを侮辱されて、黙ってはいられません」
「だから、その気持ちだけでいいって言ってるんだ。その侮辱は俺へのもので、そいつをどうにかできるのは俺だけなんだよ」
そう言われて、アンジェリーナはハッとなった。
あの侮辱はゼノンへの……ゼノンが積み重ねてきた思い出へのものだ。そこに、自分は……
「申し訳ありませんでした……出過ぎた真似を……」
人の思い出に土足で踏み込んだ……理解してしまったその事実に、アンジェリーナの胸は羞恥でいっぱいになっていた。
「謝ってほしいわけじゃないんだ。ただ、わかってほしい。過去に決着を付けられるのは、俺自身だけなんだ」
「…………」
そう言われて、アンジェリーナは申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「アンジェ!!」
「大丈夫!?」
そんなとき、メルディアとマレーネが慌てた様子でこちらに来ていた。そして、今のふたりの姿を見て、驚いた様子で立ち止まる。
「メル、マリー!! 心配させてごめんなさい」
「メルディア嬢、マレーネ嬢、集まった連中はどうなった」
「リーランドのやつは退散したよ、ほうほうの体って感じだった」
「野次馬連中も散ったよー」
「そいつは重畳……君たちは授業に戻るんだ」
「「「え?」」」
この場にいるものが誰も予想していなかったことを、ゼノンはのたまった。
「私たちは、って……」
「ゼノンくんはともかく、アンジェはどうするの?」
二人のもっともな疑問に、ゼノンは困ったように肩をすくめた。それはアンジェリーナ自身も聞いておきたいところだった。
「少々騒ぎすぎたからな。ただでさえ注目を集めてる今、当事者が戻ったらどうなるか……」
「……む、確かに」
「ろくなことにならなさそう」
ゼノンの言葉に、納得する二人。それをよそに、アンジェリーナは疑問の声を上げる。
「いいのでしょうか? 授業をすっぽかすだなんて……」
「んー? もしかして、単位ヤバかったりするかい?」
「いえ、全く問題ありませんが……」
「じゃあ、いいだろう。本来なら、君もしばらく休むべきだよ」
「ですが……」
「アンジェ、マクシミリアンの言う通りだ」
「メルに同じー。近頃のアンジェ、眉間に皺よりぱっなしだもん。たまにはゆっくりしなー」
おずおずと上げた疑問符は、気になる男性と二人の親友による連合軍によって即時制圧された。ゼノンの穏やかな笑みと、メルディアとマレーネの鬼気迫る様子にアンジェリーナは頷くしかなかった。
「てなわけで、たった今火急の用件ができたから登城する。担任に伝えといてくれ」
「登城って……」
「大丈夫なの?」
「問題ない。要件に関しちゃアル……陛下に口裏を合わせて貰う。悪いようにはしないよ」
「「へ、陛下に?」」
何でもないように言うゼノンの姿に、メルディアとマレーネは二人して凍り付いた。
「ああ。陛下もアンジェリーナ嬢のことは強く気にかけているからな。事情を話せば協力してくれるだろうさ」
「いや、そこじゃない……そこもだが!!」
「陛下にホイホイ頼み事って……ゼノンくん、マジ何者?」
慄く二人の疑問に、ゼノンは爽やかな笑顔で答える。
「しがない平民だよ」
今のアンジェリーナには、真っ赤な嘘にしか聞こえなかった。
「「…………」」
メルディアとマレーネは、連れ立って去っていく二人を見送った。その顔には、何か納得していないような、モヤモヤとした感情が浮かんでいた。
「……マリー」
「なあに? メル」
「アンジェのやつ……マクシミリアンのエスコートを拒んでいなかったな」
「だねー。側から見たら、完全ラブラブカップルでしたなぁ」
困惑混じりのメルディアの言葉に、マレーネも困惑混じりに答えた。
「王太子様が失脚して、婚約オジャン確定で……まあ、逞しいというか何というか」
「したたかなのはいいことだが、さすがに何か、なぁ……」
微妙な表情でそんな風に顔を見合わせてため息をつきあう二人だったが、気を取り直したようにマレーネが笑顔になる。
「でもさ、婚約中のアンジェと今のアンジェなら、あたしは今の方がいいなぁ」
「そこは同感だな。何というか、今のアンジェの方が生き生きしている」
「これってもしかしなくても……」
「マクシミリアンのおかげ、だろうな」
少し複雑そうな笑顔で、メルディアは頷いた。
二人には、あの転入生ならアンジェの将来に良い影響を与えてくれるという確信があって、それの証拠のように生き生きとした表情を見せる親友の姿に、ゼノンへの感謝の念が湧き上がるのだった。
されるがままのエスコートから、ゼノンが待たせていた車に乗り込んでの行き着く先は事前の宣言通り、王宮だった。いつもの書庫に連れ込まれるかと思いきや、サロンの一つにアンジェリーナを連れ込むと、やはり教育が行き届いた自然な仕草で椅子を引いてアンジェリーナを座らせると、自分も対面に座ってからコーヒーと軽食を侍女に所望した。ゼノンのことは、王宮職員にも要人として認識されているのか、すぐに用意してくれた。
二人分のカフェセットにコーヒーポッド、色とりどりのドルチェやフルーツ、サンドイッチが盛り付けられたタワーディッシュが用意される。頼んだものがそろったことを確認すると、ゼノンは金貨を一枚、侍女に握らせて、
「すまないが、しばらく人払いを頼めるかな? 彼女を落ち着かせたいんだ」
「かしこまりました」
ゼノンの頼みにいい笑顔で答えた侍女は、ごゆっくりと言い残してサロンを後にした。
さすがに予想外の展開だったので、アンジェリーナは困惑してしまった。
「あ、あの、今のは……」
「賄賂じゃなくてチップだよ」
アンジェリーナの疑念にしれっと答えて、カップを傾ける。
それを見てアンジェリーナは力が抜ける。彼女が言いたいのは、渡したお金が賄賂になるかとか、そう言うことではない。侍女に金を握らせてまでの人払いなどしたら……
「これでここは俺と君の逢瀬の現場だ。あの侍女がしっかり噂を広めてくれるだろうよ」
まさしく懸念していたことを言われて、アンジェリーナは愕然とした。
「わたくしが言いたいのもそこです。そんな噂が広まったら……」
「アンジェリーナ・ベルリエンデ公爵令嬢は国王陛下のご戦友と最近懇意にしているらしい、彼女に下手に手を出せば巡り巡って国王陛下の機嫌を損ねることになるかも知れない」
歌うようにそう返されて、アンジェリーナはハッとなった。
そう、ゼノンは国王や第一王女の戦友だ。王宮に自由に出入りしているところからも、王室の食客として招かれているのは間違いないだろう。
そんな人間と懇意にしている者に下手に手を出せば、最悪、王室を敵に回すことになる……これから貴族の間で形成されるであろう認識に……その状況を作り出すゼノンの手腕に驚くしかなかった。
「そこまで考えて……」
「一応なー、あの破落戸みたいな手合いが増える前に、釘を刺しておきたくてね」
悪戯っぽいウィンクを返して、アンジェリーナの取り皿にタワーディッシュの料理を一揃い盛り付けて差し出した。それを見た瞬間、くぅとお腹が鳴って、顔が真っ赤になってしまう。
「飯食いそびれたろ? 食べなよ」
「……いただきます」
真っ赤になった顔のまま、取り皿を受け取った。自覚すると耐えられなくなるのが空腹というものだ。盛り付けられた軽食の中から一番食べ応えがありそうな、生ハムのバケットサンドを迷わず選んで、でも身に染みついた貴族令嬢としての教育から控えめにかぶりついた。
パリパリとした皮の中のもっちりとした食感が楽しめるバケットに挟まれた塩辛い生ハムは、アンジェリーナの空きっ腹にはこの上ないごちそうだった。
「……おいしいです」
「それは良かった」
顔をほころばせるアンジェリーナの姿に、ゼノンも満足そうに微笑んで、サブレをつまんで、コーヒーを嗜んだ。椅子にきちっと座り、膝にソーサーを持った左手、反対の右手のカップを口に持って行き、音もなくコーヒーを飲む……やはり、本人が名乗る通りの平民には見えなかった。
(いつかは、教えてくださるのかしら……)
半ば確信を抱いているゼノンの素性を思う。が、空腹感に邪魔されてそこで思考停止してしまった。
遺憾ではあるが、まずは燃料補給だ。気を取り直して目の前の軽食に取りかかった。
それからしばらくは、主にアンジェリーナの方が食事に集中した。ゼノンの言う通り昼食を食べ損ねた胃袋が半ば悲鳴を上げていたので、そちらを収めることに注力した。
ゼノンが盛り付けてくれた食事をあらかた平らげて、コーヒーカップを傾けた。
「さっきのことだけどな」
そうしていると、ゼノンが口を開いた。
「本当に、俺の名誉がどうとか、そんなことは考えなくていいよ。そう言うのは、自分でなんとかするさ」
「そのお気持ちはわかりました。ですが……」
「ですが?」
「やっぱり……目の当たりにすると黙ってはいられないと思います」
そこまで答えて、アンジェリーナはゼノンを改めて見据える。
「以前申し上げました通り、わたくしはあなたの気持ちがわかるとは言えません。そこで味わった屈辱や苦労も……それを踏みにじるようなことをされて、黙っていることはできないと思います」
「…………」
アンジェリーナの言葉に、ゼノンはしばらく考え込むそぶりを見せると、コーヒーを飲み干してから、口を開いた。
「アンジェリーナ嬢、次の休日、少し付き合えないか?」
「えっ?」
「今まで世話になった礼も兼ねて、ちょっとしたプレゼントをしたい。そこで知ってほしいんだ……」
そう言って、ズイッと身を乗り出した。
「軍での仕事が、悪いことばかりじゃなかったってことをね」
いい笑顔で言われたその言葉に、アンジェリーナの思考は完全に停止した。
(え? 休日? 付き合えないか? それって、もしかしなくても……)
「で、デート?」
思わずつぶやいた言葉に、サロンの空気が凍り付いた。
「あ、あの……その……お気持ちはうれしいです……ですが……わたくし表向きはまだ、アーノルド殿下の婚約者でございまして……」
「あ、い、いや!! そういうつもりじゃないんだ!! ただ単に、俺が経験したことの中での、今でも良かったと思えてることを体験して貰いたいんだ!!」
真っ赤になったアンジェリーナのか細い言葉に、ゼノンは慌てに慌ててそう答えた。
「誤解を受けないように、君は侍女を連れて……そうだな、現地集合にしよう!! それなら、連れ立っていくよりマシだろう!!」
「……お気遣いありがとうございます……ですが」
「ですが?」
覚悟を決めた顔で、アンジェリーナは口を開く。
「女性を誘うのなら……きちんと迎えに行くのがマナーですわよ?」
「あ、まぁ、そうだが……」
「その方が、あなたが広めようとしている噂も強く広まるのでは?」
「君はそれでいいのか?」
「今更それを言いますか?」
ゼノンの疑問に鋭く返して、居住まいを正した。
「それに、あなたの先ほどの言葉……軍でのいい経験というものに強く惹かれていますの。わたくしの期待を、裏切らないでくださいましね?」
「けれど、公爵閣下が……」
「お父様のことならお気になさらず。わたくしが釘を刺しておきます。どのようにお迎えしてくださるのか、楽しみにしておりますわ」
「……こりゃ一本取られたな」
諦めたように苦笑して、ゼノンも座り直した。
「それなら次の休日の……午前七時に迎えに行く。家で待っていてくれ」
「わかりました……楽しみにしております」
ゼノンの言葉にそう答えて、二人微笑み合った。
窓から差し込む春先の陽気が、二人を柔らかく照らし出していた。
そうしているうちに気付く。手を引かれて歩いているのに、アンジェリーナの歩調に全く乱れがない。ゼノンの方が、アンジェリーナの歩調を感じ取って、それに合わせてエスコートしてくれているのだと気付く。
女性へのエスコートとしては、完璧な所作……平民の男性にできることではない。高等な教育を受けた、貴族の男性にしかできない所作だ。
初めて議論を交わした日のことを思い出す。あのとき書庫を訪れたレオナルドは、立ち上がろうとしないゼノンの所作を咎めなかったし、サロンで戦争のことを聞いたときのフローレンスも、ゼノンのことを気安く呼んで、気の置けない関係であることを感じさせた。
そんな王族との関係を踏まえると、アンジェリーナはある一つの推測に行き着いていた。
(……この方は、もしや……)
相手の素性に当たりを付けて、自分よりも頭一つ背の高いゼノンを見上げると、目の前の男をどうしようもなく意識してしまう。
無論、今自分の手を取っている、相手の手のことも。
バクバクと、心臓が高鳴っていた。原因は言わずもがな、自分の手を握るゼノンのぬくもりだ。
アンジェリーナの手を取ったゼノンの手は、大きくて、固くて、あたたかい。その感触に頬が熱くなる。貴族令嬢として生きてきたアンジェリーナは、初めて男性というものを文字通り肌で感じていた。
元軍人の考古学者……その肩書きに似合っているように思える力強い感触にドキドキしながら、口を開きかける。と、
「いい一発だったな」
いたずらっぽい口調のゼノンの声が、アンジェリーナの耳朶を打った。
「なかなかに見ものだったよ。君にあんな一面があったとはね、新鮮だった」
「あ、ありがとうございます……ではなくて!!」
「俺のために怒ってくれたことは嬉しい」
改まった口調のゼノンの言葉に、アンジェリーナは思わず口を噤んだ。
「けれど、その気持ちだけで十分だよ」
「……ですが、あなたのことを侮辱されて、黙ってはいられません」
「だから、その気持ちだけでいいって言ってるんだ。その侮辱は俺へのもので、そいつをどうにかできるのは俺だけなんだよ」
そう言われて、アンジェリーナはハッとなった。
あの侮辱はゼノンへの……ゼノンが積み重ねてきた思い出へのものだ。そこに、自分は……
「申し訳ありませんでした……出過ぎた真似を……」
人の思い出に土足で踏み込んだ……理解してしまったその事実に、アンジェリーナの胸は羞恥でいっぱいになっていた。
「謝ってほしいわけじゃないんだ。ただ、わかってほしい。過去に決着を付けられるのは、俺自身だけなんだ」
「…………」
そう言われて、アンジェリーナは申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「アンジェ!!」
「大丈夫!?」
そんなとき、メルディアとマレーネが慌てた様子でこちらに来ていた。そして、今のふたりの姿を見て、驚いた様子で立ち止まる。
「メル、マリー!! 心配させてごめんなさい」
「メルディア嬢、マレーネ嬢、集まった連中はどうなった」
「リーランドのやつは退散したよ、ほうほうの体って感じだった」
「野次馬連中も散ったよー」
「そいつは重畳……君たちは授業に戻るんだ」
「「「え?」」」
この場にいるものが誰も予想していなかったことを、ゼノンはのたまった。
「私たちは、って……」
「ゼノンくんはともかく、アンジェはどうするの?」
二人のもっともな疑問に、ゼノンは困ったように肩をすくめた。それはアンジェリーナ自身も聞いておきたいところだった。
「少々騒ぎすぎたからな。ただでさえ注目を集めてる今、当事者が戻ったらどうなるか……」
「……む、確かに」
「ろくなことにならなさそう」
ゼノンの言葉に、納得する二人。それをよそに、アンジェリーナは疑問の声を上げる。
「いいのでしょうか? 授業をすっぽかすだなんて……」
「んー? もしかして、単位ヤバかったりするかい?」
「いえ、全く問題ありませんが……」
「じゃあ、いいだろう。本来なら、君もしばらく休むべきだよ」
「ですが……」
「アンジェ、マクシミリアンの言う通りだ」
「メルに同じー。近頃のアンジェ、眉間に皺よりぱっなしだもん。たまにはゆっくりしなー」
おずおずと上げた疑問符は、気になる男性と二人の親友による連合軍によって即時制圧された。ゼノンの穏やかな笑みと、メルディアとマレーネの鬼気迫る様子にアンジェリーナは頷くしかなかった。
「てなわけで、たった今火急の用件ができたから登城する。担任に伝えといてくれ」
「登城って……」
「大丈夫なの?」
「問題ない。要件に関しちゃアル……陛下に口裏を合わせて貰う。悪いようにはしないよ」
「「へ、陛下に?」」
何でもないように言うゼノンの姿に、メルディアとマレーネは二人して凍り付いた。
「ああ。陛下もアンジェリーナ嬢のことは強く気にかけているからな。事情を話せば協力してくれるだろうさ」
「いや、そこじゃない……そこもだが!!」
「陛下にホイホイ頼み事って……ゼノンくん、マジ何者?」
慄く二人の疑問に、ゼノンは爽やかな笑顔で答える。
「しがない平民だよ」
今のアンジェリーナには、真っ赤な嘘にしか聞こえなかった。
「「…………」」
メルディアとマレーネは、連れ立って去っていく二人を見送った。その顔には、何か納得していないような、モヤモヤとした感情が浮かんでいた。
「……マリー」
「なあに? メル」
「アンジェのやつ……マクシミリアンのエスコートを拒んでいなかったな」
「だねー。側から見たら、完全ラブラブカップルでしたなぁ」
困惑混じりのメルディアの言葉に、マレーネも困惑混じりに答えた。
「王太子様が失脚して、婚約オジャン確定で……まあ、逞しいというか何というか」
「したたかなのはいいことだが、さすがに何か、なぁ……」
微妙な表情でそんな風に顔を見合わせてため息をつきあう二人だったが、気を取り直したようにマレーネが笑顔になる。
「でもさ、婚約中のアンジェと今のアンジェなら、あたしは今の方がいいなぁ」
「そこは同感だな。何というか、今のアンジェの方が生き生きしている」
「これってもしかしなくても……」
「マクシミリアンのおかげ、だろうな」
少し複雑そうな笑顔で、メルディアは頷いた。
二人には、あの転入生ならアンジェの将来に良い影響を与えてくれるという確信があって、それの証拠のように生き生きとした表情を見せる親友の姿に、ゼノンへの感謝の念が湧き上がるのだった。
されるがままのエスコートから、ゼノンが待たせていた車に乗り込んでの行き着く先は事前の宣言通り、王宮だった。いつもの書庫に連れ込まれるかと思いきや、サロンの一つにアンジェリーナを連れ込むと、やはり教育が行き届いた自然な仕草で椅子を引いてアンジェリーナを座らせると、自分も対面に座ってからコーヒーと軽食を侍女に所望した。ゼノンのことは、王宮職員にも要人として認識されているのか、すぐに用意してくれた。
二人分のカフェセットにコーヒーポッド、色とりどりのドルチェやフルーツ、サンドイッチが盛り付けられたタワーディッシュが用意される。頼んだものがそろったことを確認すると、ゼノンは金貨を一枚、侍女に握らせて、
「すまないが、しばらく人払いを頼めるかな? 彼女を落ち着かせたいんだ」
「かしこまりました」
ゼノンの頼みにいい笑顔で答えた侍女は、ごゆっくりと言い残してサロンを後にした。
さすがに予想外の展開だったので、アンジェリーナは困惑してしまった。
「あ、あの、今のは……」
「賄賂じゃなくてチップだよ」
アンジェリーナの疑念にしれっと答えて、カップを傾ける。
それを見てアンジェリーナは力が抜ける。彼女が言いたいのは、渡したお金が賄賂になるかとか、そう言うことではない。侍女に金を握らせてまでの人払いなどしたら……
「これでここは俺と君の逢瀬の現場だ。あの侍女がしっかり噂を広めてくれるだろうよ」
まさしく懸念していたことを言われて、アンジェリーナは愕然とした。
「わたくしが言いたいのもそこです。そんな噂が広まったら……」
「アンジェリーナ・ベルリエンデ公爵令嬢は国王陛下のご戦友と最近懇意にしているらしい、彼女に下手に手を出せば巡り巡って国王陛下の機嫌を損ねることになるかも知れない」
歌うようにそう返されて、アンジェリーナはハッとなった。
そう、ゼノンは国王や第一王女の戦友だ。王宮に自由に出入りしているところからも、王室の食客として招かれているのは間違いないだろう。
そんな人間と懇意にしている者に下手に手を出せば、最悪、王室を敵に回すことになる……これから貴族の間で形成されるであろう認識に……その状況を作り出すゼノンの手腕に驚くしかなかった。
「そこまで考えて……」
「一応なー、あの破落戸みたいな手合いが増える前に、釘を刺しておきたくてね」
悪戯っぽいウィンクを返して、アンジェリーナの取り皿にタワーディッシュの料理を一揃い盛り付けて差し出した。それを見た瞬間、くぅとお腹が鳴って、顔が真っ赤になってしまう。
「飯食いそびれたろ? 食べなよ」
「……いただきます」
真っ赤になった顔のまま、取り皿を受け取った。自覚すると耐えられなくなるのが空腹というものだ。盛り付けられた軽食の中から一番食べ応えがありそうな、生ハムのバケットサンドを迷わず選んで、でも身に染みついた貴族令嬢としての教育から控えめにかぶりついた。
パリパリとした皮の中のもっちりとした食感が楽しめるバケットに挟まれた塩辛い生ハムは、アンジェリーナの空きっ腹にはこの上ないごちそうだった。
「……おいしいです」
「それは良かった」
顔をほころばせるアンジェリーナの姿に、ゼノンも満足そうに微笑んで、サブレをつまんで、コーヒーを嗜んだ。椅子にきちっと座り、膝にソーサーを持った左手、反対の右手のカップを口に持って行き、音もなくコーヒーを飲む……やはり、本人が名乗る通りの平民には見えなかった。
(いつかは、教えてくださるのかしら……)
半ば確信を抱いているゼノンの素性を思う。が、空腹感に邪魔されてそこで思考停止してしまった。
遺憾ではあるが、まずは燃料補給だ。気を取り直して目の前の軽食に取りかかった。
それからしばらくは、主にアンジェリーナの方が食事に集中した。ゼノンの言う通り昼食を食べ損ねた胃袋が半ば悲鳴を上げていたので、そちらを収めることに注力した。
ゼノンが盛り付けてくれた食事をあらかた平らげて、コーヒーカップを傾けた。
「さっきのことだけどな」
そうしていると、ゼノンが口を開いた。
「本当に、俺の名誉がどうとか、そんなことは考えなくていいよ。そう言うのは、自分でなんとかするさ」
「そのお気持ちはわかりました。ですが……」
「ですが?」
「やっぱり……目の当たりにすると黙ってはいられないと思います」
そこまで答えて、アンジェリーナはゼノンを改めて見据える。
「以前申し上げました通り、わたくしはあなたの気持ちがわかるとは言えません。そこで味わった屈辱や苦労も……それを踏みにじるようなことをされて、黙っていることはできないと思います」
「…………」
アンジェリーナの言葉に、ゼノンはしばらく考え込むそぶりを見せると、コーヒーを飲み干してから、口を開いた。
「アンジェリーナ嬢、次の休日、少し付き合えないか?」
「えっ?」
「今まで世話になった礼も兼ねて、ちょっとしたプレゼントをしたい。そこで知ってほしいんだ……」
そう言って、ズイッと身を乗り出した。
「軍での仕事が、悪いことばかりじゃなかったってことをね」
いい笑顔で言われたその言葉に、アンジェリーナの思考は完全に停止した。
(え? 休日? 付き合えないか? それって、もしかしなくても……)
「で、デート?」
思わずつぶやいた言葉に、サロンの空気が凍り付いた。
「あ、あの……その……お気持ちはうれしいです……ですが……わたくし表向きはまだ、アーノルド殿下の婚約者でございまして……」
「あ、い、いや!! そういうつもりじゃないんだ!! ただ単に、俺が経験したことの中での、今でも良かったと思えてることを体験して貰いたいんだ!!」
真っ赤になったアンジェリーナのか細い言葉に、ゼノンは慌てに慌ててそう答えた。
「誤解を受けないように、君は侍女を連れて……そうだな、現地集合にしよう!! それなら、連れ立っていくよりマシだろう!!」
「……お気遣いありがとうございます……ですが」
「ですが?」
覚悟を決めた顔で、アンジェリーナは口を開く。
「女性を誘うのなら……きちんと迎えに行くのがマナーですわよ?」
「あ、まぁ、そうだが……」
「その方が、あなたが広めようとしている噂も強く広まるのでは?」
「君はそれでいいのか?」
「今更それを言いますか?」
ゼノンの疑問に鋭く返して、居住まいを正した。
「それに、あなたの先ほどの言葉……軍でのいい経験というものに強く惹かれていますの。わたくしの期待を、裏切らないでくださいましね?」
「けれど、公爵閣下が……」
「お父様のことならお気になさらず。わたくしが釘を刺しておきます。どのようにお迎えしてくださるのか、楽しみにしておりますわ」
「……こりゃ一本取られたな」
諦めたように苦笑して、ゼノンも座り直した。
「それなら次の休日の……午前七時に迎えに行く。家で待っていてくれ」
「わかりました……楽しみにしております」
ゼノンの言葉にそう答えて、二人微笑み合った。
窓から差し込む春先の陽気が、二人を柔らかく照らし出していた。
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