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第10話 (3)

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「どうした?」
 膝を抱えて草地に座り込んでいると、優しい声がかかった。声をかけてきた相手に無言で顔を向ける。言葉にできない心の内を汲み取ってくれたのか、彼は訊いてくれた。
「学校は、楽しくないか?」
 彼の短く刈られた白銀色の髪が太陽に照らされ美しい光を放ち、眩しい想いで彼を見上げた。
 眩しかった。彼の笑顔も、見つめてくる瞳も、精悍ながら優しげな相貌も、鍛え上げたしなやかで長身の肉体も、なにもかもが眩しく、そのすべてがいま自分に向けられていることに戸惑いも感じている。
 彼は隣に同じように座ると、綺麗な宝石を思わせるような青の瞳で覗き込んできた。
「みんな、いろいろ訊いてきて……」
「煩わしいか?」
 言葉の意味がわからず目で無意識に訊いていたようで、彼は言い直してくれた。
「みんながおまえになにか訊いてくるのは、嫌か?」
 コクリとうなずいた。
「みんなが話しかけてくれることを、どう思う?」
 さっきの質問と同じではないかと思ったが、それでも考えた。言葉は、難しい。ちょっとした違いでも、二つの質問の答えが違うことだってあるのだろうと、考え続ける。
 まだ答えないでいると、彼は言ってきた。
「いま俺は、おまえにいろいろと訊いているが、それも嫌か?」
 考えて、答えた。
「嫌じゃ、ない」
「俺は、おまえのことを知りたいと思ってる。おまえがどんなことに喜び、どんなことに怒り、どんなことに悲しみ、どんなことに楽しいと思うのか。おまえは、俺にそんなふうに思うか?」
 今度の質問も、よく考えた。考えたが。
「……わからない」
 そう答えたにもかかわらず、彼は嬉しそうに笑った。
「人が、人になにかを訊く。それには必ず理由がある。おまえになにかを訊いてくる者は、おまえのことを知りたいと思ってるんだ。そのことはわかるか?」
 うなずいていた。彼の言葉は自分にも届くようにわかりやすくしてくれている。
「会話というものは、人と言葉をやり取りすることだ。返事や答えは、会話の中では大切なことだ。それがなければ会話にはならない。おまえになにかを訊いてくる者は、おまえの言葉を待って、聞いてくれているか?」
 首を振った。
 学校の同じ年頃の者たちの質問は、自分がすぐに答えないことをどう思っているのか、こちらが答える前に次の質問をし、それにも答えが返らないことを諦めて、質問をしてこなくなる。それでも次の日になると、やはりなにかと訊いてくる。その繰り返しに、なおのことどうすればいいのかわからなくなり、口をつぐんでしまうのだ。
「そうか。わかった。じゃあ、いま俺はおまえに質問をしていた。それにはおまえは言葉では返事をしなかった。でも、俺はおまえの言いたいことがわかった。どうしてかな?」
 彼の顔を見上げる。彼は笑っている。
「言葉は大事だが、態度や行動も大事だ。話を聞こうとする態度、話そうとする態度、どちらもあれば、相手も思っていることはわかるし、伝わる。そうじゃないか?」
 今度は声にする。
「うん」
「おまえはいままで、おまえになにかを訊いてきた者たちに、返事をしようと態度で出してみたことがあるか?」
 学校の者たちは、瞳を輝かせて質問や話をしてくる。いままでそんな経験はなかった。だからどんな態度に出ればいいのかわからず、相手の顔を見つめるばかりだった。
「……してなかった」
「今度からは、どうすれば会話ができると思う?」
「態度に、出せばいい?」
「そうだな。どうすればいいとおまえは思う?」
 難しい質問だと思った。はい、いいえ以外で態度に出す方法とは、いったいなんだろう。
「はい」なら縦にうなずけばいい。「いいえ」なら首を振る。でも、それ以外に、言葉ではなく態度で、どうやったら相手に伝わるんだろう。
「俺はいまどんな顔をしてる?」
「笑ってる」
「俺が笑ってるのは、嬉しいからだ。おまえと会話をするのが楽しいと思ってる」
 なんだか嬉しそう、というのはわかった。
「相手にわかるようなことを態度に出せば、それでいいんだ。嬉しくて、楽しければ笑えばいい。怒りを感じれば、眉を寄せて相手を強い目で見てもいい」
 そう言いながら彼は眉を寄せてこちらを見た。確かに怒っているように見える。
 彼はすぐに笑顔に戻った。
「悲しいときには、泣いてもいい。涙を流すことは恥ずかしいことじゃない。大人だって、悲しいときには泣いてる。それに、泣くことで、自分の気持ちを整理することもある」
 気持ちの整理とは、なんだろう?
「おまえは問いかけの態度が上手だ。それだけでも会話ができるな」
 彼は声をあげて笑った。
「気持ちの整理は、悲しい気持ちや、怒りの気持ちを、態度で表現して、あとからそのことをよく考えることだ。感情が動いたとき、誰もがすぐに考えられるわけじゃない。感情のままに、怒ったり、泣いたり、態度に出したあとに、気持ちが落ち着いて、少し冷静になる。そのとき、よく考えるんだ。自分がなにをしたいのか。なにをしないといけないのか。その感情になったことを、どう思っているのか。おまえは、いつも先に考えてる。それが悪いわけじゃないぞ。だけど、態度に出てないから、相手にはおまえの思いが伝わってない。それはわかるな?」
 彼が自分にわかるように選んで言葉にしてくれて、よくわかった。
 自分の思っていることは、態度に出ていないということ。それは間違ってはいないけど、でもやっぱり態度には出したほうが相手に伝わるということ。
「ただ、世の中にはいろんな人がいる。素直に思った通りの態度をする人もいれば、まったく違う態度をとる人もいるんだ。自分の思いを隠して、態度を出さない人もいる。おまえがそれを見たときに、人の態度を、そのままその人の思いだと受け取ってはいけない」
 それはおかしな話だ。態度に出すことで相手になにかを伝えるというのに、それが正しくはない場合があるとは。
「そうだよ。人っていうのは、おかしなものだ。誰もが素直であれば、わかりやすいのにな」
 彼はクスクスと笑った。
 でも瞳は真面目にこちらを見つめてくる。
「俺もそういう、いろんな態度もできる大人の一人だが、おまえに約束しよう。俺はおまえには必ず思った通りの態度をする。おまえがわかりやすいように。おまえも、俺にそうしてくれるか?」
 彼の真っ直ぐな眼は、彼の思いを信じられると、そう思わせてくれた。
 だから、きちんと、相手にわかるように、言葉と態度で、彼に答えた。
「わかった。これからぼくも、思った通りの態度をする」
 楽しげな目で彼はうなずいた。
「それから、もう一つ、おまえにお願いがあるんだが、聞いてくれるか?」
「ぼくにできることなら」
「簡単なことだよ。これから俺のことを、兄さんて、呼んでくれる?」
 透き通った綺麗な青の瞳が真っ直ぐに射し込まれた。
 そう言われて、いままで彼のことをどう呼んでいいのかわからず、こちらから話しかけていなかったことに気がついた。
 彼の笑顔を見るたびに胸の中で感じるあたたかなものは、いま、より強く感じている。自分の態度で彼が笑ってくれるのなら、それはなによりもよいことなのだと思った。
 だから彼に伝える。
 いま感じていることを態度に、表情に出して。
「わかったよ、兄さん」
 かなり歳の離れた、兄になってくれた人は、本当に嬉しそうに、楽しそうに笑った。

 夢だとわかっていた。
 目が覚めて、兄がもういないことを、わかっていた。
 自分に向けられていた瞳や言葉は、もう現実には存在しないことは、よくわかっていた。
 だから、態度で示した。
 自然にこぼれ落ちる涙で、泣くという態度で表した。
 悲しかった。
 兄が自分に笑いかけてくれることがもうないと思うと、他の感情はなにも出てこない。
「どうした?」
 自分に対して、兄と同じような思いを向けてくれている人が、声をかけてくれた。
 エルはデットと長椅子に並んで座っていたが、ミーサッハの出産を長く待っているうちに眠り込んでしまっていた。エルの頭はデットの胸に寄りかかっていて、デットはエルの体を片手で支えてくれていた。
 デットの心配そうな瞳を、エルはまだ涙のこぼれ落ちる瞳で見上げた。
「兄さんの、夢を、見た」
「そうか」
 デットはそのあとなにも言わず、エルの頭を優しい手つきで撫でた。
 エルはいま思っていることを、そのまま言葉にした。
「兄さんが、もういないって思うと、悲しいんだ。おれは、いままで悲しいと思ったことが、なかった気がする。でも、これが悲しいことだって、知りたくなんか、なかった」
 エルは止まらない涙を流れるだけ流そうと思った。
 おれはいま、悲しいから、泣いているよ。
 泣くことは恥ずかしいことじゃないと言ってくれた兄に、自分がこんなにも感情を表すことができるようになったと知らせたかった。感情というものがなにかもわからなかった子供に、根気強く話しかけてくれた兄のおかげで知ったこと、そして、兄の存在そのもののおかげでいまの自分がいるのだということを、もういない兄に伝えたかった。
 エルはシリューズに初めて逢ったときのことを思い出していた。
 思い返すと、彼はあのとき、エルが弟になると言ったのではない。彼自身が兄だと言った。その言葉は、同じ意味のようだが、まったく違う。
 シリューズは、自分の家族を増やしたのではなく、エルの家族になってくれたのだ。
 エリシュターナという一人の人間を尊重し、シリューズに従わせるのではなく、シリューズが従う形をとった。
 エルにさまざまなことを教えてくれたが、けっして押し付けたりはしなかった。常にエルの言葉を聞き、エル自身に考えさせ、エルに選ばせた。
 すべての中心にはエリシュターナという自分自身があることを、身をもって教えてくれたのだ。自分というものが、個人というものが、どれだけ大切なものであるのか、それに気づいたとき、他の人がそれ以上に大切なものであると思えるように接してくれていた。
 そのことに、エルはいま気づいた。
 新しい涙が、次々に頬を伝った。小さな嗚咽は抑えきれなかった。
 シリューズは、これ以上ない、他に誰一人として代わりのない、素晴らしい人だ。エルは、自分にだけ優してくれるから兄を慕ったのではない。フレンジアや自分のような、人として悲哀な境遇にある弱い者を助けようとする人だからこそ、心動かされるのだ。そして、シリューズはそんな人を必ず助ける。それが自分のやるべきことなのだと、あたり前のように、必ず成し遂げる人なのだ。
 シリューズと出逢ったことは、自分の人生の中で至上の幸福なのだとエルは思った。
 だからこそ、涙は止まらない。
 悲しみは深く、心を引き裂いた。
 シリューズが側にいないことではなく、もうこの世のどこにも存在しないということが悲しかった。

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