剣と鞘のつくりかた 《宿世の章》

橘都

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第10話 (2)

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 大事な話を終え、すっかり冷めた茶をようやくいただいてから、一行が庭園から政務府のほうへと戻ろうとしたとき。
「失礼いたします」
 侍従らしき男がレイグラントに近寄り、少々切迫した声で耳打ちした。
 エルはデットと共に、先を歩くレイグラントのあとをついていた。レイグラントの腕にはフレンジアが抱えられている。エルやデットの背後からは、ビルトランの部下や、従者が数人ついてきていた。
「ミーサッハ様が、産気づかれたようでございます」
 エルはその報告の言葉に即座に反応した。レイグラントが言葉を返すよりも早く走り出し、レイグラントたちを追い越してからふと動きをとめ、振り返ってレイグラントへ真摯な目を向けた。
「早く行きたいのですが、道がわかりません。どなたか案内をお願いします!」
 王城内の道は複雑だった。さすが大国アスリロザの名残、どんな人間が迷い込むかもしれぬと単純には作られていないのだ。
 エルは付き添いの侍従の誰かに案内してもらうつもりでレイグラントに申し出たのだが、レイグラントは自ら行動した。
「ついて来い」
 フレンジアを抱えたまま、レイグラントは軽やかに走り出した。
 エルはあとを追おうとしたが、突然デットに両手で掬い上げられた。デットはエルを荷を持つように抱えると、レイグラントのあとを走った。エルは目を見開いたが、確かにこのほうが早いと内心の葛藤は押し込んでなにも言わなかった。
「医師は呼んだか?」
 レイグラントは走りながら、報告に来た者へ言った。その者は、フレンジアを抱えた体勢でも無駄のない動きで最速で走るレイグラントについていくのが精一杯な様子だったが、うなずいてみせた。
 フレンジアは不安定な姿勢であるのを不安には思っていない様子で、男の逞しい首にしがみついたまま問うた。
「助産婦もいるのではないか?」
「必要だろうが、街に行かねばなるまい。お前の侍女で出産経験のある者はいるか?」
「いるはずだ。そうか、ミーサッハは妊娠していたのか……」
 一行は馬車が止められていたところまで戻り、共に乗り込んだ。
 馬車に揺られながらエルがずっと考えていたのは、ミーサッハと、生まれてこようとしている子の無事だけ。
 きっと、兄はどこかで見守ってくれている。エルはそう思いたかった。
 政務府まで戻ると、出迎えた者たちに案内され、陣痛に苦しんでいるミーサッハの部屋へと向かった。このような場所での出産など想定されておらず、準備など当然できてはいない状態だった。慌ただしく事は進められていた。フレンジアが侍女たちに指示を出し女手を募った。
 政務府内の者たちは表立っては平穏に日常の職務を行なっているようだったが、それぞれに真剣な眼差しでミーサッハの出産準備にあたっている者たちを見守っていた。この政務府内にシリューズとミーサッハを知らぬ者はいない。二人がどれだけの力を尽くし、この国のために動いてきたのか、誰もが知っていた。シリューズがもうこの世にいないことも。
 通常どれだけの時間が出産にかかるものだか、エルは知らない。ミーサッハのいる部屋に入ることができず、様子を見ることが叶わない。デットやレイグラントと共にエルは別室で待っていた。フレンジアはこの政務府内の女性内で筆頭の立場にあり、顔馴染みであるミーサッハの元へ駆けつけている。こんなときに男にできることなどなに一つない。
 エルがデットとレイグラントの闘いを見届けるため政務府を出ようとしていたときから出産の兆候は現れていたのだ。あれから数刻経っている。しかし、ミーサッハの苦しみはまだ続くことが予想された。

 フォルッツェリオはナカタカの北西に位置し、気候に恵まれた緑多い地だ。雨の恵みも多い。いま、天にある雲は厚く集まり始め、いまにも高みから雫がこぼれ落ちてきそうな気配がしていた。
 次第に暗くなっていく景色は、誰にとっても気持ちを沈ませる。夜は、人々の心一つで、闇の象徴であるか、光を迎え入れる先触れであると捉えられる。エルの心にまだ明るい知らせは届いてはいなかった。
 象嵌で縁取られた硝子の卓上に置かれた、すでに冷えてしまった茶の入った碗に描かれた美しい紋様を、長椅子に腰掛けたままエルがなにも考えずにただ眺めていたとき、同室にいたレイグラントに新しい知らせがもたらされた。
 賊の探索に向かっていたビルトラン一行が帰還し、生かしたまま賊を捕えられたことが報告されたときには安堵感があったが、次に知らされたことにエルは心乱された。
 一緒に探索を行なっていた若い女性術者が意識を失い、まだ回復の様子を見せない、というのだ。
「イ……いえ、ニースという人ですか?」
 イグニシアスが本名をまだ明かしていないことを思い出し、エルは問い直した。報告に来たビルトランの部下から予想通りの返事を聞き、エルはいま自分がどうするべきなのかを考えた。
 イグニシアスが心配だった。ミーサッハのことは当然心配だが、いまエルにできることはない。なにより、イグニシアスは自分のためにここまで一緒に来てくれたうえに、危険を承知で賊の探索にまで行ってくれたのだ。
 長く考えるまでもなく、エルは言っていた。
「ニースはいまどこにいます?」
 ビルトランの部下は、ビルトランの邸宅で休ませていることを告げた。
 この政務府からビルトランの邸宅まではさほど遠くはない。エルは隣に座っているデットを見上げた。
 デットはずっと黙ってエルの動向を見守ってくれている。その瞳は真っ直ぐに、エルに向けて笑顔をくれた。
「おまえがしたいようにすればいい。おまえの中でなにが大切なのか、よく考えたか?」
 エルにとっては、自分に好意を寄せてくれている人すべてが大切だった。
 兄シリューズのことがエルにとって最優先事項であることは揺るぎない。それに付随する形でミーサッハと兄の子の存在がある。しかし、兄の死から頑なに自分だけの世界に閉じこもっていたエルに想ってくれる友人ができ、彼らのことも大きく心の中に占める存在になっていた。
 兄や姉のことは大切だが、デットやイグニシアスの好意を裏切りたくはない。
 いまの自分にできることがなんであれ、彼らのために行動することをためらわない。
「ニースのところに行く。おれにはなにもできないかもしれないけど、なにか、したいんだ」
 エルの意思を聞いてデットはレイグラントにこの場を任せ、一緒にビルトランの邸宅へと向かった。
 エルはイグニシアスが寝かされている部屋に入ると、側についていたビルトランに問いかけた。
「どんな様子ですか?」
「怪我は負っていないが、極度の精神疲労と魔法力の消耗により、高熱を発している」
 エルは熱い息をこぼしているイグニシアスの枕元に近寄り、横の台に用意された桶にあった布を絞り、イグニシアスの額に浮かんでいる汗を拭った。
「申し訳ない。ニースどのをしっかりと守ることができなかった私の責任だ。戦闘に参加させる気はなかったのだが、相手の術者が相当の手練れで、ニースどのの力でなんとか捕らえることができた。魔法力の消耗には癒しの魔法が効かない。自然に熱が治まるを待つしかない」
 神妙な様子でビルトランが詫びてきた。エルはその謝罪に首を振った。
「ニースは、おれのためにここまで一緒に来てくれました。おれが兄の死から立ち直れずにいたことを、とても心配してくれたんです。今回も自主的に行動をしてくれました。ニースが自ら行動したことに、あなたはなんの責任も感じる必要はないと思います。責任を負うなら、ニースをここまで連れてきてしまったおれです」
「エル」
 デットの声かけに、イグニシアスの顔を見ながら話していたエルは振り返る。自然に笑みがこぼれていた。
「自分を責めてるわけじゃない。さっき語ってくれたフレンジア姫の気持ちが、よくわかった。不謹慎かもしれないけど、いますごく、嬉しいんだ。自分に向けられた好意によって、その人が傷ついてしまうようなことがあったら、悲しいし、自分を許せない気持ちにもなる。いまも、ニースがこんなに苦しそうなのを見たら、胸がとても苦しい。でも、嬉しいんだ」
 笑顔でいるのに、目には自然に込み上げてきた熱いものが盛り上がってきていた。
「こんないい人に、想われていると思うと、嬉しいんだ。誰かが、自分のためになにかをしてくれることが、こんなに嬉しいことだって、知らなかった。兄さんだけが、おれのすべてだった。兄さんがいなくなって、おれはどうすればいいのか、わからなかった。ただあたり前のように、姉さんと、生まれてくる子を守らなければいけないと思ってた。兄さんの命を奪った奴を許せない気持ちは、いまでも同じだ。でも、初めからそう感じていたかというと、違う気がするんだ。きっと、おれは、自分のことが許せなかった。なにもできず、目の前で兄さんが死んでいくのを、ただ見ていることしかできなかった自分を、許せなかったんだ。だから、相手を強く憎んだ。その気持ちはいまでも同じだけど。思うんだ。兄さんだけが、おれに優しくしてくれたわけじゃない。おれは、独りじゃない。みんなが、大切なんだ。みんながおれに優しくしてくれるのが、おれのことを想ってくれるのが、嬉しいんだ……」
 いままでのエルは、身振りや視線だけで気持ちを表すことが多かった。
 いまは、レイグラントの思いを感じ、フレンジアの気持ちを聞き、自分の心の内を、いままでよりも、もっともっと、探るようになった。
 その心を、いまはためらいなく曝け出していた。
「な~にしゃべってんだ? うるせぇぞ……」
 背後から聞こえた声に、エルは慌てて寝台へと目を向けた。
「なに、泣いてんだ、エル。誰が泣かせた」
 瞳を閉じたままだがイグニシアスが意識を取り戻していた。弱々しいながら、いつもの調子のイグニシアスにエルは安堵し、自分の目からあふれている涙を片腕でぐいとぬぐった。
「誰のせいでもないよ。体の調子はどう?」
 イグニシアスは疲れた表情ながらも、ニヤリと笑う。
「疲れてるだけだ。ちょっと休めば問題ないさ」
「あの、ここにはビルトランさんもいるんだけど……」
 女性の装いをしないでいつもの調子すぎるイグニシアスに、大丈夫なのかとそっとエルは言ってみたが、イグニシアスは軽く笑う。
「ああ、どうせ、バレてんじゃないかな」
 ビルトランがイグニシアスに近寄った。
「イグニシアスか?」
 無表情に問いかけるビルトランに、イグニシアスはさらに笑う。
「そ、俺です」
 ビルトランが疲れ果てたように肩を落とす様子をエルは見てしまった。
「おまえ……いや、もう、なにがなんだか、どうでもいいような気もしてきたが、とりあえず、訊いてもいいか?」
 ビルトランが眉間に深い皺を刻んで言ってくるのに対し、イグニシアスは面白そうと思っているような愉快な表情で返す。
「どうぞ?」
「その格好は、なんだ」
「ちょっとした悪戯だよ。エルの事情もあって、正体は隠しといたほうが都合がよかったし、それと、いつになったらあんたが気づくかと思ってさ」
 二人は顔馴染みで、だからこそのイグニシアスの女装だったのかとエルは納得していた。
「誰も気づかないと思うぞ……」
 苦笑しながらデットがビルトランの擁護をした。女装し、さらに演技もつけたイグニシアスを男と見破る者は皆無に違いない。
「やっぱり、あのときに気づいたの?」
 イグニシアスの問いにビルトランが苦く笑った。
「あの手信号は、おまえの父親と俺だけのものだからな。おまえには、子どもの頃に教えたんだったな。遊び半分だったが、よく覚えてたな。あれは、おまえの父親が戦闘で耳を悪くしたあと、二人で作ったものだ。気難しいおまえの父親と組めるのは俺くらいのものだった。もともと無口な男だったが、耳を悪くしてからはさらに拍車がかかってな、普段でも手信号を使うようになって、強面と無表情の迫力に誰も組もうとしなくなったからな。母親の名を、使ったのか?」
「そう」
 イグニシアスは楽しそうにニヤリ笑い、ビルトランは苦笑する。場の空気が和やかになり、イグニシアスの体調も問題なさそうで、エルはよかったと、気持ちを落ち着けることができた。
 そこにデットの声がかかった。
「イグニシアスはもう心配ない。戻ったらどうだ?」
「なにかあったのか?」
 イグニシアスの問いにデットが答えた。
「エルの姉が産気づいた」
 それを聞いてイグニシアスは即座に言った。
「俺は休んでりゃ大丈夫だ。行ってこい」
 優しく向けられた言葉にエルは素直に従った。
「ありがとう」
 イグニシアスへのすべての気持ちを込めて、エルは感謝を伝える。
 笑顔をくれた彼に笑顔を返し、エルは新たな命を生み出そうとしている姉の元へと急いだ。


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