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 セイラは、友人に言われたことを考えていた。
 確かに、最近の自分は、あの貧乏用務員のことばかり気にしている。
 これではいけない。あんな男のために自分の貴重な時間が費やされてしまっている!
 表情が感情によってくるくると変わり、先ほどまで憤りで一人で喋ってしまっていたが、いまはしゅんと大人しく表情も態度もしおらしくなっていた。
 友人たちは、まあ可愛らしいとセイラを見守っていたが、セイラ自身は自分が子犬のように愛らしいと思われているとは露ほども知らなかった。愛され令嬢は彼女だけだと疑っていない。自分はこじんまりと小さめだし、美女でもない。それでも、いい結婚相手に恵まれて、幸せになりたい! そう願う姿が無駄な動きとよくしゃべる吠え具合で小型犬のように愛されていると思ってもいない。

「そうよ! あの男が、見栄えよくなればいいのよ!」

 ぱあっとセイラがまた明るい表情に変わり、友人たちはクスリと笑う。

「でも、それはどうなのかしら。本人にとっては余計なお世話なのではない? いままで好きでそういう格好をしているのかもしれないし」

 事実ではあったが、令嬢たちは自分で貧乏に見せようとしている男がいるなどど考えもしない。

「貧乏なのよ! それ以外に理由なんてないわ! だったら、誰かが変えてあげればいいじゃない!」

 セイラの、よくぞ思いついた! といった言動に、いい予感がせずに友人たちは引き止める。

「それが最善なの? あなたがやりたいと思ったそれは、本人にとっても本当によいことになるの?」

 筆頭公爵家令嬢の言葉は重みがあった。気持ちが落ちかけたセイラは、それでもと気持ちを持ちなおす。

「わたくしに嫌われているように、他の人もあの男をよく思っていないなら、なにをしてもなにをしなくても、ただただ嫌われるだけだと思うの。その状況が本人にとっていいことなわけないわ!」

 まあ、その通りではあると令嬢たちは思う。

「セイラ」

 愛され令嬢が声をかけてくれた。セイラの気持ちは舞い上がる。

「はい」

 彼女の言葉を待つ。

「自分の手で人を変えるのではなく、その人が自ら変わろうと思わなければ、なんの解決にはならない。必ず、話し合うこと。その人を納得させない限り、わたしはセイラの味方にはなれない」
「はい」

 セイラは神妙な気持ちで返事をした。結構なじゃじゃ馬令嬢は、愛され令嬢の一声で態度が瞬時に変わる。さすが飼い主だよなあと話が聞こえていた周囲の令息たちは感心する。
 それでも、愛され令嬢の許可が、ある意味とれた。
 これは、一波乱起きるなと、そのときの話を人伝てで聞いたエイラットは期待と不安を胸に抱いた。



 まずセイラが行動したのは、授業が終わって寮へと帰る前のエイラットの元に訪れたことだ。

「ご存知でしょうが、わたくしセイラと申します。お見知りおきを」

 淑女の礼をとったセイラに、エイラットは笑いかける。社交界では何度もお互いに見掛けた相手だ。しかし正式な自己紹介がない限り、顔見知りとは言えないため、これが初めての会話となる。

「エイラットです。お噂はかねがね」
「まあ、どんな噂なのでしょう! 悪いことではなければいいのですが」

 そこの地味に影のような男の悪い噂を広げた張本人としてだよ、とは面と向かっては言わない。噂を広げたのは周囲の人間で、この令嬢自身ではないからだ。

「俺はもう行く」

 自分は関係がないとばかりに、嫌われ用務員と揶揄される男がすでに踵を返していた。きっとまた仕事に行ったのだろう。いまは学園の礼拝堂の色硝子の修復をしていると聞いていた。
 彼の姿が見えなくなると、エイラットは口を開いた。

「それで、なんの用かな」

 十中八九、いま去っていった幼馴染のことだろう。

「ええ、彼のことですわ。それで、彼の後見だろうあなたにお話があるです」

 セイラが意気込んだ様子で言うが、エイラットは首を振る。

「俺は彼の後見でもなんでもないよ」
「え? あなたの従者なのでしょう?」

 エイラットは思わず笑う。この令嬢自身も噂に翻弄されている。

「そんなことを公言したことはないよ。社交界に顔を出さないから、彼を知る者がいないだけさ」
「は?」

 セイラのキョトンとした顔がなんだか小動物を思わせ、エイラットはクスリと笑う。

「彼はかつて隣国との戦さでも活躍した辺境伯家の嫡男だよ。いまは平穏な時代だから、かつての辺境伯家の勇名も廃れてしまったけどね。あの家はほとんど社交界に顔を出さないから、知らない人が多いんだよ。あいつ自身も自分の家名を前面に出すことはないしね」
「え……えええええ!!?」

 耳を塞ぎたくなるほどの悲鳴が令嬢の口から迸った。
 だから、ちゃんと言えばいいのにとエイラットは幼馴染の無頓着さに内心舌打ちしていた。
 驚愕で身動きできないらしいセイラの手を軽く引き、拒絶がないことをいいことにそのまま休憩所へ誘導する。

 セイラが我にかえったのは、いつの間にか手にしていた茶請けの菓子を口に頬張っているときだった。
 慌てているように見えないように優雅に茶器を手にして口に含んだ。醜態を晒すところだった。
 その一部始終を見ていたエイラットは腹を抱えて笑いたくなるのを懸命に堪えていた。

「あの、それでは、彼はなぜあのような格好なのでしょう?」
「まあ、無頓着だからだね」

 ゆっくりと茶を飲む目の前の男の余裕ある態度になぜか苛立ちを感じながら、セイラはなおも質問する。

「なぜ、無頓着なのでしょう」
「人目を気にしたことがないからだろうね」

 また茶を飲む男にセイラは今度こそはっきりと怒りが湧いた。

「あなたは彼の友人なのではありませんか? 彼が人に嫌われていること、ご存知なのでしょう? なぜ放っておいたのですか?!」

 少女の苛立ちにエイラットは気づいていたが、だからなんだと気持ちが凪いで低い声が出た。

「それを君が言うのかい? 噂話の中心である君が? ひどい皮肉だねえ」

 冷ややかな声音に、セイラの勢いが薙ぎ落とされる。

「え?」

 なぜ、この男は自分にこんな態度をとるのだろうと、怖さを感じて、体が震えそうになる。

「そこまでにしてください」

 近づいてきた声に、セイラは心から縋りたくなった。

「リ、ティさま」

 泣きそうになるのを我慢する。彼女はセイラの肩を抱き、背中を撫でてくれた。
 エイラットは肩を竦めて、立ったままの彼女を見つめた。

「飼い主なら、ちゃんと手綱を握っていてください」

 自分のことを言われていることはセイラにもわかったが、いまは気持ちが冷え込んでいて、反論する気持ちにはなれなかった。

「セイラは箱入り娘なんだ。いじめないでほしい」

 静かに言う彼女は、自分の騎士ではない。
 今度こそ本当に涙がこぼれた。

「ごめんね、いじめたいわけじゃないよ。現実を知ってほしいだけだ」
「現実?」

 彼女が差し出す手巾で涙を拭いながら、セイラは問うた。

「影響力の強い者が一人の人間を嫌う発言をした。その者の近くには、好感度の高い人物がいて、その者の言うことには真実味があった。その嫌われた人間は、だんだんと誰にも存在を受け入れられなくなり、訴え出ないことでさらに本当の姿は隠されてしまった。さて、一体誰がこの状況を作り出したんだろうね?」
「わ、わたくしが、彼を嫌わせて、しまったんですの?」
「そうだね。理由の一つではあるね」

 淡々と話す彼の友人を涙目で見つめる。

「あの、ごめんなさ」
「だからといって」

 エイラットは反省しているらしい少女の声をあえて遮る。

「君だけが悪いわけじゃない。歯痒いのは、俺が手助けしたくてもできないからだ。俺の態度が悪くても気にしないでね」

 そんなことを言われて、気にしないほうがおかしい。
 そうか、人に嫌われるとは、これほど心が痛むものなのか。セイラは人に嫌われたことがない。そう思っていた。

「だから、あなたも気にしなくてもいいよ、愛され令嬢さん」

 セイラは彼女を見上げた。
 彼女が、人に嫌われることなどない。そう信じていた。

「まあ、本当に気にしていないように見えるけど。それもあなたなんだろうね」

 彼女は困った顔をしたことがない。熱のこもらない淡々とした男の態度を受け止めていた。
 この人を無言のまま責めないで! セイラは言いそうになったのを堪えた。
 立ち上がり、頭を下げる。

「申しわけ、ございませんでした。彼に直接謝りたいところですが、受け入れてもらえるとは思っておりません。ですから、あなたの口から伝えてほしいのです。セイラという者が、あなたに謝罪していたと。失礼いたします」

 もう一度深く礼を取り、反応がくる前に休憩室を退出した。
 彼女はずっとセイラの肩を抱いてくれていた。

「ご迷惑を、お掛けしました、リティさま。あの」

 セイラは、このことで彼女に嫌われるのが怖かった。嫌われることが怖いと知った。

「セイラ。それこそ、気にしなくてもいいよ、わたしのことは」
「心配で、ついてきてくださったのでしょう?」

 セイラは彼女に申し訳なかった。自分のせいで誰かに彼女が嫌われてしまったら、どうしよう!

「わたしはね、誰かに愛されても、嫌われても、どんな自分も、受け入れたいと思うんだ。どんな自分だって、わたしはわたしだ。そうだよね」

 彼女が誰に対してそう言っているのか、どんな気持ちで彼女がそう言ったのか想像すると、セイラは涙を堪えることができなかった。
 しゃくりあげるセイラに、彼女はずっとそばにいてくれた。

「だけど、セイラを泣かせた者たちにちょっとばかりわたしが怒っても、いいよね?」

 愛され令嬢である彼女が、怒る?
 なんだ、その天変地異は。

 いつもと違う笑みを浮かべる彼女に見惚れながら、引っ込んでしまった涙の行方を心のどこかで探すことで彼女の異変を考えないようにした。



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