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悪魔の産声
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わたくしの腕をつかむ、美咲の指先に、力が入った。ふり返ると、口を一文字に結んで、煢然と座る不知火に目を向けていた。
同じ女性にしてみたら、集団暴行を加えられた少女の話など、聞くのも気の毒なのだろう。夜遅くに帰宅する一人暮らしの女性、突然真横にワゴン車が停車、強引に車内へ押し込まれて、粘着テープで腕などを拘束される。こういった逮捕監禁や強姦致傷の事件が、昔から横行して、後を絶たない。犯罪の中でも最も卑劣で、被害者が受ける恐怖感、屈辱感の精神的苦痛は、計り知れない。それはまた、そういう事件を耳にしただけで、まったく不愉快なものだ。
そう思う一方で、わたくしは〝太古の鉄の扉〟〝漆黒の風の音〟といった、どこかで聞いたキーワードが、終始頭にひっかかっていた。ややうつむいた不知火の顔と、記憶に新しいりおの透視顔とが、左右から近づいて来て、ぴたりと重なる。
〝幼い頃から、わたしは、この世界とは別の世界へ行く事が出来たのです〟
〝わたしは、漆黒の暴風の中に、様ざまな光景を見出すのです。望めば、望むだけのものが見出せるのです〟
りおは、正真正銘の超能力者だった。わたくしが今、ここにこうして立っているのも、その透視に運命づけられてのこと。わたくしはもう、それを疑う余地はなかった。心の奥底に眠る太古の扉、その鉄の扉の奥へ入って、望むものを見る事ができる。りおは、こう自らの透視のプロセスを説明した。人びとの運命でさえ、大きく左右させる、透視のちから。正しい使い道で、使われるべき強いちから。しかしその一方で、禁断の世界へ一歩足を踏み入れることで、この世のモノとは思えぬ奴らに、自分の存在を明かしてしまう。欲のゆくまま、ほしいままに、透視のちからを使ってしまえば、三〇分で奴らに取り囲まれる。うっかり心に忍び込まれて、現実の世界に死者が出る。能力者にしても、ただで済む問題ではない。そういった意味では、りおの行う透視の儀式とは、まさに命懸けの仕事だった。同級生や担任の先生の変死を受けて、心の奥底にある、太古の扉に封印を決めたのも、うなずける話だ。
そこへ来て、これらの話とまったく酷似した、〝太古の扉〟だの〝漆黒の風〟だのと、りおの話と共通する点の多い、不知火の話は、やはり無視はできない。もしや、と、わたくしはあごに手を当てた。
不知火は、少女のように、両ひざを抱えた。
「私があの夜に見たもの、感じたもの。それがいったい何だったのか、後から思い出そうとしても、はっきりとした形にはならない。あの夜の記憶を両手ですくい上げてみても、するりと指の間から逃げてしまう。つまり、はっきりとした形にならないのは、どうも私が、あの夜の記憶を思い出そうとしているのか、いないのか、それがはっきりしないからだ。ヒプノセラピーを使って、無理に、あの夜の記憶を呼び覚ましたとしても、私は、その話を信じられる気がしない。私はあの夜、事なきを得たのか、得なかったのか。悪い大人たちの、その魔の手から、逃れられたのか、逃れきれなかったのか。これについては、その前後の事実を頼みに、ある程度の判断がついた。汗や手油に乱れた髪の毛と、もみくちゃになったワンピースのほか、外傷といって、強く張られた左の頬が、じんじん腫れているだけ。後はどうか。いちいち確認するよりも、私は、周囲の異常な状況の方に、目を奪われた。
右岸を覆うように建ち並ぶ石油コンビナート、左岸から海を渡って来るループ橋、それらに挟まれる形で、S字カーブになった国道。そこで私は、夏の夜風を受けている。ガードレールに手を置いて、崖の上に顔を出す。街灯のない、黒い森に隠れて、風穴の開いた神社の千木が見える。後で知ったが、これはT岬水神宮と言い、結構知られた神社だそうだ。手にしたガードレールは、防錆塗装が剥がれ、その途中から、あらぬ方角へと変形して、海に向かって破れていた。その激しい破れ方から、崖下にビームの鋼板が落ちているようだった。そして、道路に撒き散らした、細かい金属片や透明なプラスチックが、車のヘッドライトにキラキラと反射して、アスファルトに無数の影を伸ばす。このような交通事故の現場に、私は立っている。突然、磯くさい潮風が、私のスカートを膨らませて、近くの茂みの葉を鳴らす。いかにも縁起の悪そうな、生あたたかい風だった。夜景に目が慣れて、右の目から左の目まで、いっぱいに広がった海原の、上下しながら動く潮の流れが、視界の底に浮かび上がる。暗くて輪郭しかない岩場、その中でシュワシュワと渦巻く白波。海岸から数十メートル先へ行った海上に、ぽつんと浮かぶ白いモノ。たっぷりと海水をかぶり、波間を漂いながら、上下する漂流物。海面に泡が出て、バックドアの一部が見えた。車だ。とそこへ、突然の大型トラックが、海岸沿いの国道を上がって来た。私は、強烈なハイビームを全身に浴びて、腕で顔を隠した。路肩の草を押し倒して通過するトラック、S字カーブの坂上で、テールランプが点灯、松ばやしが赤一色に染まる。プシューというエアブレーキ音と、トラックらしいからから言うアイドリングのエンジン音。ハザードランプを灯して、高い運転席のドアが開いた。交通事故に気が付いて、様子を見に来たトラック運転手。激しく閉まるドアの音。途中から小走りになって、坂を下って来る長靴の音。アスファルトに散らばるフロントバンパーやドアミラーの破片に、懐中電灯の光を当てて、それから、思い出したように、のり枠工になった山の斜面に光を当てた。首の後ろに手のひらを置いて、やがて、ガードレールの破けた場所まで行った。作業ズボンのポケットから携帯電話を取り出して、懐中電灯を左に持ち替え、一一〇通報。岸壁の上から見て、岩場に何か落ちていないか確認する。次に、海面に光の輪を動かして、『いたいた!』と大声に叫んだ。
この交通事故は、翌日の朝刊に掲載された。
『昨夜(四日)午前〇時半ごろ、Y市N区の国道の岸壁から、一台の車がガードレールを突き破って、そのまま海へ転落。たまたま通りがかったトラック運転手から、『海に車が浮いている』と一一〇番通報があった。消防などによると、転落したのは白のワンボックスカーで、消防艇やヘリコプター、それに潜水士五人が捜索にあたった。通報からおよそ二時間後に車は引き揚げられ、車内から心肺停止状態の男性五人が発見されたが、全員の死亡が確認された。男性五人は、都内私立大学に通う二十から二十二歳で、検視の結果によると、遺体からは、血中濃度〇・一五%と基準値を大幅に超えるアルコールが検出された。中には、大麻が検出された遺体もあった。警察は、過失致死の可能性も視野に入れて捜査を進めている』
私は、明るいリビングで、この記事を読んだ。一語一句、完璧に暗記しても、まだ読んだ。中庭のあるコートハウス。贅沢な広い邸宅の中は、〝しん〟として物音一つない。里親は二人とも出社している。彼らは、中学生の無断の朝帰りに、かえって、怒らなかった。それよりも、思春期の娘の奇妙な行動に、お互いの顔ばかり見ていた。
それから、数日間は何事も無く過ぎた。警察による捜査は、私の身元を割り出すまでは行かなかった。死亡した男性五人は、単に、自損事故の被害者として、捜査は打ち切られようとしていた。何かとは、何か。それを求めたあの日の記憶は、次第に色を失って、頭の中から立ち去っていった。それどころか、私は、事故当時の車内に、存在すらしていなかったのではないかとさえ、思うようになった。私のあの晩の記憶の全ては、妄想であり、空想であり、ありもしない記憶ではなかったのか。彼らは、単に、酒に酔って車の運転をして、自損事故を起こして、海に転落した後、車内に浸水して来た海水によって、溺れ死んだ。たまたま、そう、たまたまその事故現場に立ち会った私は、海に沈んでいくワゴン車を眺めていただけではなかったか。してみると、この事件と私とは、全く関わり合いが無いのではないか。きっと、そうだ。彼らと私とは、全く面識がない。見ず知らずの人たちの死と、変わらぬ日常を生きる私。この二点は、ミッシングリング。警察でさえこの二点を繋げる事は難しい。しかしこの考えは、数日の内に、たやすく打ち破られる事となった。
それは、夏の日差しで五〇度まで熱せられたアスファルト、その上に、一つ、二つと灰色の雨あとがついて、街ゆく人びとが空を見上げた頃には、地面にしぶきが上がるくらい、すさまじい集中豪雨に見舞われた、七月は下旬の午後。学校に傘を忘れた私は、駅の改札からとぼとぼと出て来て、水しぶきを上げる道路や、滝のように流れる雨どいの水に、言葉もなかった。傘が役に立たないほどのゲリラ豪雨。迎えに来てもらうには、里親は二人とも仕事中、バスターミナルはどこも長蛇の列。タクシーは、乗れなくもないが、クレジットカードが使えなかった苦い経験から、考えるのをやめた。結局私は、他の乗客たちと並んで、雨脚の弱まるのを待った。
すると、激しい雨に打たれた一台の高級車が、音も無く駅前を移動して来た。そして、私が立っている軒端の前まで来ると、助手席のドアガラスがゆっくりと開いた。
『乗りなさい。家まで送ろう』
助手席に身を乗り出して、車内から声を掛けてきた、キートンの背広を着た男。私は、周囲の目を気にして、首を横へ振った。高級車とフォーマルな服装、ワックスを使ったフレンチ2ブロックの髪型、紳士的な物腰、そのいずれもが、誘拐犯のような怪しい人物には見えなかった。父の会社の関係の人か、母が知人男性に迎えを頼んだか、相手は私のことを以前から知っている様子だった。にしても、突然の事でもあるし、相手が異性という事もあって、私は、いつまでも委縮していた。男はそれを見て、内ポケットから白いカードを取り出した。
『安心しなさい。私は、こういう者だ』
カードは名刺のようで、こちらへ手渡そうとしたが、頑なに私が近づかないので、彼は名刺の表を出して、こちらへ向けた。私は前かがみになって、名刺に書いてある文字を読んだ。
【宗教法人 晦冥会 理事長 氷室栄作】
名刺には、七紋帰依のシンボルマークが入っていた。〝晦冥会〟と言えば、当時、私でさえ知っているくらい、一般的に認知された大衆的な宗教団体だった。クラスにも普通に信者はいたし、児童相談所の保健師も、特に隠しもせず、信者である事を公言していた。核廃絶や人道支援などのCMで、公益社団法人と肩を並べて、連日テレビ放送されていた。
『理事長?』
『そうだ。怪しい者ではない。もしも私が君を誘拐するような事があれば、晦冥会の統主様は、その任命責任を負い、退任する大事件に発展するだろう。大丈夫だ。安心して、この車に乗りなさい』
そうまでしても、委縮して、黙っている私を見て、氷室様は眉を下げた。
『君は、あの夜の事を忘れてはいないだろう。あの夜、君は何をしたのか。覚えているだろう』
私の顔色が変わった。この人は、警察の捜査にも浮上しなかった私の存在に気が付いている。あの夜に起きた交通事故の真相、それを、この人は知っている。
『とにかく、乗りなさい。君に、会わせたいお方がいる』
集中豪雨は、ビルの屋外広告やバスの屋根にしぶきを立てて、街全体が白く煙だって見えた。私は、ビー玉くらいの大粒の雨に打たれながら、急いでドアハンドルをつかんだ。豪雨の中に入ると、服のままシャワーを浴びたくらいに、濡れた。
フロントドアを閉めると、高級外国車の車内は、驚くほど静かだった。音の無い大雨の映像を見ているようだった。エンジン音、ロードノイズ、ボンネットを打つ雨音、それらはまったく気にならなかった。
『あの夜、君はなぜ、夜のY公園をぶらついていたのだ。近くに保護者の姿も無く、中学生なのに肌の露出が多く、とても危険だとは思わなかったのか』
氷室様はあの夜、私と同じくY公園にいた。氷室様は夜な夜な、ひと気の失せた海岸を歩いて、海に係留された貨客船、その美しい電飾を眺めるなどしながら、一人夢想に耽る癖があった。この臨海公園という場所は、実に不思議な所で、行き詰った自分の研究に、ユニークなひらめきを起こさせるのだと言う。幼少の頃、曳船業だった父と、海沿いの芝生にソメイヨシノを植えた。その樹の幹を見上げて、古い記憶を呼び覚ます事が、豊かな発想を生み出す助けになっているのかも知れないと。そうしてあの夜も、氷室様は一人で、ひと気の失せた親水公園をぶらぶら歩いていた。言われてみれば、いつになく胸騒ぎがして、かえって考えが一つにまとまらないような、風変わりな夜だったらしい。遠いマスト灯から顔を戻すと、海の上のバルコニーに、肌を白く露出した、髪の長い中学生の少女が、手摺りに捕まっている。成人男性が好みそうな、周囲の目を誘惑するような、裸にワンピースをかぶったような無防備さで、こちらへ背中を見せている。氷室様は、少し速足になって、中学生の少女に声を掛けようとした。見たところ一人きりで、途方に暮れた様子から、家出少女のようにも見えた。この辺りは不審者や、泥酔者、外国人労働者の増加で、氷室様も護身用具を持参しているくらい、市でも治安の悪さを問題視している。こんな所で何をしている、一人でいてはあぶない、こう氷室様が声を掛けようとしたその瞬間、芝生の草かげから、黒ずくめの男たちが現れて、あっと言う間に少女は連れ去られていった。片足の不自由な氷室様は、杖を捨て、ケンケンするような格好で、男たちの跡を追ったが、近くの駐車場から急発進して、国道を走り去って行くワゴン車の、ナンバープレートの数字を覚えるので精いっぱいだった。氷室様はすぐに、携帯電話で運転手を呼びつけ、助手席へ飛び乗り、近くの青果上屋が建ち並ぶ、ふ頭の物陰を一つ一つ見て回った。性犯罪を繰り返す輩は、遠出をしない。せいぜい市内だ。Y市N区を北上して、S字カーブの国道を走行していると、大型トラックが一台、ハザードランプを灯して停止車しているのに出くわした。氷室様は、運転手に車を停めさせ、交通事故現場に降り立った。トラックの運転手は、第一発見者の役目として、警察に交通事故を通報。今や煙草をふかして、パトカーの到着を待っている。氷室様は、その男と肩を並べて、海に浮かぶワゴン車の一部を眺めながら、白のワンピースを着た、中学生くらいの少女を見なかったか、これくらいの背丈だ、と質問した。運転手は、氷室様の上等な服装に目をやって、無精髭をなで回した後、そう言えば、と懐中電灯でガードレールを照らした。
『道路の異変に気が付いて、トラックを停めて下りて来たが、その時に、白い服を着た女の子が、このガードレールの所に立っていた気がした。でも実際、警察に電話している時には誰もいなかったから、見間違えか、近所の野次馬だったのかも知れない』
氷室様は、たいへん驚かれたと言う。その驚きは、翌日の朝刊、車内から男性五人の遺体が発見されたという記事を見て、さらにその驚きが増した。目の前で、暴行目的でさらわれた少女は、その後、交通事故現場に立って、海に沈むワゴン車を眺めていた。加害者たちは、全員海水の中で死んだ。少女はいったい、どうやって。
それから氷室様は、ご自身の研究のためにも、謎の少女の行方を追った。夜更けの頃、少女は一人きりで臨海公園にいた。性犯罪の怖さ、えぐさ、残酷さを知らない、純粋無垢な素行を見る限り、市外か県外から来ていると思われる。家出だ。警察に確認した所、被害届は出されていなかった。保護者不在か、それとも一日たらずで帰宅しているのか。いずれにせよ、車では来ていないはずだから、公共交通機関を利用している。路線バス、高速鉄道、フェリー、空港路線、ヒッチハイク、は、さすがにないだろう。氷室様は、あの日一日に限定して、晦冥会の情報システム課、その非公式となっているハッカー集団に依頼して、各機関の乗客情報、防犯カメラの映像を調べさせた。そこから、最終便のフェリーに乗り込む、一人の中学生の少女が浮上した。
車は、幹線道路から首都高へあがって、東京都心へ向かった。雨はすでに上がっていて、ボンネットに集まった雨水が、走行風によって、少しずつ後方へ流れていく。
『君は、ただ者ではない。少なくとも、普通の人間ではない。それは、五人の男たちから集団暴行の被害に遭い、命さえ危うい状況下で、君は、加害者たちを全員殺害した。そして、車から降りて、ワゴン車ごと海に突き落とした』
地平線にちょこんと出ている富士山から、車内に顔を戻して、氷室様と目が合った。
『私を、警察に?』
この時の氷室様は、大声を出して笑った。その声の大きさから、私は委縮した。
『おどしをかけられているとでも思ったかね。私が、そんな下らない男に見えたかね。はあ、勘違いをしてくれるな。私は、そんなつまらぬ男ではない。むしろ、君のその、普通の人間ではない、という素晴らしい事実に、胸を躍らせている一人なのだよ。あの夜に君が取った行動、それを私は、責めはしない。今回の件でいえば、すべてあいつらが悪い。民事上の正当防衛というやつだ。奴らの遺体を海に捨てたのは、隠蔽目的で死体を損壊、遺棄したとして、死体損壊、遺棄容疑で、刑法上、ちと不味いがな』
私は、黙って前を向いていた。
『違う、違うのだ。私は単に、君に助けて欲しいだけなのだ。君の持つ、その、普通の人間ではない未知なちから、それを使って、私たちに協力して欲しい。私たちは今、君のちからが必要なのだよ』
私は、何と答えて良いものか、はいそうですと認めて良いものか、ただ、両手を硬く握り締めていた。あれは、悪夢そのもので、決して現実の世界ではない、そう自らを信じ込ませていた。悪夢、それはつまり、あるとき私は悪魔と化すこと。あれは私ではない、私の知っている、私ではない。まったくの別物だ。あの夜、車内という密室で繰り広げられた、惨殺の舞台。一人、一人と息の根が止まって行く。相手は何をする暇もない、一瞬の事。静かになった後部座席で、ストリート系のヒップホップが大音量で流れている。次に、フロントカーテンを除けて、後部座席の異変に気づいた運転手が、最後だった。彼らは、悪魔の餌食になったに過ぎない。それだけの事だった。
『家まで送ると言って、申し訳ないが、これから君は、とても大切なお方に会ってもらいたい。まだ、ほんのあどけない女の子だ。うん、あどけないと言っても、あの方は、神聖なお方、私たち晦冥会の未来を切り拓かれる、偉大なお方だ』
『教祖さま?』
『うん、まあ、そう言って、あまり違わないようなお方だ。ゆくゆくは、な。さっき私が言った、君に協力して欲しいとは、君に、そのお方の身の安全を守護して欲しいのだ。あのお方の影となって、卑しき外敵を退けて欲しいのだ』
『護衛』
『そうだ。君はこれから、晦冥会に入信しなければならない。入信、と言った所が、君は初めから幹部だ。そこいらの信者とは、扱いが違う。格が違う。そして、長年私が研究した、バイフーになるための厳しい訓練を受けてもらう。血を吐くような、地獄の訓練の始まりだ。世界最強の暗殺者、バイフーになるための秘密の訓練。大丈夫だ。安心したまえ。私には確信がある。君なら、行ける。君は、普通の人間とは違う。他の追随を許さない、伝説のバイフーになるだろう』
私の目は、大きく見開かれた。何かとは、何か。私は、世の中に何かを求めていた。得体の知れない〝何か〟に、強い求心力を感じていた。この世界は、ちゃんと合っているのか。この世界は、正しい方向へと舵を取っているのか。もしもそれが間違った方向へ針路を取っているのであれば、私は、このまま無駄に生きていて良いのか。
ひざの上に置いたこぶしに、限りないちからが入った。
『その、お方とは?』
氷室様は、菩薩の光背に顔を照らすような、穏やかな目元をつくって、微笑みを湛えた。
『そのお方とは、晦冥会の統主である不破昂佑様のご長女、斎様だ』
同じ女性にしてみたら、集団暴行を加えられた少女の話など、聞くのも気の毒なのだろう。夜遅くに帰宅する一人暮らしの女性、突然真横にワゴン車が停車、強引に車内へ押し込まれて、粘着テープで腕などを拘束される。こういった逮捕監禁や強姦致傷の事件が、昔から横行して、後を絶たない。犯罪の中でも最も卑劣で、被害者が受ける恐怖感、屈辱感の精神的苦痛は、計り知れない。それはまた、そういう事件を耳にしただけで、まったく不愉快なものだ。
そう思う一方で、わたくしは〝太古の鉄の扉〟〝漆黒の風の音〟といった、どこかで聞いたキーワードが、終始頭にひっかかっていた。ややうつむいた不知火の顔と、記憶に新しいりおの透視顔とが、左右から近づいて来て、ぴたりと重なる。
〝幼い頃から、わたしは、この世界とは別の世界へ行く事が出来たのです〟
〝わたしは、漆黒の暴風の中に、様ざまな光景を見出すのです。望めば、望むだけのものが見出せるのです〟
りおは、正真正銘の超能力者だった。わたくしが今、ここにこうして立っているのも、その透視に運命づけられてのこと。わたくしはもう、それを疑う余地はなかった。心の奥底に眠る太古の扉、その鉄の扉の奥へ入って、望むものを見る事ができる。りおは、こう自らの透視のプロセスを説明した。人びとの運命でさえ、大きく左右させる、透視のちから。正しい使い道で、使われるべき強いちから。しかしその一方で、禁断の世界へ一歩足を踏み入れることで、この世のモノとは思えぬ奴らに、自分の存在を明かしてしまう。欲のゆくまま、ほしいままに、透視のちからを使ってしまえば、三〇分で奴らに取り囲まれる。うっかり心に忍び込まれて、現実の世界に死者が出る。能力者にしても、ただで済む問題ではない。そういった意味では、りおの行う透視の儀式とは、まさに命懸けの仕事だった。同級生や担任の先生の変死を受けて、心の奥底にある、太古の扉に封印を決めたのも、うなずける話だ。
そこへ来て、これらの話とまったく酷似した、〝太古の扉〟だの〝漆黒の風〟だのと、りおの話と共通する点の多い、不知火の話は、やはり無視はできない。もしや、と、わたくしはあごに手を当てた。
不知火は、少女のように、両ひざを抱えた。
「私があの夜に見たもの、感じたもの。それがいったい何だったのか、後から思い出そうとしても、はっきりとした形にはならない。あの夜の記憶を両手ですくい上げてみても、するりと指の間から逃げてしまう。つまり、はっきりとした形にならないのは、どうも私が、あの夜の記憶を思い出そうとしているのか、いないのか、それがはっきりしないからだ。ヒプノセラピーを使って、無理に、あの夜の記憶を呼び覚ましたとしても、私は、その話を信じられる気がしない。私はあの夜、事なきを得たのか、得なかったのか。悪い大人たちの、その魔の手から、逃れられたのか、逃れきれなかったのか。これについては、その前後の事実を頼みに、ある程度の判断がついた。汗や手油に乱れた髪の毛と、もみくちゃになったワンピースのほか、外傷といって、強く張られた左の頬が、じんじん腫れているだけ。後はどうか。いちいち確認するよりも、私は、周囲の異常な状況の方に、目を奪われた。
右岸を覆うように建ち並ぶ石油コンビナート、左岸から海を渡って来るループ橋、それらに挟まれる形で、S字カーブになった国道。そこで私は、夏の夜風を受けている。ガードレールに手を置いて、崖の上に顔を出す。街灯のない、黒い森に隠れて、風穴の開いた神社の千木が見える。後で知ったが、これはT岬水神宮と言い、結構知られた神社だそうだ。手にしたガードレールは、防錆塗装が剥がれ、その途中から、あらぬ方角へと変形して、海に向かって破れていた。その激しい破れ方から、崖下にビームの鋼板が落ちているようだった。そして、道路に撒き散らした、細かい金属片や透明なプラスチックが、車のヘッドライトにキラキラと反射して、アスファルトに無数の影を伸ばす。このような交通事故の現場に、私は立っている。突然、磯くさい潮風が、私のスカートを膨らませて、近くの茂みの葉を鳴らす。いかにも縁起の悪そうな、生あたたかい風だった。夜景に目が慣れて、右の目から左の目まで、いっぱいに広がった海原の、上下しながら動く潮の流れが、視界の底に浮かび上がる。暗くて輪郭しかない岩場、その中でシュワシュワと渦巻く白波。海岸から数十メートル先へ行った海上に、ぽつんと浮かぶ白いモノ。たっぷりと海水をかぶり、波間を漂いながら、上下する漂流物。海面に泡が出て、バックドアの一部が見えた。車だ。とそこへ、突然の大型トラックが、海岸沿いの国道を上がって来た。私は、強烈なハイビームを全身に浴びて、腕で顔を隠した。路肩の草を押し倒して通過するトラック、S字カーブの坂上で、テールランプが点灯、松ばやしが赤一色に染まる。プシューというエアブレーキ音と、トラックらしいからから言うアイドリングのエンジン音。ハザードランプを灯して、高い運転席のドアが開いた。交通事故に気が付いて、様子を見に来たトラック運転手。激しく閉まるドアの音。途中から小走りになって、坂を下って来る長靴の音。アスファルトに散らばるフロントバンパーやドアミラーの破片に、懐中電灯の光を当てて、それから、思い出したように、のり枠工になった山の斜面に光を当てた。首の後ろに手のひらを置いて、やがて、ガードレールの破けた場所まで行った。作業ズボンのポケットから携帯電話を取り出して、懐中電灯を左に持ち替え、一一〇通報。岸壁の上から見て、岩場に何か落ちていないか確認する。次に、海面に光の輪を動かして、『いたいた!』と大声に叫んだ。
この交通事故は、翌日の朝刊に掲載された。
『昨夜(四日)午前〇時半ごろ、Y市N区の国道の岸壁から、一台の車がガードレールを突き破って、そのまま海へ転落。たまたま通りがかったトラック運転手から、『海に車が浮いている』と一一〇番通報があった。消防などによると、転落したのは白のワンボックスカーで、消防艇やヘリコプター、それに潜水士五人が捜索にあたった。通報からおよそ二時間後に車は引き揚げられ、車内から心肺停止状態の男性五人が発見されたが、全員の死亡が確認された。男性五人は、都内私立大学に通う二十から二十二歳で、検視の結果によると、遺体からは、血中濃度〇・一五%と基準値を大幅に超えるアルコールが検出された。中には、大麻が検出された遺体もあった。警察は、過失致死の可能性も視野に入れて捜査を進めている』
私は、明るいリビングで、この記事を読んだ。一語一句、完璧に暗記しても、まだ読んだ。中庭のあるコートハウス。贅沢な広い邸宅の中は、〝しん〟として物音一つない。里親は二人とも出社している。彼らは、中学生の無断の朝帰りに、かえって、怒らなかった。それよりも、思春期の娘の奇妙な行動に、お互いの顔ばかり見ていた。
それから、数日間は何事も無く過ぎた。警察による捜査は、私の身元を割り出すまでは行かなかった。死亡した男性五人は、単に、自損事故の被害者として、捜査は打ち切られようとしていた。何かとは、何か。それを求めたあの日の記憶は、次第に色を失って、頭の中から立ち去っていった。それどころか、私は、事故当時の車内に、存在すらしていなかったのではないかとさえ、思うようになった。私のあの晩の記憶の全ては、妄想であり、空想であり、ありもしない記憶ではなかったのか。彼らは、単に、酒に酔って車の運転をして、自損事故を起こして、海に転落した後、車内に浸水して来た海水によって、溺れ死んだ。たまたま、そう、たまたまその事故現場に立ち会った私は、海に沈んでいくワゴン車を眺めていただけではなかったか。してみると、この事件と私とは、全く関わり合いが無いのではないか。きっと、そうだ。彼らと私とは、全く面識がない。見ず知らずの人たちの死と、変わらぬ日常を生きる私。この二点は、ミッシングリング。警察でさえこの二点を繋げる事は難しい。しかしこの考えは、数日の内に、たやすく打ち破られる事となった。
それは、夏の日差しで五〇度まで熱せられたアスファルト、その上に、一つ、二つと灰色の雨あとがついて、街ゆく人びとが空を見上げた頃には、地面にしぶきが上がるくらい、すさまじい集中豪雨に見舞われた、七月は下旬の午後。学校に傘を忘れた私は、駅の改札からとぼとぼと出て来て、水しぶきを上げる道路や、滝のように流れる雨どいの水に、言葉もなかった。傘が役に立たないほどのゲリラ豪雨。迎えに来てもらうには、里親は二人とも仕事中、バスターミナルはどこも長蛇の列。タクシーは、乗れなくもないが、クレジットカードが使えなかった苦い経験から、考えるのをやめた。結局私は、他の乗客たちと並んで、雨脚の弱まるのを待った。
すると、激しい雨に打たれた一台の高級車が、音も無く駅前を移動して来た。そして、私が立っている軒端の前まで来ると、助手席のドアガラスがゆっくりと開いた。
『乗りなさい。家まで送ろう』
助手席に身を乗り出して、車内から声を掛けてきた、キートンの背広を着た男。私は、周囲の目を気にして、首を横へ振った。高級車とフォーマルな服装、ワックスを使ったフレンチ2ブロックの髪型、紳士的な物腰、そのいずれもが、誘拐犯のような怪しい人物には見えなかった。父の会社の関係の人か、母が知人男性に迎えを頼んだか、相手は私のことを以前から知っている様子だった。にしても、突然の事でもあるし、相手が異性という事もあって、私は、いつまでも委縮していた。男はそれを見て、内ポケットから白いカードを取り出した。
『安心しなさい。私は、こういう者だ』
カードは名刺のようで、こちらへ手渡そうとしたが、頑なに私が近づかないので、彼は名刺の表を出して、こちらへ向けた。私は前かがみになって、名刺に書いてある文字を読んだ。
【宗教法人 晦冥会 理事長 氷室栄作】
名刺には、七紋帰依のシンボルマークが入っていた。〝晦冥会〟と言えば、当時、私でさえ知っているくらい、一般的に認知された大衆的な宗教団体だった。クラスにも普通に信者はいたし、児童相談所の保健師も、特に隠しもせず、信者である事を公言していた。核廃絶や人道支援などのCMで、公益社団法人と肩を並べて、連日テレビ放送されていた。
『理事長?』
『そうだ。怪しい者ではない。もしも私が君を誘拐するような事があれば、晦冥会の統主様は、その任命責任を負い、退任する大事件に発展するだろう。大丈夫だ。安心して、この車に乗りなさい』
そうまでしても、委縮して、黙っている私を見て、氷室様は眉を下げた。
『君は、あの夜の事を忘れてはいないだろう。あの夜、君は何をしたのか。覚えているだろう』
私の顔色が変わった。この人は、警察の捜査にも浮上しなかった私の存在に気が付いている。あの夜に起きた交通事故の真相、それを、この人は知っている。
『とにかく、乗りなさい。君に、会わせたいお方がいる』
集中豪雨は、ビルの屋外広告やバスの屋根にしぶきを立てて、街全体が白く煙だって見えた。私は、ビー玉くらいの大粒の雨に打たれながら、急いでドアハンドルをつかんだ。豪雨の中に入ると、服のままシャワーを浴びたくらいに、濡れた。
フロントドアを閉めると、高級外国車の車内は、驚くほど静かだった。音の無い大雨の映像を見ているようだった。エンジン音、ロードノイズ、ボンネットを打つ雨音、それらはまったく気にならなかった。
『あの夜、君はなぜ、夜のY公園をぶらついていたのだ。近くに保護者の姿も無く、中学生なのに肌の露出が多く、とても危険だとは思わなかったのか』
氷室様はあの夜、私と同じくY公園にいた。氷室様は夜な夜な、ひと気の失せた海岸を歩いて、海に係留された貨客船、その美しい電飾を眺めるなどしながら、一人夢想に耽る癖があった。この臨海公園という場所は、実に不思議な所で、行き詰った自分の研究に、ユニークなひらめきを起こさせるのだと言う。幼少の頃、曳船業だった父と、海沿いの芝生にソメイヨシノを植えた。その樹の幹を見上げて、古い記憶を呼び覚ます事が、豊かな発想を生み出す助けになっているのかも知れないと。そうしてあの夜も、氷室様は一人で、ひと気の失せた親水公園をぶらぶら歩いていた。言われてみれば、いつになく胸騒ぎがして、かえって考えが一つにまとまらないような、風変わりな夜だったらしい。遠いマスト灯から顔を戻すと、海の上のバルコニーに、肌を白く露出した、髪の長い中学生の少女が、手摺りに捕まっている。成人男性が好みそうな、周囲の目を誘惑するような、裸にワンピースをかぶったような無防備さで、こちらへ背中を見せている。氷室様は、少し速足になって、中学生の少女に声を掛けようとした。見たところ一人きりで、途方に暮れた様子から、家出少女のようにも見えた。この辺りは不審者や、泥酔者、外国人労働者の増加で、氷室様も護身用具を持参しているくらい、市でも治安の悪さを問題視している。こんな所で何をしている、一人でいてはあぶない、こう氷室様が声を掛けようとしたその瞬間、芝生の草かげから、黒ずくめの男たちが現れて、あっと言う間に少女は連れ去られていった。片足の不自由な氷室様は、杖を捨て、ケンケンするような格好で、男たちの跡を追ったが、近くの駐車場から急発進して、国道を走り去って行くワゴン車の、ナンバープレートの数字を覚えるので精いっぱいだった。氷室様はすぐに、携帯電話で運転手を呼びつけ、助手席へ飛び乗り、近くの青果上屋が建ち並ぶ、ふ頭の物陰を一つ一つ見て回った。性犯罪を繰り返す輩は、遠出をしない。せいぜい市内だ。Y市N区を北上して、S字カーブの国道を走行していると、大型トラックが一台、ハザードランプを灯して停止車しているのに出くわした。氷室様は、運転手に車を停めさせ、交通事故現場に降り立った。トラックの運転手は、第一発見者の役目として、警察に交通事故を通報。今や煙草をふかして、パトカーの到着を待っている。氷室様は、その男と肩を並べて、海に浮かぶワゴン車の一部を眺めながら、白のワンピースを着た、中学生くらいの少女を見なかったか、これくらいの背丈だ、と質問した。運転手は、氷室様の上等な服装に目をやって、無精髭をなで回した後、そう言えば、と懐中電灯でガードレールを照らした。
『道路の異変に気が付いて、トラックを停めて下りて来たが、その時に、白い服を着た女の子が、このガードレールの所に立っていた気がした。でも実際、警察に電話している時には誰もいなかったから、見間違えか、近所の野次馬だったのかも知れない』
氷室様は、たいへん驚かれたと言う。その驚きは、翌日の朝刊、車内から男性五人の遺体が発見されたという記事を見て、さらにその驚きが増した。目の前で、暴行目的でさらわれた少女は、その後、交通事故現場に立って、海に沈むワゴン車を眺めていた。加害者たちは、全員海水の中で死んだ。少女はいったい、どうやって。
それから氷室様は、ご自身の研究のためにも、謎の少女の行方を追った。夜更けの頃、少女は一人きりで臨海公園にいた。性犯罪の怖さ、えぐさ、残酷さを知らない、純粋無垢な素行を見る限り、市外か県外から来ていると思われる。家出だ。警察に確認した所、被害届は出されていなかった。保護者不在か、それとも一日たらずで帰宅しているのか。いずれにせよ、車では来ていないはずだから、公共交通機関を利用している。路線バス、高速鉄道、フェリー、空港路線、ヒッチハイク、は、さすがにないだろう。氷室様は、あの日一日に限定して、晦冥会の情報システム課、その非公式となっているハッカー集団に依頼して、各機関の乗客情報、防犯カメラの映像を調べさせた。そこから、最終便のフェリーに乗り込む、一人の中学生の少女が浮上した。
車は、幹線道路から首都高へあがって、東京都心へ向かった。雨はすでに上がっていて、ボンネットに集まった雨水が、走行風によって、少しずつ後方へ流れていく。
『君は、ただ者ではない。少なくとも、普通の人間ではない。それは、五人の男たちから集団暴行の被害に遭い、命さえ危うい状況下で、君は、加害者たちを全員殺害した。そして、車から降りて、ワゴン車ごと海に突き落とした』
地平線にちょこんと出ている富士山から、車内に顔を戻して、氷室様と目が合った。
『私を、警察に?』
この時の氷室様は、大声を出して笑った。その声の大きさから、私は委縮した。
『おどしをかけられているとでも思ったかね。私が、そんな下らない男に見えたかね。はあ、勘違いをしてくれるな。私は、そんなつまらぬ男ではない。むしろ、君のその、普通の人間ではない、という素晴らしい事実に、胸を躍らせている一人なのだよ。あの夜に君が取った行動、それを私は、責めはしない。今回の件でいえば、すべてあいつらが悪い。民事上の正当防衛というやつだ。奴らの遺体を海に捨てたのは、隠蔽目的で死体を損壊、遺棄したとして、死体損壊、遺棄容疑で、刑法上、ちと不味いがな』
私は、黙って前を向いていた。
『違う、違うのだ。私は単に、君に助けて欲しいだけなのだ。君の持つ、その、普通の人間ではない未知なちから、それを使って、私たちに協力して欲しい。私たちは今、君のちからが必要なのだよ』
私は、何と答えて良いものか、はいそうですと認めて良いものか、ただ、両手を硬く握り締めていた。あれは、悪夢そのもので、決して現実の世界ではない、そう自らを信じ込ませていた。悪夢、それはつまり、あるとき私は悪魔と化すこと。あれは私ではない、私の知っている、私ではない。まったくの別物だ。あの夜、車内という密室で繰り広げられた、惨殺の舞台。一人、一人と息の根が止まって行く。相手は何をする暇もない、一瞬の事。静かになった後部座席で、ストリート系のヒップホップが大音量で流れている。次に、フロントカーテンを除けて、後部座席の異変に気づいた運転手が、最後だった。彼らは、悪魔の餌食になったに過ぎない。それだけの事だった。
『家まで送ると言って、申し訳ないが、これから君は、とても大切なお方に会ってもらいたい。まだ、ほんのあどけない女の子だ。うん、あどけないと言っても、あの方は、神聖なお方、私たち晦冥会の未来を切り拓かれる、偉大なお方だ』
『教祖さま?』
『うん、まあ、そう言って、あまり違わないようなお方だ。ゆくゆくは、な。さっき私が言った、君に協力して欲しいとは、君に、そのお方の身の安全を守護して欲しいのだ。あのお方の影となって、卑しき外敵を退けて欲しいのだ』
『護衛』
『そうだ。君はこれから、晦冥会に入信しなければならない。入信、と言った所が、君は初めから幹部だ。そこいらの信者とは、扱いが違う。格が違う。そして、長年私が研究した、バイフーになるための厳しい訓練を受けてもらう。血を吐くような、地獄の訓練の始まりだ。世界最強の暗殺者、バイフーになるための秘密の訓練。大丈夫だ。安心したまえ。私には確信がある。君なら、行ける。君は、普通の人間とは違う。他の追随を許さない、伝説のバイフーになるだろう』
私の目は、大きく見開かれた。何かとは、何か。私は、世の中に何かを求めていた。得体の知れない〝何か〟に、強い求心力を感じていた。この世界は、ちゃんと合っているのか。この世界は、正しい方向へと舵を取っているのか。もしもそれが間違った方向へ針路を取っているのであれば、私は、このまま無駄に生きていて良いのか。
ひざの上に置いたこぶしに、限りないちからが入った。
『その、お方とは?』
氷室様は、菩薩の光背に顔を照らすような、穏やかな目元をつくって、微笑みを湛えた。
『そのお方とは、晦冥会の統主である不破昂佑様のご長女、斎様だ』
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