プルートーの胤裔

くぼう無学

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 全長二〇〇メートル程のブランデートコースは、短いながら左にバンクして、そのまま尾根を抜けるコースレイアウトとなっていた。
「不知火忍のカード?」
 そこを通過して行く上級スキーヤーが、こちらを大きく見上げた。
「はい。宗村さんが昨日拾ったカードには、不知火忍という名前が登録されていました。そして、彼女が晦冥会の幹部であった事が、加えて登録されていました。しかしそれ以外のデータはなく、現在では、彼女の会員証は登録が抹消されていました」
『おかしいんですよ。だからわたしたちがこうやって、天道葵について身辺調査を続けているんです。恐らく天道と木原は、何らかの理由によって偽名を使っていたと思われます』
 四週間前に心中自殺をした二人は偽名を使っていた。
『警察はその事に気が付くのが遅かった。このまま偽名の件は闇に葬って、二人の遺体を無縁納骨堂に祭った方が良いと、そう判断した可能性は高いです』
 今回の心中事件の異常さは、所轄の刑事たちの想像を遥かに凌いだ。
『今にして思えば、その時に手にした名簿とは、晦冥会を脱会した幹部の暗殺リストだったのではないかと思います』
 晦冥会の秘密の部屋には、暗殺の対象リストが存在した。美咲はその名簿に不知火忍の名前を覚えていた。
「不知火忍と天道葵は同一人物。そして、四週間前に彼女はあっさりとバイフーに暗殺された」
 ブラウンに塗られた支柱の足元には、オレンジ色の支柱マットが巻きつけられていて、その上に片方のグローブが落ちていた。
「その見方が強いです。不知火は晦冥会の幹部でありながら、何らかの理由によって晦冥会を脱走、天道葵という偽名を名乗って、一年半前から岸本さんのペンションで逃亡生活を続けていた」
 美咲は長いまつ毛に雪を乗せながら、複数ある測定器の波形に目を動かしていた。
「それが四週間前に同じく脱走していた木原正樹と言う、これまた偽名を名乗っていた男と合流、その直後に二人は心中自殺に見せかけられて」
 割れた車の窓ガラスから炎が立ち昇り、ホースを肩に駆け付けた消防隊が、大声を張り上げながらポンプ車を誘導する。そんな囂然たる光景が頭に浮かんだ。
「そう、わたしは考えています。恐らくバイフーは、天道葵を暗殺する際に、彼女の遺体から晦冥会の会員証のカードを抜き取った。それか、もしくは」
「と言う事はだ。昨日君と衝突したあの女が、晦冥会の暗殺者『バイフー』と見て、ほぼ間違いないじゃないか」
 美咲は、横顔に目だけをこちらへ向けた。
「現時点でその可能性は非常に高いです」
『いずれ分かるさ。君はもう犯人と接触しているのだから』
『宗村さん、今言った椎名さんと衝突した女性の風貌を、今一度思い出しておいて下さい。明日には、それがきっと役に立つのですから』
 敷島も石動刑事も、今回の犯人であるバイフーの存在に、ある程度目星をつけていながら、それを目撃したわたくしに対して、よくよく明言を避けてきたという事か。
「ですから、バイフーの素顔をしっかりと目撃して、相手と目と目が合ってしまっているのは、宗村さん、あなたただ一人だけと言う事になります」
 一瞬だけ風が止まった世界。ゴーグルが外れて見せるその素顔は、中国人風の女だった。相手はハッとした表情から、次第に白虎が牙を剥くような鋭い眼光に変わった。わたくしはゾクッと背筋の凍る思いをして、それ以上を言えなくなったのを覚えている。そして、その目の色が黒色から青紫色へと変化したという、人類生物学的に辨証出来ないそのミステリアスな出来事と、ペンションの駐車場で目撃した上月加世のやはり目の色の青紫色であった事実とは、一体どう言った関係があるのだろうか。
「そうか。あの女が晦冥会の暗殺者バイフーだったのか。どうりでただならぬ殺気を持った女だと思った。となると君やあずさはやはり、冷徹な暗殺者バイフーなんかではなかったという事だね。何だかこれで、胸の痞えが下りた気分だ。なぜって、俺は心の奥底のどこかで、君やあずさに対して疑心暗鬼になっている節があったのだからね。今朝だって俺を起こしに来たあずさに、犯人は自分だなんて一芝居打たれて、俺はもう命を亡くしたものだと覚悟したくらいだから」
「芝居?」
 美咲は体を起こして、上半身をわたくしの方へ向けた。
「ああ。あずさの奴、自分が江口を殺したって、ウソを吐いて来たんだ。あずさがバイフーなのだと、俺はすっかり勘違いをして、自室から逃げる算段をしていたが、もう既に手遅れな気がして、あらかた降参しかけた所で、あずさは冗談だと笑った」
『バカみたい、どうしてこんな子供じみたウソを真に受けるんですか?』
 その時のわたくしは、肩に力が入っている事を意識した。
「わたしの居ない間に、そんな出来事があったんですか」
 美咲は大きく腕を組んで、座席に背中を預けた。
「うん、全てが冗談話かと思って聞いていたら、江口の携帯電話の件は本当なのだと、更に俺を驚かせた」
『でも、ケータイを部屋に置いたのは本当です』
 わたくしの笑顔の固まったのを覚えている。
「何ですか、それ」
「あれ? 話していなかったっけ?」
 わたくしは頭の後ろに右手を当てた。美咲はデータロガーの画面に目を戻した。
「初耳です」
 わたくしは、何者かが江口の携帯電話を高田のショルダーバッグに入れて彼女に濡れ衣を着せようとした所を全面的に庇い立てる形であずさがその携帯電話をこっそりと彼の部屋に置いた話を美咲に伝えた。
「それ、本当の話ですか? あずさが宗村さんの気を惹こうとして作り出したウソの話ではないでしょうか」
  わたくしと美咲の両者において、あずさへの印象がこれ程までに食い違うとは、少し意外に思う程だった。
「まあ、その可能性もあるけど、信憑性の高い話だとは思わない? その後で高田さんは警察に保護を求めているわけだし、白羽の矢って彼女は表現していたけど、正しくその通りになってしまった」
 手すりに左腕を乗せたわたくしは、高田の自殺によって残された遺族たちは、いま一体どんな悲痛な思いだろうと静思した。
「白羽の矢、ですか。江口を殺したバイフーは、次に高田さんを殺害するという意味を込めて、彼の携帯電話を高田さんのショルダーバッグに入れた、そういう事でしょうか」
「そうする事で高田さんは怯えて警察に縋り付く、そこを狙って殺害した?」
 支柱の垂直梯子に手を掛けた検査技師が、打険ハンマーで本体フレイムを叩いていた。彼らは一瞬手を休め、頭上の我々のリフトに首を回した。
「それはちょっと妙な話ですね。高田さんの車に忍び込んで江口の携帯電話を彼女のバッグに入れる余裕があるバイフーが、わざわざ高田さんを警察に保護させてから、厳重な警備を掻い潜って殺害するなんて、合理性が全く感じられません」
「言われてみれば、そうだね。百戦錬磨の暗殺者だったら、無防備な高田さんを暗殺するなんて、朝飯前だったろうに、どうしてわざわざ警察に泣き付かせてから暗殺するような真似をしたんだ? うん? そもそも高田さんは、何の目的で殺されなければならなかったんだ?」
 後ろ手にエプロンの紐に解きながら、高田は迷惑そうに振り返った、その姿はどう見ても、堅気の人間にしか思えなかった。
「そこは実に悩ましい所です。考えようによってはバイフーは、高田さんのバッグに江口の携帯電話を入れて濡れ衣を着せようとしたのであれば、高田さんを犯人と仕立てあげて、自戒の念から自決してしまったというストーリーを描きたかったのかも知れません。しかし、江口サダユキは首吊り自殺として報じられています。今さら世間では犯人が誰だのと話題にもなっていません。それに、身の安全を保障して欲しいと警察に縋り付いた、自らの命を守ろうとする女性が、朝食に青酸カリを混ぜて自殺するなんて、非両立関係にあります。自殺に見せかけて毒殺するのは、バイフーの得意技だと石動刑事も言っていました」
 支柱の本数を表す支柱番号は、二十三本ある内の十二番目を表示していた。
「遺書は?」
「見つかったそうです。これもバイフーの得意技だそうで、被害者が晦冥会在籍中に残した書類の筆跡を忠実に再現して、偽物の遺書を作成するんだそうです」
 わたくしは両手を広げた。
「それ、全部石動刑事の話?」
「はい。彼のバイフーに対する執念は、生半可なものではないようです。どこでどう仕入れて来たものか、バイフーに関するあらゆる情報は、SТGよりも遥か先を行っています。それなものですから、石動刑事の朝の電話口では、終始忸怩たる思いを感じました。身の安全を保障していた被害者を、みすみすバイフーによって暗殺されてしまったのですから、当然と言えば当然です」
 支柱が森の中に起つようになると、超広帯域電波メーターの波形が急激に変化した。美咲は周囲の木々を見回した。
「そりゃまあ、悔しいよな。悔しくたって、警察は、今回の高田さんの死をどう取り扱うんだ? やはり自殺と判断するんだろう?」
 わたくしは左腕を上げて、フードのゴムに付着した雪を落とし始めた。
「手には青酸カリの入った容器、布団の上には高田さんの筆跡で書かれた遺書、不審人物の目撃証言はないと来ていますから、これら間接証拠から、高田さんの変死は自殺と判断される事でしょう。
 ただ、高田さんが死亡する直前、早朝の六時半頃に、配給センターを名乗る女が署を訪れています」
「何だって? じゃあ、その配給センターの女が今の所一番怪しいじゃないか」
 美咲はグローブの手で頬杖を突いた。
「警察って、署内は案外不用心なんだと思います。配給センターが弁当の注文を取りに来たらしいんですけど、受け付けた担当の記憶が恐ろしいほど曖昧で、訪問した記録も残っておらず、それではと配給センターに確認を入れた所、通常そんな時間帯に注文を取りに行く事はなく、全スタッフに確認して見たが、誰一人としてその時刻に出勤すらしていなかったとの事です」
「間違いないじゃないか。バイフーは配給センターのスタッフに扮装して、警察署の署員を手駒にして、署内に忍び込んだ」
 配給センターの制服とキャップを着用した、バイフーの不気味な姿が、わたくしの頭の中に浮かんだ。
「わたしも、そう思います。バイフーは暗殺のプロです。変装、身分の偽造、情報収集、不法侵入などは、朝飯前だと聞いています」
 わたくしは身を竦めて見せた。
「くわばら、くわばら。でもさあ、何て言うんだろう、これは俺の直感でしかないんだけど、今回の高田さんの突然の死は、今までの天道、木原、江口の暗殺と、何かが決定的に違う気がしないか?」
「?」
 美咲が前屈みの姿勢から体を起こした。
「よく分からないんだけど、今回の高田さんの死は、正しく晦冥会が指示した暗殺といった感じがしない? 冷酷無残なバイフーが、暗殺指令を受けてすみやかに処刑を実行した、って感じ? でも天道葵、木原正樹、江口サダユキの件は、なんて言うんだろう、敷島も言っていたけど、もっと趣旨の異なった目的と手段の一部に過ぎない、って感じがする。毒殺でもなかったしね」
「宗村さん、感覚だけで物を話しています」
「そうなんだけどさ。だって江口を暗殺したいなら、ペンションの自室に一人でいる時にでも毒殺すれば良かったじゃないか。天道や木原も、ちょっとした隙にでも、青酸カリで毒殺して自殺に見せかければいい。その方が圧倒的に安全で簡単だろう?」
 わたくしは直感や感覚的な話をしている内に段々と熱が入って来て気が付くとわたくしでも思いの外尤もらしい意見となっている事に気が付いた。
「まあ、そうですけど」
「それにさ、君と衝突したスノーボーダーの女が、今回の一連の犯人であるバイフーだとすると、その女は何かを必死に遂行している直向きさを感じたんだ。ただ晦冥会の暗殺指令に従って人殺しを繰り返しているような非道な印象はなく、ある重大な目的に向かって、我が身を危険に晒しながら行動している、そう言った心証を受けた」
 美咲は四秒黙った。
「では宗村さんは、高田さんを暗殺したバイフーと、天道、木原、江口の三名を暗殺した犯人とは、全くの別人だと考えているんですか?」
「俺は、そう思う」
 この時リフトの座席が大きく前後して、急速に速度を落とした。
「ん? ん? どうした?」
 美咲がデータロガーの画面に顔を近づけると、慌てて携帯電話を取り出して、タッチスクリーンの画面を見つめた。
「なになに、どうした?」
「宗村さん、圏外です」
 わたくしも同じように携帯電話を取り出して、ロック画面を眺めた。
「本当だ、圏外……お、一本立った、けど、また圏外」
 美咲は慌ててデータロガーを停止させながら、
「宗村さん、何だか嫌な予感がしませんか?」
「嫌な予感?」
 見渡す限りのオオソラビソの群生から、どこをどう吹き届くのか、不気味な風音が枝を渡って来た。
「このリフトは、一定の基準を超えた風速や風向が検知された場合、リフトを自動的に減速させ、さらに強い風速では停止させるような仕組みになっています。宗村さん、あの支柱の風速計を見て下さい、そのような風速はあの測定器の回転からは確認できません。もしかしたらこれは安全の為の自動停止ではなく、誰かが意図的に電動機を停止させていませんか?」
「誰かって、誰」
 わたくしと美咲は目を見つめ合った。
「まさか」
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