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学校へ行こう!
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「次は、登校拒否の子?」
いかにも幸せそうに、すぅーっとコロッケの匂いをかぐ里子。
「そうなんだよ聞いてくれよぉ。今回は青山マリンって変わった名前のやつでさー、そいつがすっげー頑固な女なんだー。自分が登校拒否をしているのに 俺たちが何もしなかったって もうカンカンに怒っていてさー、それをすげー根に持ってんの。もう学校に来るよう説得するどころの騒ぎじゃなかった」
そう言って金田は小指で耳の穴をほじる。
本日の談話室は 清掃業者が入った関係で 金田たち以外に誰もいなかった。
「かまってちゃん」
「そういう事だな。親に甘やかされて育って来たんだよ、マリンは。
でもまあ、甘やかされるだろうなー。だってマリンの親はぜったい鼻が高いもん。今では自分の娘がプロの漫画家としてデビューしていて、近所の本屋に娘の本が並んでいるんだから」
コロッケを二つに割って、その一方に小さく口を付ける里子、
「『クラスのマドンナはワイクルーを舞う』だっけ? あたし知っているわ その漫画。冒頭で主人公がクラスの子からいじめを受けているんだけど、その描写というのがやけにリアルで、やり方が巧妙で、学校にバレないよう狡猾な手口を使って。ホント読んでいて気分が悪くなった。だけどそのフラストレーションが主人公の反骨精神を爆発させ、ムエタイでの活躍の原動力になっている。世界戦の相手にダウンを奪われた時も、相手の顔がいじめっ子の顔に見えて、その時の悔しさがフラッシュバックして、怒りに我を忘れて 気づいたら相手をKOしていた」
黙々と漫画を描くマリンの背中を思い出して、金田は乱暴にコロッケをかじる。
「なるほどな、実体験か」
談話室から見える廊下にぞろぞろと人が歩いて来た。その中に男の子のように髪の短い少女が混ざっていて、その子が里子に向かって激しく手を振って来る。それに里子は笑顔で応えながら、
「あの子、今日が退院日なんだって。倉木アイスの曲を聴いていたから、すぐに仲良くなっちゃった」
「へえ」
短髪の子が金田の顔を見て ははん とした顔で小さく頭を下げる。
金田も反射的に頭を下げて、
「ふーん、退院か。なんか、里子の入院があまりに長いから、いつかは退院するって事を忘れちゃうよな。こうやって手土産持って見舞いに来るのも、いつかは終わるのか」
床にポリッシャーをかける機械的な音が鳴り始める。
ごちそうさま、と里子は紙ナプキンで口を拭いて、ビニール袋を金田の方へ移動させる。
「あれ? 一個で終わりかよ、まだこんなにあるのに」
里子はニコニコと笑っていた。
「明日もその子の所へ行くの? 金田くん」
「明日も明後日もだ。あいつが学校に来るまで俺は毎日あいつの家まで迎えに行く!」と金田は両手で髪を掻き上げ、キラリと目を光らせる。
「金田くん、根気いいね」
「根気がいいのはあっちも同じだ。呼べば必ず顔を出すし、毎朝俺を怒鳴りつけるし。いい勝負だよ。まあ、まだしばらくは怒りが収まりそうにないな」とそこで何かを思い出してカバンの中へ手を入れて、
「それはそうと、はい、これ」
テーブルの上に二枚のチケットが置かれる。
「わーっ! これ、倉木アイスのコンサートチケット! ホントに手に入れたの⁉」
「休養宣言が出てから初めての公式イベント、デビュー三周年記念プレミアムコンサート、すげーだろ」
金田がえへんと威張って見せる。
「これって、一夜限りの限定コンサートで、今やプレミアが付きまくって、ファンクラブ会員でも手に入らないって騒がれているやつじゃない! どうやって手に入れたの⁉」
チケットには倉木の顔が印刷されていて、デビュー当時の倉木と、現在の倉木の二人の横顔が向き合っていた。
「どうもこうもない。今でも信じられない。奇跡を起こしたんだ 俺は。ファンクラブ会員の先行抽選に申し込んだらすぐに当選結果が届いた。販売開始からほんの数分で完売。この前のシャンデリア・ナイト特別枠を外したくじ運の悪さをここで巻き返した感じだ。これを逃したら公演直前の機材開放席にすべてを賭けるつもりだったけど、いやー、ラッキーだった」
里子はチケットを両手に持って、それを天井にかざして見て、
「信じられない。金田くん、運をすべて使っちゃったんじゃない?」
「ヤバいかも知れないな、もう十年分の運を使ってしまった」と金田は笑って後ろ頭を手で掻いて、それからテーブルに両手をついて、
「だから、な、里子、いっしょに観に行こうな、倉木アイスのコンサート」
車イスに座った里子は、少しやつれた笑顔を金田に向けた。
ちゅんちゅんと、明るいカーテンにスズメの影が映る。
夜更けまで漫画を描いていたマリンは、知らぬ間に眠りに落ちたらしく、原稿用紙の上に突っ伏し むにゃむにゃと口を動かしていた。
そこへ突然、
「おーい、マリーン!」
ハッと頭を上げて、あわてて眼鏡を掛け直すマリン。
「おーい! 出て来いよー!」
次第に前後の事が明らかになって、「あいつー」とマリンは腕まくりをして大股で窓辺へ向かう。
シャッとカーテンを開けて、窓を全開まで開けて、
「うるさい、バカ! 毎朝毎朝、近所迷惑でしょ! 大声出すな!」
玄関先で金田が右手を上げる。
「おーいたいたー、マリン、迎えに来たぞー! 学校へ行こうぜ!」
「行くかバカ! もう二度と来るな!」
バタンと勢いよく窓を閉めて、あーと言ってマリンはベッドに倒れる。
「もうかれこれ一か月は続いているじゃない。ホントやめて欲しい、ホントあきらめの悪い男だわ! 金田って」
その時コンコンとドアにノックがあって、布団からマリンは顔を上げる。見ると、母親がドアに小さな隙間を作っていた。
「なに」
「おはよ」
エプロン姿の母がそーっと部屋に入って来て、ツンツンと窓の方を指差して、
「あの男の子、だれ?」
ブスッとした顔をしてデスクに向かうマリン。
「誰でもいいでしょ」
「クラスの子?」
両手でスカートを折ってベッドに腰掛ける母。
マリンは背中でため息をついて見せ、
「そうよ。まーったく、しつこいったらありゃしない。あたしが学校に行かなくなったって、だーれもなーんにも言って来なかったクセに、いざシャンデリア・ナイトが出来ないと分かったら、こうもしつこく押し掛けて来る。あったまに来ちゃうわ ホント」
話を聞きながら、母はめずらしそうに娘の部屋を見渡す。ムエタイのリングの写真や、サイン付きの赤のグローブ、週刊誌の表紙に使われたイラストなどが壁に飾られていた。
足元にある没になった原稿を拾い上げて、母、
「毎日だものね、あの子。根気あるわぁ。フフフ、あまりに根気が良くて、この間なんて土曜日にまで来ちゃったじゃない。おかしかったわー」
「………………」
娘の描いた原稿を眺めながら、母は幸せそうな横顔を見せて、
「行ってあげたら? 学校」
眉間にしわを寄せてマリンが振り返る。
「だーれが行くか」
「あの子、カッコ良かったじゃない。学校へ行く楽しみが一つ増えたんじゃない?」
マリンは般若のように顔をねじ曲げて、
「はあ⁉ どこがー!」
「母さん 好きだなー、ああいうタイプの子。俳優の小倉未来に似ていない? ハキハキとして、挨拶もきちんと出来て、熱心で、根気のいい子。もしかして彼、マリンの事が好きだったりして?」
マリンは近くの雑誌を拾い上げ、それを高々とふり上げて、
「あたしのコトが好きだったらあたしのコトを一年半も放置するかー! もー、これ以上変なコト言うんだったら出てってー!」
「あーはいはい、出て行くわ」と母はドアから最後の顔を出して、
「きっと明日も迎えに来るわね、彼。お茶でも用意しておこうかしら」
雑誌が飛んで来てドアにぶつかって、その雑誌はパラパラとページを開きながら床へ落ちる。
マリンは一呼吸おいて、窓の横の壁に背中をつけて、少しだけカーテンから顔をのぞかせる。そして頭を掻きながらガニ股で退散して行く金田の後ろ姿を見て、
「フン! あんないじめっ子みたいな見た目なやつ、どこがカッコ良いのよ!」
数ある街灯の明かりの下を、現れたり消えたりする黒い影、袋小路の先にある高い生垣を 人間離れした跳躍力で飛び越え、転がるように着地して、また夜の街を走って行く。
オフィス街の中心にある、都立記念公園、その敷地内へと黒い影は入って行き、きれいに整備された芝生の上をしばらく走ったあと、バタンと倒れて大の字になる。
「はあ、はあ、はあ」
星のまたたく夜空に向い、くり返し白い息を上げるその男は、他でもない九条修二郎だった。
遠くではバイクが爆走する音が響いている。
九条はゆっくりと立ち上がり、近くの水飲み場まで移動すると、蛇口をひねって乾いたのどを潤す。そしてそのまま目をつむって気持ち良さそうに頭から水をかぶって、水を止めようとハンドルを手探りしていると、キュッと誰かに蛇口が閉められる。
「?」
不思議に思って九条が顔を上げると、目の前に大柄な男が立っていた。
「よう、修、久しぶりだな」
「晃」
九条は起き上がって首に掛けたタオルで顔を拭く。
傷だらけの黒い革ジャンに、じゃらじゃらと太いウォレットチェーンを揺らす晃、
「修、こんな所でなにやっている」
少し芝生の上を歩いて行って、濡れた頭をブルブルと犬のように振る九条。
「なにって、少し走っていただけだ」
「少し?」と晃は相手の服がずぶ濡れになっているのを見て、
「どれだけ走ればそんな汗だくになるんだよ、ああ?」
九条は腕のストレッチをしながら、
「健康のためだ。晃も昔みたいに走ってみたらどうだ。気持ちいいぞ」
タバコをくわえ、小さな火の明かりで顔を照らす晃。
「ふん、俺はいまバイクに跨っている方が楽しい」
九条は濡れ髪をオールバックにして、近くに停められた大型バイクに目を向ける。
「晃こそ、こんな所で何をやっている」
バイクの爆音が次第に大きくなる。
「なにって、今夜はここで集会があるんだ」と そこで晃は相手の体を見て回り、
「修よ、なんでお前、そんなに体を鍛えてんだ? だいぶ仕上がっているじゃねーか。まさかお前、急に気が変わったとか言い出すんじゃねーだろうなあ」
顔を拭くタオルの動きが止まる。
「バカな事を言うな。俺の気は変わらない。変わるものか。あんなクソイベント、俺の代でつぶしてやる」
晃はタバコの煙を吐いて、その煙を満足そうに飲み込んで、
「その言葉を聞いて安心したぜ。しばらく会っていなかったから、もしかして修が改心してしまったんじゃねーかと思ってよ」
そこで晃は相手にタバコを勧めたが、九条はそれに首を振って断り、近くの庭園灯に腰を下ろす。
「だいぶ、しくじっているじゃないか」
あさっての方向を向いて、晃が舌打ちを見せる。
「一日でバイトをクビになるようなやつらだ、何をやらせてもちょうどっこじゃねーのさ。この間だって、盗撮したスクープ写真を雛形宛に郵送しろと言ったら、直接相手の家のポストに突っ込みやがって、弱っちまうよ。たまたま本人が写真を見つけたから良かったものの。チッ、まあ、今回のいじめに関しては首尾よく行っているがな」
「前にも同じような事を言っていたぞ」
二人は顔を合わせる。
「手厳しいなぁ、なかなか骨のあるやつがいて、こっちも手を焼いているんだ」
大型バイクがあちこちから公園に乗り入れて来る。
「金田か」
晃は鼻で笑って、仲間たちに手を挙げて応える。
「修、たまにはお前も俺らに協力しろ」
そう言ってウォレットから札束を抜き出し、それを相手の胸に押し当てる。
「これで、アメリカへ行ってこい」
「なんだと?」
晃はゆっくりとタバコの煙を吐き出して、
「もう次の手を打っておく必要がある。急ですまないが、お前にはアメリカへ行ってもらう。そして世界女王と鬼ごっこをしてもらう」
いかにも幸せそうに、すぅーっとコロッケの匂いをかぐ里子。
「そうなんだよ聞いてくれよぉ。今回は青山マリンって変わった名前のやつでさー、そいつがすっげー頑固な女なんだー。自分が登校拒否をしているのに 俺たちが何もしなかったって もうカンカンに怒っていてさー、それをすげー根に持ってんの。もう学校に来るよう説得するどころの騒ぎじゃなかった」
そう言って金田は小指で耳の穴をほじる。
本日の談話室は 清掃業者が入った関係で 金田たち以外に誰もいなかった。
「かまってちゃん」
「そういう事だな。親に甘やかされて育って来たんだよ、マリンは。
でもまあ、甘やかされるだろうなー。だってマリンの親はぜったい鼻が高いもん。今では自分の娘がプロの漫画家としてデビューしていて、近所の本屋に娘の本が並んでいるんだから」
コロッケを二つに割って、その一方に小さく口を付ける里子、
「『クラスのマドンナはワイクルーを舞う』だっけ? あたし知っているわ その漫画。冒頭で主人公がクラスの子からいじめを受けているんだけど、その描写というのがやけにリアルで、やり方が巧妙で、学校にバレないよう狡猾な手口を使って。ホント読んでいて気分が悪くなった。だけどそのフラストレーションが主人公の反骨精神を爆発させ、ムエタイでの活躍の原動力になっている。世界戦の相手にダウンを奪われた時も、相手の顔がいじめっ子の顔に見えて、その時の悔しさがフラッシュバックして、怒りに我を忘れて 気づいたら相手をKOしていた」
黙々と漫画を描くマリンの背中を思い出して、金田は乱暴にコロッケをかじる。
「なるほどな、実体験か」
談話室から見える廊下にぞろぞろと人が歩いて来た。その中に男の子のように髪の短い少女が混ざっていて、その子が里子に向かって激しく手を振って来る。それに里子は笑顔で応えながら、
「あの子、今日が退院日なんだって。倉木アイスの曲を聴いていたから、すぐに仲良くなっちゃった」
「へえ」
短髪の子が金田の顔を見て ははん とした顔で小さく頭を下げる。
金田も反射的に頭を下げて、
「ふーん、退院か。なんか、里子の入院があまりに長いから、いつかは退院するって事を忘れちゃうよな。こうやって手土産持って見舞いに来るのも、いつかは終わるのか」
床にポリッシャーをかける機械的な音が鳴り始める。
ごちそうさま、と里子は紙ナプキンで口を拭いて、ビニール袋を金田の方へ移動させる。
「あれ? 一個で終わりかよ、まだこんなにあるのに」
里子はニコニコと笑っていた。
「明日もその子の所へ行くの? 金田くん」
「明日も明後日もだ。あいつが学校に来るまで俺は毎日あいつの家まで迎えに行く!」と金田は両手で髪を掻き上げ、キラリと目を光らせる。
「金田くん、根気いいね」
「根気がいいのはあっちも同じだ。呼べば必ず顔を出すし、毎朝俺を怒鳴りつけるし。いい勝負だよ。まあ、まだしばらくは怒りが収まりそうにないな」とそこで何かを思い出してカバンの中へ手を入れて、
「それはそうと、はい、これ」
テーブルの上に二枚のチケットが置かれる。
「わーっ! これ、倉木アイスのコンサートチケット! ホントに手に入れたの⁉」
「休養宣言が出てから初めての公式イベント、デビュー三周年記念プレミアムコンサート、すげーだろ」
金田がえへんと威張って見せる。
「これって、一夜限りの限定コンサートで、今やプレミアが付きまくって、ファンクラブ会員でも手に入らないって騒がれているやつじゃない! どうやって手に入れたの⁉」
チケットには倉木の顔が印刷されていて、デビュー当時の倉木と、現在の倉木の二人の横顔が向き合っていた。
「どうもこうもない。今でも信じられない。奇跡を起こしたんだ 俺は。ファンクラブ会員の先行抽選に申し込んだらすぐに当選結果が届いた。販売開始からほんの数分で完売。この前のシャンデリア・ナイト特別枠を外したくじ運の悪さをここで巻き返した感じだ。これを逃したら公演直前の機材開放席にすべてを賭けるつもりだったけど、いやー、ラッキーだった」
里子はチケットを両手に持って、それを天井にかざして見て、
「信じられない。金田くん、運をすべて使っちゃったんじゃない?」
「ヤバいかも知れないな、もう十年分の運を使ってしまった」と金田は笑って後ろ頭を手で掻いて、それからテーブルに両手をついて、
「だから、な、里子、いっしょに観に行こうな、倉木アイスのコンサート」
車イスに座った里子は、少しやつれた笑顔を金田に向けた。
ちゅんちゅんと、明るいカーテンにスズメの影が映る。
夜更けまで漫画を描いていたマリンは、知らぬ間に眠りに落ちたらしく、原稿用紙の上に突っ伏し むにゃむにゃと口を動かしていた。
そこへ突然、
「おーい、マリーン!」
ハッと頭を上げて、あわてて眼鏡を掛け直すマリン。
「おーい! 出て来いよー!」
次第に前後の事が明らかになって、「あいつー」とマリンは腕まくりをして大股で窓辺へ向かう。
シャッとカーテンを開けて、窓を全開まで開けて、
「うるさい、バカ! 毎朝毎朝、近所迷惑でしょ! 大声出すな!」
玄関先で金田が右手を上げる。
「おーいたいたー、マリン、迎えに来たぞー! 学校へ行こうぜ!」
「行くかバカ! もう二度と来るな!」
バタンと勢いよく窓を閉めて、あーと言ってマリンはベッドに倒れる。
「もうかれこれ一か月は続いているじゃない。ホントやめて欲しい、ホントあきらめの悪い男だわ! 金田って」
その時コンコンとドアにノックがあって、布団からマリンは顔を上げる。見ると、母親がドアに小さな隙間を作っていた。
「なに」
「おはよ」
エプロン姿の母がそーっと部屋に入って来て、ツンツンと窓の方を指差して、
「あの男の子、だれ?」
ブスッとした顔をしてデスクに向かうマリン。
「誰でもいいでしょ」
「クラスの子?」
両手でスカートを折ってベッドに腰掛ける母。
マリンは背中でため息をついて見せ、
「そうよ。まーったく、しつこいったらありゃしない。あたしが学校に行かなくなったって、だーれもなーんにも言って来なかったクセに、いざシャンデリア・ナイトが出来ないと分かったら、こうもしつこく押し掛けて来る。あったまに来ちゃうわ ホント」
話を聞きながら、母はめずらしそうに娘の部屋を見渡す。ムエタイのリングの写真や、サイン付きの赤のグローブ、週刊誌の表紙に使われたイラストなどが壁に飾られていた。
足元にある没になった原稿を拾い上げて、母、
「毎日だものね、あの子。根気あるわぁ。フフフ、あまりに根気が良くて、この間なんて土曜日にまで来ちゃったじゃない。おかしかったわー」
「………………」
娘の描いた原稿を眺めながら、母は幸せそうな横顔を見せて、
「行ってあげたら? 学校」
眉間にしわを寄せてマリンが振り返る。
「だーれが行くか」
「あの子、カッコ良かったじゃない。学校へ行く楽しみが一つ増えたんじゃない?」
マリンは般若のように顔をねじ曲げて、
「はあ⁉ どこがー!」
「母さん 好きだなー、ああいうタイプの子。俳優の小倉未来に似ていない? ハキハキとして、挨拶もきちんと出来て、熱心で、根気のいい子。もしかして彼、マリンの事が好きだったりして?」
マリンは近くの雑誌を拾い上げ、それを高々とふり上げて、
「あたしのコトが好きだったらあたしのコトを一年半も放置するかー! もー、これ以上変なコト言うんだったら出てってー!」
「あーはいはい、出て行くわ」と母はドアから最後の顔を出して、
「きっと明日も迎えに来るわね、彼。お茶でも用意しておこうかしら」
雑誌が飛んで来てドアにぶつかって、その雑誌はパラパラとページを開きながら床へ落ちる。
マリンは一呼吸おいて、窓の横の壁に背中をつけて、少しだけカーテンから顔をのぞかせる。そして頭を掻きながらガニ股で退散して行く金田の後ろ姿を見て、
「フン! あんないじめっ子みたいな見た目なやつ、どこがカッコ良いのよ!」
数ある街灯の明かりの下を、現れたり消えたりする黒い影、袋小路の先にある高い生垣を 人間離れした跳躍力で飛び越え、転がるように着地して、また夜の街を走って行く。
オフィス街の中心にある、都立記念公園、その敷地内へと黒い影は入って行き、きれいに整備された芝生の上をしばらく走ったあと、バタンと倒れて大の字になる。
「はあ、はあ、はあ」
星のまたたく夜空に向い、くり返し白い息を上げるその男は、他でもない九条修二郎だった。
遠くではバイクが爆走する音が響いている。
九条はゆっくりと立ち上がり、近くの水飲み場まで移動すると、蛇口をひねって乾いたのどを潤す。そしてそのまま目をつむって気持ち良さそうに頭から水をかぶって、水を止めようとハンドルを手探りしていると、キュッと誰かに蛇口が閉められる。
「?」
不思議に思って九条が顔を上げると、目の前に大柄な男が立っていた。
「よう、修、久しぶりだな」
「晃」
九条は起き上がって首に掛けたタオルで顔を拭く。
傷だらけの黒い革ジャンに、じゃらじゃらと太いウォレットチェーンを揺らす晃、
「修、こんな所でなにやっている」
少し芝生の上を歩いて行って、濡れた頭をブルブルと犬のように振る九条。
「なにって、少し走っていただけだ」
「少し?」と晃は相手の服がずぶ濡れになっているのを見て、
「どれだけ走ればそんな汗だくになるんだよ、ああ?」
九条は腕のストレッチをしながら、
「健康のためだ。晃も昔みたいに走ってみたらどうだ。気持ちいいぞ」
タバコをくわえ、小さな火の明かりで顔を照らす晃。
「ふん、俺はいまバイクに跨っている方が楽しい」
九条は濡れ髪をオールバックにして、近くに停められた大型バイクに目を向ける。
「晃こそ、こんな所で何をやっている」
バイクの爆音が次第に大きくなる。
「なにって、今夜はここで集会があるんだ」と そこで晃は相手の体を見て回り、
「修よ、なんでお前、そんなに体を鍛えてんだ? だいぶ仕上がっているじゃねーか。まさかお前、急に気が変わったとか言い出すんじゃねーだろうなあ」
顔を拭くタオルの動きが止まる。
「バカな事を言うな。俺の気は変わらない。変わるものか。あんなクソイベント、俺の代でつぶしてやる」
晃はタバコの煙を吐いて、その煙を満足そうに飲み込んで、
「その言葉を聞いて安心したぜ。しばらく会っていなかったから、もしかして修が改心してしまったんじゃねーかと思ってよ」
そこで晃は相手にタバコを勧めたが、九条はそれに首を振って断り、近くの庭園灯に腰を下ろす。
「だいぶ、しくじっているじゃないか」
あさっての方向を向いて、晃が舌打ちを見せる。
「一日でバイトをクビになるようなやつらだ、何をやらせてもちょうどっこじゃねーのさ。この間だって、盗撮したスクープ写真を雛形宛に郵送しろと言ったら、直接相手の家のポストに突っ込みやがって、弱っちまうよ。たまたま本人が写真を見つけたから良かったものの。チッ、まあ、今回のいじめに関しては首尾よく行っているがな」
「前にも同じような事を言っていたぞ」
二人は顔を合わせる。
「手厳しいなぁ、なかなか骨のあるやつがいて、こっちも手を焼いているんだ」
大型バイクがあちこちから公園に乗り入れて来る。
「金田か」
晃は鼻で笑って、仲間たちに手を挙げて応える。
「修、たまにはお前も俺らに協力しろ」
そう言ってウォレットから札束を抜き出し、それを相手の胸に押し当てる。
「これで、アメリカへ行ってこい」
「なんだと?」
晃はゆっくりとタバコの煙を吐き出して、
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