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【魚眼ランナー】
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子供の頃に、聞いて、覚えている話。やがて大人になって、ふとした瞬間に思い出して、ふしぎに思う事がある。〝それ〟が何であったか、大人の頭脳を駆使して、いくら精査してみても、記憶はふわふわ、顔もぼんやり、例えるならば、きのう見た夢。現実とは違って、頼りないものでありながら、それでいて、当時抱いた恐怖心だけは、今でもハッキリと覚えている。
前後の話は、すっかり忘れてしまった。気持ち良いくらい、何も覚えていない。なんでも私は小学生、それも多感な五、六年生。季節は春か夏、公園の桜が夜桜で見ごろだったから、春だ。平日の夜、だったか、突然父は私を連れてある人のお宅へお邪魔した。その時の私は、大人のへんなノリのようなものに、当惑していた。父の仕事の関係か、お世話をした人か、とにかく、豪華な家の軒先に立って、春の夜、父と私は二人、ドアの開くのを待っていた。そのお宅では、すでに夕食の準備が整っていた。花びらが舞い、明るい笑顔にあふれ、両手を広げて案内を受ける、というような歓迎を受けた記憶がある。
なぜこんなにもてなされるのか、気を使われなければならないのか、そこは未だに謎。年老いた父をつかまえて、問い質してみても、「そんなことあったっけ」と、呆れるくらい覚えていない。そして、その場に母の姿がなかったのが、深い闇のようなものさえ感じる。
さておき、父と私、二人の客人は、豪勢な食卓を前にして、席についた。父は愛嬌をふりまいて、よくしゃべった。私は、他人の家の食卓とあって、小さくなっていた。御馳走の中で、特に印象に残っているのが、稚鮎のフリット、まあ、小魚の天ぷらだが、奥さんは、魚の骨、大丈夫? とか、魚が嫌いだって後から聞いたものだから、とか、エプロン姿で、私の食事の様子に神経を使った。
奥さんとご主人の二人がして、我われをもてなし、後の家族は、二階にいるらしかった。大学生の長女と、高校生の長男、彼ら二人の子供たちは、小学生の相手をするにはあまりに歳が離れていた。だから、二階にいるらしかった。食事が済んで、ご主人は、待ち切れない様子で釣りの話を始めた。なんでも海にボートを出して、カジキ釣りをするような、本格派だった。父は、釣りだけはやらなかった。しかし「はあはあ」と感心しながら、話を合わせていた。酒が入って、ご主人は、魚拓を見せたがって、二人で退室して行った。
私は、奥さんと二人きりになった。奥さんは気を利かせて、学校の様子などを聞いて来た。私は、ちゃんとは答えられず、ばかに照れていた。そこへ、ムスッとした長女が、リビングに顔を出して、テレビのリモコンを手にした。長い髪を結わずに、ソファーに寝そべった。奥さんは、「〇〇ちゃん、ごあいさつ」と困った顔で皿をさげ始めた。大学生の女の人は、当時の私にとって、たいへん大人びて見えた。もう大人だった。ロングスカートにあぐらをかいて、つまらなそうにチャンネルを回す。
「なんだ、今週、ないじゃん」
見たいドラマでもあったらしく、テレビを消して、リモコンを投げた。そしてドンドン足音を立てて、テーブルの方へやって来た。食べ終わった皿を見渡して、ため息をついて、椅子を引いて横向きに座る。
「こんばんは」
私を見て、お姉さんは頬杖を突いた。私はへどもどした。小魚を一匹、手づかみで口の中に入れて、もぐもぐしながら奥さんと会話。その話の内容は、当時の私には分からない、男の顔の良し悪しの話だった。
「ダメダメ、からかっては、悪いじゃない」
奥さんは、残り物にラップをしながら、背中で答えた。そして、時計の針を見上げて、
「そう言えば最近、走らないじゃない。前までは、毎晩のようにジョギングしていたのに」
お姉さんは、ちらりと私の顔を見て、
「だって、怖いんだもん」
「怖いって? なにが」
「あたし、聞いたんだ、F子の話。それ聞いたら、怖くなっちゃった。もう走れない」
「痴漢?」
「ちがう。魚眼ランナーの話」
奥さんはこちらを振り返った。私は、奥さんとお姉さんと、交互に見た。お姉さんは前髪を指ではさんで、平気な顔で話し始めた。
「F子ってね、夜になると、ダイエットのために走っていたんだって。あたしと一緒で、部活やめたら、急に体型が変わっちゃって、ボタン飛んだんだって。笑える。それで、昼間は人に見られると恥ずかしいからって、夜、近所にある河川敷を走っていたんだって。橋を二回渡って、一周すると三キロくらい。
それで、その夜は、飲み会があって、遅くなって、迷ったけど、太りたくないから、いつもより遅い時間から走り始めたんだって。いつも通り汗をかいて、誰もいないような夜の河川敷を走っていたら、ちょっと先、五メートル先くらいに、同じように走っている人がいて、ああ、自分と同じくダイエットしている人かなって、思ったんだって。道が暗くて、男か女かさえ分からなくて、ずーっと、F子と同じペースで走っていて、F子、だんだん気になって来て、どんな人なんだろうって、走りながら、ちらちら様子を見ていたんだって。そうしたら、なんか変だなって、走り方がおかしいなって。腕の振り方、足の動かし方、なんか普通じゃない。何だろう、何だろうって、見ていたら、何か嫌な予感。後ろから車がやって来て、ヘッドライトの明かりが下からだんだんその人の事を照らし始めたんだって、そしたらF子、ぎゃあーって悲鳴を上げて、Uターンして逃げ帰って来たんだって。
そのときF子が見たランナーって、絵に描いて見せてもらったけど、魚のようなまん丸の白目に、点のような黒目があって、うるおいが全く無い。口が耳の所までさけて、ニンマリと笑って、F子の事をじっと見て、後ろ向きに走っていたんだって」
奥さんはびっくりして、手を滑らせて、皿を一枚割った。
「なんなの、怖い」
「だからさ、そんな話を聞いたら、あたしもう走れなくなっちゃった」
お姉さんは、私の顔を見て、いたずらっぽく笑った。その内に、ご主人のにぎやかな声が、廊下から響いて来た。そこまで。私の記憶はここで途切れる。その後の事はいっさい覚えていない。
それから大人になって、私は、夜のジョギングに汗を流す事がある。こんな時には決まって、魚のような目をして、ニンマリ笑ったランナーが、後ろ向きで走っていないかどうか、確かめる必要があった。
前後の話は、すっかり忘れてしまった。気持ち良いくらい、何も覚えていない。なんでも私は小学生、それも多感な五、六年生。季節は春か夏、公園の桜が夜桜で見ごろだったから、春だ。平日の夜、だったか、突然父は私を連れてある人のお宅へお邪魔した。その時の私は、大人のへんなノリのようなものに、当惑していた。父の仕事の関係か、お世話をした人か、とにかく、豪華な家の軒先に立って、春の夜、父と私は二人、ドアの開くのを待っていた。そのお宅では、すでに夕食の準備が整っていた。花びらが舞い、明るい笑顔にあふれ、両手を広げて案内を受ける、というような歓迎を受けた記憶がある。
なぜこんなにもてなされるのか、気を使われなければならないのか、そこは未だに謎。年老いた父をつかまえて、問い質してみても、「そんなことあったっけ」と、呆れるくらい覚えていない。そして、その場に母の姿がなかったのが、深い闇のようなものさえ感じる。
さておき、父と私、二人の客人は、豪勢な食卓を前にして、席についた。父は愛嬌をふりまいて、よくしゃべった。私は、他人の家の食卓とあって、小さくなっていた。御馳走の中で、特に印象に残っているのが、稚鮎のフリット、まあ、小魚の天ぷらだが、奥さんは、魚の骨、大丈夫? とか、魚が嫌いだって後から聞いたものだから、とか、エプロン姿で、私の食事の様子に神経を使った。
奥さんとご主人の二人がして、我われをもてなし、後の家族は、二階にいるらしかった。大学生の長女と、高校生の長男、彼ら二人の子供たちは、小学生の相手をするにはあまりに歳が離れていた。だから、二階にいるらしかった。食事が済んで、ご主人は、待ち切れない様子で釣りの話を始めた。なんでも海にボートを出して、カジキ釣りをするような、本格派だった。父は、釣りだけはやらなかった。しかし「はあはあ」と感心しながら、話を合わせていた。酒が入って、ご主人は、魚拓を見せたがって、二人で退室して行った。
私は、奥さんと二人きりになった。奥さんは気を利かせて、学校の様子などを聞いて来た。私は、ちゃんとは答えられず、ばかに照れていた。そこへ、ムスッとした長女が、リビングに顔を出して、テレビのリモコンを手にした。長い髪を結わずに、ソファーに寝そべった。奥さんは、「〇〇ちゃん、ごあいさつ」と困った顔で皿をさげ始めた。大学生の女の人は、当時の私にとって、たいへん大人びて見えた。もう大人だった。ロングスカートにあぐらをかいて、つまらなそうにチャンネルを回す。
「なんだ、今週、ないじゃん」
見たいドラマでもあったらしく、テレビを消して、リモコンを投げた。そしてドンドン足音を立てて、テーブルの方へやって来た。食べ終わった皿を見渡して、ため息をついて、椅子を引いて横向きに座る。
「こんばんは」
私を見て、お姉さんは頬杖を突いた。私はへどもどした。小魚を一匹、手づかみで口の中に入れて、もぐもぐしながら奥さんと会話。その話の内容は、当時の私には分からない、男の顔の良し悪しの話だった。
「ダメダメ、からかっては、悪いじゃない」
奥さんは、残り物にラップをしながら、背中で答えた。そして、時計の針を見上げて、
「そう言えば最近、走らないじゃない。前までは、毎晩のようにジョギングしていたのに」
お姉さんは、ちらりと私の顔を見て、
「だって、怖いんだもん」
「怖いって? なにが」
「あたし、聞いたんだ、F子の話。それ聞いたら、怖くなっちゃった。もう走れない」
「痴漢?」
「ちがう。魚眼ランナーの話」
奥さんはこちらを振り返った。私は、奥さんとお姉さんと、交互に見た。お姉さんは前髪を指ではさんで、平気な顔で話し始めた。
「F子ってね、夜になると、ダイエットのために走っていたんだって。あたしと一緒で、部活やめたら、急に体型が変わっちゃって、ボタン飛んだんだって。笑える。それで、昼間は人に見られると恥ずかしいからって、夜、近所にある河川敷を走っていたんだって。橋を二回渡って、一周すると三キロくらい。
それで、その夜は、飲み会があって、遅くなって、迷ったけど、太りたくないから、いつもより遅い時間から走り始めたんだって。いつも通り汗をかいて、誰もいないような夜の河川敷を走っていたら、ちょっと先、五メートル先くらいに、同じように走っている人がいて、ああ、自分と同じくダイエットしている人かなって、思ったんだって。道が暗くて、男か女かさえ分からなくて、ずーっと、F子と同じペースで走っていて、F子、だんだん気になって来て、どんな人なんだろうって、走りながら、ちらちら様子を見ていたんだって。そうしたら、なんか変だなって、走り方がおかしいなって。腕の振り方、足の動かし方、なんか普通じゃない。何だろう、何だろうって、見ていたら、何か嫌な予感。後ろから車がやって来て、ヘッドライトの明かりが下からだんだんその人の事を照らし始めたんだって、そしたらF子、ぎゃあーって悲鳴を上げて、Uターンして逃げ帰って来たんだって。
そのときF子が見たランナーって、絵に描いて見せてもらったけど、魚のようなまん丸の白目に、点のような黒目があって、うるおいが全く無い。口が耳の所までさけて、ニンマリと笑って、F子の事をじっと見て、後ろ向きに走っていたんだって」
奥さんはびっくりして、手を滑らせて、皿を一枚割った。
「なんなの、怖い」
「だからさ、そんな話を聞いたら、あたしもう走れなくなっちゃった」
お姉さんは、私の顔を見て、いたずらっぽく笑った。その内に、ご主人のにぎやかな声が、廊下から響いて来た。そこまで。私の記憶はここで途切れる。その後の事はいっさい覚えていない。
それから大人になって、私は、夜のジョギングに汗を流す事がある。こんな時には決まって、魚のような目をして、ニンマリ笑ったランナーが、後ろ向きで走っていないかどうか、確かめる必要があった。
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