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呪いと祝詞の出会い
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学校帰りの夕暮れ、白蓮透真は商店街の賑わいの中を歩いていた。ヘッドフォン越しに聞こえる雑踏の音。人々の笑い声や足音が混ざり合い、遠くで響く金属音が微かに耳をかすめる。
透真の耳には、彼の心の平穏を守るための道具――ヘッドフォンがしっかりと装着されている。それは単なる音楽プレイヤーの付属品ではない。人々の心の叫び、魂の声を遮断する唯一の防壁だった。
しかし、すれ違う人の波に押され、ふとした瞬間、ヘッドフォンが片耳から外れてしまう。
その瞬間、頭の中に言葉にならない叫びが押し寄せた。 「ムカつくんだよ、あいつら。」 「嘘ばっかり……もう嫌だ。」 「消えてしまえ。存在なんて無意味だ。」 「あいつばかりずるい……」「どうして自分だけこんな目に……」
透真は眉を寄せ、すぐさまヘッドフォンを戻した。だが、頭に残る声の余韻は消えない。魂の叫び――それは他人の本音でありながら、透真自身をも蝕む呪いだった。
彼の耳に届く魂の声。それは、父親から受け継いだ力ゆえの宿命だった。聞きたくもない心の叫びが、透真の心に容赦なく突き刺さるものだった。
彼は深く息を吐き、冷静を取り戻そうとした。そのとき、雑踏に紛れるように、甘くも冷たい蓮の香りが鼻先を掠める。その香りに導かれるように、透真の足は無意識に動いていた。
目の前に掲示板が現れる。古びた木製の板には色褪せたポスターや張り紙が無造作に貼られている。その中に、一枚の紙が目に留まった。
「アルバイト募集 未経験歓迎」
紙に書かれたシンプルな文字。しかし、透真の目を引いたのはその下に添えられた手書きの一文だった。
「呪われた人、歓迎」
透真は足を止めた。呪われた人――それはまるで自分のために書かれたような言葉だった。再び蓮の香りが風に乗って漂ってくる。透真は紙に記された住所を頼りに、その張り紙の主に会うことを決めた。
住所をたどった先は、小さなビルの一角だった。控えめな看板に「九条探偵事務所」と記されている。薄暗い階段を上り、重厚な木製の扉を押すと、静寂の中にきしむ音が響いた。
扉が開いた瞬間、透真の鼻腔を満たしたのは蓮の香り。それは商店街で感じたものとは異なり、より深く、清らかで、どこか厳かな印象を与えた。
室内には、不思議な光景が広がっていた。中央のテーブルには蓮の形をした美しく、高貴な香皿が置かれており、白い煙が立ち上る。その煙は空間に優雅な軌跡を描きながら、透真を歓迎するように足元を包み込んでいく。
その奥に立っていたのは、銀髪の男だった。
銀の髪は柔らかな光をまとい、後ろで束ねられている。白地に紫と金の刺繍が施された衣装は格式高い陰陽師の装束そのもの。耳にはダイヤを散りばめた蓮の形をしたピアスが輝き、胸元には同じく蓮を象った銀の飾りが揺れていた。その姿は、絵画から抜け出してきたかのような非現実的な美しさを持っていた。
透真は思わず息を呑んだ。目の前の男の存在感は、ただそこに立っているだけで空間そのものを支配しているように感じられた。しかし、透真が驚いたのはその姿だけではない。九条から発せられる空気――それは冷たくも清らかで、どこか人間離れした気高さを感じさせた。
(この人……普通じゃない。)
透真は制服の襟元を少し直した。学校帰りでありながら、こんな場違いな空間に足を踏み入れてしまった自分に気づく。黒髪のウルフヘアーが不規則に揺れる彼の姿は、端正な顔立ちと相まって周囲を圧倒する雰囲気を持っていたが、どこか冷たく、人を寄せ付けないオーラが漂っていた。制服の肩には学校帰りの疲れが微かに見えるものの、その鋭い目つきは余計な感情を排除し、自分を守る壁を作っているようだった。
九条の視線が、そんな透真の全身を一瞬で捉えた。銀色の瞳は冷静そのもので、微かな興味と警戒心が混ざっている。
(確かに、なかなかの素材だな……呪い持ち特有の孤独感を背負っている顔だ。)
九条は目の前の少年を観察しながら、その鋭い目つきと整った顔立ちが放つ雰囲気を冷静に評価した。制服姿に隠れた長身の体格と、全身から滲み出る孤高のオーラ。それは透真の内面をそのまま映し出しているようだった。
「そのヘッドフォン、外せ。」
九条清蓮が静かに言葉を発した。その声には冷たさと優しさが絶妙に混じり、どこか命令とは異なる柔らかな響きがあった。
透真は一瞬、目の前の男の言葉に反発しようとしたが、その青色の瞳の奥に潜む圧倒的な存在感に飲み込まれるように、言葉を飲み込んだ。煙が絡みつく空間から逃れるように、彼はゆっくりとヘッドフォンに手を伸ばす。
(外したら何が起きる?だが、この場では逆らえない……)
透真の手がヘッドフォンを外した瞬間、その頭の中に新たな声が響いた。
「こいつ、呪い持ちか。」
透真は目を見開く。その声はこれまで聞いてきた魂の叫びとは明らかに異なっていた。雑音混じりの苦しみでも、怒りでもない。冷静で鋭く、しかし不思議な透明感を持っていた。
九条は透真の反応を見て、薄く微笑んだ。その表情には、確信と興味が交じり合ったものが滲んでいた。
「お前の呪いは特別だ。魂の声が聞こえる、そうだろう?」
透真は鋭い声に動揺を隠せないまま、九条を見上げた。彼の192センチの長身は、ただ立っているだけで透真を包み込むように感じられた。
(どうして……この人が俺のことを知っている?)
胸の奥がざわつく。それは恐怖とも好奇心ともつかない、説明しがたい感覚だった。初めて会ったはずの男が、自分の抱える秘密を見透かしている。その冷静でありながらも全てを包み込むような雰囲気に、透真は言葉を失っていた。
「俺の名前は九条清蓮、陰陽師だ。」
その言葉が透真の耳に届いた瞬間、部屋の空気が一段と清らかに感じられた。陰陽師――透真にとっては名前だけで知る存在。その生業を目の前の男が名乗ったことに、一種の非現実感を覚えた。
九条は机の上でゆるやかに漂う香の煙に視線を向け、美しい蓮の模様が施された扇子を取り出す。その動作は一分の隙もなく、まるで計算された舞のようだった。扇子が静かに空を切り、わずかな風が起こると、煙は一層柔らかく揺らぎ、部屋中に甘い香りが満ちていく。
「この場所は結界で守られている。ここでは俺以外の魂の声は届かない。それに、清められた空間でもあるから、お前にはもうヘッドフォンは必要ない。」
九条は柔らかい声でそう告げた。その声には冷たい響きはなく、まるで透真の緊張を解こうとするかのようだった。
「白蓮透真です。」
透真が名前を告げると、九条の動きがぴたりと止まった。青の瞳がわずかに見開かれる。その一瞬の変化は、驚きと警戒心が入り混じったものだった。しかし、九条はすぐに表情を整え、口元に静かな微笑みを浮かべた。
「白蓮、か……。その名前が再び現れるとは……いや、これは偶然ではないかもしれない。」
低くつぶやかれたその声には、透真には理解できない重みが宿っていた。その言葉が空気を揺らしたような錯覚すら覚えたが、九条はそれ以上何も言わない。ただその瞳には、一瞬だけ射抜くような鋭い光が宿った。
(やはり、そうか……運命というやつだな。)
九条の魂から流れる澄んだ声が、突然透真の頭の中に響いた。それは今まで聞いてきた魂の叫びとはまるで異なり、深く、静かで、どこか冷たい。
透真は眉をひそめた。魂の声が聞こえることには慣れているはずなのに、その響きには奇妙な圧迫感があった。
その瞬間、九条がゆっくりと手を伸ばし、香を焚く器を取り上げた。器から立ち上る白い煙が部屋中に広がり始めると、彼は小さな声で短い祝詞を唱え出した。低く静かな響きが空間全体を満たしていく。
「……禍を祓い、穢れを清める。」
その言葉が終わると同時に、透真の頭の中に響いていた九条の魂の声が、不意に完全に消えた。
「……何をした?」
透真がわずかに戸惑いを滲ませた声で尋ねると、九条は器を静かに置き、目を閉じて短く息を吐いた。そして、透真を見つめる瞳は、さきほどまでの飄々としたものとは異なり、どこか厳しさと哀しさが混ざり合ったような色を帯びていた。
「お前の名前を聞いた瞬間に、心を読まれてはいけないと思った。それだけのことだ。」
「どういう意味ですか?」
「お前がいずれ知る時が来る。まあ、そのうち分かるからさ。深く考えなくていいぞ。」
九条はそれ以上何も語らず、再び静かに香の煙に目を落とした。その横顔には、まだ明かされない深い事情が刻まれているようだった。
(……どうして?)
透真は戸惑った。今まで魂の声が突然消えるなどということは一度もなかった。九条の祝詞――それが原因だと直感的に理解したが、その意図が読めない。
(あの人……俺の名前を聞いて何かに気づいたのか?)
透真の胸には、不安と興味が入り混じった感情が渦巻いていた。目の前の男が、自分の抱える呪いと関係があるのではないか――そんな考えが頭を離れない。だが、それを問いただす前に九条が口を開いた。
「お前の名前を聞いて、一つ確信した。」
九条は扇子を閉じると、透真をじっと見つめた。その瞳には、静かな熱意と何かを秘めた光が宿っている。
「まあ、そのうち分かるからさ。深く考えるな。魂の声が聞こえなくなった理由も、やがて分かる時が来る。」
その言葉には断定的な力がありながらも、どこか優しさがにじんでいた。透真は思わず視線を落とす。目の前の九条の言葉には嘘がないと直感する一方で、彼が知っていることを隠しているのも明白だった。
(俺の名字に反応したのは偶然じゃない……でも、どうしてだ?)
透真の中で、九条への疑念と興味がさらに膨らんでいく。自分の呪いを見抜き、魂の声を消したこの男――九条清蓮。その存在は、透真にとって新たな運命の幕開けを告げるものに違いないと感じられた。
その時、探偵事務所の扉が小さな音を立てて開いた。夕闇に沈む外の光が、一瞬だけ室内に差し込む。
「すみません……ここ、九条探偵事務所ですよね?」
控えめな声と共に姿を現したのは、1人の若い女性だった。肩に触れるくらいの栗色の髪を持ち、清楚な雰囲気が漂っている。彼女は23歳ほどに見えた。透真と目が合うと、一瞬戸惑ったように視線を逸らしながらも、すぐに九条に向き直る。
透真はその姿を見つめるうちに、不意に胸の奥がざわつくのを感じた。もし姉が生きていたら――そう思うと、記憶の奥底にしまい込んだ光景が静かに蘇る。
幼い頃、雨の中で転んだ自分を抱き起こし、傷ついた膝を手で覆ってくれた姉の手の温かさ。
「透真、大丈夫。私がいるから怖がらなくていいよ」と微笑んだ姉の声。その安心感は、彼の心にずっと灯っている光だった。
しかし、その記憶のすぐ後に浮かぶのは、最後に聞いた姉の言葉――「透真、絶対に生き延びて。この力は、あなたの未来のためにあるから」。その声が重なり合うたび、透真の胸は締め付けられるような痛みに苛まれる。
透真はかすかに眉を寄せ、視線をそらした。自分を守るために命を懸けた姉の最後の姿は、記憶の奥底に封じ込めたつもりだった。それでも、目の前の女性の姿が、押し込めたはずの記憶の扉を少しずつ開けていく。
「私、園田ひとみと申します……。九条さんにご相談があって……」
女性の柔らかな声が静かな空間に響いた。透真はその言葉に意識を引き戻されると、姉の記憶の影が胸の奥でわずかに揺れ続けるのを感じていた。
九条は柔らかな微笑みを浮かべながら、軽く扇子を開いた。扇子の蓮の模様が揺れ、甘い香りが再び室内を満たす。
「相談とは、何についてだ?」
ひとみは九条の銀髪と澄んだ青い瞳と高貴な立ち振る舞いに、しばらく見惚れていた。しかし、すぐにハッと我に返り、視線を少し下に落としながら話し始めた。
あの……私、1人暮らしをしているんですけど……最近、実家から持ってきた鏡から夜中に声が聞こえるんです。『助けて』って……。最初は気のせいだと思ったんですけど、何度も聞こえて……怖くて……」
ひとみの言葉に、透真はわずかに眉をしかめた。
(鏡から声?馬鹿馬鹿しい……そんなことあるわけないだろ。)
だが、九条は冷静だった。透真に目をやると、口元に薄く笑みを浮かべた。
「なるほど……それは興味深い。透真、試しについて来い。」
「え?」
透真は突然の指示に戸惑った。まだアルバイトをするかどうかも決めていないというのに――。
「その依頼をこなしてみて、お前がこの仕事に向いているかどうか試してみるといい。鏡から声がするなど、そうそう聞ける話ではないだろう?」
「……いや、俺は別にこんな馬鹿げた話――」
「馬鹿げているかどうかは、お前自身が見極めればいい。さあ、どうする?」
九条は言葉を切りながら、扇子をゆっくりと閉じた。その動作には、断る余地を与えない威圧感すら感じられる。
「……分かったよ。試しについていく。」
透真がため息混じりにうなずいた瞬間、九条の口元にわずかな微笑が浮かんだ。その微笑には、興味と警戒が微妙に入り混じっていた。
(白蓮……やはりそうなのか?)
九条の中で、長い間封じられていた記憶が静かに揺れ動く。伝説として語り継がれた白蓮家の力――その血筋が絶えたはずの存在が、今目の前に立っている。それを確認するためにも、この初めての依頼は絶好の機会だった。
(この少年の力……本当に“あの白蓮”のものなのか、それとも――)
九条は視線を蓮の形をした香皿に向けた。白く柔らかな煙が静かに立ち上り、まるで何かを予感させるかのように揺れている。
「白蓮、か……まさか、まだ生き残りが……?」
(生き残りがいるなんて、誰も思っていなかった。だが、運命はこうして巡り続けるものだ。)
「さあ、行こうか。透真――“白蓮”の名に相応しい力かどうか、確かめさせてもらおう。」
九条の言葉が静かに空間を満たした時、蓮の香りが一層濃く漂った。その香りに包まれながら、透真は薄い違和感を覚えつつも、九条の後を追った。
そして、九条の心に残る問い――この少年が、本当にあの白蓮家の“最後の生き残り”なのか――その答えを得るまでの物語が、いま静かに動き出そうとしていた。
透真の耳には、彼の心の平穏を守るための道具――ヘッドフォンがしっかりと装着されている。それは単なる音楽プレイヤーの付属品ではない。人々の心の叫び、魂の声を遮断する唯一の防壁だった。
しかし、すれ違う人の波に押され、ふとした瞬間、ヘッドフォンが片耳から外れてしまう。
その瞬間、頭の中に言葉にならない叫びが押し寄せた。 「ムカつくんだよ、あいつら。」 「嘘ばっかり……もう嫌だ。」 「消えてしまえ。存在なんて無意味だ。」 「あいつばかりずるい……」「どうして自分だけこんな目に……」
透真は眉を寄せ、すぐさまヘッドフォンを戻した。だが、頭に残る声の余韻は消えない。魂の叫び――それは他人の本音でありながら、透真自身をも蝕む呪いだった。
彼の耳に届く魂の声。それは、父親から受け継いだ力ゆえの宿命だった。聞きたくもない心の叫びが、透真の心に容赦なく突き刺さるものだった。
彼は深く息を吐き、冷静を取り戻そうとした。そのとき、雑踏に紛れるように、甘くも冷たい蓮の香りが鼻先を掠める。その香りに導かれるように、透真の足は無意識に動いていた。
目の前に掲示板が現れる。古びた木製の板には色褪せたポスターや張り紙が無造作に貼られている。その中に、一枚の紙が目に留まった。
「アルバイト募集 未経験歓迎」
紙に書かれたシンプルな文字。しかし、透真の目を引いたのはその下に添えられた手書きの一文だった。
「呪われた人、歓迎」
透真は足を止めた。呪われた人――それはまるで自分のために書かれたような言葉だった。再び蓮の香りが風に乗って漂ってくる。透真は紙に記された住所を頼りに、その張り紙の主に会うことを決めた。
住所をたどった先は、小さなビルの一角だった。控えめな看板に「九条探偵事務所」と記されている。薄暗い階段を上り、重厚な木製の扉を押すと、静寂の中にきしむ音が響いた。
扉が開いた瞬間、透真の鼻腔を満たしたのは蓮の香り。それは商店街で感じたものとは異なり、より深く、清らかで、どこか厳かな印象を与えた。
室内には、不思議な光景が広がっていた。中央のテーブルには蓮の形をした美しく、高貴な香皿が置かれており、白い煙が立ち上る。その煙は空間に優雅な軌跡を描きながら、透真を歓迎するように足元を包み込んでいく。
その奥に立っていたのは、銀髪の男だった。
銀の髪は柔らかな光をまとい、後ろで束ねられている。白地に紫と金の刺繍が施された衣装は格式高い陰陽師の装束そのもの。耳にはダイヤを散りばめた蓮の形をしたピアスが輝き、胸元には同じく蓮を象った銀の飾りが揺れていた。その姿は、絵画から抜け出してきたかのような非現実的な美しさを持っていた。
透真は思わず息を呑んだ。目の前の男の存在感は、ただそこに立っているだけで空間そのものを支配しているように感じられた。しかし、透真が驚いたのはその姿だけではない。九条から発せられる空気――それは冷たくも清らかで、どこか人間離れした気高さを感じさせた。
(この人……普通じゃない。)
透真は制服の襟元を少し直した。学校帰りでありながら、こんな場違いな空間に足を踏み入れてしまった自分に気づく。黒髪のウルフヘアーが不規則に揺れる彼の姿は、端正な顔立ちと相まって周囲を圧倒する雰囲気を持っていたが、どこか冷たく、人を寄せ付けないオーラが漂っていた。制服の肩には学校帰りの疲れが微かに見えるものの、その鋭い目つきは余計な感情を排除し、自分を守る壁を作っているようだった。
九条の視線が、そんな透真の全身を一瞬で捉えた。銀色の瞳は冷静そのもので、微かな興味と警戒心が混ざっている。
(確かに、なかなかの素材だな……呪い持ち特有の孤独感を背負っている顔だ。)
九条は目の前の少年を観察しながら、その鋭い目つきと整った顔立ちが放つ雰囲気を冷静に評価した。制服姿に隠れた長身の体格と、全身から滲み出る孤高のオーラ。それは透真の内面をそのまま映し出しているようだった。
「そのヘッドフォン、外せ。」
九条清蓮が静かに言葉を発した。その声には冷たさと優しさが絶妙に混じり、どこか命令とは異なる柔らかな響きがあった。
透真は一瞬、目の前の男の言葉に反発しようとしたが、その青色の瞳の奥に潜む圧倒的な存在感に飲み込まれるように、言葉を飲み込んだ。煙が絡みつく空間から逃れるように、彼はゆっくりとヘッドフォンに手を伸ばす。
(外したら何が起きる?だが、この場では逆らえない……)
透真の手がヘッドフォンを外した瞬間、その頭の中に新たな声が響いた。
「こいつ、呪い持ちか。」
透真は目を見開く。その声はこれまで聞いてきた魂の叫びとは明らかに異なっていた。雑音混じりの苦しみでも、怒りでもない。冷静で鋭く、しかし不思議な透明感を持っていた。
九条は透真の反応を見て、薄く微笑んだ。その表情には、確信と興味が交じり合ったものが滲んでいた。
「お前の呪いは特別だ。魂の声が聞こえる、そうだろう?」
透真は鋭い声に動揺を隠せないまま、九条を見上げた。彼の192センチの長身は、ただ立っているだけで透真を包み込むように感じられた。
(どうして……この人が俺のことを知っている?)
胸の奥がざわつく。それは恐怖とも好奇心ともつかない、説明しがたい感覚だった。初めて会ったはずの男が、自分の抱える秘密を見透かしている。その冷静でありながらも全てを包み込むような雰囲気に、透真は言葉を失っていた。
「俺の名前は九条清蓮、陰陽師だ。」
その言葉が透真の耳に届いた瞬間、部屋の空気が一段と清らかに感じられた。陰陽師――透真にとっては名前だけで知る存在。その生業を目の前の男が名乗ったことに、一種の非現実感を覚えた。
九条は机の上でゆるやかに漂う香の煙に視線を向け、美しい蓮の模様が施された扇子を取り出す。その動作は一分の隙もなく、まるで計算された舞のようだった。扇子が静かに空を切り、わずかな風が起こると、煙は一層柔らかく揺らぎ、部屋中に甘い香りが満ちていく。
「この場所は結界で守られている。ここでは俺以外の魂の声は届かない。それに、清められた空間でもあるから、お前にはもうヘッドフォンは必要ない。」
九条は柔らかい声でそう告げた。その声には冷たい響きはなく、まるで透真の緊張を解こうとするかのようだった。
「白蓮透真です。」
透真が名前を告げると、九条の動きがぴたりと止まった。青の瞳がわずかに見開かれる。その一瞬の変化は、驚きと警戒心が入り混じったものだった。しかし、九条はすぐに表情を整え、口元に静かな微笑みを浮かべた。
「白蓮、か……。その名前が再び現れるとは……いや、これは偶然ではないかもしれない。」
低くつぶやかれたその声には、透真には理解できない重みが宿っていた。その言葉が空気を揺らしたような錯覚すら覚えたが、九条はそれ以上何も言わない。ただその瞳には、一瞬だけ射抜くような鋭い光が宿った。
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透真は眉をひそめた。魂の声が聞こえることには慣れているはずなのに、その響きには奇妙な圧迫感があった。
その瞬間、九条がゆっくりと手を伸ばし、香を焚く器を取り上げた。器から立ち上る白い煙が部屋中に広がり始めると、彼は小さな声で短い祝詞を唱え出した。低く静かな響きが空間全体を満たしていく。
「……禍を祓い、穢れを清める。」
その言葉が終わると同時に、透真の頭の中に響いていた九条の魂の声が、不意に完全に消えた。
「……何をした?」
透真がわずかに戸惑いを滲ませた声で尋ねると、九条は器を静かに置き、目を閉じて短く息を吐いた。そして、透真を見つめる瞳は、さきほどまでの飄々としたものとは異なり、どこか厳しさと哀しさが混ざり合ったような色を帯びていた。
「お前の名前を聞いた瞬間に、心を読まれてはいけないと思った。それだけのことだ。」
「どういう意味ですか?」
「お前がいずれ知る時が来る。まあ、そのうち分かるからさ。深く考えなくていいぞ。」
九条はそれ以上何も語らず、再び静かに香の煙に目を落とした。その横顔には、まだ明かされない深い事情が刻まれているようだった。
(……どうして?)
透真は戸惑った。今まで魂の声が突然消えるなどということは一度もなかった。九条の祝詞――それが原因だと直感的に理解したが、その意図が読めない。
(あの人……俺の名前を聞いて何かに気づいたのか?)
透真の胸には、不安と興味が入り混じった感情が渦巻いていた。目の前の男が、自分の抱える呪いと関係があるのではないか――そんな考えが頭を離れない。だが、それを問いただす前に九条が口を開いた。
「お前の名前を聞いて、一つ確信した。」
九条は扇子を閉じると、透真をじっと見つめた。その瞳には、静かな熱意と何かを秘めた光が宿っている。
「まあ、そのうち分かるからさ。深く考えるな。魂の声が聞こえなくなった理由も、やがて分かる時が来る。」
その言葉には断定的な力がありながらも、どこか優しさがにじんでいた。透真は思わず視線を落とす。目の前の九条の言葉には嘘がないと直感する一方で、彼が知っていることを隠しているのも明白だった。
(俺の名字に反応したのは偶然じゃない……でも、どうしてだ?)
透真の中で、九条への疑念と興味がさらに膨らんでいく。自分の呪いを見抜き、魂の声を消したこの男――九条清蓮。その存在は、透真にとって新たな運命の幕開けを告げるものに違いないと感じられた。
その時、探偵事務所の扉が小さな音を立てて開いた。夕闇に沈む外の光が、一瞬だけ室内に差し込む。
「すみません……ここ、九条探偵事務所ですよね?」
控えめな声と共に姿を現したのは、1人の若い女性だった。肩に触れるくらいの栗色の髪を持ち、清楚な雰囲気が漂っている。彼女は23歳ほどに見えた。透真と目が合うと、一瞬戸惑ったように視線を逸らしながらも、すぐに九条に向き直る。
透真はその姿を見つめるうちに、不意に胸の奥がざわつくのを感じた。もし姉が生きていたら――そう思うと、記憶の奥底にしまい込んだ光景が静かに蘇る。
幼い頃、雨の中で転んだ自分を抱き起こし、傷ついた膝を手で覆ってくれた姉の手の温かさ。
「透真、大丈夫。私がいるから怖がらなくていいよ」と微笑んだ姉の声。その安心感は、彼の心にずっと灯っている光だった。
しかし、その記憶のすぐ後に浮かぶのは、最後に聞いた姉の言葉――「透真、絶対に生き延びて。この力は、あなたの未来のためにあるから」。その声が重なり合うたび、透真の胸は締め付けられるような痛みに苛まれる。
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九条は柔らかな微笑みを浮かべながら、軽く扇子を開いた。扇子の蓮の模様が揺れ、甘い香りが再び室内を満たす。
「相談とは、何についてだ?」
ひとみは九条の銀髪と澄んだ青い瞳と高貴な立ち振る舞いに、しばらく見惚れていた。しかし、すぐにハッと我に返り、視線を少し下に落としながら話し始めた。
あの……私、1人暮らしをしているんですけど……最近、実家から持ってきた鏡から夜中に声が聞こえるんです。『助けて』って……。最初は気のせいだと思ったんですけど、何度も聞こえて……怖くて……」
ひとみの言葉に、透真はわずかに眉をしかめた。
(鏡から声?馬鹿馬鹿しい……そんなことあるわけないだろ。)
だが、九条は冷静だった。透真に目をやると、口元に薄く笑みを浮かべた。
「なるほど……それは興味深い。透真、試しについて来い。」
「え?」
透真は突然の指示に戸惑った。まだアルバイトをするかどうかも決めていないというのに――。
「その依頼をこなしてみて、お前がこの仕事に向いているかどうか試してみるといい。鏡から声がするなど、そうそう聞ける話ではないだろう?」
「……いや、俺は別にこんな馬鹿げた話――」
「馬鹿げているかどうかは、お前自身が見極めればいい。さあ、どうする?」
九条は言葉を切りながら、扇子をゆっくりと閉じた。その動作には、断る余地を与えない威圧感すら感じられる。
「……分かったよ。試しについていく。」
透真がため息混じりにうなずいた瞬間、九条の口元にわずかな微笑が浮かんだ。その微笑には、興味と警戒が微妙に入り混じっていた。
(白蓮……やはりそうなのか?)
九条の中で、長い間封じられていた記憶が静かに揺れ動く。伝説として語り継がれた白蓮家の力――その血筋が絶えたはずの存在が、今目の前に立っている。それを確認するためにも、この初めての依頼は絶好の機会だった。
(この少年の力……本当に“あの白蓮”のものなのか、それとも――)
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「白蓮、か……まさか、まだ生き残りが……?」
(生き残りがいるなんて、誰も思っていなかった。だが、運命はこうして巡り続けるものだ。)
「さあ、行こうか。透真――“白蓮”の名に相応しい力かどうか、確かめさせてもらおう。」
九条の言葉が静かに空間を満たした時、蓮の香りが一層濃く漂った。その香りに包まれながら、透真は薄い違和感を覚えつつも、九条の後を追った。
そして、九条の心に残る問い――この少年が、本当にあの白蓮家の“最後の生き残り”なのか――その答えを得るまでの物語が、いま静かに動き出そうとしていた。
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