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一章 神童
3.それは麦わら帽子のバカだった
しおりを挟むそれは、偶々訪れた場所での出会いだった。
長崎 佐世保。長崎最西端の田舎にて、ドラマの撮影を行った時だった。すでに彼女が朝昼のニュースに取り上げられ初めて半年ほどが経ち、世間の誰もが彼女の名前知り始めた頃、彼女は2ヶ月をかけてこの長崎で撮影を行うこととなっていた。
初めて訪れた佐世保市針尾。電車も大きな街にしかないため交通はバスか車しかないというど田舎である。撮影場所である西海橋は特にこれといった特徴はなく、下に渦を巻いた海と多くの山に囲まれた古びれた長い橋であった。監督の出身地であり故郷であるという理由だけで採用されたとのことだが、初めての田舎に少しだけ胸を躍らせる。
最初の数日間はただただ順調に進んでいた。一読して覚えた台本の通りに言葉を、監督の言う通りの動きを、さらに自己解釈の工夫を取り入れることで全ての撮影を淡々と終わらせていく。いつも通り、平常運転、彼女は作った笑顔を振りまきながらニコニコと常時演技を続け、カットの合図の後もそのニコニコとした顔を崩さないまま普段の彼女を演技し続けた。
いつも通りの毎日、
その一端の偶然であった。
休憩時間になった時である。仮説テントの下、特にすることもなく飲み物を口に含んでいた彼女はその足元にヤモリが走っているのに気づいた。
「……初めて、見た」
偶然、周囲に誰もいない中でようやく息をついた彼女の前に興味を惹かれるものが現れた。ヤモリ自体は本で学んだことはあったが実際に触れたことも、どのような動きをするのかもわからない。
知的好奇心の高い彼女はそのヤモリに近づき手を伸ばすがヤモリは、その程度じゃ捕まりませんよとでも言うかのようにするすると彼女の手から逃げ、彼女を見上げるのである。
「……。」
何故かムキになった天才少女がヤモリを両手広げて追いかけるという奇妙な事態がしばらく続く。しつこく追いかけてくる彼女にヤモリはこれ堪らんとテントの外へ飛び出し、彼女もその後を追った。
「…………あ」
ヤモリによって導かれた彼女は、目の前の森林に思わず声を出す。今まで演技ばかりに気が周り他のことに注意を向けていなかった彼女はこの空間、森という大自然を前にその目を輝かせた。
この撮影場所は山の頂上と地上のちょうど中間の位置にあり彼女の目の前にはその山のなかでも人の管理の行われていない場所、彼女がまだ見たことがない物が散々としている場所であった。
先を見たい、そう思った。
周囲を見渡す。撮影機材とそれを乗せるレールやら多くのカメラやら撮った内容を確認するディスプレイやらと見飽きた機材たちの間を台本を持ったスタッフ達が慌しく走り回っている。母親も監督と談笑しており誰もこちらに気づく気配はなかった。つまり、今なら抜け出せるということである。
初めて母親への罪悪感より、好奇心が勝った。今まで我慢し続けた鬱憤が彼女の思考をさらに加速させる。撮影場所と森は水路で隔てられていた。落ち葉で地面が見えず、両手を広げて親指から小指程度の広さの幅しかない小さな水路。その先は湿った落ち葉と木々が無造作に倒れている。
自分へのご褒美だ、そう彼女は考え足を進ませた。
ひょいと水路を飛び越え、不安定な地面に足を乗せる。ぐらっとふらつく体に思わず頬を緩め、そのまま次の一歩、また一歩とスキップ混じりに奥へと進んで行った。
ワクワクした、久々の感覚だった。衣装が汚れるかもしれない、靴が泥だらけになるかもしれない、それがやけに子供心をくすぐる。先程まで騒がしいほどに聞こえていたスタッフの声が徐々に小さくなり、静寂へと変わる。狭い木々の間を潜り抜け、ちょっとでも擦れば肌が切れてしまいそうな鋭い枝が、彼女を高揚させた。
安全がない、守られていない、それが堪らなく嬉しかった。
「……あめんぼ、あかいな、あいうえお」
しばらく進むと彼女1人の空間となった。初めて経験する無音の空間。自動車の音も、電子音も、人の声も、何もかもが聞こえない静かな空間に彼女はくるくると回る。今までの狭苦しい思いから解放されたように、気楽、自由、無音の空間に溶け込む。
数十分が経ち、彼女は木造りの小屋を見つけた。
その空間だけ半円状にぽっかりと開けられている。倒れる木々が円周をつくり、その内側だけが整えられている。半円の中心に小屋があり、その直径を結ぶかのように縄が両端の太い木に巻かれ、『この先危険! 立ち入り禁止!!』の看板が置かれていた。
どうやら城でいうところの城門の役割をしているのだろうと推測し、人がいる可能性を考慮して辺りを見渡す。こんな田舎の誰も近寄らないような場所にいる人物が彼女を知っているとは考えにくいが、見つかってしまっては面倒だ。
遠目から古屋全体を見渡し、一つ窓があるのを確認する。以前、敵陣地に忍び込む子供スパイの役をやったときのように身をかがめそっと小屋に近づき窓の隅から中を覗き込む。
ガラスにヒビが入った窓の先は、清掃の全く行き届いていない埃まみれの倉庫であった。入り口から見て両端の壁を沿うように置き棚があり、芝刈り機や錆び付いたチェーンソーが無造作に置かれている。特に人がいるというわけでもなく窓から差し込む太陽の光に照らされる床の埃から、近日ここに誰も立ち寄っていないことも把握した。
彼女はうきうきと体を揺らしながら小屋の正面へと周り重たい扉をゆっくり開いた。
ゴゴゴ……と、雰囲気のある音を出しながら開いた扉に足を踏み入れる。ミシリと大人なる床を歩きながら近くにある棚の中を覗き込む。外から見た通りの光景、ここなら誰も来ないと確信し中へと入る。
その奥に一つ、埃まみれのパイプ椅子があった。
元々管理の者が使ったいたのだろう、開かれた状態で窓の真下に置かれていた。いつも座るような柔らかい椅子ではなくザラザラとした感触のある埃がやけに新鮮だった。
「……。」
躊躇なく彼女はその椅子に腰を落とす。先程まで歩いて来た道無き道をしばらくぼーっと眺め、考えに浸るわけでもなくただ無意味に外を眺め続けた。しばらく何もせず、動かず。まるで物置の道具の一つにでもなったかのように音一つ立たず彼女はただ座っている。
森よりも密閉された静寂。ただ1人でいられる空間、何もしなくていい、何も考えなくていい空間に居心地の良さを感じる。
生まれてから今までひたすらに知識をつけ、思考を巡らせ続け、演技続けた彼女にとって何もせず何も考えないことなど一度として無かった。
彼女は思う。母親のことや仕事のことを何も考えずこのまま、このままここで一生を過ごせるのなら、もう何もいらないと。仕事なんていらない、お金なんていらない、何もいらないから、
ーーそろそろ戻らなきゃ。
夢を、願いを、神童は自ら消し去る。探索に時間をかけ過ぎた、そろそろ母親が異変に気付いて探し出している頃だろう。
彼女が最も見たくない母親の嫌な顔が現れるかもしれない。それだけは嫌だ、自分の願望より、母親のことを考えた彼女はパイプ椅子から離れる。
帰ろう、パイプ椅子の埃を指で撫でそれをポロポロとこぼしながら出口へと向かうその時だった。
ガラガラッ!
倉庫の扉が勢いよく開かれ驚いた彼女はパイプ椅子の裏に逃げ込んだ。
ここの管理人か、はたまた彼女を探しに来たスタッフか。恐る恐る顔を上げた彼女に、
「あぁぁぁあああああ!!! やっぱりっっみーつけた!!」
予想は大きく外れ、静寂な空間を叩き壊すかのように叫ぶ1人の少年だった。半袖短パン、麦わら帽子を被ったまさに田舎の少年といった格好の男の子は彼女へ指を指している。
誰だ。彼女は今まで一度も見たこともないこの少年に首を傾げる。エキストラの1人かとも考えたが、今日の撮影にそんな配役がいないことは今朝暗記した台本で確認している。ならばこの少年はどうして自分に指を刺して見つけたなどと言っているのか見当もつかない。
「やっぱズルしてたな! お前ダメだぞ、部屋の中はダメだってルール決めただろ!」
「……ルール?」
「お前かくれんぼのルール聞いてた!? 部屋とかはダメだって言ったじゃん!」
「……。」
こいつは何を言っているのだろう。
彼女はここに偶然訪れただけ、すぐに勘違いであると気づいた。恐らくこの周辺を遊び場にしている子供達の1人なのだろう。かくれんぼの遊びをしているときに彼は彼女を遊び仲間の1人だと思い込み、見つけたと言ったのだ。
ーー……バカ?
「ほら、とっとと行くぞ! 他の奴らが戻ってるかもしれないからな!」
「えっ、あっ……」
心の中で悪態をついていた彼女は腕を引っ張られ、外に飛び出される。先ほど彼女が来た窓側の道ではなく扉側の真逆の道無き道へ進もうとしていた。
勘違いしている彼に連れられ、彼女はぽかんと口を開けたまま空を見上げた。晴天の穏やかな日である。何度も何度も、一瞬でも演技で作った笑顔を消せる瞬間を望み見上げていた嫌いな晴天が、何故か今日はすっきりとして見える。
ーー……これから、どうなるんだろ。
彼女は、少年の手を振り払わなかった。
興味を持った。生まれてきたからこれまで、全ての物事に推測を立てていた彼女は、先の見える物事に飽き飽きしていた。それがたった今、このおかしな少年の行動によって全く予測のつかない未知の体験が始まろうとしている。それが堪らなく高揚感を高めさせた。
山道を降りる青年に連れられ、彼女は初めて仕事をサボったのである。
######
「のぉぉぉぉぉおおおおお!? 誰もいないしナンデ、かくれんぼなのにナンデ!?」
日も暮れた頃、2人は山を降りてすぐの公園へと入った。避難地区にも指定されているこの公園はある程度大きな空間が広がっており、ジャングルジムやブランコなどある程度の遊具は取り揃えられている。しかし、その場には彼と遊んでいたはずの子供たちの姿はない。
「1時間後にまた集合って言ってたよね。も、もしかしてまだ隠れてるのか、もう一回一周しないとダメか!?」
「……置き手紙、あるよ」
「なにっ、どこだ!」
彼女は周りをくるりと見渡し、どこかに隠れているということもないと確信。それと同時に入り口のすぐに設置されたベンチの上に置石のされた紙を見つけ少年へと手渡した。
「なぬなぬ、『だれもみつけてくれないから、みんなでつぎのあそびをしています』だとぅ……何でだよ!? 誰もって、お前見つけてるじゃん! 嘘ついてんじゃないよ、あと勝手に帰るなよ悲しいよ泣くよ!?」
その手紙を律儀に読みながらノリツッコミを行う少年。いやいやと、彼女は思わず苦笑い。彼女自身は含まれていないのだから彼は誰も見つけてはいないのだと伝えれば、おそらくギャンギャン吠え始めるだろうとその様子をただ見守るのであった。
その友達の次の遊びというのが『彼女が撮影に来たと知り見に行った』という内容なのが皮肉であるか。
「ったくあのうんこどもが、なにも言わずに帰るとか酷いよな、お前も泣きたくなるよな」
「……。」
「なんだよ、何か言えよ。あれか、1人しか見つけられてない~ってまた僕をいじめるのか? また皆でけらけら笑うんだな。そんなに笑われても泣きたくなったりしないもんね、ふんだっ!」
「……。」
泣きたくなるかと聞かれても反応に困る。泣けと言われれば泣くし、怒れと言われれば怒るのだ、自分の意思でなどわかるはずもなかった。
この少年、起承転結を全て自分の解釈で判断して突っ走る性格らしい。また何やら変な誤解をし始めたと思えば勝手にこちらに怒って顔を逸らした。同じ年齢の子供とはここまで面倒なのだろうかと戸惑う彼女であったが、
「……別に、虐めない」
「え?」
「別に虐めない。関係ないし」
「な、なんだよ。え、いじめないの? 本当に?」
とりあえず事実だけは伝えた。虐めない。その言葉に彼はみるみると顔が明るくなっていく。本当? と何度も聞き返し、そして鼻をすすりながらへへっと笑った。この少年、単純である。
「そっ、そっかそっか! そうだよね、お前はそういう奴だって知ってたよまじで。これマジね!!」
「……。」
「なっなっ! お前まだ遊べる?まだ帰るのは早いし、お前まだ遊べる? 遊ぼうよ!!」
「え……」
フリフリと尻尾を元気よく振る犬のようにキラキラとした目をする少年。その問いかけに彼女は言葉をつまらせた。もう休憩時間などとうに過ぎ去りすでに母親には気付かれているだろう。今戻れば、少し迷ったといいわけできる時間ではあるが、
「ん、遊べるよ」
「いいのかぁ!?よっっっっしゃあ!!じゃあさ、じゃあさ、うーんとえっと、縄跳びは縄ないからダメだし、お手玉も玉がないな。うーんとえっと」
ただ、それでも体験してみたかったのだ。普通の子供がどのような遊びをしているのか、どのようなことを話し、どのような事が毎日行われているのか。そしてこの異変は彼女にどのような体験と結果を述べてくれるのか。試作のような、お試しのような感覚で彼女は少年と遊ぶことに決めた。
「じゃあ、鬼ごっこ!」
「2人で?」
「捕まったら負けで時間を決めよ! はいじゃあやりますよ、じゃ~んけん、ぽん!……うへぇ、負けたから僕が鬼で、えっと、あれ?」
「?」
「お前、名前なんていうんだ?」
「名前……」
彼女が逃げる側だと言うところで、少年は彼女の名前を聞いていなかったことを思い出したようだ。ふと、彼女は自分の名前を伝えるのを躊躇った。彼は彼女のことを知らないようだが、名前を伝えてしまえば気付くかもしれない。それでは今のように接してくれなくなるかもしれないと、
「……名前、わからない」
「わからないって、お前バカなの?」
「……。」
彼女は生まれて初めての嘘をつき、この時のことを二度と忘れることはなかった。初めて言われた馬鹿という言葉は、出会って数十分程度の少年から発せられたのである。
確かに名前が分からないは無理があると自覚しているが、それでもかくれんぼの参加者を全員把握しておらず探し回っていたこの少年に言われるとは思いもよらなかった。
「わかった、俺聞いたことあるぞ!お前あれだ、 『きおくそーしつ』ってやつだ!」
「え?」
「だから、きおくそーしつ! 前のきおくがぜーんぶ消えちゃうの! お前も全部忘れちゃったんだよ!! そうに違いなぁい!」
「……う、うん、そんなとこ」
絶句する彼女に少年はあっと片手をポンと叩き、何故か自信満々にそう告げた。勝手に都合よく解釈してくれたことに安堵しつつ彼女は頷く。少年はやっぱかぁ!とまたも喜んだ表情を見せくるくると周った。
「じゃあ予定変更だ! お前の名前を今俺が思い出させてやるよ、任せとけ!!」
「それが遊び?」
「そう! お前も助けられるし、遊びにもなるし! 僕ってまさか天才なのでは!?」
「……そーだね」
何故か少年は生き生きとしだした。遊べると聞いた時とはまた違い、よしっと何故か気合を入れると彼女の腕を引きベンチへと座る。うむむと唸り始める少年をただ黙ってじっと見つめていた。
「じゃあ覚えてたら答えて! 誕生日は?」
「……2月2日」
「そろってるね、すごいや! 僕は6月7日! えっと、身長は?」
「135cm」
「よっし僕の勝ち、僕140cmだもん! 好きな食べ物は?」
「……トマト、かな」
「嘘つくな! あんな苦いの好きなわけない!」
「じゃあゴーヤ」
「ごーや? まぁいいや、好きな遊びは?」
「……遊んだことない」
「遊んでたきおくも無くなってるのか、うーん難しいなぁ」
「……じゃんけんとか、好きだよ」
「お、じゃんけんか! 僕は嫌いだ、全然勝てないもん」
「さっきも負けたもんね」
「なにおぅ!? さっきのはだまだまだよだまだま!」
「偶々」
「そうそれ、たまたま! だから今度は勝てますって、はいじゃんけんーー」
自分の右腕を抑え「ぉぉぉぉなんでじゃあああ!」と唸る彼。先ほどから記憶喪失を治すために聞く内容なのかと苦笑いを浮かべていた彼女であったが、
ピョコっと立ったアホ毛をふらふらさせながら、少年にぐいっと顔を近づけた。
「ね、質問。次は?」
「ちょっと待って今立ち直ってるから。……じゃあ好きだった勉強は?」
「勉強……演技?」
「えんぎ? こくごとかさんすうじゃなくて?」
「あ。えっと、算数かな」
「変なの、足し算引き算とかばぁばに怒られるだけじゃん」
「ばぁば?」
「僕のおばぁちゃん! 毎回テスト渡したらゲンコツされちゃうの。あれ痛いんだよな」
「好きじゃない?」
「好きじゃない! 毎日宿題全然わかんないから出来てない! あっ今日の宿題学校に忘れちゃった」
どよーんと再び落ち込んだ麦藁少年に間髪入れず彼女はその裾をちょいちょいと摘むと、
「……名前、思い出せない。もっと質問して」
「ぬぬぬぬ、名前思い出すための質問は大体し終えたからなぁ。じゃあ今度はゲームしよう! 頭使えば思い出すかもしれないし!」
「ゲーム?」
「そそ! まずはえっと、ゆびすま!」
「ゆび、すま?」
「え、ゆびすま知らないの!? ルール教えてあげる!」
嬉々として彼女にゲームを教える彼の顔をじっと見つめながら彼女は少しだけ頬を緩めた。何気ない時間、何でもない子供同士の遊び。夕暮れの2人しかいない公園で、やや汚れたベンチに座って遊んだそれは、
「ぬぉぉぉぉ!? なんで負けるんだ、お前初めてなんだよな、なんでもうルール分かってんだよ!?」
「……簡単だよ、これ?」
「簡単じゃないよ! 覚えるのに3日かかったもん!」
「ふふ、なにそれ」
彼女の固まっていた表情を少しだけ溶かした。
ゆびすま、しりとり、おいかけっこ、ジャングルジムにブランコ、彼らは時間の許す限りその公園で出来ることをただ無我夢中で遊び倒すのだった。30分ほどの短い時間だったがそれでも、彼女にとっては新鮮そのものであり、あっという間に過ぎてしまった。
そして、
「ーーじゃあ次の遊びは、あり?」
「……?」
「あっ、ばぁばだ」
少年が、公園の入り口に立つやけに大きな体をした老婆を見つけたところでそれは終わりを告げる。先ほど話に出ていたばぁばという人物が少年を迎えに来たようだ。何故か眉間にしわを寄せ吊り上がった目を少年に向けているが、
「あちゃ、お店の手伝いしろって頼まれてたの忘れてた~これはゲンコツかなぁ、やだな」
「あっ……」
座っていたベンチからひょいと跳ね、彼は彼女に何を言うでもなく老婆の元へ走っていく。
その後ろ姿に彼女は思わず手を伸ばし、そしてその手を見た。もっと遊びたい、もっと普通の子供でいたい、その想いが彼を引き止めようと手を伸ばしているのが分かる、が。
ーーもう、ここまでにしよう。
神童の頭はその場の感情でのみで動く事を拒否し、牽制する。これ以上浸かってしまっては今までと同じような演技が出来なくなる。
自分の感情が生まれてしまうことに、彼女の脳は合理性があるとは取らなかった。母親の笑顔を少しでも見るために、今日のことは全て忘れて、一時の夢だったと思い元に戻るべきだと。
そう思い、顔を伏せ、伸ばしていた手を下げた。
「あ、忘れてた。あだ名付けよ!」
「……え?」
ーーその手の甲をなぜかパチンと叩き、少年はそう言った。
「ふっふっふ、僕は頭がいいからね。あだ名をつける事を忘れてないよ! 名前思い出すまでどれくらいかかるか分からないでしょ。次もまたお前って呼ぶのは嫌だから、思い出すまでの名前を決めます!!」
「……また、思い出す手伝いをしてくれるの?」
彼女の問いかけに、彼は頷く。彼は言ったのだ、また、と。それはつまり彼女とまた会い、今日と同じような遊びをしてくれるということ。
拒否すべきだ。神童の脳はそれを否定した。また同じことをしたところで彼女にメリットはない。しかし、
久々だった。ここまで胸の膨らむ感じが耐え切れないように息をはいたのは。こみ上げてくる嬉しいという欲求が、彼女の考えを消してしまう。
少年はわざわざ彼女から距離を取ると仁王立ちしてふふんと鼻をすすった。
「当たり前だろ! 僕は将来ヒーローになるんだからね! 困ってる人がいたら助けるんだ!」
「ひーろー?」
「そう! ウルトラマンみたいに、みんなを助けるヒーローになるんだ! だからお前のこともちゃんと助けるんだよ、わかったかっ!」
「……ひーろー」
復唱する。ヒーローとは何か。人を助ける、困っている人を助ける、困っている人を無償で助ける。非生産的でかつ非効率的な考え方だと、彼女は思う。
それでも、それで彼とまた遊べるのなら。
「それよりあだ名だよ。何にする??」
「……あだ名……」
今まであだ名など考えたこともなかった。そもそもあだ名は自分で考えるものではなく友人から愛称として付けられるものであるため彼女が考えたこともないのは当然と言える。だからこそ、彼女はあだ名と言われてとっさに出てくる言葉がなかった。
ーーあだ名としてなら、いけるだろうか。
考えつかないのならいっそのこと。危険な賭けではあると思うが、彼女は顔を上げると、
「……私、マフユ。マフユって呼んで」
「そっか、マフユか! なんか髪の色といい感じだな!」
「……そう?」
彼女ーー真冬は、首をこてんと傾げた。冬といえば雪、雪といえば白で白銀の自身の髪と結びつけたらしい。
「マフユ、マフユ、覚えた! 僕のことはイチって呼んでね、僕のあだ名!」
「……イチ」
「おう! じゃあまた明日ここで、やっぱやめ! 最初にあった古屋で集合ね!」
「う、うん。また、明日ね?」
手を振りばぁばの元へ向かう少年を、彼女は見えなくなるまで見守った。
初めてだった。撮影場所を抜け出して、森を彷徨い、小屋を見つけ、少年に見つかり、記憶喪失と勘違いされ、仲良くなったこの数十分間の出来事が、今までの怒涛とも言える、いや激動と言える何事よりも大切な時間だったと、彼女が思えてしまうほどに。
初めてだった。同年代の友達と呼べる人間を作れたのは。
初めてだった、ここまで嬉しいと思ったことは。
「……イチ、また、会える」
それが、彼との出会いだった。
その日、彼女は初めて心配された。
撮影現場に戻るとプロデューサーにしがみ付くように叫んでいた母親が彼女を見つけた途端走り寄り強く抱きしめられた。拐われたと思った、無事でよかったと号泣しながら話す母親に罪悪感とともにごめんなさいと言葉に出たのだ。
母親が落ち着いた後、彼女は今回のことを母親に話した。森で見た新鮮な風景、そして出会いを。
「友達が出来たのね。それはとても良いことよ。貴方、同い年の友達なんていなかったでしょう。いいわ、明日からの休憩時間は今日と同じになるように調整してあげる」
母親は嬉々として話す彼女の顔を微笑ましそうに見ながら何度も頷き、最後にそう彼女に伝えてくれた。
「だからその分しっかり頑張りなさい。森に行かないでとは言わないけど怪我もしちゃダメよ、撮影が出来なきゃみんなが困るんだからね」
「……うん」
ただ、少しだけ。
強情かもしれない、わがままかもしれない、一瞬のその交流によって生まれた感情なのかもしれないが。彼女は心の中で、
どうしてだろう? と思ったのである。
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