死の餞ヲ、君ニ

弋慎司

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第2部

#63 氷像のフィアンセ

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「……生きる価値ないですよ、あなた。……いや、貴方は死んだほうが良い」
 僕はアイネの言葉を思い出した。どうして僕がそんな言われ方をしなければいけなかったのだろう。なぜ僕が悪いと言いたげな、憎たらしいほど真っ直ぐな目で僕を見るのか。その口元の動きを頭の中で再生していると、苛立って床を思い切り踏みつけてやりたくなった。
「良かったね、これであの人とお揃いだよ」
 僕はアイネの亡骸を見下してそう言った。嫌味だった。
 実のところ神父に関しては、居場所を突き止めた後で、憎悪の念が赴くまま弁明の言葉も聞かずに殺してしまおうと思っていたのだ。
 神父は死に際に僕を恨むというようなことを叫んでいたが、既に弓を構えていた僕は彼の呪詛を遮って、その一つしかない目玉を矢で貫いた。
 後ろに倒れながら、神父は引き金を痙攣したように引いた。銃弾の軌道は僅かにずれてもなお僕に向かってきて、頬を掠めて血を滲ませた。しかし放たれた獣はそれだけでは飽き足らず、後ろの壁に衝突し、冬の湖がひび割れたみたいな亀裂を作って静止した。僕は賭けに勝ったのだと思った。

 僕の腕や脚を行き来していた蛇たちが、床へと降りて移動を始めた。僕がその行き先を目で追うと、一部が変色した壁の前で止まった。
「ん……なんだろう」
 三つ編みのようにねじれたプレッツェル状態の蛇は、その壁を一心に見つめている。壁には血の跡がついていて、その血はだいぶ時間が経ってしまって黒く変色していた。
 しかし「それだけの」ことで蛇たちが気にするとは思えなかった。もっと近づいてよく見ると、血に交じって黄色い粉のようなものまで張り付いているのがわかる。
「──誰?!」
 僕は物音がした方角へ振り向いた。箪笥や棚の影から、赤と青と白と紫の人型──ピクトたちが顔を出してこちらの様子を見ている。
 彼らは怯えた様子で、物陰から出てこようとはしなかった。僕が近づくと、身を捩って更に隠れようとしていたので、その場に留まることにした。
「……ひとり、足りない……もしかして」
『パパが、殺した』
 ピクトたちと壁を交互に見遣る。この一部分だけ異質な色をした壁は、黄色のピクト──キトゥリノが殺害された痕だったのだ。
 残りの四人のピクトたちは無事だったようだ。しかしそれ以上は何も言わなかった。まるでキトゥリノが殺されたショックで言葉を失ったようだ。
 そして僕は神父の残忍さを思い知り、父親と慕われていた彼らにさえも手をかけたことに憤りを覚えた。
「……もう、パパは死んだから。これからは好きな所に行くと良いよ」
 僕が佇んだまま下を見てそう言うと、ピクトたちはおもむろに物陰から出てきて、キトゥリノが死んだ壁の前で泣いていた。それを見ている僕もつられて泣きそうになる。
 そしてひとしきり泣くと、四人は手を取り合い、扉をすり抜けて小屋を出ていった。

 ***

 神父の亡骸を跨いで訪れた部屋の扉は、木の板で内側からは開けられないように塞がれていた。うまくどかしてやればすぐに開けられたものを、僕はこの中にいてほしくない人がいる気がして、一秒でも早く確かめたいという焦燥から考えることができなくなっていた。手でこじ開けようとしたり、脚で蹴りつけたりして遠回りに扉が開くと、部屋の中から刺すような冷気が流れ出た。
「レイセン君!!」
 僕は躊躇わず部屋の中へと進んだ。狭い部屋だ、人が横になって伸び伸びとするにはあまりにも小さすぎる。加えてこの部屋には窓がない。だが真っ暗闇かと言われればそうでもない。左奥の乱雑な作りの天井から、隙間を縫うように蒼白い光が漏れていた。
 その青い光が蛍のように舞う下で、青年は眠っていた。僕は驚きのあまり、いつも呼んでいた青年の名前がつばを飲み込むと同時に喉を通って胃の中へ落ちてしまったことに気がついた。
 青年の身体は、厚い氷で覆われていた。まるで、あらゆるものを頑なに拒んで近寄るものを跳ね返す護りの如く、青年は堅氷の中で安らかに眠っている。
「どうしてこんなことに……??」
 僕は見ている光景が夢であるといけないと思って、もっと青年に近づいてみた。すると静寂の中から、阿鼻叫喚が聞こえてきたのだ。銀髪の青年は、苦痛で歪んだ表情をしていた。一体誰がこの美しい青年をこんな苦悶の中に閉じ込めたのだろうか。犯人の目星はついている。けれども、制裁は僕自身で下したばかりだということを思い出すと、少し冷静になることができた。
 冷静さを取り戻すと、今度はかつてのアイネが僕に話しかけてきた。
「ああ、あの人ですかあ。お仕置きが必要だったので、少し……いやしばらくの間部屋に閉じ込めていたんです。貴方に理由はわからないと思いますので、簡潔に言うとこういうことです。アイネさんが、他の御方に渡したはずのものを、彼が持っていた!! よりにもよって私がルドルフ様に差し上げた懐中時計を、彼が!!」
 確か男は死ぬ前に、そんなことを言っていた。
「それだけの、理由で……」
 たった四分前の出来事だ。僕はまだ、鮮やかに思い出すことができる。
「確かにあの人もお綺麗ですよ、でもですねえ、どんなに綺麗でもやってはいけない事と悪い事はあるものです。それにあの人はなんだか……ねえ、うつせみのようで、生気を感じられないのですよ」
 思い出したくもなければ聞きたくもないことが、頭の中を駆け巡る。どんな理由であれ、単眼の男は、青年をここまで追い詰めた。その事実が許せないのだ。
 僕は歯を食いしばって、首を横に振った。
「ねぇ、僕はどうすればいいの……? 僕は何をすれば、君を助けてあげられるかな。教えてよ、レイセン君。じゃないと、僕…………」
 僕は今にも泣き出しそうな青年の目元を撫でてやりたかった。透明なガラスが、彼に触れようとする者に棘を見せつけ威嚇した。僕はもう、彼の泣き腫らした表情を笑顔に変えることはできないのだろうか。
 僕は青年の前に膝をついて、何度かその身体に触れてみようとした。けれど指の腹が、冷たさから痛みを捉えると、氷から手を剥がさずにはいられなかった。それから僕は、青年の隣にほんの少し距離をおいて座った。腰を下ろし壁に背を預けると、僕の目からはぼろぼろと熱いものが流れてきた。自分自身の無力さは、かつて見てきた死の数以上に知っている。一番恐れたのは、こんな形で青年と別れを告げることだった。
 青年の方に幾度か身体を傾けながら、痛みが頬に焼き付くまで氷の壁に張り付いた。凍瘡ができてしまっても構わないと思っていたのだが、頬を剥がしてはくっつけて──を三度繰り返した後で、意識のあるうちは痛みに耐えることはできないだろうと悟った。
 僕はレイセン君を何度も呼んだ。そうしているうちに目蓋が重くなり、僕は座った姿勢のまま、電池が切れた人形のように眠った。

 薄らと目を開けると、青年が何事もなかったように隣で座っていた。
 目蓋が重い。僕はまだ眠っているのだろうか。わからない。
 氷漬けになったはずの青年は、その殻を破っていた。はじめからじっとそこに居て、虚ろな目をしながら僕を見ようとはしない。
 あたりは朧げな暗がりで、隣にいる者の存在を一際浮き立たせている。こんな風に大事なもの以外はよく見えないといった見え方であると、僕はこれが夢なんじゃないかと思えてくる。
 けれど、僕自身が空気と同じように漂っている粒のようだ、と錯覚してしまうほどにくっきりとした青年の輪郭を見ると、現実のような気もする。
 一体これは、夢と現実のどちらなのか、あるいはその中間地点なのか。結局の所それは僕にとってあまり意味をなさなかった。
「レイセン君……?」
 僕は尋ね、顔を覗き込もうとした。眠りについた僕と同じように、力なく背を壁につけて顔を傾けたまま項垂れている。人物画を構成する一本いっぽんの線のような銀の毛髪が、頬に張り付いていた。彼の目は一点を見つめているが、濁りきった瞳孔は何ひとつ写していない。
「ずっと、ここで」
 そうレイセン君は言った。僕の耳に、一言一句はっきりと届いたのだ。
 僕は青年がこんなにも絶望に満ちた表情をしたのを始めて見た。彼の手を取って慰めてあげなければ。とは思えど、僕は今までの困憊による反動からか、指ひとつ動かせなかった。
 青年が口を閉じると、次第にあたりは暗がりを増した。気がつくと、隣にいた青年は半透明になり、いつしかそこには空白が垂れ込んでいた。

 レイセン君が僕を呼んでいる声がする。これは夢の続きだ。僕は現実から逃げようとして、幻聴を聞いているに過ぎない。次に目を覚ました時、青年がまだ氷に包まれているとしたら、僕はどうすればいいのだろう、と夢ながらに考えていたことを覚えている。
「ご主人様……」
 はっとした顔で僕は目と口を開いた。どうやら僕は、どこかのタイミングでベッドの上に移動し、そこで深い眠りについていたらしい。
「レイセン君……何ともない?」
 僕がそう尋ねると、レイセン君は微笑んで頷いた。
「はい。貴方が私を、救いに来てくださいましたから」
 すぐに体を起こして、レイセン君を抱き、耳元で優しく呟いた。
「何があったの? 僕に聞かせて」
 レイセン君は固まっている。僕は凍りついた彼を溶かすように背中を擦り、それから遠慮はいらないと、子をあやす親のように揺れ動き、また背中をとんとん、と叩いて離れた。
「……お恥ずかしい話ですが。私は、狭い場所にいてそこから出られない状況になると、気が動転して、おかしくなってしまうのです。そうなると、自分では対処のしようもなくて……」
 僕は青年がすべてを話し終えるまでは黙っていようと口を閉じ続ける。
「閉じ込められたと気づいた時、私の中で何かが音を立てて崩れていきました。多分理性というものでしょう。状況が理解できなくなって、呼吸もままならない。壁に頭を打ち付けました、何度も。そうやって自分が壊れていくのがわかりました。そしてある瞬間、私の心が、身体の内側にある核が急激に冷え、華のように咲きました。心臓が止まって、私の身体も動かなくなりました」
 僕は一言も発することなく、隣に座るレイセン君の手を握った。
「核が凍ると、段々全身が冷たくなりました。私は混乱したまま、意識のある状態で眠り続け……。どれくらい時間が経ったかはわかりませんが、とても長い時間そうしていたと思います。気がつくと、灯し火が私の隣で熱を発していました。私はその温かみに触れようと、心の内側から手を伸ばしました、もちろん体はまだ動きません。それでも私の心に咲いた冷ややかな塊が溶けていくのを感じました。そして目を覚ますと……貴方が隣で眠っていました」
 青年は、おもむろに僕の顔を見て微笑んだ。
「僕、もう君が他の人に傷つけられるのを見たくない。だから、強くなるよ。あんまりうまく言えないけど、僕だって君を守りたい」
「光栄です。では、その前に食事を。貴方が随分痩せてしまったように見えます」
 そうかもしれない、と僕は笑った。

 ***

 翌日の昼下がり、セイクリッド礼拝堂には柔らかな陽射しと神聖な森閑に満ちていた。
「汝健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、敬い、慰め合い、共に助け合い、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか」
 レイセン君が牧師の代わりとして誓いの言葉を述べる。今にも鳴り出しそうなパイプオルガンを横目に、僕たちはくすんだ色のバージンロードの上で契りを交わそうとしていた。
「うん、誓います。レイセン君、きみは?」
 はじめはちょっとした悪ふざけの感覚で、ただの真似事という気持ちだった。けれど、想像よりも実際言葉にしてみるとなんだか気恥ずかしい。向かい合っていた僕たちは、照れくさそうに頬を赤くして口元を緩めた。
「……はい、誓います」
 レイセン君は雪のように白い肌を桜色に染めた。今の彼はとても繊細な造り物のようだ。礼拝堂の裏部屋で見つけた純白のヴェールを頭に乗せ、魔女化した際の燦たる姿に変わっている青年は、まるでこのヴェールを被るために生まれてきたようだ。この世界の綺麗なものを全てかき集めて持ってきたとしても、この青年一人の磨かれた上品さには敵わないだろう。
「本当に、綺麗だよ。それ似合ってる」
「身に余るお言葉です。ご主人様も素敵ですよ」
「ほとんど何もしてないけどね」
 何もしていないという文字通り、僕は耳の後ろにそれらしい花──マーガレットを摘んで、飾りのようにつけただけだった。それ以外は普段と何ら変わりない。すると、レイセン君は右手の人差し指に嵌めていた瑠璃色のエンゲイジリングを外し、僕の左手を引き寄せた。
「ご主人様、これを貴方にお返しします。……こちらに、私がお付けしてもよろしいですか」
 でも、と僕は言いかける。そうするだけの理由があったはずだと、思い出すために記憶を辿る。
 ──あった。あれは確かアトロシティで青い流星を見た日、僕が心臓を……。
「私にこちらの代物が不要であることは、既に貴方もご存知でしょう。ですからこれは貴方にお返しします」
「うん、わかったよ」
 そして僕たちは唇を重ね、誓いの言葉をこの礼拝堂に置いて行くように封じ込めた。

 その日の夜の事だった。僕は一足先に礼拝堂の一室で眠りにつこうとしていた。ベッドの上で寝そべっていると、次第に微睡んできた僕は、睡魔に従って目蓋を閉じた。
「レイセン、くん……?」
 暫し意識が落ちる感覚がした後で目を覚ました僕は、違和感を覚えて足元の方を見た。
 青年が初めて見る格好でベッドの端に座っていた。
「どうしたの、それ?」
「……アイネがこれを着ろと言って私に寄越したものです。あの人の前では着るのを拒んだのですけれど。……貴方に見てほしかったんです」
 月明かりが青年の背中を照らし出す。肩や肩甲骨を露出したベビードール姿の彼は、やっと僕の方を振り向いた。目元を赤くしている。泣いていたのだろうか。
 青年は半透明な白く細かい装飾のついた、女性が着用するものを──腕や脚の筋肉質な角張りはあるものの──何ら引っ掛かりなく着こなしていた。
 裾の長さは際どく、少し動けば中に着ているランジェリーが覗いてしまうほどだ。首の周りを飾るレースのチョーカーの先には、彼のイメージカラーとも言える群青色の宝石がぶら下がっている。
 しかし、それでも僕は僕なりに、この青年の性格を把握していたつもりだ。彼は普段このようなことはしないだろうと決めつけていた僕は、やはり様子が気になってしまい、素直にその姿を受け入れることができなかった。目には見えないけれど、そのどこかにつっかかりがあるのだ。
「すごく綺麗だよ、でも……どうしたの急に」
 僕がそう尋ねると、レイセン君は目線を外して俯いた。
「わからないんです。でも今は、寂しいだとか、不安だとか、そういった負の感情が私の中を支配しています。このような醜い姿を、貴方に見せるつもりはなかったんです……」
「醜いだなんて。さっきも言ったけど、君は綺麗だよ。たぶん誰もが僕にはもったいないと思うよ、それくらい釣り合わないのは僕の方だ」
 そう言って僕は、ぼうっとしながら降りしきる雨のように涙を流す青年の肩を抱いた。青年の中には、今まで抱えていた不安という名の塵が心を埋め尽くすくらい積もった山があって、それがたった一度の突風で煽られて舞い上がり、一気に膨大な憂慮が湧き出たのだろう、と僕は思った。
 青年はしばらくしてから泣き止んだ。今度は僕の顔を見て、また前のように抱いてくれませんか、と言った。
 僕はゆっくりと青年にキスをして、前よりもずっと優しく彼を抱いた。時間をかけて抱いた後、二人で互いを抱擁し合ったまま眠りについた。
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