死の餞ヲ、君ニ

弋慎司

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第2部

#60 最後の悪魔

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「やっと来たね、待ちくたびれたよ」
「君は……あの時の!!」
 僕に比べたら一回りも二回りも大きく、体には赤銅色のマントを羽織っている青年が、僕たちの前に立ち塞がっていた。──ジャイルズだ。左腕で一人の少女を抱え、右手には、腰の鞘から抜いた片手剣を握り締めている。
「数時間ぶりだね、アクア。君は本当の名前を教えてくれたんだろうけど、俺は嘘をついた、ごめんね。本当の名はギルティ、ついでに言うと第一の悪魔だよ」
 最後の言葉には冗談めいた響きがあり、僕もそれを嘘だと思いたかった。赤毛の青年は、初めて出会った頃と同じように笑った。
「……ご主人様、彼をご存知なのですか」
「ああ……うん……昨日の夜、君といたところで会ったんだ」
「君たちがどこまで悪魔のことを知っているかわからなかったものだから、偽の名前を咄嗟に……顔がバレていたらどうしようもなかったけど」
 まるで人形のように動かなかった娘子は、肩にかかった瑠璃色の髪を揺らし、果実の種ひとつ分ほど口を開いた。
「なんだい、私も自己紹介をする流れなのか、これ。敵に名を教えたところで何になる」
「教えたくなければ教えなくても良いんじゃないかな、俺はこういうことを形式的にちゃんとしておかないと気が済まないタイプってだけだからさ」
 僕は始めからぐったりしていた少女が急に動き出したことに気を取られ、レイセン君が魔女化し剣を構えてギルティの元へ駆けていたことに気づくのが遅れた。
 頭を両断する勢いで振り下ろされた鉈剣を、ギルティは間一髪あとずさって避け、右手の片手剣で受け止めた。赤毛が羽のように舞い、放物線を描くように血飛沫が宙を走った。
 僕は青年に続くように弓を掲げて、もう反対の手には光でできた矢を生成した。
「……御託は結構です」
「おっと……っはは、流石に急だな。俺が先に死んでしまうよ。君、美しいのに血気盛んなんだね。よかったら名前を教えてくれない?」
「あなたを殺すためにいる、教える名もない者です。無駄話をしている時間が惜しいくらいなので、疾く死んでいただけますか」
 レイセン君が不気味に笑ったような声音でそう言った。ギルティの頬から飛び散った血を目で追った時から様子が一変した。
「クロノス、援護してくれ」
「優柔不断だな、ギルティ。敵を口説いたりなんかするからだよ。まあわかった……」
 大男の片腕に収まっていた、七色のスカートを穿いた少女──クロノスは、両手を広げて空へと浮かんだ。
 僕は怪しい行動を起こす前兆の間に、彼女を仕留めようと弓矢を構えて、静止した瞬間に矢を放つ──が、クロノスを狙った矢は、彼女の前で見えない壁に阻まれて動くのを止め、落下した。
「──レイセン君、危ない!!」
 予兆と言うには動作なく、鎖が白銀の鎧を纏った青年を囲うように、地中からガーデンイールのように飛び掛かった。
 そして腕や脚、腹部に巻き付いて振り下ろし続けている剣を手から引き剥がす。左右に腕を引っ張り上げたのだ。鎖は増幅し、気がつけば蜘蛛の巣になって青年を拘束していた。
「……!」
「君はちょっとここで待っていてもらえるかな。無駄な殺生をしたくないんだよ、それに時間があったら──」
 悪魔がレイセン君の頬に触れようと手を伸ばす。僕は歯を食いしばり矢を構える。
「ギルティ! そんな事はいいから、早くしてくれないか」
「そんな事……か、おっと」
 ギルティの指先が魔女の頬を掠め、横髪をかきあげた──が、即座にその手を離してしまう。レイセン君が指を噛み千切ろうとしたからだ。
「レイセン君に、触るな!!!!」
 僕は叫び、黄金色の矢を一本、青年が頭を垂れることで頭一つ分抜きん出た大男の額をめがけて放った。
「だから無駄だと言っているだろう。ほら、君たちの相手をしてあげる」
 さも当然のように矢を弾くと、クロノスが僕とレイセン君たちとを分断するよう、丁寧に目の前へ降りてくる。
「ひぃ、悪魔とは如何様に人と同じ姿をしているのでしょう……」
「アイネ、逃げるんだ!」
 鎖に掴まれてはいけない、たちまちに蜘蛛の餌食となってしまう。捕らえられたらひとたまりもないことを、危機感という警鐘が僕に告げている。
 張り詰めた神経を研ぎ澄ませ、鎖の湧き上がる瞬間を視界に見た僕は、右往左往するアイネに一喝した。
「どどど、どうすれば!?」
「とにかく今は走って!」
 僕とアイネが来た道を戻るように走り出す。困惑したようにその場で立ち止まったままのピクトたちに、アイネは叫んだ。
「何をしているんです、あなたたちも早く散り散りになりなさい!」
 顔は後ろを向きながら、地面から噴水のように湧き上がる鎖を避け、ピクトたちが未だ慌てている様子を見る。理由がわかると、アイネはもう一度、今度は別の言語で指示をした。するとピクトたちは納得したように、五体がそれぞれ違う方向へ走って逃げた。
 暫く走ると、クロノスと呼ばれていた少女の追いかけてくる気配がない。悪魔たちとレイセン君の姿が見えなくなると、鎖の追跡もなくなっていった。
「ここまでは追ってこない……?」
「彼女は時間稼ぎですよお……矢も弾くって、悪魔は一体どこまで理不尽なんですか……」
 このまま逃げるなどという選択肢は、頭の片隅にもない。しかし、悪魔らを打ち倒す術を持ち合わせていないという問題を払拭できるほどの戦略が思いつかなかった。
「どうすれば……」
 僕は唸った。すると、アイネが口を開け、握り拳の平面を反対の掌に打ち付けた。
「そうです……! あの子たちが使えるかもしれません」
「あの子……ピクトのこと?」
「ええ、以前悪魔を捕らえたことを思い出しました。残念ながら途中で──いえ、今その話はいいでしょう。あの子たちに頼んで無力化できたんですよお」
「それ、本当?」
 アイネの打開策に感嘆し、耳を傾ける。
 もしもこの解決策が本物だとしたら、確実に一人は無効化できる。僕の胸は弾んだ。
「はい、確実にとは言えないですけれど、賭ける価値はあるかと。ですが……」
 アイネが周囲を意味ありげに見渡した。
「みんな……はぐれたね……」
「ええ仰るとおり。数分前の自分を憎んでも憎みきれないです……」
「僕はレイセン君のところへ戻るよ。アイネは散らばったピクトたちを集めて、そしたら戻る……っていうのは、どう?」
「アクア様は人を疑ったりはしないのですか? もしアイネさんがあの子たちを集めるフリをして逃げるとか、考えたりはしないんです?」
「まあ、信じるしかない……から」
「ふふ、なあるほど。わかりました、ではご期待に応えましょう。実を言うと私、死ぬこと自体にはあまり恐怖がないんです。心当たりは──まああるにはあるのですが」
「……それは……?」
「あはは、今はそんなお話をしている最中ではありませんでしたねえ。終わったら、ゆっくりと。では……」

 悪魔が佇む場所へ一人で戻ると、すぐにあるものの様子が変わったことに気がついた。
 第一の悪魔──ギルティの纏う雰囲気の違い。体格や顔つきの話ではなく、根本的に中身が違うというような違和感を覚える。
 外見でわかるものと言えば、目つきがあの優しい色男のような垂れ目から、殺戮兵器の如く鋭い目に変化していることだろうか。
「勝てないとわかっていて戻ってくるなんて馬鹿だね、しかも一人でさ。もうひとりはどうしたんだい? 怖くて逃げ帰ったのかな」
「……っ!!」
 僕は木々の隙間を駆け回り、クロノスが放つ鎖を避けながら、一方的に殴る蹴るの攻撃を仕掛けてくるギルティに目を遣る。
──先程まで持っていた片手剣は、どこに行ったのだろう。
 戦い方までもが別人の彼は、ギルティではないのだろうか。もし僕の考えが正しいのならば、ギルティは今どこにいて、僕と戦っている悪魔は一体誰なのか。
「…………」
 ギルティは何も言わない。ただ無口なまま殴打の限りを僕に尽くした。
 すると遠くはない場所から、硝子の砕ける音が耳に入った。レイセン君が、自らを縛っていた鎖を破壊したのだ。氷を発して、徐々に遠くの鎖へ感染させるよう張り巡らせ、鎖に圧をかけることで粉砕する。
「レイセン君──!」
 彼はうつむき加減のまま体勢を持ち直すと、頭上で氷の粒を作り出し、これらを集め始めた。粒が塊となる頃それは剣の輪郭を帯び、それが全部で四つできあがると、浮かび上がって悪魔の方を向いた。
「遅れを取ってしまい申し訳ございません」
「……クロノスはそいつを殺れ、魔女は俺一人で十分だ」
 クロノスが隙を見せるほどに僕から目を逸らし、能面のようだった彼女は破顔した。恍惚とした目でギルティかそうでないのかわからない人物を追い、頬は上気している。
「……ええ、君がそれを望むなら……!! ──っ」
 彼女が僕を凝視していない間に、一矢報いるための逆襲を放つ。失敗に終わったが、これにより状況は変わり、僕はアイネがピクトを集めるまでの時間稼ぎに徹することになった。

「Τα παιδιά μου, είναι αμαρτωλός. Ωστόσο, δραπετεύει από το να είναι αμαρτωλός. Να είναι το βάρος της αμαρτίας της, που είναι αμαρτωλός. Τώρα πηγαίνετε, πηγαίνετε, πηγαίνετε. ──我が子たちよ、彼女は罪人である。しかしながら罪人であることから逃れている。罪人である彼女の、罪の重さとなりなさい。さあ行け、行け、行け」
 茂みから、四つの光がまるで飛魚のように現れる。
 光はそれぞれ青、黄、白、紫の色を作していた。彼らはクロノスの両手両足に食いつき、手首足首に輪っかを作るとより一層強い光を放った。
「……っ?! なんだ、これは……あっ……」
 それまで地面から体を浮かせていた少女は、己の手足に食いついた光の輪によって動きを制される。直立に脚を伸ばし、両腕は地面と並行に保たれた状態で固まった。
「間に合い、ました? ──あ、やはり成功してますねえ」
「アイネ……!」
 声だけの存在だった男は、術が決まったことを確信すると、堂々と木陰から出てきて僕の前に乗り出した。左手には、赤い縁が短剣を模ったものを握り締めている。
「ま、あの方にできてあなたにできないことなかったですねえ。あの方は二日で見破りましたけど、あなたはどうでしょうかねえ」
 単眼の神父はにたりと笑った。
 十字架のような姿勢のままでいるクロノスは、アイネの言葉に翻弄されながらも逃れようと身じろぐ。無表情な彼女の眉の端は下がっていた。
「んっ……っう……」
「あなたがこの罪から逃れるのが先か、それとも死ぬのが先か……今からゲーム、しましょうか」
 邪慳なことに、アイネは無防備な少女の肩へ手に持っていたナイフを突き刺した。
「うっ……ぐ、あ……」
「最初から急所狙ったらただの鬼ですもんね、多少は手加減しますとも。それこそ、あなたの悲鳴でもう一人の悪魔がやって来たりして」
「それは、ない……。私がどれだけ苦しんでいても、助けに来るはずがない、さ……」
 歯を食いしばって痛みに耐えている少女は、呻き声を上げながら笑った。僕はアイネから受け取ったナイフでクロノスを刺した。人体の生命力に感心しながら、執拗に腕を振り上げて下ろした。たったそれだけの動作で相手の顔は歪み、次第に眠るように目を閉じた。
 僕とアイネは悪魔の少女が動かなくなったのを眺めた後で、ピクトたちを輪の形から人の姿へ戻した。
 そして他の戦場であるギルティとレイセン君がいるであろう方角へ走った。僕が迷わなかったのは、向かっている位置から鋭い剣の交わる音を聞いたからだ。先程、道標である激闘の音は止んだ。これは何かあったに違いない。僕の嫌な予感はレイセン君の不利を告げている。早く援護に向かわなければならない。
「嗚呼!! なんてむごい事を!!」
単眼の神父は、信じられないような一言を発した。
見る影もない死体同然のものが転がっていて、両腕を投げ出して仰向けに倒れたその人の上に覆いかぶさるように、赤毛の大男がのしかかっていた。
「やめろギルティ!!」
 反撃が飛んでくるはずもないにも関わらず殴り続けようとする悪魔に、僕は耐えきれず叫ぶ。ギルティと呼ばれた別人格は、まるで自分の名前を呼ばれたように拳を掲げた状態で静止した。
『クロノスを殺したな』
 地面を這うような低い声とともに、男は立ち上がる。その身長は六フィートを遥かに超えているように見えた。背があまりにも広すぎるため服は破れ、左肩は病気がちの肌以上に青白く膨らんでいる。
 それだけではない。男が振り返ると、臍の上や鎖骨が裂けて口を開け、牙の羅列と蜥蜴のような長い舌が唾液と絡んで見えた。近くで横たわっている剣士の亡骸とどちらが醜悪か比べて、優劣をつけてしまいたくなるほどに悍ましい姿だった。
「あ、あ、悪魔……!! これが本物、なのですか?!」
「アイネ落ち着いて。僕はレイセン君の所に行って治すから、時間が欲しい」
「はっ、申し訳ありません。このタイプのグロテスク系がちょっと苦手なもので……。わかりました、できる限りはやってみます」
 アイネの同意に頷いて返すと、少しでも相手の気を神父に向けようと、転移術で瞬時に剣士の側へ急いだ。
「レイセン君、起きて……」
 僕は投げ出された青年の剣を持ち起こす。見かけよりも重量のある鉈剣を引きずるようにして、レイセン君の顔を見ないようにしつつ彼を蘇らせた。
 やけに時間がかかったように感じた治癒の時間が終わり、僕はようやくレイセン君の顔を直視できた。
「現在の、状況は……」
「ああ、今アイネが注意を引き付けてくれてる。女の子の悪魔は僕たちが倒した」
「わかりました、厄介なのは彼……ギルティですね。すぐに戻りましょう」
 木々の間から、傷だらけの神父服の青年が、向かってくる悪魔に拳銃を突きつけているのが見える。
 人の範疇を超えた大きさの悪魔は、両頬の切り傷さえもが口を開けて舌を出し、凄まじい早さで飛んでは単眼の青年めがけて拳を降ろした。何やら動きづらそうにしているのは、悪魔の片腕にしがみつき、足にしがみついて神父と真逆の方向へ引っ張るピクトたちが邪魔をしているからだ。
『煩わしいな』
「ご主人様は私の背後から援護を」
「わかった」
 僕と魔女化したレイセン君が加勢する。
 三対一でもこちらが不利であることは明らかで、間隙を縫うようにして悪魔の巨躯に一撃を与えたとしても──。
「彼奴に銃弾、効いてないんですけど?!」
 アイネが驚嘆の叫びをあげる。
 時間をかければかけるほどに、手応えのない焦燥感が際立った。僕たちは悪魔を傷つけているのではなかったか。これではまるで恢復を手助けしているようではないか。
『これが女王の権能だ。他の悪魔とは少し訳が違う。見破ることは難しくないが、知り得ぬうちは地獄だろうな』

 苦戦を強いられる中、突然アイネが一つしかない目を見開いた。
「──っおおおおおおおおお!!!!」
 僕は無闇に悍ましい怪物の方へと走り出した、ヤケになったかもしれない男の名を叫んだ。
 単眼の神父は省みず振り上げた拳を前に突き出して、悪魔の腹に開いた口へと放り投げたのだ。
『ハハハ、馬鹿め……今さら女王の御前に跪く気になったのか──』
 自らを女王と名乗る化け物は、アイネの腕を悉く食い破った。
「──っう、あああああ!!!!」
「アイネ!!」
 腕を──よりにもよってエンゲイジリングを親指につけていた右腕をもぎ取られ、支えを失った神父はその場に雪崩落ちた。苦悶の表情を浮かべながら腕の切り口を押さえ、歯を食いしばると僕を睨みつけた。
「何をしているんです!! 早く彼奴を回復させるのです、私じゃない!!」
 僕は困ったが、アイネが悪魔に突進する直前に放った言葉を思い出した。
──傷をつけることで恢復するのならば、恢復させることで傷がつく可能性がある。単眼の神父はこう考えたのだろう。
 そして彼の賭けた可能性は、悪魔が僕めがけて襲いかかってきた瞬間に確信へと変わった。
 僕は伸るか反るかの大博打に挑むつもりで手を掲げ、悪魔に対して祈りを込めた。
『……が、ぅぐ……ヲ、ヲヲヲヲヲオオオオオ!!!!』
 人ではない、もはや獣とも区別がつかない雄叫びを上げる怪物。
 治るようにと念じているはずなのに、悪魔の体には罅が入り、赤い亀裂が広がっては破裂していく。僕の喉を締め上げる為に向かう歩幅は狭くなり、終ぞ残り三歩という場所で膝を屈した。
『…………』
 石のように頑丈で動かなくなった血腥い怪物は、痙攣したよう中指を折り曲げた。
「……ッ」
 僕が再び手を掲げようとした時、背後から怒涛の勢いで押し寄せる波の音を聞いた。ほぼ同時に、悪魔は唇を震わせた。
『さっさと退け、愚図が』
 地が咆哮するように揺れだす。我に返って耳を澄ませると、遠くで同じように警鐘を鳴らすレイセン君が、アイネを抱えて走り出していた。
「脇に逸れてください、黒い波が来ます!!」
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