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第2部
#59.5 相戦う前に
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翌日の夕暮れ。僕たちは心身共に休めるように、一日旅をせずゆったりと過ごしていた。急がば回れ──危ない橋を渡るよりも、安全で且つ確実な遠回りのほうが、かえって良い──という、アイネに言われた俗諺がなんとなく胸に刺さる。
エレナとアイネはコテージで休んでいて、僕とレイセン君は気晴らしにと外に出ていた。
ターコイズブルーの浅瀬が、僕の左側で波の音を揺らしている。
「ねえ、レイセン君。旅が終わったら、僕たちはどうなるのかな。この世界は元に戻ったり、とか……するのかな」
「さあ……詳しいことは私にも分かりません。そうですね、ご主人様の記憶が戻れば、何をすべきかおのずと明確になることと思います」
清風が吹き寄せると、微かに潮の香りがする。
水平線の真上に夕暉が輝いていて、果てしなく遠いところから水面を照らしていた。
「そっか……早く思い出せるといいな」
はい、と頷いて彼は笑った。レイセン君が柔らかく口元を緩ませると、今まで見てきたどんなに美しい花も、どんなに綺麗な景色も、霞んで思い起こさせる。
「ねえ、レイセン君。旅が終わっても、僕たち一緒にいようね」
僕がそう呟くと、レイセン君の眉相が狭まったような気がした。それからすぐに口角を上げ、僕に笑ってみせた。
「ご主人様は、何かしたいこと……おありですか」
「え……したいこと……か。あまり考えたこと、なかったなあ……」
「今のうちから、考えておきましょう。きっと時間ばかりが有り余って、仕方がなくなるでしょうから」
暫く考え込んでから、欲望と願望の限りを青年に語る。
お腹いっぱいになるまで美味しいご飯を食べたいとか──甘くて毎日でも食べていられそうな棒付きキャンディを自分で作ってみたいとか──レイセン君のように沢山の知識を身に着けたいから、本を読んで勉強したいとか、当たり障りのないことばかりを連ねた。
「……あとね、僕……。レイセン君となら……」
青年と人ふたり分くらいの距離を保っていた僕は、彼の手を握ろうとして一歩前に出た。すると、青年も同じように半歩前に進んだので、考えていたことが伝わったような気がして僕は嬉しくなった。
ぎこちなく指を絡ませ、レイセン君の腰を抱き寄せる。息が掛かるほどに距離も縮まって、二人の間には隙間も境界線もないように思えた。
唇を重ねて、目蓋を閉じる。甘美な舌を頬張るように欲で染まった舌を伸ばした。
岬と浅瀬を隔てるものはなく、足を踏み外せば海に落ちてしまうほどの端に立っていた僕たちは、酔いしれたように体重を傾けて崖の下に落ちる。
重力で体が沈みきっても、僕たちはキスをし続けていた。人肌のように温い波が、更に僕たちを柔らかく包み込んだ。口を離すと、二人で笑いあいながら、このまま海に流され続けるのも悪くないな、と感慨に耽った。
──ずっとふたりで生きていける。僕はそう信じている。例え、背後に死が泳いでいようとも。
***
その日の夜、僕は黙って眠りにつくことができず、体が冷え切ってもなお、夕方にレイセン君と二人で立っていた崖の縁にひとり佇んでいた。
僕は無防備に一人で外に出ているわけではない、
それは戦略などなく第八の悪魔から逃げていた僕の感想ではない。コテージからここまでの道中に立ち塞がっていた、一匹の魔獣を仕留めた時の感触が僕に告げていたのだ。
「こんばんは。今夜の月は、綺麗な虧月だね」
こんな時間に──とは僕も言えないものの──声をかけられて、しかもそれが初めて聞いた音色だったものだから、僕はひどく警戒しつつ後ろを振り返った。悪魔かもしれないからだ。弓を握る僕の指に力が入る。
「だ、誰……?」
「ん? ああ、はじめましてだね。俺はジャイルズ。君の名前も教えて?」
月夜に照らされて視界は比較的良好だが、ジャイルズと名乗る大男が羽織っている衣の、正確な色までは識別できなかった。おそらく赤に近い色と思われる。彼の顔は衣被に覆われて殆ど見えない。
大きな青年の活発な勢いに飲まれ、僕は吃りながらはじめましての挨拶をする。
「アクア、だけど……」
「うんわかった、アクアだね。君も眠れないんだろう? 俺もそんな感じで、今日はやけに冴えていたから、ここまで歩いて来たんだ。見晴らしが良いからね、ここの景色は」
僕はジャイルズの顔が気になって、衣被の下を覗き込んでしまった。あっと驚く僕に対して、気にすることもなく青年は微笑んだ。両頬に、鼻先から顎あたりまでの長さの、縦の裂け目を粗雑に縫った傷跡が残っていて、それが酷く痛々しいように見えたのだ。
「あはは……ああ、フードを取るのを忘れていたよ。俺からは君の顔が見えていたから、気にしていなかった」
ジャイルズは僕の怪訝そうな顔を見て、フードの両端を持ち後ろに引っ張った。
赤毛で優しそうな緑色の目をした男性の顔だ。彼は──頬にある傷を除けば──至って普通の人で、その声音と口調は僕に安心感を覚えさせた。顔を見ていない状態でさえ彼の人柄を温厚なものと決めつけていたというのに、目を見れば余計にそう思わずにはいられなかった。
「ええと……ジャイルズさんはどこから来たんですか?」
「俺かあ……説明し辛いんだけど、ここから歩いて一時間とちょっとの場所から。見えないと思うけど、あっちの方向に家があってね」
ジャイルズは月を見ている僕たちが向いている方角を北とした時、西南を指差して言った。
僕は西南を振り返っても通り道である森しか見えないことよりも、彼が一時間かけてここへ来たことのほうが、僕にとっては驚きだった。
「そんなに、遠い場所から……」
「なに、このくらいは平気だよ。ここから王国フォシルまでくらいの距離を、二日間かけて歩いたこともあった」
「すごい、というかどうしてそんなことを……」
果てしない遠路に情けなくもため息をつくと、ジャイルズは満足げに笑みを浮かべた。
「ところで、当たり障りのない会話をすのもいいけど、どうせなら面白い話がしたい。アクア、君に好きな人はいる?」
「え……!? き、急にだなあ……」
銀髪で群青色の目をした青年が脳裏に浮かぶ。ジャイルズが言う面白い話、の意味がわかったような気がした。分かってもらえたようだ、と微笑むジャイルズが目に映る。
本当は即答できたはずなのだが、複雑な恥じらいの気持ちが込み上げてきて、考えるフリをしながら唸り「いるかもしれない」とだけ伝えた。
「いいじゃないか、守りたいと思えるような、大切な人がいることは恥ずべきじゃない。俺もいるし。……それじゃあ突拍子もない質問をもう一つ。君は人を殺したことがある?」
青年に真っ直ぐ見つめられ、この場では嘘をつくことができないと悟る。ジャイルズの考えは全く読めない。問いを投げかけられた途端、僕はひやりと頬に汗をかいたようだった。
「……人、なのかな。わからないけど、多分……あるよ」
「どうしたんだい? そんな顔をしなくても、軽蔑はしない。人殺しの経験は俺にだってある、人は誰しもが知らぬうちに誰かを殺しているんだ」
「は、はあ……」
「それで、ここからが本題。君が今まで殺した人のことを、どこまで考えられた? 君が殺した人にも、好きな人、あるいは愛した人、守りたい、一緒にいたいという相手がいるかもしれないと──考えたことはある?」
「…………」
「……君の言わんとしていることはだいたいわかるよ、こういう質問をいきなりされたら困るよね。じゃあ聞き方を変えよう、君は君の好きな人が殺される覚悟がある?」
「っそれは……」
思い描いていた華奢で美しい青年像が頭から砂塵となって崩れていった。
この光景に目眩と憎悪を覚えて、僕の体は冷たくなる。僕は理不尽な死を与えようとしてくる悪魔たちを、迎撃していただけにすぎない。問答無用で襲いかかってくる彼らと話をつけろというのが無理というものだ。
しかし、思えば悪魔たちでさえ人の形をしている。人の形をしていれば、人の心を持っているとは言い難いが、もし仮に彼らにも僕と同じような愛すべき人がいるのだとしたら──僕は誰かが愛した悪魔のような人々を殺したことになる。
「それでも、僕は……旅を続けるのをやめない、と思う。僕の仲間だって次々死んでいった。みんなの死を無駄にできない、僕はオプス=デイに行かなくちゃ」
「覚悟しきってはいないようだけど、そうするだけの勇気も動機もあるってことだね」
角の立つ物言いだが、否定はできないと思った。
すると、男は満足げに笑ってマントを翻した。
「どこ行くの……?」
「ああ、ちょっと急用を思い出してね。少しの間だったけど楽しかったよ、また会おうアクア」
「……急用……こんな時間に?」
***
「やあ、おかえりギルティ。こんな時間に……やっぱり彼に会ってきたのかい」
「ただいま。大凡そんなところだよ。決戦の前に、一度面と向かって話をしておきたかったんだ」
「なるほど、君らしいな。……で、どうだった? 君の御眼鏡に適う人物であった──のかな、彼は」
「うーん……微妙だな。長々と話していたわけじゃないし、大事なところだけ掻い摘んで話を聞かせてもらったけど、どう見ても何かが欠けている気がしたんだ」
「まあ、な。記憶がないというのは、本来の自分を完璧に発揮できないことでもあるからね。むしろ記憶喪失なのに人格が一切変わらないほうが恐ろしいだろう。記憶喪失に気づくことができるのは、本人ではない……周りの人だ」
「あはは、正論をありがとう。話を戻すけど……根本的なところが本当に駄目だ、まだ決心がついていないような顔をしていた。剣なんか使わなくても簡単に死んでしまいそうなくらい弱々しい感じ」
「そう侮るわけにもいかないだろう、現に……人並み外れた力を手に入れた私たちでさえ、逆らえなかったんだ。彼らに殺されたのはオーラン、アリッサム、ルドルフか」
「俺たちの場合、まあ……言い訳にすぎないけど、突然手に入れた力の使い方が完璧とは言えなかったところもあるとは思う。……ああ、そういえばブレイズとアルマは見るからに異臭を放っていた怪物──アルケミストに殺られた……のか。あんなの誰も勝てるわけないだろう。……大本の原因がフェニックスだったなんて、本当うまくいかないな」
「あいつは私たちに許可なく、レクタルも葬ったからな。全く……とんだ空気の読めないやつだ。何がしたかったんだ? 今となっては全て過去のことだが、同じ父に拾われた子どもとは到底思えん」
「彼の気持ちを汲んだら、お兄さんと同じところに逝かせてあげるのは、確かに正しいのかもしれないけど……。俺だって彼と同じ立場なら死にたくなると思う、それに……」
「オーランは……いや、あれはもうオーランではなかったな、悪魔が本質的に彼を乗っ取ってしまったから」
「もともと適正がなかったそうじゃないか。考えれば考えるほど、虚しくなるな……」
「君が気に病むことではないよ、ギルティ。顔を上げて、私たちで終わらせよう」
「……そうだな、もう何の為にこんなことをしているかは考えない。それで、やっぱり決戦は二人で臨むべきだと思う」
「私も同感だ」
「そして……『女王』を呼ぶよ、はじめから、殺すつもりで──」
「ふふ、もう十分。さっきの時点で彼を殺さなかったという点だけでも、君は優しい……。いいや、優しすぎる」
「俺じゃあ、いつ相手に情けをかけるかわからないからな」
「ふっ、最後に私を気遣ってくれるの? やっぱり優しいんだ、私を知らないのに」
***
「ひいい、誰か、だれか!!」
翌朝、今日からまた旅に出る。僕とレイセン君は別室で寝ていたが殆ど同時刻に目を覚まし、早めの朝食を摂ろうとしていた。エレナとアイネがまだ寝ていてもおかしくはない時間だったので、アイネがコテージの外から扉を開けてやって来たことに驚いた。
「なんということでしょう!! 神は、私たちを見放したんでしょうか?! ああ、こんなことがあって良いと、神はお思いになっておられるのか!!」
鳩が豆鉄砲を食らったようなアイネの顔は、青ざめて具合が悪そうだ。平静を失った彼は、糸が切れた操り人形のように膝の力を抜かす。
「アイネ……?」
「部屋で眠っているものとばかり……。何があったんです……それは……」
テーブルに座る僕よりもキッチンで調理をしていたレイセン君の方が遠かった。しかし、アイネの病的に白い顔を見て、レイセン君は僕よりも早く単眼の男性の元へ駆け寄った。
「あ、ああ……エレナ様が……エレナ様が海に身を投げてしまった!!」
アイネは両手で大事に掴んでいた手紙のような封筒と、春に現れる新芽のような黄緑が僅かに濁ったエンゲイジリングをレイセン君に差し向けた。
「これは、エレナに渡したエンゲイジリング……。こちらは……遺書?」
「……はい、先程開いて読みましたが、レイセン様の仰るとおり……」
「これらは外の……どちらで見つけたのですか?」
「海に近い所でした、砂浜に、エレナ様のブーツだけが置かれているのを見つけて……こんな時間に海水浴? と思いました。でも近づいてみて、ようやくこの手紙と指輪を……」
「…………」
僕は平常心でいたのか、それとも平常心を装ったのか、わからないけれど無心だった。そしてこのような心境はおかしいのではないだろうかと気づく。仲間が死んでいく度に、何も感じなくなっていく自分がいた。
「よく、お気づきになられましたね。それで、なぜ早朝に外へ出たのです」
レイセン君も僕と同じように神経質になっていた。──カノンを殺したという濡衣を着せられて死にかけた彼ならばやむを得ない。僕でさえ、今はまだ他殺があり得るかもしれない状況で、アイネを疑わざるを得なかったのだから。
「……私が、ですか? 夕食の時間になっても、エレナ様、いらっしゃらなかったじゃないですか。最初は私もお二人と顔を合わせづらくて、部屋に籠もっているとばかり思いました。けれど夜、厠に行くついでにエレナ様の部屋の扉に耳を立てたんです、無許可で入室は失礼だと思いましたのでね。そしたら人がいるとは到底思えないほど静かで……こっそりキトゥリノに見てもらったのですが、誰もいないと……」
「じゃあ、すぐに探さなかったのはどうして? 僕たちに教えてもよかったのに……」
「眠りについたあなたがたを起こすのは、申し訳ないほど夜更けでしたので……。それに私、弱視なので暗い中での人探しは見つけられそうになかったものですから、外が明るくなるまで待ってたんですよお……」
レイセン君は静粛にアイネが手にした手紙を受け取り、封筒の口を開いた。後ろから覗くように僕も遺書を読む。
書いてあったのは、ただ一言「もう耐えられない」という文字と、書いた本人のものであろう名前だけだった。
「ともかく、エレナ本人はまだ見つかっていないのですね。でしたらこの手紙や、ブーツが置いてあったという場所の近辺を手分けして探しましょう。できればピクトたちの手もお借りしたいところです。朝食はそれから……」
そして僕たちは三人で──僕としては三度目の──岬に訪れた。
エレナの白いロングブーツは確かに浜辺の上にぽつりと置いてあり、どちらも足首からくたびれて倒れた状態だった。
例え殺されかけた相手であろうとも、行方不明と知ると捜索する──。僕にはレイセン君の気持ちがわかりかねていた。彼が慈悲深いからなのか、それとも心を殺しているのか、どちらでもないのか──は、本人にしかわからないだろう。
旭日が日暈を放って白く輝き、海の向こう側からは北風が吹いている。
海のほとりを歩きながら、僕はエレナを見つけられないだろうと思う。そして、僕の予想は当たった。
エレナとアイネはコテージで休んでいて、僕とレイセン君は気晴らしにと外に出ていた。
ターコイズブルーの浅瀬が、僕の左側で波の音を揺らしている。
「ねえ、レイセン君。旅が終わったら、僕たちはどうなるのかな。この世界は元に戻ったり、とか……するのかな」
「さあ……詳しいことは私にも分かりません。そうですね、ご主人様の記憶が戻れば、何をすべきかおのずと明確になることと思います」
清風が吹き寄せると、微かに潮の香りがする。
水平線の真上に夕暉が輝いていて、果てしなく遠いところから水面を照らしていた。
「そっか……早く思い出せるといいな」
はい、と頷いて彼は笑った。レイセン君が柔らかく口元を緩ませると、今まで見てきたどんなに美しい花も、どんなに綺麗な景色も、霞んで思い起こさせる。
「ねえ、レイセン君。旅が終わっても、僕たち一緒にいようね」
僕がそう呟くと、レイセン君の眉相が狭まったような気がした。それからすぐに口角を上げ、僕に笑ってみせた。
「ご主人様は、何かしたいこと……おありですか」
「え……したいこと……か。あまり考えたこと、なかったなあ……」
「今のうちから、考えておきましょう。きっと時間ばかりが有り余って、仕方がなくなるでしょうから」
暫く考え込んでから、欲望と願望の限りを青年に語る。
お腹いっぱいになるまで美味しいご飯を食べたいとか──甘くて毎日でも食べていられそうな棒付きキャンディを自分で作ってみたいとか──レイセン君のように沢山の知識を身に着けたいから、本を読んで勉強したいとか、当たり障りのないことばかりを連ねた。
「……あとね、僕……。レイセン君となら……」
青年と人ふたり分くらいの距離を保っていた僕は、彼の手を握ろうとして一歩前に出た。すると、青年も同じように半歩前に進んだので、考えていたことが伝わったような気がして僕は嬉しくなった。
ぎこちなく指を絡ませ、レイセン君の腰を抱き寄せる。息が掛かるほどに距離も縮まって、二人の間には隙間も境界線もないように思えた。
唇を重ねて、目蓋を閉じる。甘美な舌を頬張るように欲で染まった舌を伸ばした。
岬と浅瀬を隔てるものはなく、足を踏み外せば海に落ちてしまうほどの端に立っていた僕たちは、酔いしれたように体重を傾けて崖の下に落ちる。
重力で体が沈みきっても、僕たちはキスをし続けていた。人肌のように温い波が、更に僕たちを柔らかく包み込んだ。口を離すと、二人で笑いあいながら、このまま海に流され続けるのも悪くないな、と感慨に耽った。
──ずっとふたりで生きていける。僕はそう信じている。例え、背後に死が泳いでいようとも。
***
その日の夜、僕は黙って眠りにつくことができず、体が冷え切ってもなお、夕方にレイセン君と二人で立っていた崖の縁にひとり佇んでいた。
僕は無防備に一人で外に出ているわけではない、
それは戦略などなく第八の悪魔から逃げていた僕の感想ではない。コテージからここまでの道中に立ち塞がっていた、一匹の魔獣を仕留めた時の感触が僕に告げていたのだ。
「こんばんは。今夜の月は、綺麗な虧月だね」
こんな時間に──とは僕も言えないものの──声をかけられて、しかもそれが初めて聞いた音色だったものだから、僕はひどく警戒しつつ後ろを振り返った。悪魔かもしれないからだ。弓を握る僕の指に力が入る。
「だ、誰……?」
「ん? ああ、はじめましてだね。俺はジャイルズ。君の名前も教えて?」
月夜に照らされて視界は比較的良好だが、ジャイルズと名乗る大男が羽織っている衣の、正確な色までは識別できなかった。おそらく赤に近い色と思われる。彼の顔は衣被に覆われて殆ど見えない。
大きな青年の活発な勢いに飲まれ、僕は吃りながらはじめましての挨拶をする。
「アクア、だけど……」
「うんわかった、アクアだね。君も眠れないんだろう? 俺もそんな感じで、今日はやけに冴えていたから、ここまで歩いて来たんだ。見晴らしが良いからね、ここの景色は」
僕はジャイルズの顔が気になって、衣被の下を覗き込んでしまった。あっと驚く僕に対して、気にすることもなく青年は微笑んだ。両頬に、鼻先から顎あたりまでの長さの、縦の裂け目を粗雑に縫った傷跡が残っていて、それが酷く痛々しいように見えたのだ。
「あはは……ああ、フードを取るのを忘れていたよ。俺からは君の顔が見えていたから、気にしていなかった」
ジャイルズは僕の怪訝そうな顔を見て、フードの両端を持ち後ろに引っ張った。
赤毛で優しそうな緑色の目をした男性の顔だ。彼は──頬にある傷を除けば──至って普通の人で、その声音と口調は僕に安心感を覚えさせた。顔を見ていない状態でさえ彼の人柄を温厚なものと決めつけていたというのに、目を見れば余計にそう思わずにはいられなかった。
「ええと……ジャイルズさんはどこから来たんですか?」
「俺かあ……説明し辛いんだけど、ここから歩いて一時間とちょっとの場所から。見えないと思うけど、あっちの方向に家があってね」
ジャイルズは月を見ている僕たちが向いている方角を北とした時、西南を指差して言った。
僕は西南を振り返っても通り道である森しか見えないことよりも、彼が一時間かけてここへ来たことのほうが、僕にとっては驚きだった。
「そんなに、遠い場所から……」
「なに、このくらいは平気だよ。ここから王国フォシルまでくらいの距離を、二日間かけて歩いたこともあった」
「すごい、というかどうしてそんなことを……」
果てしない遠路に情けなくもため息をつくと、ジャイルズは満足げに笑みを浮かべた。
「ところで、当たり障りのない会話をすのもいいけど、どうせなら面白い話がしたい。アクア、君に好きな人はいる?」
「え……!? き、急にだなあ……」
銀髪で群青色の目をした青年が脳裏に浮かぶ。ジャイルズが言う面白い話、の意味がわかったような気がした。分かってもらえたようだ、と微笑むジャイルズが目に映る。
本当は即答できたはずなのだが、複雑な恥じらいの気持ちが込み上げてきて、考えるフリをしながら唸り「いるかもしれない」とだけ伝えた。
「いいじゃないか、守りたいと思えるような、大切な人がいることは恥ずべきじゃない。俺もいるし。……それじゃあ突拍子もない質問をもう一つ。君は人を殺したことがある?」
青年に真っ直ぐ見つめられ、この場では嘘をつくことができないと悟る。ジャイルズの考えは全く読めない。問いを投げかけられた途端、僕はひやりと頬に汗をかいたようだった。
「……人、なのかな。わからないけど、多分……あるよ」
「どうしたんだい? そんな顔をしなくても、軽蔑はしない。人殺しの経験は俺にだってある、人は誰しもが知らぬうちに誰かを殺しているんだ」
「は、はあ……」
「それで、ここからが本題。君が今まで殺した人のことを、どこまで考えられた? 君が殺した人にも、好きな人、あるいは愛した人、守りたい、一緒にいたいという相手がいるかもしれないと──考えたことはある?」
「…………」
「……君の言わんとしていることはだいたいわかるよ、こういう質問をいきなりされたら困るよね。じゃあ聞き方を変えよう、君は君の好きな人が殺される覚悟がある?」
「っそれは……」
思い描いていた華奢で美しい青年像が頭から砂塵となって崩れていった。
この光景に目眩と憎悪を覚えて、僕の体は冷たくなる。僕は理不尽な死を与えようとしてくる悪魔たちを、迎撃していただけにすぎない。問答無用で襲いかかってくる彼らと話をつけろというのが無理というものだ。
しかし、思えば悪魔たちでさえ人の形をしている。人の形をしていれば、人の心を持っているとは言い難いが、もし仮に彼らにも僕と同じような愛すべき人がいるのだとしたら──僕は誰かが愛した悪魔のような人々を殺したことになる。
「それでも、僕は……旅を続けるのをやめない、と思う。僕の仲間だって次々死んでいった。みんなの死を無駄にできない、僕はオプス=デイに行かなくちゃ」
「覚悟しきってはいないようだけど、そうするだけの勇気も動機もあるってことだね」
角の立つ物言いだが、否定はできないと思った。
すると、男は満足げに笑ってマントを翻した。
「どこ行くの……?」
「ああ、ちょっと急用を思い出してね。少しの間だったけど楽しかったよ、また会おうアクア」
「……急用……こんな時間に?」
***
「やあ、おかえりギルティ。こんな時間に……やっぱり彼に会ってきたのかい」
「ただいま。大凡そんなところだよ。決戦の前に、一度面と向かって話をしておきたかったんだ」
「なるほど、君らしいな。……で、どうだった? 君の御眼鏡に適う人物であった──のかな、彼は」
「うーん……微妙だな。長々と話していたわけじゃないし、大事なところだけ掻い摘んで話を聞かせてもらったけど、どう見ても何かが欠けている気がしたんだ」
「まあ、な。記憶がないというのは、本来の自分を完璧に発揮できないことでもあるからね。むしろ記憶喪失なのに人格が一切変わらないほうが恐ろしいだろう。記憶喪失に気づくことができるのは、本人ではない……周りの人だ」
「あはは、正論をありがとう。話を戻すけど……根本的なところが本当に駄目だ、まだ決心がついていないような顔をしていた。剣なんか使わなくても簡単に死んでしまいそうなくらい弱々しい感じ」
「そう侮るわけにもいかないだろう、現に……人並み外れた力を手に入れた私たちでさえ、逆らえなかったんだ。彼らに殺されたのはオーラン、アリッサム、ルドルフか」
「俺たちの場合、まあ……言い訳にすぎないけど、突然手に入れた力の使い方が完璧とは言えなかったところもあるとは思う。……ああ、そういえばブレイズとアルマは見るからに異臭を放っていた怪物──アルケミストに殺られた……のか。あんなの誰も勝てるわけないだろう。……大本の原因がフェニックスだったなんて、本当うまくいかないな」
「あいつは私たちに許可なく、レクタルも葬ったからな。全く……とんだ空気の読めないやつだ。何がしたかったんだ? 今となっては全て過去のことだが、同じ父に拾われた子どもとは到底思えん」
「彼の気持ちを汲んだら、お兄さんと同じところに逝かせてあげるのは、確かに正しいのかもしれないけど……。俺だって彼と同じ立場なら死にたくなると思う、それに……」
「オーランは……いや、あれはもうオーランではなかったな、悪魔が本質的に彼を乗っ取ってしまったから」
「もともと適正がなかったそうじゃないか。考えれば考えるほど、虚しくなるな……」
「君が気に病むことではないよ、ギルティ。顔を上げて、私たちで終わらせよう」
「……そうだな、もう何の為にこんなことをしているかは考えない。それで、やっぱり決戦は二人で臨むべきだと思う」
「私も同感だ」
「そして……『女王』を呼ぶよ、はじめから、殺すつもりで──」
「ふふ、もう十分。さっきの時点で彼を殺さなかったという点だけでも、君は優しい……。いいや、優しすぎる」
「俺じゃあ、いつ相手に情けをかけるかわからないからな」
「ふっ、最後に私を気遣ってくれるの? やっぱり優しいんだ、私を知らないのに」
***
「ひいい、誰か、だれか!!」
翌朝、今日からまた旅に出る。僕とレイセン君は別室で寝ていたが殆ど同時刻に目を覚まし、早めの朝食を摂ろうとしていた。エレナとアイネがまだ寝ていてもおかしくはない時間だったので、アイネがコテージの外から扉を開けてやって来たことに驚いた。
「なんということでしょう!! 神は、私たちを見放したんでしょうか?! ああ、こんなことがあって良いと、神はお思いになっておられるのか!!」
鳩が豆鉄砲を食らったようなアイネの顔は、青ざめて具合が悪そうだ。平静を失った彼は、糸が切れた操り人形のように膝の力を抜かす。
「アイネ……?」
「部屋で眠っているものとばかり……。何があったんです……それは……」
テーブルに座る僕よりもキッチンで調理をしていたレイセン君の方が遠かった。しかし、アイネの病的に白い顔を見て、レイセン君は僕よりも早く単眼の男性の元へ駆け寄った。
「あ、ああ……エレナ様が……エレナ様が海に身を投げてしまった!!」
アイネは両手で大事に掴んでいた手紙のような封筒と、春に現れる新芽のような黄緑が僅かに濁ったエンゲイジリングをレイセン君に差し向けた。
「これは、エレナに渡したエンゲイジリング……。こちらは……遺書?」
「……はい、先程開いて読みましたが、レイセン様の仰るとおり……」
「これらは外の……どちらで見つけたのですか?」
「海に近い所でした、砂浜に、エレナ様のブーツだけが置かれているのを見つけて……こんな時間に海水浴? と思いました。でも近づいてみて、ようやくこの手紙と指輪を……」
「…………」
僕は平常心でいたのか、それとも平常心を装ったのか、わからないけれど無心だった。そしてこのような心境はおかしいのではないだろうかと気づく。仲間が死んでいく度に、何も感じなくなっていく自分がいた。
「よく、お気づきになられましたね。それで、なぜ早朝に外へ出たのです」
レイセン君も僕と同じように神経質になっていた。──カノンを殺したという濡衣を着せられて死にかけた彼ならばやむを得ない。僕でさえ、今はまだ他殺があり得るかもしれない状況で、アイネを疑わざるを得なかったのだから。
「……私が、ですか? 夕食の時間になっても、エレナ様、いらっしゃらなかったじゃないですか。最初は私もお二人と顔を合わせづらくて、部屋に籠もっているとばかり思いました。けれど夜、厠に行くついでにエレナ様の部屋の扉に耳を立てたんです、無許可で入室は失礼だと思いましたのでね。そしたら人がいるとは到底思えないほど静かで……こっそりキトゥリノに見てもらったのですが、誰もいないと……」
「じゃあ、すぐに探さなかったのはどうして? 僕たちに教えてもよかったのに……」
「眠りについたあなたがたを起こすのは、申し訳ないほど夜更けでしたので……。それに私、弱視なので暗い中での人探しは見つけられそうになかったものですから、外が明るくなるまで待ってたんですよお……」
レイセン君は静粛にアイネが手にした手紙を受け取り、封筒の口を開いた。後ろから覗くように僕も遺書を読む。
書いてあったのは、ただ一言「もう耐えられない」という文字と、書いた本人のものであろう名前だけだった。
「ともかく、エレナ本人はまだ見つかっていないのですね。でしたらこの手紙や、ブーツが置いてあったという場所の近辺を手分けして探しましょう。できればピクトたちの手もお借りしたいところです。朝食はそれから……」
そして僕たちは三人で──僕としては三度目の──岬に訪れた。
エレナの白いロングブーツは確かに浜辺の上にぽつりと置いてあり、どちらも足首からくたびれて倒れた状態だった。
例え殺されかけた相手であろうとも、行方不明と知ると捜索する──。僕にはレイセン君の気持ちがわかりかねていた。彼が慈悲深いからなのか、それとも心を殺しているのか、どちらでもないのか──は、本人にしかわからないだろう。
旭日が日暈を放って白く輝き、海の向こう側からは北風が吹いている。
海のほとりを歩きながら、僕はエレナを見つけられないだろうと思う。そして、僕の予想は当たった。
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