死の餞ヲ、君ニ

弋慎司

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第2部

#59 虚空に落ちる

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 冷たい風が、吹いた。向かい風が焼け焦げた臭いを運んできて、僕は噎せ返った。
 漸く目を開くと、天井は破れて空が剥き出しになっている。
「あ……」
 正面を見ると、エレナが床にへたり込んでいた。右肩にやや近い、二の腕を押さえつけている。
「どうして……どうして、なの……??」
「その腕……」
 着ていた服の裾が焼けてしまい、焦げ茶色の布の先からは封印めいた切り傷のような痕が見えた。
 彼女は自分の腕のことなど二の次にして、本来ならばここにいるべき人物がいなくなっていることを嘆いているようだった。
 僕が治癒魔術をかけようとすると、エレナは喉で笑った。
「無理よ。あたしの腕、もう戻らなくなったから。力量に見合わない規模の魔術を、しかも瞬時に撃つ代償にね」
「…………」
 一つに束ねた金の髪が、徐々に肩から落ちていく。体を震わせる姿は、まるで幼い少女が啜り泣くようだ。
「あたし、また……まちがえちゃったのかなあ……本当は──」
 まだ続きがあったように思えた言葉は、最後まで続くことはなかった。突如として塔が上下に激しく揺れ始めたのだ。地震のようにいずれ静まるという雰囲気ではなく、足元が何度も浮きかけた。
「──いた!! 折角ここまで登り詰めたのに、今度はなんですか、崩れるとでも言うんですかねえ!」
 入口を見ると、アイネが建物全体の騒音に対し、負けじと声を荒らげて壁に寄りかかっていた。
「アイネさん?!」
「ええ、その通り、偽物ではございませんよ!」
「いや、そうじゃなくて、ここはまずいって、崩れる!!」
 更にもう一度、強く揺れた。塔を支える土台が崩れるように、足元から風を感じる。
「たし……そ……おり……!」
 アイネが僕に何かを言っているが、今はその言葉を理解することも、返答する余裕もない。
──どうする、僕一人であれば確実に脱出できるが、エレナとアイネを置き去りにはできない。
「──っ、そうだ。でも……」
 今まで試したことのない発想だった。
 確率が半々の事象で成功に賭けるということがどうにも苦手な僕は、頭の中が靄でいっぱいだった。
「エレナ、アイネ! 僕の手に掴まって!!」
 考えるよりも先に声を出す。僕に呼ばれた二人が、同時に差し伸べられた僕の手を見ていた。
 事情を知っているエレナは、察したように僕の手を握った。
「え、ちょっといきなりどうしたんですかそ──」
「──考えるのはあとうわあ?!」
 これ以上ここに留まれば、毎秒ごとに生きるか死ぬかの選択を迫られるだろう。そして段々と死に傾いていって──。
三度目の強い揺れ。僕の方へと投げ出されたアイネの手を取って、目蓋を閉じた。

 天まで続くような塔が瓦礫の山になったのを、僕とエレナ、そしてアイネの三人で見上げていた。
「はあ……本気で死ぬかと思いましたよお」
「僕も。……まさかできるとは思わなかった」
「…………」
 僕は引き攣ったような声を上げる。
「レイセン君は? エレナ、さっき言ってた泉ってどこにあるの?」
 返事を急ぐあまり、僕は半ば放心状態で、苦悩に疲れきった女性の肩を、両手で掴んで揺さぶった。
 エレナは身を捩って僕の手を払う。
「……やめて……! あ、あの先、だから……でもきっといない。そしたらあたしを責めるんでしょう?」
「それは……。行ってみないと、僕もわからない」
「アイネさんも、彼らがどうなったのかくらいは知りたいですねえ。ここで確認しておかなければ、気になって夜も眠れない。……エレナさんはここで待っていては?」
 機転を利かせたアイネの言葉に、僕は心の中で頷きながら何も言わずにいた。僕が下手に口を挟むより、黙っていたほうがいいだろうと思ったからだ。
「あたしも……行く……取り返しの付かないことをした、せめて……あの後どうなったかくらい……」
 塔の最上階で抱いた後悔を思い出し、女性のいう最後が本当でないことを祈りながら、僕は無言で歩き出した。

 一本道の雑木林とアルカナの泉の間に境界線を引いている、蔦と茂みの無造作を掻き分けて進むと、十分とかからぬうちに目的の場所へ辿り着いた。
 叢林に囲われた円盤状の穴が、地面に虚ろと空いてしまっている。これが名前通りの神秘的な情景であるとは言い難い。
 僕は何よりも、落ちてしまえば底の見えない空虚に閉じ込められる、入口の縁に横たわっているものに釘付けになった。
「レイセン君……!!」
「ああ、アクア様、足元にお気をつけくださいね。危ないですから」
 アイネの忠告が耳に入るや否や、立っていた地点から足を離して、できるだけ落ちてしまわないよう縁の周りからは距離を保って青年の横たわっている姿に駆け寄った。
 弛緩して倒れている銀髪の青年の半身を起こして、もう一度名前を呼ぶと、彼は気がついたのか薄く目蓋を開いて僕を瞳に捉えた。
「よかった……レイセン君、もういないんじゃないかとばっかり……」
「……夢、では、ないようですね」
「うん、うん……本当に、生きててよかったよ……」
 泣き崩れるようにレイセン君を抱きしめた。僕はもう、この人なしでは生きていけなくなったのだと確信する。
 僕より大きな体躯の背に手を添える。人肌のぬくもりを感じ、彼がまだ生きていることに至極安堵した。
「レイセン様、ご無事でしたか! ええ、本当に良かったですとも。ですがその、もうお一方いらっしゃるのでは? その辺に落ちていたりしますかねえ、例えば悪魔的な方が……」
「あなた……生きていたのね。ルドルフさんは……ああ、そっか、そういうこと……」
「え、そういうことって、どういうことですエレナ様??」
「……ルドルフさんは多分、レイセンを庇って一人で泉に落ちたんだと……思う」
 僕の肩に手を置いたレイセン君は、上半身を起こした。僕の背後に立っている二人を見て、物言いたげに俯くと、顔を上げる。
「詳しいことは私から。その前に、もし私が生きて弁解をする機会が与えられたのなら──信じていただけるかどうかは定かでありませんが、私の真実をお伝えしたいと思いました」
「死んでしまったら、その機会すらないじゃない……あたしも、今は悪かったって、反省している……話はちゃんと聞きます。あたしこそ、人を殺してしまったから」
「あの状況で全てをお話することは、到底不可能でしたので。単刀直入に言いますと、カノンを殺したのは私ではありません。しかしそれをお伝えするのは悪魔の証明。私が殺してないということを証明できなければ、私が殺したかもしれないことになるだろうと」
「それは違うよ、だって……」
 僕はレイセン君の現場不在証明をしようとした。けれどカノン殺害が起きた夜の出来事を事細かに話す気にはなれなかった。すると、青年は僕にそれ以上は言わなくてよいと手を掲げて制し、陳述を続けた。
「カノンが殺害された晩、私がご主人様の部屋にいたことは、ご主人様がご存知です。ですが……」
「ずっとその部屋にいたかどうかは証明できない、でしょ? アクアが寝てしまえば、部屋の出入りは自由……」
「はい、ですので、私自身が完全にアリバイを示すことは不可能。遺体の周辺で凶器は見つかりませんでしたし、結局疑われてもおかしくはありませんでした」
 咳払いを一つして、アイネが難しい顔をする。
「ええ……では一体どなたが、その──カノンという方を殺したのです? アイネさん、話しか聞いていないのでなんとも言えないのですが」
「……ルドルフ?」
「少なくとも私は、そのように考えております。どのような意図があってカノンを殺害したのかは知りませんけれど、亡骸の有様を見るに、ああいうことを平然とする男でしたので……」
 エレナが唇を震わせながら、矢継ぎ早に語りだした。
「……カノン君とあたし、少し前までルドルフさんたち……悪魔たちの所にいたのよ。そこで脅されていて、街でフィリアちゃんを攫ったのも、本当はレイセンを連れてこいってルドルフさんに指示されてて……」
「……!! もしかして、僕たちと今まで一緒にいたのは……殺すため……? 僕を……?」
 旧市街アトロシティでフィリアが攫われた時に聞いた、笛の音を思い出す。ローブを羽織った二人組は、カノンと、今ここで僕にごめんと謝るエレナだったのだ。
「最初はそのつもりだった……でも、ブレイズさんを殺した時、もしかしたらあなたたちに助けてもらえるかもしれないって、あそこから逃げられるかもしれないって思って……!! でも駄目だった、カノン君とその話をした次の日に、カノン君は──!!」
 憂いを纏った娘は、腕に巻かれた袖を動かし、両手を手で覆いながらしゃがみ込んだ。
「エレナ様……。それで、濡れ衣を着せられたレイセン様の冤罪を証明するために、ルドルフさんだけが泉に落ちたということですかあ。それからレイセン様、貴方の口ぶりですと、彼についてなにか知っているようですが、それは何故でしょう?」
 アイネは第八の悪魔に関してやけに突っかかってくる。聞いていると、呼び方も他の人とは違うようだ。単眼の男の質問に、レイセン君は答えた。
「はい、ルドルフは……私と双子の弟です」
 群青色の目を濁らせながら、忘れたいとでも言いたげな表情で、青年は悲しげに呟いた。

 ***

 いつまで経っても水底──ここに水というものはないのだが──に辿り着かない。僕は闇から闇に葬られ、落ち続けていた。
 思い返せば、先の行動には後悔の念しかない。けれど僕は、兄と心中がしたかったわけではない。
 ではどうすれば良かったのだろうか。答えを探すだけ馬鹿らしくなってくるくらい僕の夢物語は脆すぎて、ガラスの欠片ほどもない。
 
──馬鹿な人。独り占めのチャンスだったのに、どうして棒に振った。

 久しく会っていないと思ったら、やっと出てきましたか。もう遅いですよ、僕は死ぬんです。
 それに、人なんて、大概馬鹿ですよ。僕だってあの人に散々愚かだの何だのと侮辱しましたけれど、自分以外の、愛する人の生死に振り回される程度には馬鹿ですから。何も自分だけがまともだなんて、大それた考えを抱くほど僕は落ちぶれていない。
 ところで、生きているのか死んでいるのかわからない、塔から落ち、引き続き泉の中を落下しているだけの僕に、何か御用でしょうか。

──願い能わず。最後は己の力で手に入れようなどと、人並みに愚劣な考えに至ったお前の今後を伝えに。

 ああ、そういえば、悪魔は願いと引き換えにその人の魂を奪う──のでしたよね。
 僕は魔女になんてなりたくなかった。あともう少しで、あの方よりも先に逝けたのに。僕はあの方の命で魔女になったようなものだから、手応えなく死ぬということが惜しくて、あなたの話に少し乗ったのです。
 願いが叶わなかったら、どうなるんでしょうか。僕の命も体も、もうこの世界にあってないような朧げなものですけれども。

──そうだ、お前の魂は無価値も同然。現世にない魂など無用の長物。だからまだ使い物になる、お前の体を頂戴する。

 は……? 今なんと、聞いていません、そんな話は。
 体を取って、あなたは何になるというのです。この世に踏みとどまる足枷を欲するなど、かえって邪魔になるだけではありませんか。

──お前が心配せずともよい。幾年お前と時を共にしていたかは忘れた、おそらくたいしたことのない年月であろう。お前の情が伝染ったのかもしれない。私もお前と同じように、あの男を欲した。後は私に任せるのだ。

 嫌です。お兄様を渡すものですか、ましてや僕たちの健やかな日常を破壊した原因である悪魔お前なんかに!
 
──拒否しても無駄だろうに。お前という人の在り方は認める。だがお前の人格だけは性に合わん。
──それに、だ。お前がなんと言おうと、その体は私の指の音一つでいとも容易く魂と乖離する。

 嗚呼、こんなことになるのなら、僕はあなたに魂を捧げるなんて言わなかった! 魂を奪われるよりもずっと虫酸が走る。今でさえ、あんなどこの馬の骨ともわからない悍ましい生き物にお兄様を取られたままだというのに、僕の体をした偽物の僕が、お兄様とのまぐわいを強要するだと。ふざけるな、僕の死体を弄んでみろ、一生呪ってやる、地獄で永遠に呪ってやる!

──悪足掻きか、それとも最期の泣き言か。早々に吠えるだけ無意味であると悟れ。お前が言いたいことはそれだけか。

 僕の体を奪う。一切の同意も認めもしませんが、わかりました。
 そう、それで、僕の魂はどうなるんです。

──そんなことは知らん、無価値なお前の魂の行く末など知った所で一銭も得をしない。ただ──指を鳴らすだけとはいえ、魂と体を引き剥がすため無理な離れ方をする。私はお前の体と同化し、一刻も早く地上に向かう。したがってお前の魂はここに残って、永久に暗がりを彷徨い続けることになるだろうな。ああそうだ、ついでにの記憶も破損する。仕方がない、これはあり得たかもしれない夢物語の延長線上なのだから。

 嫌らしい、非道い、穢い、意地悪い、厭わしい。
 僕が最も思い出したくない記憶を、この期に及んで今、呼び覚ましてしまうとは。大人たちの狂気的な妄執に逆らえず、井戸の底に突き落とされた、あの忌々しい思い出を!

──堕落した人の、恐怖を見るような目は唆る。思えばお前の最期は悲惨だったな、あれがお前の魂に根深く残っているとするならば、魂の形も記憶に引き摺られるだろう。両の目は潰れ、脚は──。

 やめてください、それ以上を言わないでください。おかしくなってしまいそうだ。
 ああ、ごめんなさい。あの時は僕が悪かったんです。「僕は魔女に相応しくありません。魔女の血を受け継ぐのは、紛れもないお兄様なのです」と正直に申し上げていれば、僕はあのような無様な死に方をせずに済んだことでしょう。
 全ては僕が悪うございました。僕の所為です。自分の非を認めます、だから──。

──煩い虫のようだなあ。地獄で私を呪う余裕があるといいのだが。きっと奈落の底は、永遠の煉獄が待っている。お前は一生詫びていればいい、己の罪を嘆き続ければいい。

 脆くて薄い透明な物質が割れ、雲散霧消するような音が聞こえた。僕が終える音だ。
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