死の餞ヲ、君ニ

弋慎司

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第2部

#36 堕天使

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 私は牧師の父エリックと、その母カーラの間に生まれた。
 元々、子どもは不必要だと、避妊の方針を貫いていた父と母だった。その理性が、ある日を境に人の本能に目覚め、私を産むことを決意した。
 割れ物のように大切に育てられた私は、大きくなったら父母の望むような人材になろうと強く願うようになった。
 だが、エリックの優しさに満ち満ちた強さと、カーラの慈しみの心は、私を完膚なきまでに叩きのめした。
 あの頃の──二人の両親に見守られながらパンとスープを頬張っていた、幸福で穏やかな私はもういない。

 私が五歳になった時だ。
 目を開けたような気がするのに、私はまだ暗がりの中にいるのだ。
 目蓋を開けているのか、閉じているのか……。どちらにせよ、どうでもいいと思える程の、光という概念が失われた場所に、私はいた。
 あまりにも不自然な空間に私は戸惑い、正常な判断ができなかった。
 私はもしかして、まだ深夜であるというのにも拘らず、起きてしまったのかもしれない。
 そして、何故かとても暑苦しい。
 こんな不快な場所では、再び眠りにつくことなどできそうにもなかった。この頃から自分の部屋というものが存在した私は、両親がいる寝室へ行き、迷惑になるかもしれないが共に寝ることを許してもらおうとした。
 体を起こそうと腕を曲げる。そして私は第三の違和感に触れる。
 狭い、窮屈なのだ。
 うつ伏せになっていた私は、即座に起き上がることができなかった。精々、体を少しずつ少しずつずらして仰向けになるのがやっとだ。
 何故私はこんな事をしているのか?
 私は今日もベッドの上で寝ていたのではなかったか?
 私は天を仰ぐように両掌を真上に伸ばした。
──あぁ、ああ分かった。
 私は、閉じ込められているのだと。
 一体誰が私をここに運んだのだ。ここはどこだ。犯人は誰だ、私は誰かに攫われたのか。
 父と母は私がいないことに気がついているのか。
 次、ここから出られるのはいつだ。
 出られなかったら、私は──。
 私は叫んだ。叫びに叫んで、喉が潰れて、次にやってきたのは喉の通り道が焼き切れるような痛みだった。
 同時に八つ当たりするように暴れた手や足も、疲弊しきって平面の上にだらしなく置かれた。
 遂に状況を危険だと判断した私の体からは汗が止まらなかった。固唾を飲んで、行く末を案じた。
 きっと、きっとパパとママが助けに来てくれる──。
 私はそう信じて止まなかった。
 じっとしているだけで疲れる。体感時間はもうとっくに二、三時間は経過しているが、実際は三十分も経っていないことだろうなどと、考えているうちに空腹を覚えた。
 そして時間が経過する度に、天井を押してみたり、壁も床も見境なく触れてみたりもした。

 いつしか、体中を虫が這いずり回るような幻覚と、会ったこともない声に罵倒される幻聴が私を支配していた。
 虫が通った跡が痒くて痒くて痒くて痒くて痒くて──それでも、耳鳴りは続いた。
 私は静止した。見えない力が私を押さえつけたかに思えた。
 天井をぼうと見ていた私の前に一点の輝きが差し込む。光は強さを増し、あまりの眩しさに私は目を瞑った。
 私は助かったのかもしれない。
 次に目を開けた時、私は棺桶の外に立っていた。
 そこは両親もいた。しかし様子がおかしい。カーラは棺桶に縋り付いて、今まで見たこともないような大声をあげて泣き喚いていた。そんなカーラの肩に両手を乗せ、顔を顰めるエリックの姿も。
 私は棺桶の中を覗いた。
 そこには、私がいた。
 目を見開いて、瞳孔を広げたまま血だらけで死んでいる私が。
 ああ──死んだのか。死はこんなにも受け入れやすいものなのだろうか。私は、私が死んだと気づいた瞬間なんとも思わなかった。だが、時の経過と共に死の衝撃が重みとなって私を襲った。
 咄嗟に歯を食いしばった。私はすぐに泣いてしまうような泣き虫ではない、と自分に言い聞かせた上で。
 私は誰に殺されたのだろう。
 カーラの口元をただ眺めていた私は、ある一定の言葉を繰り返していることに気づいた。
「ごめんね。ごめんね」
──なあんだ、私を殺したのはこいつらだったのか。
 私の涙は引っ込んだ。心の奥底から黒い物体が手を伸ばしてきたような気がした。

 すぐ真横でこんにちは、と私に話しかけてくる者がいた。
 全身をローブで覆った、白い髭の老君。彼は私を空の国へ連れていくために、私を迎えに来たのだと言った。
 私は自らに起きた出来事を忘れたかった。早くこの場から立ち去りたかった。だから私は、ローブの中から差し出された骨と皮でできた手を握り返した。
 嬉しかった。私はたった今親共に見捨てられ、命を失った。そんな私の魂を、この老人は必要としてくれたのだから。
 空の国での暮らしは、生前より楽しいものだ。将来なんの役に立つのかもわからない知識を頭に叩き込んだり、顔も見たくない人達と毎日のように顔を合わせなくて済む。
 私は夢の島に来たように、私の好きな本を読み、一人で花園を眺めながら、のんびりと甘い紅茶を啜った。そんな平和な日々を満喫していた。
 そこではたった一人の、馬が合う友人もできた。面倒事など何一つない、優雅で有意義な時間。不満があるはずもないその楽園で生活していくにつれ、私の心は豊かになり、温床のように育った土からは人道主義というものが芽生えていったのだ。

 私は老父の助言を受け、天使になろうと誓った。それからというもの、剣の稽古に勤しみ、これまで以上に勉学に励み知恵を得た。
 最終的に手に入れた地位は智天使だったか、座天使であったか。階級など私は歯牙にも掛けなかった。
 私が手にしたかったのは地位でも、名誉でもない。
 ただ再び下界に降りて父と母の老けた顔を見たいと願った。あわよくば、私の話題など出さないかと淡い期待を乗せて。
 天使になるというのは、その願いの為に必要だった過程なのだ。
 名声を求めない私を恨むような目で見る輩は、少なからずいたが無視した。
 以前、私は人身御供として捧げられたのだと眉雪の老僧から聞かされた。それがどんなに無意味な愚行であるかも、同時に。
 結果として私の死は無意味に終わった。であるならば、今生きている人間に善事を尽くし、貢献することで私の存在意義を見出そう。

 こうして、死後初めて下界に降りる許可を得た私は、真っ先に父エリックと母カーラの住む教会へ、緊張と高揚感を抱いて赴いたのだ。
 いよいよ教会の扉の前に立ち尽くしてしまった私は、見透かされてしまいそうな心臓の高鳴りを掌に包み込んだ。
 何を躊躇う必要がある。扉は私のすぐ目の前にある。手を伸ばし、開ければいいだけの事。ここは私の家だから、不法侵入でもない。
 くだらないことを考えていると、目前の扉を押して飛び出してきた笑顔が私を貫いていった。
 そう、私はここにいてここにいないようなものだ。扉を開けるという行為は私にとって不要だ。
 私は一時、生きた人と同じであるような気になっていたことを恥じた。
 私は開け放たれた木製のドアと、洋服を山のように積んだ籠を両手で持って走り去っていく幼子を見つめ、唖然とした。
 まるで魔除けのようなぶ厚い壁を感じた私は、家の外観を他所に、黒髪の子どもを追いかけた。
 不思議とこの子がいる事に疑問を抱かなかった。差し詰め、私の代わりと言ったところだろう。
 終始にこやかな少年は、地面に置いた籠から絡まった衣類を丁寧に取り出し、両手で扇子を外に向けながら扇ぐように皺を広げ、竿に引っ掛けた。
 その男の子は見たところ単眼で、半ズボンから突出した傷だらけの足には違和感があった。脚に限らず満身創痍であるならば、この笑顔の出処が私には理解できない。
 私が死んだ後に来たのであれば、この少年が孤児だということは、カーラの死から考えれば納得できる。男一人で子は産めない。
 私は懐かしい風景を目に焼き付けながら、紫色の目をした少年が洗濯物を全て干し終わるのを待った。
 易々と家に入り込むことができた私は、リビングの中心にある四人用のテーブルへ向かった。
 椅子は全部で三つ。そのうち一つに腰を掛けて口を結んでいた。
 結局の所、私が行儀悪く机の上に乗って遊んでいたところで、それが彼らに聞こえるわけもなければ見えるはずもないのだが。
 私は息を潜めるように、少年の親──私の父を待ち伏せたのだ。
 母が亡くなったことを知ったのは、部屋の隅に飾られた遺影を見たからだ。彼女の所有物は跡形もなく片付けられて、唯一彼女の影のような虚無だけが居座ってしまっていた。
 それから数分待つと、薄く金色がかった、私と同じ色の髪を揺らして男性がドアを開けた。
 一つ目の少年は美味しいパンケーキを目の前に出されたように、喜びに満ちた顔になる。私も少年と同じようなものだ。しかし私は、もうこの少年のように無邪気な笑みを浮かべることはないだろう。
 歳を重ねたことにより、頬のしわの数が増えているが、間違いなくこの人は私の父──エリックである。
 未だ父親の面影を残すエリックは、笑顔が愛らしい少年の頭を撫でた。
 それから父と少年は、二人きりで外に出かけていった。少年は顔が隠れるくらい深く外套を被って、にっこりと笑った。
 まるで本物の親子のように、手を繋いで。できるだけ考えないようにしていたが、やはり羨ましかった。
 時間が経ち、オレンジ色の太陽が窓から差し込むと、両手に袋をいっぱい抱えた親子が帰宅した。中身は野菜や果物の類だ。
 二人は荷物をテーブルに全て並べ終えると、赤くて酸味のきいた野菜や緑の葉を取り出して台所へ向かった。
 親子仲睦まじく共に夕食の支度をする様子を、私は頬杖を付きながら眺めていた。
 時々、子どもが私の方を見るような仕草をしているが、何も言わない。私には気づいていないのだろう。

 夕飯を食べ終えた二人は、食器を片付け布巾で綺麗にしたテーブルの上で駄弁っていた。
 というのも、少年は書き物をしていて、それを父が微笑ましく見つめている。時々少年は、父にわからないことを聞いたりしているようだ。それを親切に丁寧に、時には指を駆使して教えていた。
 黒髪の少年の脇にあるココアから、甘い香りが漂ってくる気がする。
 少年は目蓋を擦った。一言二言会話をすると席を立ち、父は少年の肩に優しく触れながらキッチンを後にした。
 いよいよ私は、何をするべきか考え倦ね、行く必要もない寝室にまでついてきてしまった。
 ベッドに少年が潜り込むと、それを追いかけるように、ベッドの端に座っていた父が毛布を被せる。
 いつか私もこのようなことをしてもらったな、とぼんやり思った。
 父が毛布越しに少年の胸を撫でたり、優しく一定のリズムで叩いたりしているうちに、単眼の男の子の目蓋は蕩けていった。
 そこでもまた一言二言の話をしただけで、少年は寝息を立て始めた。
 それから父はベッドから立ち上がり、部屋を出ていく──のだと思っていた。
 父は、ベッドから立ち上がると、少年の様子をただじっと見つめる。
 寝顔さえ絵になる少年は、死んだように眠っている。
 すると父は、折角少年に被せた毛布を剥いだ。
 少年の体のほとんどが見えるまで布団を折ると、今度はおもむろに少年に跨がり、その寝顔に唇をあてがった。
──何をしているんだ、こいつは。
 少年の着ていた寝間着のボタンを、一つひとつ外していく。なにがしたい。
 胸元を開けさせ、少年の体をむさぼる。それ以上は──。
 暫く堪能すると、舌舐めずりしながらパジャマのズボンに両手を引っ掛けた。やめろ。
 下着もなにもかも全て脱がせると、頼むからもうやめてくれ。
 眠っている少年の指先と指先を絡めあう。もう見たくない。
 やめろ。少年の性器を触ったり、咥えたり。嗚呼、嫌だ。
 最悪なことに父も衣服を脱ぎ始め──やめろ。やめろ。やめろ。いやだ。
 やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。イヤだ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめて。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。見たくない。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。死んでしまえ。
 僕は気がつけば膝から崩れ落ち、無様に両手を床について、息を切らした。
 これが、私の父だ。

 翌朝、私は教会の壁に凭れかかって考えていた。
──私の父は、「あんなの」ではなかったはずだ……。私は夢でも見ていたのだろうか。
 否、それは現実逃避に過ぎなかった。
 嗚呼、そして残念なことに、私は父を──エリックを赦せない。
 許さない。赦さない。許さない。赦せない。許さない。赦さない。許さない。赦さない。許さない。赦さない。許さない。赦さない。許さない。赦さない。許さない。赦さない。許せない。赦せない。
──そうだ、殺そう。殺してしまえばいいんだ。
 何もかも、なかったことにすればいいんだ。
 私は人の裁き方を、知っている。そのために、私は剣を握ったのだろう。剣の稽古だって。
 こういう善の尽くし方だって、あるだろう。
 私だけが赦せなかったからじゃない。裁きを下すのは、子どもに手を出して赦される、そんな親がいて良いはずがないからだ。
──ああ、私はなんて良いことを思いついたのだろう。
 子どもを、あの少年を殺せばいいじゃないか。でも少年に罪はないから、直接この手に掛けることはしない。精神的に追い詰めて、自ら死を望むようにさせる。
──これで、これでわかっただろう? エリック。
 お前がいかに非道で不埒な愚行ことをしたか、死よりも遥かに身に染みて思い知るだろう。
 でもお前は殺さない。お前の大事な子どもが、お前の代わりに死ぬんだから。そして私を殺したことを、死ぬまで後悔させてやる。ゆっくりと、一生を懺悔に捧げて死ね。
 そして、それが許されざる行為であると知りながら、私は施行しよう。
 私の、最初で最後の罪人よ。
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