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第1部
#01 死の可能性
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「ふあ……ぁ…………」
僕は緩やかに目蓋を開く。それから思わず欠伸をして、眩しい光に包まれながら体を起こす。
背中に冷たい痛みが走り、歯を食いしばる。これは何事かと、足元に目を遣る。寝床かどこかだろうと思っていたそこは床であるという事実に戸惑う。
そして僕は辺りを見渡した。
全く見覚えのない、瓦礫の山。初めて見る景色。
僕の直線上にある小さな円状の噴水は、いつから水の流れが止まっているのか、干からびて静止していた。
地べたには、不気味なほど黒い塊が幾つも這っていた。
大勢の人々で賑わっていたことだろうこの広場は、あまりに閑寂過ぎた。
オレンジがかった灰色の空の下で、僕はひしひしと、孤独なるものを感じたのだ。
「ん、なにこれ……?」
僕の左手に、硬い物体の感触が伝わる。得体の知れない感触にふと目を降ろす。
手元を見ると、そこにはオルゴールのように丸みを帯びた小さな箱があった。開閉口には手紙のような羊皮紙が一枚、挟まっていた。
「これ、僕の……?」
自分の持ち物であるという自信は微塵もなかった。しかし、手に握られているということは、そういうことなのだろう。
「どれどれ……」
実に、これから読み始めるぞという言葉をぼやきながら、小箱から紙切れを引き抜いて黒い斜体の文章を確認した。
〝このエンゲイジリングを、貴方が愛する九人の子に与えなさい〟
はてさて、これは本当に僕に宛てられた品物なのだろうか? いよいよ怪しくなってきた。
一体、エンゲイジリングとは何なのか。たった一文で全てを把握できるほどの能力を、僕は持ち合わせていない。
四角形の端から端までを見直し、紙を裏返したりしてはみたものの、無慈悲なまでに真っ白な布切れのようだった。
もしかしたら、この持ち主がいつか現れて、返す時が来るかも知れない。或いは、僕が所有者の代理人となって指示通り、事を成すのも、悪くはないかもしれない。取り敢えず、人という人に出会えていないため、後者の方針で話を進める。
一先ず、僕が目覚めたこの世界を知り得る一縷の希望として、紙切れをポケットに仕舞った。
続けて、黒く鈍く光る貝殻のような形をした箱を手に取り、興味本位からおもむろに蓋を開けてみる。
「うわ……ぉ!」
綺麗な指輪だ──。それぞれ赤、橙、黄色、若草と、それぞれ色のついた宝石が、粛として整然と並ぶこの指輪こそが──エンゲイジリングなのかと、僕はため息混じりに納得した。
僕が所持するには荷が重いとさえ感じさせる。
暫く空いた口が塞がらなかった。ぽっかりと開いた口を閉じることもせず、箱の隅々を見ては無駄に接触していた。
すると、四色の指輪が嵌められた板が上に持ち上がり、奥からまた違った色の輝きが五つ程垣間見えたのだ。
「へぇ……本当にきれい……」
二段から成るケースの底には、深緑、水色、青、紺藍、紅紫。なんと清楚な指輪の数々。
僕に浄化される心があるかは定かでない。けれど僕は、汚れたガラス玉が水を浴びて光を取り戻していくような、そんな清々しい気持ちでいっぱいだった。
なるほど。この指輪を、僕の愛する九人の人に渡せばいいのか。と、思うわけがない。
確かに僕は今しがた概要を掴めたのかも知れない。が、当の僕は「愛する九人の子」の見当すらない。心当たりもない。こんな状態で、僕はどうしろというのだ。
昨日という概念がなかった僕にとって、意味さえも理解できないその言葉がずっと、僕の心に残り続けた。
***
廃墟と化した都市で目を覚ました僕は、エンゲイジリングという華がある代物を見たことで頭が冴えきった。そしてようやく埃っぽい床から立ち上がった──。
「うぅ……。あれは、なんだろう……」
目前にある壊れた噴水の側に、無造作に落ちている光に向かって、引き寄せられるように歩いていく。
そして、光の正体が鏡であると気づく距離まで近づいた。
鏡があったらやるべきことは一つ、覗き込む事。鏡の国にあるのは、切り取られたこの世界の空と、僕──。
「うわあ!?」
反射して映る僕の顔は、驚愕の二文字だった。
驚きのあまりに鏡から目を離してしまったが、冷静になってもう一度、僕であろうその人と対面する。
「…………」
己の腕で、掌で、顔に触れる。
鼻から目の下へ、頬から首にかけて、糸で繕われている。よくよく見れば、糸は腕や足など全身にかけて、蛆虫のように身体中を這っていた。
瞳には活気が、光がない。衣服は寝心地の悪い床で寝ていたせいか、汚れている。
僕は死体のようだった。これで生きているとは、にわかに信じ難い。
「……これが、僕の、本当に僕の姿なの? 冗談でしょ……」
僕の声が誰かに届くこともなく、誰かがその疑問に応えてくれるはずもなく、ひたすら静寂に包まれた。
時間の経過とともに、この事実を受け止めなくてはならないと諦めた僕は、鏡を見ることをやめた。
再び、崩壊した街並みを見渡すことになった僕は、悲嘆な瓦礫の山に感化されたのか、悲しみを覚え始めた。
この廃都に居座り続けていたところで、何も起こらないだろう。
覚醒した時点よりも辺りが暗くなっている。こんな所で一夜を過ごすのは、真っ平御免だ。
できることならば、誰でもいい。人に、会いたい。
そうすれば、おのずと僕の正体とか、目標とかが見えてきたりするのではないだろうか──と。
そんな期待を胸に噴水の向こうへ、街の行き止まりを示す外壁の崩れた隙間から、鬱蒼と茂る森に向かって歩を進めた。
***
僕は日が暮れる焦りと衝動に駆られて、どこを見渡しても木、木、木──ばかりが伺える森の中へと進んでいった。
恐らく、僕が現在歩いているのは森の入口でも何でもない、ただの森の端っこだろう。草木を掻き分けながら、広い道を探して歩く。
一向に見つからない出口と、夜の静寂に焦燥感を覚えずにはいられなかった。無意識に足の動きが早くなり、鼓動が高鳴る。
「うわ…………ぶっ!!」
思い切り、蔓か又は木の根っこのようなものに足を引っ掛け、顔面から地面にぶつかる。
傍から見たらかなり馬鹿みたいな格好で派手に転んだ僕は、衝撃で直ぐには起き上がれず、顔だけを上げた。
「いでででで……ん? なんだろ、これ……」
雑草が生い茂る地面から、ぽつりぽつりと仄暗い緑の光が浮かび上がってきたのだ。光は雫のように現れて、重力に逆らい上に向かって緩徐に落ちていく。
身体を起こすと、暗闇に満ちていた森はエメラルドグリーンの輝きで溢れていた。光の粒は一つや二つではなく、この森全体から一斉に湧き出たのだろう。
「わぁ……絶景だ! ……って、感心している場合じゃなかった」
まるで螢の如き光が、僕の足から頭の天辺までの高さで揺蕩う。中でも一段と輝きを放つ光に案内されながら、行き場に困っていた僕はそれを追った。
この光が正しい道へと導いているのか、僕を迷わせるために有らぬ方向へ誘導しているのか──は考えないことにした。
***
「はぁ、はぁ……着いた! ここは……出口じゃ、ない……か」
息せき切って辿り着いたそこは、粘土の真ん中をくり抜いたような場所だった。夜空には星星が煌めいて、エメラルドグリーンの光と共鳴しているようだ。
僕がこの空間に足を踏み入れた方角とは正反対の位置に、電灯と長椅子が二箇所、配置されていた。
長椅子に腰掛ける人の姿を見た時、僕は感動のあまり、疲労しきって悲鳴を上げている身体を無理矢理引き摺っていた。
僕は長椅子に座るその人と、あと三歩程の距離を残して、立ち止まる。
青年が眠っている。艶めく白銀の御櫛、鋭くも滑らかな曲線を描く睫毛、整った凛々しい顔。これが、所謂美青年というものなのだろう。僕とは正反対の容姿に、少なからず羨ましさを覚える。しかしこの姿を手に入れて、何がどうなるという事でもないのは分かりきっていた。
身を防御する目的なのだとしたら少々、いやかなり露出度の高い鎧を着ている。包帯で隠れてはているものの腹筋は露わになっているし、脚に至っては布を一周巻いてベルトを締めただけだ。
そんな軽装の青年は、腕と足を組んで寝顔を僕に晒している。
交差した白い腿が、布の端から覗かせていることなど、気にもせず。
僕は意味もなく息を呑んだ。
今の所無防備な青年の隣に、月明かりと電灯の光を同時に受けて青い輝きを放つ鉈──のような、剣のような武器が立て掛けられていた。
手の届く範囲に置かれたその剣さえあれば、万が一敵に襲われたとしても対処ができる。
──待てよ、今この青年が目を覚まし、僕が敵と判断されたらどうなる?
鋭利な剣を勢いよく振り回されでもしたら、僕の首なんて真二つ────。そんなシーンが脳裏で再生された所で、その最悪な場面を破棄した。何故ならば、背筋が今までにないくらい凍りついたからだ。
僕の心配なんて他所に、銀髪の青年は僕を気にする様子もなく、音も立てずに眠る。
大丈夫、僕は君の敵ではない。だから目を覚ましても、その剣にだけは手を伸ばさないで欲しい──と、心の中で必死に訴えてから、勇気を振り絞って更に青年の方へ歩み寄っていく。
何かしらの情報を得たいという己の欲とは裏腹に、美しさを保ったまま休息を取る青年を起こすことに、罪悪感はあった。しかし、罪悪感を顧みず、僕は一呼吸置いた後で遂に声を掛けた。
「す、すいま、せん…………」
「…………」
「……はぁ」
こうなることも、少なからず予想はしていた。
僕が溜息を吐いたのは、ある意味最悪なパターンを引いてしまった無念からか、それとも青年に敵と勘違いされた上で惨殺されなかったことに対する安堵なのか。或いはその両方かの、三つに一つだ。
流石に、わざわざ眠りから覚めると道を聞かれ、あわよくば同行してほしいと頼まれる相手の立場を考えると、虫が良すぎる話だった。
僕が二度目に声を掛けることはなかった。結局のところ無駄に精神的疲労を募らせてしまった僕は、唯一開けた獣道を一人で行く決意をした。
それが間違いであることに気づくまで、数分も要さなかった。
***
「あぁ。疲れた…………喉も乾いた……」
肉体的にも精神的にも、疲れが限界を迎えようとしていた。
僕の直感は、そろそろ出口があってもおかしくないと言っている。──そんな折だった。
「…………!?」
呑気に考え事をしていた僕の耳に、嫌な予感を訴えかけてきたのは、近辺の叢だった。
そして次の瞬間、僕はその叢の影に隠れる、二つの点と目を合わせしまう。
「Gruuuuuu────Aaaaaaaaaaa…………!!!!」
「うわあああ!!」
僕は咄嗟に、夜闇の中に紛れる点から逃れるべく横に逸れる。──避けていなければ、死んでいた。
緑の螢たちに紛れ込んだ二点は、目視できないスピードで直線を移動する。
体勢を崩した僕は、地べたに倒れ込んだ。
獲物を仕留め損ねた、黄金色の眼をした獣が、動くのをやめた途端に僕を睨み付ける。
狼のような顔。獲物を引き裂くための指爪。筋肉ではない異質な何かによって、肥大化した両腕。鋭く尖る牙に、剥き出しの歯茎。獣の口から、涎が顎を伝って、真下に落ちる。
「…………」
僕は慄くあまり、身体を引きずって後退するしかなかった。
獣は依然としてこちらを見ている。
──戦う? いや、無理だ、逃げないと。できるだけ早く、逃げないと。だけど、恐怖で足が動かない、起き上がることができない。
違う、そうではない、現状を報告している場合ではない。
そんなことよりも──このままだと、死ぬ。
「────aAAAAAAAAA!!!!」
「……ッ!?」
咆哮と共に、獣の巨大な腕から、僕を殺めんと指爪が振り下ろされる。
恐怖と焦りに突き動かされて身を翻し、爪が地面と接触した反動で体を持ち上げた。
奇跡的な判断で獣の一撃を避けることに成功した僕に、容赦なく攻撃の雨が降る。
武器を持たない、真の意味で無防備な僕は、己の勘だけでその猛撃を凌ぐしかない。
「AAA!! GrAaaaaAAAA!!」
「うっ…………あぁ…………」
付け入る余地のない獣の猛攻に、僕の身体が終ぞ悲鳴を上げる。
ナイフのようなその大きな爪が、肩から腹部にかけて、一気に僕を切り裂いた。
時間差で訪れた傷の境界線から、焼けるような痛みを感じ、掌で覆う。
その熱に触れると、心地良いとは言い難い、微温湯が溢れていった。服に染み込んでいく感覚が、気持ち悪い。
「そん、な……」
その場に立っていることさえ叶わなくなった僕の膝が折れ、地面に座り込む。前のめりになった途端に、口から勢いよく、鉄のような味が混ざった何かを吐いた。
「…………」
意識だけがふわふわと、空を飛んでいるような気がした。
視界が急に悪くなったせいで、獣の姿があまりよくわからない。さっきまで感じていた恐怖とか何とかは、もうどうでも良い。
──どの道、これじゃあいつかは死んでしまうだろうな。
──ああ、でも。まだ、僕に意識がある内は、頭から齧り付くような真似だけはしないでほしいな。
僕が死んだことを確認して、それからだったら────。
「…………?」
突然、辺りから音が消える。自然が囀る音も、獣の呻き声すらも、僕には届かない。
嗚呼、本当に僕は死んでしまったのか?
──否。未だ命はここに留まっているらしい。
「…………??」
そういえば、僕が倒れた後、人とは到底思えない、叫び声が聞こえたような気がした。
まだ動く、首か頭か視線のどれかを目一杯に動かして、断末魔にも似た音声の元を辿る。
どういうことだろうか。獣が、僕の目の前で事切れているではないか。
更に、狼の首はまた違うところへ行ってしまったようで。それならば、僕より先に死んでしまうのも分かる。
すると、軽快な足音でこちらへ向かってくる、人の姿があった。その人は一度、どこかで見かけたような気さえ起こさせる。その真っ赤に染まる兇器を振り回されたら……と考えたことも、あったような。
「…………っあ……ぅ……」
僕は懸命に、助けてくれるかも知れないその人に、まだ生きているということを伝えたかった。死に物狂いで、魚のように口を動かしているが、自分でも何を言っているのかわからない。
だけど、その青い瞳は、確かに僕を見ている。
──ああ、やっぱり、あの人だ。それだけは、解る。
助けて。君の足元に伸びる、その赤が、僕の伝えたい全てだ────。
彼は、何も言わずに、僕の方へと歩み寄ってきて────。
そこで、僕の意識という線はぷつりと切れた。
僕は緩やかに目蓋を開く。それから思わず欠伸をして、眩しい光に包まれながら体を起こす。
背中に冷たい痛みが走り、歯を食いしばる。これは何事かと、足元に目を遣る。寝床かどこかだろうと思っていたそこは床であるという事実に戸惑う。
そして僕は辺りを見渡した。
全く見覚えのない、瓦礫の山。初めて見る景色。
僕の直線上にある小さな円状の噴水は、いつから水の流れが止まっているのか、干からびて静止していた。
地べたには、不気味なほど黒い塊が幾つも這っていた。
大勢の人々で賑わっていたことだろうこの広場は、あまりに閑寂過ぎた。
オレンジがかった灰色の空の下で、僕はひしひしと、孤独なるものを感じたのだ。
「ん、なにこれ……?」
僕の左手に、硬い物体の感触が伝わる。得体の知れない感触にふと目を降ろす。
手元を見ると、そこにはオルゴールのように丸みを帯びた小さな箱があった。開閉口には手紙のような羊皮紙が一枚、挟まっていた。
「これ、僕の……?」
自分の持ち物であるという自信は微塵もなかった。しかし、手に握られているということは、そういうことなのだろう。
「どれどれ……」
実に、これから読み始めるぞという言葉をぼやきながら、小箱から紙切れを引き抜いて黒い斜体の文章を確認した。
〝このエンゲイジリングを、貴方が愛する九人の子に与えなさい〟
はてさて、これは本当に僕に宛てられた品物なのだろうか? いよいよ怪しくなってきた。
一体、エンゲイジリングとは何なのか。たった一文で全てを把握できるほどの能力を、僕は持ち合わせていない。
四角形の端から端までを見直し、紙を裏返したりしてはみたものの、無慈悲なまでに真っ白な布切れのようだった。
もしかしたら、この持ち主がいつか現れて、返す時が来るかも知れない。或いは、僕が所有者の代理人となって指示通り、事を成すのも、悪くはないかもしれない。取り敢えず、人という人に出会えていないため、後者の方針で話を進める。
一先ず、僕が目覚めたこの世界を知り得る一縷の希望として、紙切れをポケットに仕舞った。
続けて、黒く鈍く光る貝殻のような形をした箱を手に取り、興味本位からおもむろに蓋を開けてみる。
「うわ……ぉ!」
綺麗な指輪だ──。それぞれ赤、橙、黄色、若草と、それぞれ色のついた宝石が、粛として整然と並ぶこの指輪こそが──エンゲイジリングなのかと、僕はため息混じりに納得した。
僕が所持するには荷が重いとさえ感じさせる。
暫く空いた口が塞がらなかった。ぽっかりと開いた口を閉じることもせず、箱の隅々を見ては無駄に接触していた。
すると、四色の指輪が嵌められた板が上に持ち上がり、奥からまた違った色の輝きが五つ程垣間見えたのだ。
「へぇ……本当にきれい……」
二段から成るケースの底には、深緑、水色、青、紺藍、紅紫。なんと清楚な指輪の数々。
僕に浄化される心があるかは定かでない。けれど僕は、汚れたガラス玉が水を浴びて光を取り戻していくような、そんな清々しい気持ちでいっぱいだった。
なるほど。この指輪を、僕の愛する九人の人に渡せばいいのか。と、思うわけがない。
確かに僕は今しがた概要を掴めたのかも知れない。が、当の僕は「愛する九人の子」の見当すらない。心当たりもない。こんな状態で、僕はどうしろというのだ。
昨日という概念がなかった僕にとって、意味さえも理解できないその言葉がずっと、僕の心に残り続けた。
***
廃墟と化した都市で目を覚ました僕は、エンゲイジリングという華がある代物を見たことで頭が冴えきった。そしてようやく埃っぽい床から立ち上がった──。
「うぅ……。あれは、なんだろう……」
目前にある壊れた噴水の側に、無造作に落ちている光に向かって、引き寄せられるように歩いていく。
そして、光の正体が鏡であると気づく距離まで近づいた。
鏡があったらやるべきことは一つ、覗き込む事。鏡の国にあるのは、切り取られたこの世界の空と、僕──。
「うわあ!?」
反射して映る僕の顔は、驚愕の二文字だった。
驚きのあまりに鏡から目を離してしまったが、冷静になってもう一度、僕であろうその人と対面する。
「…………」
己の腕で、掌で、顔に触れる。
鼻から目の下へ、頬から首にかけて、糸で繕われている。よくよく見れば、糸は腕や足など全身にかけて、蛆虫のように身体中を這っていた。
瞳には活気が、光がない。衣服は寝心地の悪い床で寝ていたせいか、汚れている。
僕は死体のようだった。これで生きているとは、にわかに信じ難い。
「……これが、僕の、本当に僕の姿なの? 冗談でしょ……」
僕の声が誰かに届くこともなく、誰かがその疑問に応えてくれるはずもなく、ひたすら静寂に包まれた。
時間の経過とともに、この事実を受け止めなくてはならないと諦めた僕は、鏡を見ることをやめた。
再び、崩壊した街並みを見渡すことになった僕は、悲嘆な瓦礫の山に感化されたのか、悲しみを覚え始めた。
この廃都に居座り続けていたところで、何も起こらないだろう。
覚醒した時点よりも辺りが暗くなっている。こんな所で一夜を過ごすのは、真っ平御免だ。
できることならば、誰でもいい。人に、会いたい。
そうすれば、おのずと僕の正体とか、目標とかが見えてきたりするのではないだろうか──と。
そんな期待を胸に噴水の向こうへ、街の行き止まりを示す外壁の崩れた隙間から、鬱蒼と茂る森に向かって歩を進めた。
***
僕は日が暮れる焦りと衝動に駆られて、どこを見渡しても木、木、木──ばかりが伺える森の中へと進んでいった。
恐らく、僕が現在歩いているのは森の入口でも何でもない、ただの森の端っこだろう。草木を掻き分けながら、広い道を探して歩く。
一向に見つからない出口と、夜の静寂に焦燥感を覚えずにはいられなかった。無意識に足の動きが早くなり、鼓動が高鳴る。
「うわ…………ぶっ!!」
思い切り、蔓か又は木の根っこのようなものに足を引っ掛け、顔面から地面にぶつかる。
傍から見たらかなり馬鹿みたいな格好で派手に転んだ僕は、衝撃で直ぐには起き上がれず、顔だけを上げた。
「いでででで……ん? なんだろ、これ……」
雑草が生い茂る地面から、ぽつりぽつりと仄暗い緑の光が浮かび上がってきたのだ。光は雫のように現れて、重力に逆らい上に向かって緩徐に落ちていく。
身体を起こすと、暗闇に満ちていた森はエメラルドグリーンの輝きで溢れていた。光の粒は一つや二つではなく、この森全体から一斉に湧き出たのだろう。
「わぁ……絶景だ! ……って、感心している場合じゃなかった」
まるで螢の如き光が、僕の足から頭の天辺までの高さで揺蕩う。中でも一段と輝きを放つ光に案内されながら、行き場に困っていた僕はそれを追った。
この光が正しい道へと導いているのか、僕を迷わせるために有らぬ方向へ誘導しているのか──は考えないことにした。
***
「はぁ、はぁ……着いた! ここは……出口じゃ、ない……か」
息せき切って辿り着いたそこは、粘土の真ん中をくり抜いたような場所だった。夜空には星星が煌めいて、エメラルドグリーンの光と共鳴しているようだ。
僕がこの空間に足を踏み入れた方角とは正反対の位置に、電灯と長椅子が二箇所、配置されていた。
長椅子に腰掛ける人の姿を見た時、僕は感動のあまり、疲労しきって悲鳴を上げている身体を無理矢理引き摺っていた。
僕は長椅子に座るその人と、あと三歩程の距離を残して、立ち止まる。
青年が眠っている。艶めく白銀の御櫛、鋭くも滑らかな曲線を描く睫毛、整った凛々しい顔。これが、所謂美青年というものなのだろう。僕とは正反対の容姿に、少なからず羨ましさを覚える。しかしこの姿を手に入れて、何がどうなるという事でもないのは分かりきっていた。
身を防御する目的なのだとしたら少々、いやかなり露出度の高い鎧を着ている。包帯で隠れてはているものの腹筋は露わになっているし、脚に至っては布を一周巻いてベルトを締めただけだ。
そんな軽装の青年は、腕と足を組んで寝顔を僕に晒している。
交差した白い腿が、布の端から覗かせていることなど、気にもせず。
僕は意味もなく息を呑んだ。
今の所無防備な青年の隣に、月明かりと電灯の光を同時に受けて青い輝きを放つ鉈──のような、剣のような武器が立て掛けられていた。
手の届く範囲に置かれたその剣さえあれば、万が一敵に襲われたとしても対処ができる。
──待てよ、今この青年が目を覚まし、僕が敵と判断されたらどうなる?
鋭利な剣を勢いよく振り回されでもしたら、僕の首なんて真二つ────。そんなシーンが脳裏で再生された所で、その最悪な場面を破棄した。何故ならば、背筋が今までにないくらい凍りついたからだ。
僕の心配なんて他所に、銀髪の青年は僕を気にする様子もなく、音も立てずに眠る。
大丈夫、僕は君の敵ではない。だから目を覚ましても、その剣にだけは手を伸ばさないで欲しい──と、心の中で必死に訴えてから、勇気を振り絞って更に青年の方へ歩み寄っていく。
何かしらの情報を得たいという己の欲とは裏腹に、美しさを保ったまま休息を取る青年を起こすことに、罪悪感はあった。しかし、罪悪感を顧みず、僕は一呼吸置いた後で遂に声を掛けた。
「す、すいま、せん…………」
「…………」
「……はぁ」
こうなることも、少なからず予想はしていた。
僕が溜息を吐いたのは、ある意味最悪なパターンを引いてしまった無念からか、それとも青年に敵と勘違いされた上で惨殺されなかったことに対する安堵なのか。或いはその両方かの、三つに一つだ。
流石に、わざわざ眠りから覚めると道を聞かれ、あわよくば同行してほしいと頼まれる相手の立場を考えると、虫が良すぎる話だった。
僕が二度目に声を掛けることはなかった。結局のところ無駄に精神的疲労を募らせてしまった僕は、唯一開けた獣道を一人で行く決意をした。
それが間違いであることに気づくまで、数分も要さなかった。
***
「あぁ。疲れた…………喉も乾いた……」
肉体的にも精神的にも、疲れが限界を迎えようとしていた。
僕の直感は、そろそろ出口があってもおかしくないと言っている。──そんな折だった。
「…………!?」
呑気に考え事をしていた僕の耳に、嫌な予感を訴えかけてきたのは、近辺の叢だった。
そして次の瞬間、僕はその叢の影に隠れる、二つの点と目を合わせしまう。
「Gruuuuuu────Aaaaaaaaaaa…………!!!!」
「うわあああ!!」
僕は咄嗟に、夜闇の中に紛れる点から逃れるべく横に逸れる。──避けていなければ、死んでいた。
緑の螢たちに紛れ込んだ二点は、目視できないスピードで直線を移動する。
体勢を崩した僕は、地べたに倒れ込んだ。
獲物を仕留め損ねた、黄金色の眼をした獣が、動くのをやめた途端に僕を睨み付ける。
狼のような顔。獲物を引き裂くための指爪。筋肉ではない異質な何かによって、肥大化した両腕。鋭く尖る牙に、剥き出しの歯茎。獣の口から、涎が顎を伝って、真下に落ちる。
「…………」
僕は慄くあまり、身体を引きずって後退するしかなかった。
獣は依然としてこちらを見ている。
──戦う? いや、無理だ、逃げないと。できるだけ早く、逃げないと。だけど、恐怖で足が動かない、起き上がることができない。
違う、そうではない、現状を報告している場合ではない。
そんなことよりも──このままだと、死ぬ。
「────aAAAAAAAAA!!!!」
「……ッ!?」
咆哮と共に、獣の巨大な腕から、僕を殺めんと指爪が振り下ろされる。
恐怖と焦りに突き動かされて身を翻し、爪が地面と接触した反動で体を持ち上げた。
奇跡的な判断で獣の一撃を避けることに成功した僕に、容赦なく攻撃の雨が降る。
武器を持たない、真の意味で無防備な僕は、己の勘だけでその猛撃を凌ぐしかない。
「AAA!! GrAaaaaAAAA!!」
「うっ…………あぁ…………」
付け入る余地のない獣の猛攻に、僕の身体が終ぞ悲鳴を上げる。
ナイフのようなその大きな爪が、肩から腹部にかけて、一気に僕を切り裂いた。
時間差で訪れた傷の境界線から、焼けるような痛みを感じ、掌で覆う。
その熱に触れると、心地良いとは言い難い、微温湯が溢れていった。服に染み込んでいく感覚が、気持ち悪い。
「そん、な……」
その場に立っていることさえ叶わなくなった僕の膝が折れ、地面に座り込む。前のめりになった途端に、口から勢いよく、鉄のような味が混ざった何かを吐いた。
「…………」
意識だけがふわふわと、空を飛んでいるような気がした。
視界が急に悪くなったせいで、獣の姿があまりよくわからない。さっきまで感じていた恐怖とか何とかは、もうどうでも良い。
──どの道、これじゃあいつかは死んでしまうだろうな。
──ああ、でも。まだ、僕に意識がある内は、頭から齧り付くような真似だけはしないでほしいな。
僕が死んだことを確認して、それからだったら────。
「…………?」
突然、辺りから音が消える。自然が囀る音も、獣の呻き声すらも、僕には届かない。
嗚呼、本当に僕は死んでしまったのか?
──否。未だ命はここに留まっているらしい。
「…………??」
そういえば、僕が倒れた後、人とは到底思えない、叫び声が聞こえたような気がした。
まだ動く、首か頭か視線のどれかを目一杯に動かして、断末魔にも似た音声の元を辿る。
どういうことだろうか。獣が、僕の目の前で事切れているではないか。
更に、狼の首はまた違うところへ行ってしまったようで。それならば、僕より先に死んでしまうのも分かる。
すると、軽快な足音でこちらへ向かってくる、人の姿があった。その人は一度、どこかで見かけたような気さえ起こさせる。その真っ赤に染まる兇器を振り回されたら……と考えたことも、あったような。
「…………っあ……ぅ……」
僕は懸命に、助けてくれるかも知れないその人に、まだ生きているということを伝えたかった。死に物狂いで、魚のように口を動かしているが、自分でも何を言っているのかわからない。
だけど、その青い瞳は、確かに僕を見ている。
──ああ、やっぱり、あの人だ。それだけは、解る。
助けて。君の足元に伸びる、その赤が、僕の伝えたい全てだ────。
彼は、何も言わずに、僕の方へと歩み寄ってきて────。
そこで、僕の意識という線はぷつりと切れた。
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