月の光はやがて仄かに輝く

白ノ猫

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番外編

バレンタイン(二)

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 料理長のおかげで安心してチョコ作りを再開したその時、厨房に一人のメイドが飛び込んできた。

「デビッド料理長、急いで昼食の用意を!」

 ひどく慌てた様子で料理長を呼んだのは古参のメイドだ。彼女が取り乱すところなんてあまり見ないので、私は何事かとチョコ作りを中断させた。

「昼食? 何でだ?」
「旦那様がお戻りになって、奥様と昼食を取りたいと――」
「わぁ、今日に限ってか」
「それにしても、ずっと厨房に籠って奥様方と何をやっているのかと思えば、何か焦げ臭いのですけど……」
「あぁ、うん。察してくれ」

 話を読み取ると、ノエルが私と食事をしたがっているといったところか。
 まれに昼時に帰ってくることはあるが、まさかの今日とは。
 しかも私は今、普段の格好ではない。料理がしやすい服装に着替えているし、しかもところどころが汚れている。
 絶対絶命とは、こういうときのことを言うのだろうか。

「チョコのことがバレないようにノエルを追い出さなきゃ……」

 サプライズが失敗するのは悲しいから、どうにか隠し通さなければならない。

「――ラーニャ」
「はい、奥様」

 静かに古参のメイドの名を呼べば、真剣な表情で応えられる。
 彼女や、料理長以外の使用人は私達がバレンタインの為に何らかの料理をしていることは知っているが、それ以上は何も知らされていない。
 私達の料理下手っぷりも、バレンタインの詳しい意味も。
 知らされていないのに、

「今日は、ノエルには外食してもらうわ。あと、バレンタインのことは内密にするように」

 私がそう言えば、ラーニャは恭しく一礼してしっかりと頷くのだ。内密にするように、とは使用人全員に伝えてほしいという意思も、分かってくれたと確信できる。

「仰せのままに。奥様」

 料理長もラーニャも、なんて素晴らしい使用人なのだろう。
 そうしてノエルを追い出すために動き出した私とラーニャをよそに、料理長はどこか遠い目をしながらリリアにだけチョコ作りの指南を再開させた。




 大急ぎで着替えてリビングに向かうと、そこにはゆったりと紅茶を飲みながらソファに座っているノエルがいた。
 彼は私に気づくと微笑み、隣に来るよう促した。
 うっかりすると見惚れてしまうが、その笑みも仕草も、今は見過ごすのが最善だった。
 幸いにもリリアが乗ってきた馬車は一度実家に戻ったので、彼女が来ていることはバレていないはずだ。
 だからここを私が乗り切れば、それでいい。

「ノエル、今日は帰ってきたのね」
「うん、ちょうど一区切りついたか――」
「でも今はちょっと……そう、料理長が体調悪そうにしていたから、外食の方がいいと思うわ。外食すればいいことがあるわ、きっと。そうは思わない?」
「えっと、ソフィア?」
「だから外食してきてちょうだい。それでお仕事に戻るのよ。決して、終わるまで帰ってきてはいけないわ。分かった?」

 ひたすら困惑して疑問ばかり浮かぶ状態のノエルの隣に座り、彼の膝の上に置いてあった大きな片手を両手で握り込んだ。

「……分かったと、言ってほしいの」

 祈るように、乞うようにノエルの瞳を見上げて懇願する。結局こういうゴリ押しになってしまったが、都合よく騙されてくれないだろうか……。
 じっと、頷くまで見つめ続けると言わんばかりの私に、やがてノエルは空いている方の手を伸ばした。
 その手が私の後頭部に回り、身動きが取れないようになる。

「ノエル……ん、む……」

 いつもより激しい口づけに息が苦しくなる。
 徐々に霞がかっていく視界の中で煌めいた瞳の色に胸が高鳴り、ともすれば身体がとろけてしまいそうだ。


 ノエルは私が身体に力が入らなくなるまでキスを続けた。
 息も絶え絶えになれば流石に満足したのか、唇を離すと耳元で低く、

「隠しごとなんて、妬けるなぁ」
「ぁっ……」

 黒さの混じった声に身体がぴくりと反応する。そのときに漏れた声が恥ずかしくて顔を赤くさせ、下を向く。
 俯いた私の頭にキスを落とし、愛でるように私の首の後ろ側を撫でる。優しい、壊れ物を扱うような手の動きに身体をふるふると震わせたが、

「隠せるものなら隠しておけばいいよ……」
「ん……」

 先程よりも更にドス黒さを増した声音と共に軽く胸に触れられた。
 くすくすと、まるで悪者のような、それでいて色気のある笑い声が鼓膜を犯す。

「今は誤魔化されておくから」
「ノエル」
「いいかい、ソフィア。君は、俺のものだ」

 滅多に見せてくれない独占欲。
 その仄暗い感情を瞳に映しながら、ノエルはもう一度だけ口づけた。



 遠ざかっていく大きな背中を虚ろに見守りながら、私はほうと熱い息を吐く。
 いつも優しい彼だが、たまにはあれくらい激しく愛を示されてもいいかもしれない。
 ……あんなに、激しくされるとは思わなかったのだが。隠し事がそんなに嫌だったのだろうか。


 未だ力の入らない身体を叱咤して自室に向かい着替えてから、厨房に戻る。
 厨房ではまたもやリリアがチョコの出来具合に嘆いており、料理長は悟りを開いたような静かな目をしていた。

「何で、何で、どうしてぇ……! あ、お姉様。お帰りなさい!」
「また失敗したのね……」

 あまりの嘆きように声をかけるのを躊躇ったほどだが、リリアは私の姿を認めるとけろりとした様子で迎え入れた。

「そうなの。どうしても上手くいかなくて……お姉様、顔が赤いわよ?」
「嘘っ……!」

 キスされた名残が、まだ残っているのか。
 パタパタと両手で顔を扇いで冷やそうとし、リリアが寄越す生暖かい視線に唇を尖らせた。

「……なによ」
「ノエル様に、愛されてるなぁって」
「……」
「きっと、お姉様に誤魔化される代わりにキスしたのね……」
「何で、そんな……」
「何でこんなに分かるのか、かしら?」

 頬を赤く染めてノエルが数分前に取った行動を言い当てたことに驚けば、リリアは悪戯っぽくにかっと笑った。
 明るく、輝かしく、暖かく――まるで太陽の笑顔で。

「だって、ずっとずっと見てたもの。好きになってから、あの日まで。でも、私の『好き』は憧れが強かったって、今なら分かる」

 あの日――私達姉妹が、本当に分かりあえた日のことだ。
 笑顔の中に寂しさといったような闇は見当たらない。ノエルのことを、今は義理の兄としか思っていないと、表情から分かる。
 そして、自身の過去の感情を冷静に判断できるほど、彼女は成長していたのだ。

「だからね、ノエル様がお姉様をすっごく大事にしてるのも、ちゃんと分かるの。まぁ、お姉様を泣かせたら私が黙ってないけど」
「ふふ、ありがとう」

 ぷんぷんと焦げた臭いが漂う厨房にて、姉妹の絆を再確認するなか。
 この厨房の主と言うべき男性は原料のチョコをそのまま口に入れては黒焦げのチョコと見比べ、情けなさそうに口の端を上げるのだった。





 私達は、頑張った。
 今までにないほどの努力をし、涙と汗の滲む思いでチョコ作りに取り組んだ。
 窓の外では空が赤く染まり、美しくも情景的に地上を照らしている。
 そんな真っ赤な光を視界に入れながらもそれに気づかず、私とリリアはただただお互いの健闘を祝福し合った。

「やったわ! 私でも、できたの!」
「えぇ、えぇ。分かっているわ。私も、とっても嬉しい」

 これまでいくつもの黒焦げチョコレートを乗せてきたトレーの上。そこには形こそ不格好ではあるが、光をなめらかな色で反射する私達の集大成が鎮座している。
 見ているだけでその舌触りを想像したくなるような出来具合は、まさに努力の結晶と言えよう。

 料理長は窓の側の椅子に座って黄昏ている。時間はかかったが私達がやり遂げたことに感動しているのか、それともこんなに時間をかけてようやく成功したことに呆れているのか、どっちなのやら。
 おそらく後者なのだろうと予想はつく。
 料理長には感謝でいっぱいだ。彼がいなければこのチョコ作りは成功しなかった。彼が根気強く私達に付き合ってくれたから、こんなに素晴らしい結果が出てくれたのだ。

「料理長」
「はい?」

 疲れたように笑いながら振り返った彼に、精一杯の笑顔を送った。

「ありがとう」

 これ以外の言葉は相応しくない。これ以上の言葉も、必要ないだろう。
 仮に誰かがもっと必要だと言っても、お礼を言われた彼が「いえいえ」と照れ臭そうに笑んでいるのだから。


 互いの健闘を祝福し合って料理長にお礼を言った後、私とリリアはチョコをどのようにラッピングするかを相談した。
 リリアが持参してきたラッピング用の複数の袋をあれでもないこれでもないと見比べながら、手に取り選ぶのだ。この行為もとても楽しくて、時間はどんどんと過ぎ去っていく。

 だから、気づけなかったのだ。
 もう夕刻過ぎだということにも、いつの間にか料理長がいなくなっていることにも疑問を持たずに、楽しく話し合っていたから。

 とすんと、頭に何か乗っかった。
 そして後ろから優しく抱き締められる。
 その仕草は何度もされたことがあるので後ろに誰がいるかは分かったのだが、その相手には、ここに来てほしくなかった。

「の、ノエル……?」
「いい匂いがすると思ったら、チョコ作りかい? 随分上手く出来ているようじゃないか」

 軽く上を見上げれば毎日見ている麗しい顔が首を傾げて私を見下ろしており、にこりと微笑むのだった。
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