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17. 崩壊の前触れ② side シグルド
しおりを挟む「おかえりなさいませ、旦那様」
玄関ホールで執事と侍女長が出迎えてくれたが、イリスの姿がどこにもいない。
「イリスはどうした?」
「奥様は——」
「視察、ご苦労だったな。シグルド君」
執事の声を遮った者と目が合い、驚愕した。
「義父上!? どうしてここに?」
本来ここにいないはずの前公爵が現れ、驚愕した。
当初の予定では、彼とは領地で共に視察する予定だったが、急用ができたという知らせが入り、代わりに本邸の執事を伴って各地を回った。
そして彼の目がないのをいいことに、夜はイリスと泊まるはずだった宿にローラを連れ込み、共に過ごしていたのだ。
まさかそれがバレたのだろうかと冷や汗が出る。
だがここで動揺を見せてはならないと、瞬時に笑顔を作った。
「急用があるとおっしゃって領地で会えなかったのは、王都に用事があったからですか?」
「ああ、取引先に依頼していた温室施設の新しい機材が完成したと報告を受けてね。いてもたってもいられずに製品テストの見学に行ってきたんだよ。生産が安定すれば領地収入を増やせるからね」
「それはぜひ私も拝見させていただきたいです」
「──そうだね。時が来たら君にも見せよう」
仕事の打ち合わせでこの場にいるのだとわかり、安心する。俺に会いに来たわけではないなら、ローラとの関係はバレていないということだ。
「イリスとはお会いになったんですか?」
俺がそう尋ねると、前公爵は寂しそうに眉尻を下げた。
やはり、イリスが邸にいないのは父親が訪ねて来たからだろう。彼女たちの親子関係が破綻していることは周知の事実だ。
「一瞬だけね。だが挨拶して早々に、王宮のお茶会に呼ばれていると言って出て行ってしまった。よほど私と話すのは苦痛らしい……。不甲斐ない義父ですまないね」
「いえ、そんな……いつか、義父上の気持ちがイリスに届くといいんですが……」
思ってもいないことを口にして、適当に慰めた。
イリスのトラウマは相当根深い。
この親子が和解する日が来るかどうかは、正直難しいと思っている。現に結婚してからも、イリスは父親と二人きりで会おうとはしない。
必ず俺と一緒でなければ父親と会話すらしようとしないのだ。それほどに、この父親は娘に恨まれている。
「シグルド君、視察から戻って来たばかりで申し訳ないが、イリスを迎えに行ってやってくれないか? 私はこのまま帰るから、急に来てすまなかったと伝えてくれるだろうか?」
「私は構いませんが、話し合いをしなくていいんですか?」
「あの子にとって、私はいつまでも母親の仇でしかないと思い知ったよ。それならば、極力あの子の視界に映らない方があの子のためだろう」
自嘲しながら呟く前公爵が、憐れで仕方なかった。
「わかりました。イリスのことは俺に任せてください」
「よろしく頼むよ」
きっと彼女は今、トラウマに苛まれて俺の助けを待っているだろう。迎えに行ったら、涙を浮かべて縋りついてくるはずだ。
そしたらその体を抱きしめて、いつものように沢山甘やかしてやればいい。今までよりもっと俺に依存するように、心も体も、より深く堕とすために——
「シグルド君」
扉を開けて外に出ようとした俺を、前公爵が呼び止める。
振り返れば、先程の自嘲とは違う笑顔を浮かべていた。
「君は、イリスを愛してくれているんだよな?」
「もちろんです。イリスは俺がこの世で最も愛する女性ですから」
俺の答えに、前公爵の後ろに立つローラの顔が歪んだ。
父親に聞かれたらこう答えるしかないだろう。
察しろよ——と心の中で悪態をつく。あれだけ馬車の中で言い聞かせたというのに、早速顔に出す低能な侍女にウンザリする。前公爵が背を向けていてよかった。
「それを聞いて安心したよ。そこまで愛してくれているならば、誰よりもイリスの幸せを願ってくれるな?」
「はい。妻は私が必ず幸せにしますよ」
きっぱり言い切ると、前公爵の笑みが深まる。
否定されているわけではないのに、不気味な圧力を感じるのはなぜだろうか。
小さな違和感を抱えたまま、俺はそのまま王宮に向かった。
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