【完結】私に触れない貴方は、もう要らない

ハナミズキ

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1巻

1-3

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 私は彼の病室を指差して厳しい視線を送る。
 実は彼が病室を抜け出すのはこれが初めてではない。
 じっとしているのが苦手なのか、特に用もないのにこうして私に話しかけてくるのだ。

「アシュリー」
「は・や・く、戻りなさい」

 睨みを利かせる私に、カイゼル様はシュンとして、肩を落とす。
 ――幻覚かしら。なぜかへにゃっと下がった犬の耳と尻尾が見える気がするんですけど……

「……わかった」

 彼は肩を落としたままそう呟くと、トボトボと病室へと戻っていった。
 大柄な彼の丸まった背中を眺め、なぜか罪悪感が湧いてくる。
 私と彼は患者と看護師で、それ以上でもそれ以下でもない。
 看護の時も塩対応だったのに、なんで懐かれているのかしら……

『俺、アシュリーといろいろ話がしたいんだ』

 彼が目覚めてから何度かそう言われたけど、なぜ? なんのために?
 彼も辺境伯家の人間なのだから、私がどんな経緯でここで働くことになったのか知ってるんじゃないの? こんな離婚協議中の厄介な女に構っても、面倒なだけだろうに――
 ――先日、セイラから手紙が届いた。
 ライナスはまだ離婚届を出していないらしい。
 それどころか、今頃必死に私の行方を探しているのだとか。
 今更なんなのかと腹が立ってくる。
 私が出て行ってからの一ヶ月、いつも通り女遊びしていたことはセイラから聞いて知っている。別に探してほしかったわけじゃないけど、こうも侮られると、離婚の話し合いだとしても会うのが嫌になってくる。
 ――できることなら、このまま会わずに離婚したい。
 これ以上私を侮るライナスを知りたくない。
 これ以上私を失望させないでほしい。
 せっかく新しい人生を歩もうとしているのに、再びドロドロとした黒いものが私の中で渦巻き、枷のように私を縛り、絶望の縁に落とそうとする。
 そのまま思考が飲まれそうになったその時、

「アシュリー……?」

 名を呼ばれ、俯いていた顔を上げると、病室に戻ったはずのカイゼル様が立っていた。
 私が浮かない顔をしていたからか、心配そうにこちらを見ている。

「アシュリー、どうしたんだ? なんでそんな泣きそうな顔――」
「「カイゼル‼」」

 彼が私に一歩近づこうとしたその時、後ろから彼を呼ぶ声が二重に大きく響いた。

「げっ、兄上と先生……っ」
「――ほら、さっさと戻らないから見つかっちゃいましたよ」

 彼の後ろからすごい剣幕で近づいてくる男性二人。
 一人はカイゼル様のお兄様で、辺境伯家嫡男のセシル様。
 筋肉質な体躯をしているのは兄弟一緒だけど、セシル様は細身で、どちらかというと王宮騎士のような洗練された雰囲気の持ち主だ。
 弟のカイゼル様は長身で、逞しい体躯をしていて整った顔立ちだから一見威圧感があるけど、人懐っこい性格のおかげか、私には懐いてくる大型犬に見えてしまう……

「お前はまた病室抜け出しやがって! 出血多量で瀕死だったくせに何やってんだバカ!」
「いって! やめろよ兄上! ケガ人に全力の拳骨を食らわせるとはなんて鬼畜な!」
「絶対安静だって俺は言ったよな、カイゼル? 何度言ったらわかる? 医者の俺の言うことが聞けないのか?」
「せ、先生、いや、そういうわけじゃ……」
「ほら、カイゼル様。早く戻ってください。動き回るとせっかく縫合した傷口が開いて、治るものも治りません」
「アシュリー!」
「いい年して駄々をこねるな! 仕方ないな。こんなに医者の言うことを聞かない患者には尻に麻酔注射をお見舞いして強制的に安静にしてやろう。セシル、手伝え」
「わかった」
「え? 注射⁉ いや、それは無理! 嫌だ! 戻る! 戻るから注射だけは勘弁してくれ!」

 ――この人は何を言っているのだろう。
 あんな生死を彷徨さまようケガを負ったというのに、注射のほうが怖いのかしら?
 こんな大きな体をした男の人が?
 目の前で兄と先生に両腕をガッチリと抱えられて引きずられていく彼の頭には、また下を向いてぷるぷる震えている犬の耳が見える気がした。
 どう見てもヤンチャな弟が兄と先生に雷を落とされて、お仕置きに連行される図。

「ぷっ」

 なんだかそれが可笑しくて、和やかで、私はつい吹き出してしまった。
 さっきまでのドロドロとした重たい気持ちが嘘のように晴れて、私はただ純粋に、目の前の彼らのやり取りが面白くて、目尻に涙を浮かべて笑ってしまった。

「……可愛い……やっぱ女神……」

 相手に失礼だと思い直し、笑いを堪えようと必死になっている私は、彼が頬を染めてそう呟いたことにも、その呟きを聞いて二人が驚いた顔で彼を見ていることにも、まったく気づいていなかった。


   ◇◇◇◇


「……おいライナス。その日増しに濃くなっていく特殊メイクみたいな酷いクマ、なんとかしろよ。体調管理も騎士の務めだぞ。ちゃんと寝ろ」

 団長が呆れた顔でため息混じりに注意してきた。

「……眠れるわけないだろう。妻が見つからないんだぞ」
「自業自得だろ?」
「……っ」

 騎士団にアシュリーの捜索を依頼したことで経緯を聞かれ、俺は職場で信用を失ってしまった。団長は、俺がアシュリーがいなくなっていた時期にも女遊びにふけっていたことを知っていたので、クズだと罵られ、思い切り殴られた。

「それから、来月査問会議が開かれることになった。夫人が失踪したにも関わらず届けを出さなかったこと、事件性も考えられる中、一ヶ月も捜索を行わなかったこと。お前の行動は、副団長にあるまじき行動だと問題視されている。それは奥さんが見つかっても見つからなくても関係ない。倫理観の問題だ。処分は免れないと思え」
「……わかっている」
「事件性を考えた場合、お前が真っ先に疑われる可能性もあったんだぞ。浮気を責められて妻に危害を加え、隠匿した。とかな」
「なっ、そんなことするわけないだろ!」
「そんな疑いをかけられても仕方ないくらい、お前は自分の妻を粗末に扱ってたんだよ。お前がどう言い訳しようが周りにはそう見えてんだ。それくらいお前の取った行動は騎士としてあり得ない。奥さんを見下してるからそんな馬鹿な真似ができるんだよ。もう奥さんの希望通り、さっさと離婚してやれ」
「嫌だ! 勝手に決めつけるなよ。俺は見下してなんかない……っ、アシュリーを愛してるんだぞ!」
「はっ、笑わせんなよ。お前の行動のどこに愛があるんだ? 妻に欲情しないって見下してたのはどこのどいつだよ。飽きた人形を急に取り上げられそうになったから焦って執着してるだけだろ」
「……違う……違う‼」
「……とにかく、査問会議までこれ以上問題起こすなよ」

 離婚なんて嫌だ。アシュリーが俺から離れるなんて、絶対に嫌だ。


 今日も、やしきにアシュリーが戻った痕跡はない。
 主のいない彼女の部屋からは、わずかに残っていた残り香さえ消えてしまった。
 まるで最初からアシュリーという存在がいなかったかのように――

「……アシュリーっ」

 前髪を掻きむしり、両手で顔を押さえる。指の隙間から涙がこぼれ落ちた――
 責任や嫌なことから逃げて、ずっと愛していた人を傷つけてまで、俺は何がしたかったのだろう。
 あんなに持て余していた性欲は、アシュリーが俺の前から本当に姿を消してしまったと知った時から、驚くほどきれいに消え去った。相手から誘われてもまったくその気にならない。
 今思えば、娼館に行って初めてアシュリー以外の女を知って、たがが外れてしまったのだろう。
 妻がいるのに他の女を抱く背徳感に酔いしれていただけなのかもしれない。
 関係を持っても、心から愛した女なんて一人もいなかった。
 ただの性欲処理で、その行為に愛なんてなかった。
 そんな俺の醜さを、アシュリーはきっと嫌悪したんだろう。だから俺を捨てた。
 置き手紙すら残さずに、俺がアシュリーにあげた贈り物も、結婚生活も、俺と過ごした十八年間の思い出も――全部捨てられてしまった。

「アシュリー……っ、ごめん……ごめんっ」

 考えたらすぐにわかることなのに、なぜ考えようとしなかったのか。
 俺がアシュリーに同じことをされたらどうなんだ?
 アシュリーが俺以外の男に抱かれるなんて、考えただけで腸が煮えくり返る。
 許せるわけがない――

「アシュリー……」

 考えれば考えるほど、取り返しのつかない現実に絶望感が増す。
 そしてアシュリーが行方不明になってから二ヶ月が過ぎた頃――
 アシュリーの代理人を名乗る弁護士の男が、休日に突然やしきに来た。


 ブロンズカラーの髪を後ろになでつけ、威厳のある雰囲気を纏った壮年の男が、俺の前に離婚届と慰謝料請求の書状を広げた。
 その離婚届にはしっかりとアシュリーのサインが記されている。

「侯爵は未だに離婚届を提出されていないそうですね? 書類に不備があったのかと思い、改めて新しい離婚届を用意しました。こちらは私が確認しまして、不備のない書類となっています。あとは侯爵のサインをこちらにいただければ提出可能です。またこちらは依頼人からの慰謝料請求の書状です」

 挨拶もそこそこに突然離婚と慰謝料請求の話が出て、俺は思考がストップしてしまった。

「侯爵? 聞いてます?」
「ちょっと待ってくれ……離婚はともかく、なんだこの慰謝料請求ってのは……っ」

 その書状に記された金額に、家令が俺の後ろで息を呑む音が聞こえる。

「おや? 依頼人が家を出る際に、侯爵の浮気の証拠書類を置いていかれたと聞いたのですが、もちろん目を通されてますよね?」
「だからってこんな金額になるのか? 別に愛人がいたわけじゃない。ただの性欲処理だ。しかも二ヶ月間だけだろ!」
「期間の問題ではないんですよ。不貞をしたか、していないかの問題です。それに話を聞くところ、どうやら浮気なさっていたのは四年も前からだとか。依頼人からそう聞いていますし、貴方と関係を持った方や職場の方から証言も得ていますよ?」
「は?」
「こういう時の女性の勘というのを舐めてはいけませんよ。その辺の占いより良く当たります」

 嘘だろ……四年前からっていうことは、俺が初めて娼館に行った頃から既にアシュリーにバレていたってことか? その頃から俺の裏切りを知っていたのに、アシュリーは何も言わず、ずっと耐えていたというのか――?

『いってらっしゃい。ライナス』

 いつも笑顔で俺を見送っていたアシュリーを思い出す。
 夜遅くに他の女を抱いて帰ってきた夫を、どんな気持ちで見送っていたのだろう。
 何食わぬ顔で妻の額に口づけを落とす夫のことを、どんな目で見ていたのだろう。

「あ……あ……っ」

 いたたまれなくなって思わず片手で顔を覆う。
 今更ながらどれだけアシュリーを傷つけてきたのかを突きつけられ、手が震えた。
 きっと、俺が知らないところでたくさん泣かせてしまっていたに違いない。
 アシュリーが何も言わないから、バレていないと信じて、疑いもしなかった。
 それどころか、すべてがうまく回っているといい気になってすらいた。
 実際はアシュリーに全部知られていたなんて――

「反論しないということは、お認めになられると考えてよろしいですか?」
「――ああ」

 俺はもう力をなくして認めるしかなかった。

「では、依頼人の希望を呑んでいただけますか? 奥様は一日も早い離婚をお望みです」

 アシュリーが、一日も早い離婚を望んでる……?
 ――嫌だ。

「アシュリーに会わせてくれ。謝りたい。弁護士を寄越せるくらいなんだから無事なんだよな? 彼女の意思を直接確認させてくれ」
「依頼人は侯爵にお会いになることを望んでおりません。だから私が代理で伺ったのです」
「離婚なんて大事な決断を本人不在の場で決められるわけないだろ! 俺はアシュリーから直接言われていないんだ。本当に彼女が望んでるかなんてわからないだろ。だから絶対サインなんかしない!」

 無駄な足掻きだとわかっていても、そんな簡単に別れを決めることなんてできない。

「……そうですか。わかりました。ではこうしましょう。関係者全員を集めて面会の日程を組みます」
「関係者って誰だ」
「お二人のご両親である前侯爵夫妻と伯爵夫妻です」
「はあ⁉ 親の前で不貞や離婚の話をしろってのか? 冗談じゃない、断る! これは俺とアシュリー二人の問題だ」
「違いますよ。貴族の結婚とは家同士の契約です。貴方たちの婚姻により、両家で取り決められた契約があるのですよ。それを破棄するのですから関係者全員で話し合うのは当然です」
「俺は離婚に同意していない! だからまず夫婦で話し合いをさせてくれ。アシュリーはどこにいるんだ?」
「ですから、依頼人は貴方と二人で会うことを望んでいません。関係者全員での面会を拒否されるのであれば、裁判も辞さないとのことです」

 裁判という言葉に俺は硬直した。アシュリーは、俺と法廷で争うつもりなのか?
 ――そこまで、俺は憎まれてしまったのか。
 今までのアシュリーからは考えられない行動に、ただただ驚いて、何も言葉が出てこない。

「依頼人の意向に沿って、関係者全員での面会を設定する――ということで話を進めてよろしいですか?」

 そんなの……俺は、頷くしかないじゃないか――


   ◇◇◇◇


「ご主人はやはりサインはしませんでした」

 セイラが紹介してくれた弁護士さんが辺境まで来て、ライナスとのやり取りを報告してくれた。

「何から何までありがとうございます。なんとなくこうなるのではないかと予想していたので、大丈夫です」

 ライナスなら、私と二人で会いたいと言うに違いないと思ってた。
 私ならなんでも許してくれる。そう考えているのだろう。

『アシュリーはあの男を甘やかしすぎたのね』

 セイラにいつか言われたことを思い出す。
 多分、きっとそうなのだろう。私はライナスに尽くしすぎたのだ。
 愛していたから、彼の支えになりたかった。
 愛していたから、私のすべてを彼に捧げた。
 私の「愛」が、ライナスをこんなふうにしてしまったのかもしれない。

「――すべて終わらせるには、会わなきゃいけないんですよね」
「そうですね。ご主人は貴女の気持ちを何も聞いていないから納得できないのでしょう。いい機会です。胸の中に溜め込んだ思いのたけを、ご主人に全部ぶつけてスッキリしましょう。――実はセイラ様も同席を望んでいましたが、ちょっと鼻息が荒かったのでお留守番をお願いしたんです」
「ふふっ、セイラは私の代わりにとても怒ってくれてたから、セイラがいたら私の言うことがなくなってしまいそうだわ」

 ものすごく張り切って『ライナスを追い込んでやるわ!』と拳を握りしめているセイラが頭に浮かび、思わず顔がほころんだ。

「……おや、笑えるようになったんですね。初めてお会いした頃と比べると、ずいぶんと雰囲気が柔らかくなりました」
「私、そんなに怖い顔してました?」
「いえ、怖いというか、表情がなくなっていたというか、今にも壊れそうな感じでしたね……」

 そう言って、弁護士さんは安心したように優しい顔で笑った。


 ――私が笑えるようになったのはきっと、辺境の人たちのおかげだろう。
 ここは暖かい。
 笑顔があふれていて、侯爵家とは大違い。
 なんだかとても、ほっとするの。だから大丈夫な気がする。
 もう、休みは終わり。
 終わった愛を、断ち切る時が来たのだ。
 私は決意を固めて背筋を伸ばし、弁護士さんをまっすぐに見つめた。

「私、ライナスに会います。そして言いたかったことを全部伝えて、終わらせたいと思います」


   ◇◇◇◇


 侯爵家訪問の当日、久しぶりに王都に帰ってきた私は、待ち合わせのカフェに向かった。

「アシュリー!」
「お母様! お父様!」

 私に気づくなり、母は私を抱きしめて涙を流した。
 母にどれほど心配をかけてしまったのかを思い知り、私の目からも涙がこぼれ落ちる。

「心配かけてごめんなさい……っ。離婚することになってごめんなさい……」

 私は母の胸の中で子供のように泣いてしまった。いい年した女が恥ずかしい。
 それでも、涙が止まらなかった。

「いいのよ。あんな男、別れて正解だわ。子供の頃から支えてきた貴女を蔑ろにして! 絶対に許さないわ」
「そうだぞアシュリー。あんな騎士の風上にもおけないクズ野郎とは今日限りで別れるんだ。いいな?」

 娘の離婚なんて醜聞でしかないのに、そんな私を一切とがめず、無条件で私の味方になってくれる両親の愛に、また私の涙腺は決壊してしまった。

「ほらほら、戦いの前に目が腫れて視界が曇ってしまうわよ。もう泣き止みなさい」
「ありがとう。お父様、お母様」
「――アシュリー様、こちらをセイラ様から預かっております」

 同じくカフェで待ち合わせていた弁護士さんに、セイラからの手紙を受け取った。

『アシュリーへ。貴女の友でいられることを誇りに思います。私はいつでも貴女の味方よ。健闘を祈るわ! 追伸、参戦できなかったのはやはり無念!』
「ふふっ」

 セイラの追伸に思わず吹き出してしまう。

「素敵なお友達ね」

 一緒に手紙を読んでいた母が優しく私に語りかける。父も隣でうんうんと頷いた。

「ええ。自慢の親友なの」

 私は満面の笑みで両親に自慢する。
 セイラがいなければ、もしかしたら私は今頃、思いつめて儚くなっていたかもしれない。
 それくらい、心がボロボロだった。――人生に疲れていた。
 でも、今は違うわ。
 味方はたくさんいるってわかったから、大丈夫。
 ――私は、戦える。


   ◇◇◇◇


 侯爵家に着くと、ライナスと家令が玄関前で私たちを待っていた。
 久しぶりに見た彼はとてもやつれていて、少し痩せただろうか?
 弁護士さんの話によると、ライナスは今、職場で爪弾きにあっているらしい。
 副団長の立場でありながら、行方不明になった私の捜索を行わず、その間も不貞行為を続けていたことが上層部の反感を買い、査問会議にかけられることが決まったのだとか。
 自業自得すぎて庇う気も起きない。
 本当に、もう昔のライナスはどこにもいないのね……
 そんな物悲しい気持ちになっていると、突然ライナスに抱きしめられた。

「アシュリー! 無事でよかった! ずっと……っ、ずっと探してたんだよ!」

 ライナスがそう叫び、瞳を潤ませて顔を近づけてくる。
 その瞬間――ぞわっと今まで感じたことのない悪寒が全身に走った。

「ごめん……っ、ごめんアシュリー! 俺は君をどれほど傷つけてきたか知りもしないで、君にずっと甘え続けて……っ」

 懺悔をしながらライナスが私の首元に顔を埋める。
 彼の流した涙が私の首を伝い、言い知れない嫌悪感が私を襲った。
 やめて……。やめてやめてやめて、私に触らないで。

「アシュリー……っ、アシュリーごめ――」
「やめて」

 私はライナスの言葉を遮って、彼の胸を強く押し返した。
 見上げると、ライナスは目を見開いたまま固まっている。
 信じられないというような表情で私を見ていた。
 ――まあ、そうでしょうね。
 貴方は私が触れるのを何度も拒絶したけど、私のほうから貴方を拒絶したのは初めてだものね。
 私も自分で驚いている。いつの間にか私は、触れられて鳥肌が立つほど夫のことが嫌いになっていたらしい。
 私は素早く彼から距離を取り、隣の家令に視線を向けた。

「お帰りなさいませ。奥様」
「――久しぶりね。話し合いをしたいから応接室を借りてもいいかしら?」
「聞く必要などありません。貴女は侯爵夫人なのですから、私に命じてください」
「ごめんなさいね。もう侯爵夫人じゃなくなるのよ。じゃあ部屋を借りるわね」

 私の返しに固まる家令の横を素通りしてやしきの中に入る。
 どうやら義両親はまだらしい。扉を開けて応接セットに座る。
 次いで私の両親と弁護士、ライナスの順で部屋に入ってきた。
 たった二ヶ月留守にしただけなのに、他所の家のようで落ち着かない。
 それほど辺境の地が居心地よかったのだなと気づく。


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