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第3章
㊴ 秋穂の社会復帰
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「謙治くん、会社から電話だけど出られる?」
細心の言葉選びをしながら秋穂は夫に言葉をかけた。
だけど、謙治は嫌だとも言わず布団にもぐりこんでしまった。
すでに有給休暇は使い切ってしまった。
これ以上会社を休むなら、医者の診断を得て何らかの病気であることを申告せねばならない。でないと、会社から馘首くびにされても何の文句も言えないことはわかっている。
だけど病院にも行きたくなかった。
とにかく誰にも会いたくなかった。
秋穂はやさしいからまだ許せるが、それでも何か声をかけられるたびに「会社に行け」と言われるのではないかとびくびくしていた。
あの件以降、秋穂の夫、謙治の状態は悪化するばかりであった。
「ねえ、謙治くん」
「ひいいいい!」
謙治は布団を引き寄せて完全に閉じこもった。
秋穂もこの反応にはすでに慣れてしまっていた。
何かこちらから投げかけても拒絶しかしない。
それならば何年かかってでも回復を待つしかない。
診断を受けたわけではないが、これがうつ病であるというのであればそのくらいの覚悟は必要だろう。
「また北亀部長からだったんだけど」
返事はない。
「あのね、事情は会社もわかっているから休むのは仕方ないって。でも、病院の診断書もなしだと、籍を残すことは何とかなるとしても、給料を払い続けることはできないって」
それは、謙治も前に聞いていた。
「だからね、北亀部長から提案があったの」
提案?
「私が謙治くんの代わりに出社するなら、今後の給料も保証していいって」
「え!!?」
謙治は布団から飛び出した。
「私もあの会社にいたわけだし、業務はあらかたわかっているから出戻りとして受け入れる形で、代わりに謙治くんと同じ給料を出してくれるって」
当然のことながら、二年前に退職した秋穂よりも長く勤めている謙治のほうが給料は高い。
「その話、受けようと思うんだけど。謙治くん、いい?」
だが、謙治は顔を青ざめながら口をパクパクさせるばかりで何も答えなかった。
「いい話だけど、何か問題ある?」
ある。
だけど、謙治は声に出せなかった。
それは噂話に過ぎない。
だけど、会社の男でこの噂を知らない者はいない。
――北亀部長は、会社のあらゆる女に手を出している。それは未婚、既婚に関わらず。
謙治は秋穂と結婚するとき、彼女の意思に反して専業主婦になるように求めた。
もちろん大手の会社だからこそ一馬力でもなんとかなるというのもあったのだが、それ以上に秋穂を誰にも触らせたくなかったからだ。
とくにあの北亀部長。
彼は冗談抜きでやばいと思った。
そこまで女に手を出しまくっているなら、何かが表沙汰になるとか、上司から処分されてもおかしくないのに、うまくやっているからあくまでも噂話だ。
噂話ですんでしまっているところがなおさら不自然で恐ろしかった。
そして、彼は秋穂を狙っているというのが目線からはっきりと読んで取れた。
だから、この会社に秋穂は絶対においておけなかったのだ。
その会社に秋穂が戻るという。
彼女はどうやらその噂を知らないらしい。
そうだ、この噂は男の間では流れても、女子の間では全く流れていないのだ。
なぜなのか?
噂は噂でしかないからか?
だけど、絶対におかしい。
謙治は秋穂を守らねばならなかった。
絶対に会社へ行かせてはならない。
そう思った。
だけど、今後の収入はどうする?
男が女を食わせねばならない――そんな歪んだ社会通念が謙治の思考の幅を奪う。
俺がこの家の大黒柱なんだ。
俺がやらないといけないんだ。
俺がちゃんと会社へ戻ればそれで済むことじゃないか!
謙治は歯を食いしばり、こぶしを握り締めてこう返事した。
「あ、ああ……いい話じゃないか」
自分の女を守るために彼女から自由を奪ったのに、それをすべてぶち壊した。
「そう、じゃあ部長に連絡しておくね」
「ごめん……」
秋穂には迷惑をかけるね、と続けたかったが、それさえも口にできなかった。
そして、また布団にもぐりこんだ。
しばらく自己嫌悪に苛まれたが、いつの間にか眠ってしまうとそんな過去のことはどうでもよくなっていた。
細心の言葉選びをしながら秋穂は夫に言葉をかけた。
だけど、謙治は嫌だとも言わず布団にもぐりこんでしまった。
すでに有給休暇は使い切ってしまった。
これ以上会社を休むなら、医者の診断を得て何らかの病気であることを申告せねばならない。でないと、会社から馘首くびにされても何の文句も言えないことはわかっている。
だけど病院にも行きたくなかった。
とにかく誰にも会いたくなかった。
秋穂はやさしいからまだ許せるが、それでも何か声をかけられるたびに「会社に行け」と言われるのではないかとびくびくしていた。
あの件以降、秋穂の夫、謙治の状態は悪化するばかりであった。
「ねえ、謙治くん」
「ひいいいい!」
謙治は布団を引き寄せて完全に閉じこもった。
秋穂もこの反応にはすでに慣れてしまっていた。
何かこちらから投げかけても拒絶しかしない。
それならば何年かかってでも回復を待つしかない。
診断を受けたわけではないが、これがうつ病であるというのであればそのくらいの覚悟は必要だろう。
「また北亀部長からだったんだけど」
返事はない。
「あのね、事情は会社もわかっているから休むのは仕方ないって。でも、病院の診断書もなしだと、籍を残すことは何とかなるとしても、給料を払い続けることはできないって」
それは、謙治も前に聞いていた。
「だからね、北亀部長から提案があったの」
提案?
「私が謙治くんの代わりに出社するなら、今後の給料も保証していいって」
「え!!?」
謙治は布団から飛び出した。
「私もあの会社にいたわけだし、業務はあらかたわかっているから出戻りとして受け入れる形で、代わりに謙治くんと同じ給料を出してくれるって」
当然のことながら、二年前に退職した秋穂よりも長く勤めている謙治のほうが給料は高い。
「その話、受けようと思うんだけど。謙治くん、いい?」
だが、謙治は顔を青ざめながら口をパクパクさせるばかりで何も答えなかった。
「いい話だけど、何か問題ある?」
ある。
だけど、謙治は声に出せなかった。
それは噂話に過ぎない。
だけど、会社の男でこの噂を知らない者はいない。
――北亀部長は、会社のあらゆる女に手を出している。それは未婚、既婚に関わらず。
謙治は秋穂と結婚するとき、彼女の意思に反して専業主婦になるように求めた。
もちろん大手の会社だからこそ一馬力でもなんとかなるというのもあったのだが、それ以上に秋穂を誰にも触らせたくなかったからだ。
とくにあの北亀部長。
彼は冗談抜きでやばいと思った。
そこまで女に手を出しまくっているなら、何かが表沙汰になるとか、上司から処分されてもおかしくないのに、うまくやっているからあくまでも噂話だ。
噂話ですんでしまっているところがなおさら不自然で恐ろしかった。
そして、彼は秋穂を狙っているというのが目線からはっきりと読んで取れた。
だから、この会社に秋穂は絶対においておけなかったのだ。
その会社に秋穂が戻るという。
彼女はどうやらその噂を知らないらしい。
そうだ、この噂は男の間では流れても、女子の間では全く流れていないのだ。
なぜなのか?
噂は噂でしかないからか?
だけど、絶対におかしい。
謙治は秋穂を守らねばならなかった。
絶対に会社へ行かせてはならない。
そう思った。
だけど、今後の収入はどうする?
男が女を食わせねばならない――そんな歪んだ社会通念が謙治の思考の幅を奪う。
俺がこの家の大黒柱なんだ。
俺がやらないといけないんだ。
俺がちゃんと会社へ戻ればそれで済むことじゃないか!
謙治は歯を食いしばり、こぶしを握り締めてこう返事した。
「あ、ああ……いい話じゃないか」
自分の女を守るために彼女から自由を奪ったのに、それをすべてぶち壊した。
「そう、じゃあ部長に連絡しておくね」
「ごめん……」
秋穂には迷惑をかけるね、と続けたかったが、それさえも口にできなかった。
そして、また布団にもぐりこんだ。
しばらく自己嫌悪に苛まれたが、いつの間にか眠ってしまうとそんな過去のことはどうでもよくなっていた。
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